もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
聖杯戦争は終わっていない。
分かっているつもりでも、その言葉は、僕の安穏な思考を無慈悲に押し潰す程に重い。
サーヴァントが現世に顕現できているのは、聖杯による魔力の補助があるお陰だ。英霊は本来、僕のような端魔術師が呼び出せるような存在じゃない。
聖杯は今も稼働し、サーヴァントを現世につなぎ止めている。右手の甲に浮いている、残り一画の令呪も、動かない証拠として刻まれている。
そして、七騎のサーヴァントを争い合わせ、生き残ったひと組の願いを叶える為にこそ、聖杯は稼働する。役割が果たされるまでは、稼働し続ける。
だから、聖杯戦争は終わっていない。
英霊は現代最強の使い魔だ。過去に勇を馳せた彼等の力は一騎当千。彼等はこの世に仮初めの命を得て、願いを叶えるべく死闘を繰り広げる。
サーヴァントを打ち倒すのは、同じサーヴァント以外にはない。
だから、彼等は今もどこかで、牙を研いでいる。
僕達の首筋を食いちぎり、彼女の存在を永劫に無に帰す為の牙を。
「……」
「もい、まふあー」
「……」
「もっ」
臑を軽く蹴りつけられ、はたと我に返る。
口の端に白い泡を着けたモードレッドが、苛立ちを滲ませて、上目遣いに僕を睨み付けていた。
「ごめん、考え事してた」
「むも、お」
「ごめんごめん。もう少しで終わるから、もうちょっとだけ我慢してね」
暗い考えをとぼけた笑いでごまかして、僕は止めていた歯磨きを再開させる。
モードレッドの顎に手を添えて、小さな白い歯に歯ブラシを優しく押し当てる。小刻みに手を動かす度に、しゃこしゃこという小気味良い音が洗面所に響く。
「苦しかった?」
「ふん」
モードレッドは目線を逸らして抗議を現す。真正面に顔を据えて歯ブラシを突っ込まれているので、取れる対応がそれぐらいなのだ。口を閉じて窄めたほっぺたが、内側から押されてふにふにと形を変える。
歯ブラシを動かす度に溢れてくる水気の多い白い泡は、顎に添えた手で受け止める。口から水分を溢すのが恥ずかしいのか、頬がほんの少し赤い。
つり上がっていく眉を見て、僕は窄めた口から歯ブラシを抜いた。
「はい、下の歯終わり。一旦ゆすごうか」
「……ん、べ」
言うが早いか、モードレッドは歯磨き粉の白い泡を洗面台に吐き出した。僕が水を入れたコップを差し出して、残りの泡も全部洗い流す。
「考え事か、マスター。不穏な顔してたぞ」
モードレッドは、僕の放心を怒らず、神妙な顔で瞳を覗き込んできた。
「何でもない。ちょっと、これからの事を考えていたんだ。山積みの本が沢山あるから」
「……そうか」
真意を問うような彼女の目を、僕は笑ってごまかした。追求はそれ以上なく、彼女は憮然とした表情で丸椅子に座り直す。
歯ブラシを洗う僕を、神妙な目がずっと見つめている。
無言の圧力が、僕の口を勝手に開かせた。
「今度は、東洋の漢方に挑戦しようと思うんだ。医学は殆ど門外漢だけど、やってみれば意外と何とかなるかもしれないし」
「……」
「それがダメなら、エジプトの呪術だ。試していない方法は沢山ある。根気よく、一つ一つ潰していかないとね。祈祷まで候補に挙げれば、遙か古代にまで遡る必要も——」
「マスター」
とりとめの無い僕の冗句は、たった一言で霧散した。身体の動きが否応なしに止まり、蛇口から出る水の音だけが鼓膜を騒がせる。
モードレッドは丸椅子に腰掛けて、両腕をだらんと垂れ下げている。身を包むのは柔らかな寝間着姿だ。
それなのに、その目は、糊塗を許さない溢れ出る気概は、かつての騎士たる気迫で僕を慄然とさせた。
「マスター。お前の、聖杯にかける願いは何だ?」
「……急にどうしたのさ、モードレッド」
「いいだろ、聞かせろよ……身体を許した仲だ。もう一蓮托生だろ、オレ達」
"あの時"の事を思い出してか、モードレッドが恥ずかしそうに身をよじる。けれどその声には変わらず、有無を言わせない迫力が滲んでいる。
「聖杯戦争で生き残るのは一人と一騎だけ。願いを叶えるために、オレ達は命を賭けて殺し合う……お前にも、命を賭けるだけの願いがあったんだろ?」
「……」
「万が一の生存を考えて『その先』の用意をするのは、まあ分かる。夢が砕かれたら、それまでの自分を捨てたいとも思うだろうさ……けど、お前は躊躇がなさ過ぎだ。お前といると、自分が何のためにこの世界に来たのかすら忘れそうになる……気味悪いぜ、正直」
僕を見つめる顔に、不審はない。優しさすら感じる緑の瞳は、むしろ僕の身を案じていた。
彼女の素足が、洗面所の床をなぞる。つま先がふわふわとした軌道を描く。自分がここに立っているという実感を、思い出せないかのように。
僕はしばらく、その場から動けずにいた。水が滴る歯ブラシを握ったまま、彼女の目に射竦められる。
後に続く言葉を頭の中で探し回り——結局僕が選んだのは、いかにもわざとらしい、優しい笑顔。
「……下の歯、終わらせちゃおう」
「……ん、あー」
モードレッドは追求しなかった。僅かな沈黙の後、僕に向けて口を開く。
規則正しく並んだ小さな歯。血色の良く瑞々しい口腔。珠のような頬も含めて、見ただけで感触が分かってしまうようだ。
僕は歯磨き粉を乗せた歯ブラシを、そっと奥歯に当てた。しゃこしゃこという小気味良い音が、間に落ちていた沈黙を優しくほぐす。
二人だけの時間。小さな口に歯ブラシを挿れてされるがままにさせる、どこか背徳的な距離。
彼女が側に居ることを許容してくれる。それを思うと、僕の頭は、自然と言葉を組み立てていた。
「……聖杯が手に入ったら、僕は根源へ至りたいと願うつもりだった」
「ふほら」
「嘘じゃない。僕は本当に、君が思うよりずっと普通で、つまらなくてしょうもない奴なんだよ」
漏れ出た笑いは、自嘲。
すらすらと言葉を紡げるのは、心のどこかで吐露してしまいたかったからだろうか。
「魔術の探求の主体は、個人ではなく血脈だ。知識を積み上げ、優秀な遺伝子を残し、それを何代も繰り返し、何百年を経て、魔術を極めていく……僕は名家の産まれじゃなかった。歴史はまだ浅かった。産まれた時点で、僕は来世の為の捨て石だったんだ」
憮然とした心持ちを、しゃこしゃこという音が緩和させる。
気落ちする方が間違っている。魔術師にとってはそれが当然。何十代と積み重ねた果てで、子孫の誰かが根源へと到達できれば、その血族にとっては勝利なのだ。
「当然僕もその使命に従った。産まれた時点で見限られたも同然だ。期待はされたけれど、大きな成功は求められなかった。幼い頃から、生涯を魔術に捧げたよ。幾つも書物を読み解き、魔力を編む精度を高め、学び舎の学徒は全員敵と思って、我武者羅に頑張った……」
その果てに気が付いたことは、魔術師としての在り方の宿命だ。
個人を越え、一族として積み上げた時間こそが力であり、優秀な血脈を持つという、それそのものが一つの才能なのだという現実だった。
「どれだけ磨き続けても、石ころが宝石になることはない。僕は秀才にはなれたけれど、同時に決して天才にはなれない事を知ったんだ」
勿論、落胆を覚える事も筋違いだ。魔術の探求は脈々と受け継がれ、途方も無く長い道のりを経る。僕の失意は当然の予定調和でしかなかった。
その現実を否定する例外的な方法があるとすれば、この聖杯戦争だ。
聖杯の魔力を用いて、英霊の座からサーヴァントを召還し、互いに争い合う。過酷極まりない戦いの果てには、僕のような凡夫にも根源へと至る可能性を得られる。
聖杯に選ばれた時は、本当に嬉しかった。天から舞い降りた飛躍のチャンスに、心は湧いた。
「けれどもやっぱり僕は平凡でね。勝てる気なんて微塵もなかったんだ。僕は死ぬつもりで身の回りの整理をしたよ。荷物をまとめ、残すべき魔術を書にしたためて、残すべきでないものは処分した……家系の希望もあって、子供も仕込んだよ。来年には、僕の血統には三人の魔術師が追加されるだろう。妻らしい人の顔も、もう覚えてないけどね」
目の前のモードレッドの顔は、それを聞いても歪んだりはしなかった。ただ憮然と聞き流す。その無感動に甘えるように、僕は歯ブラシを動かす。
右側を磨き終えて、唾液で濡れる歯ブラシを、今度は左側へ。
「僕が死んで困る事はなくなった。僕は踏み台としての使命を全うして、何もかもを忘れて、命を捨てる賭けに身を投げて……その直前に、この家を買った」
後を濁さず、綺麗に命を畳む準備をした。その最後の、余計な一手。
またも自嘲が口から漏れる。つい数ヶ月前の出来事の筈なのに、その決断は、遙か遠い昔、現実かも分からない思い出に感じられた。
「自分でもよく分からないんだ。何でだろうね……虚しいって、思っちゃったんだ。魔術を極める事に人生を捧げて、家族の形すら、目的の為の沿線に過ぎなくて。僕の一生も、万歩の内の一歩にしかならなくて……いざ死を意識すると、根源に辿り着いて、結局僕はどうしたいんだろうとか、とりとめの無いことばかり浮かんでさ」
「……」
「魔術師としての僕は、この聖杯戦争で終わる。その最期を考えた瞬間に、僕は人間になってしまった。人並みの幸せを欲しいと思ってしまったんだ」
本を読んで、自然の中でとりとめも無い事を考えて黄昏れて。
今日の晩御飯や、新しいオーブンを買うかどうかでうんうん頭を悩ませたり。
そうして、あわよくば綺麗な女性と巡り会えたら。
恋に落ちて、子供ができて、立派な大人になるまで見守る事ができれば——。
全く、呆れた夢想だ。魔術師として落第以下の最低だ。積み上げて来たもの全部を、僕自身が棒に振っている。
僕がここに来ることを提案した時、モードレッドは僕を蹴り飛ばし、失意と憤怒の怒号をぶちまけた。その怒りは本当に正しい。僕は情けなさとだらしない保身の結果で、ここにいる。
「心から愛されたかった。誰かを本気で愛してみたかった……だから、僕は君とここにいるんだ。そういう、甘えた感情を理由に」
それが彼女を守る事に繋がっているのは、確かにそうかもしれない。けれどそれは、僕に逃げるという選択肢を取らせる、体のいい理由にもなっている。
情けない男なのだ。彼女の気高さに比べるべくもない、つまらない人間なのだ。僕は傷を受けた彼女の弱みにつけ込んで、英雄たる彼女を我が身かわいさに付き合わせている。
「聖杯にかける願いなんて、もうないんだよ。あるのは、ただ幸せになりたいという思いだけだ。君を呪縛から解放したい。一人の人間として、君と一緒に、苦しみのない時間を過ごしたいんだ……できるだけ、長い間」
最後に付け加えた言葉。それが何より、この時間の脆さを物語っている。
いずれ終わりが来る仮初めの時でしかないことを、僕自身が知っている。
モードレッドは静かに僕の目を見つめていた。僕は歯ブラシを口から抜いて、顎に添えていた手で唇を拭う。
「終わったよ、お疲れ様」
「……ん」
泡を吐き出し、口を濯がせて、僕は彼女の歯ブラシを洗う。
背中にはずっと、彼女の視線が刺さっている。
胸中に失望があるだろう事は明白だった。何が起きてもおかしくなかった。
どこに脚が飛んでくるだろうか。臑か、背骨か、頭を洗面台に叩き付けられて、頭蓋がひしゃげてしまうかもしれない。
「……前にお前は言ったな。在り方で、オレ自身の存在が否定されることはないと」
予想とは裏腹に、モードレッドが飛ばしたのは言葉だった。
「お前は良いマスターだった。情けないアホ面晒していても、戦いの間は勝つことに真剣だった……それが今は魔術師失格だっていうなら、お前はただの良い人間だ。ヘラヘラして苛つく脳天気だが、オレの事を想ってる、それだけは本当に嘘がねえ……だから何も言わねえ。女々しくて苛つくけど、否定はしねえ。お前は良いやつだよ。あんま言いたかねえけど、好きとも思ってる」
丸椅子が動き、モードレッドが立ち上がった音がする。振り返れない僕から、足音が遠ざかっていく。
苛立ちと、怒りと、やるせなさ。
憤るあらゆる思いに必死に蓋をして、彼女は静かな声で呟いた。
「悪いのは、この傷と、それを付けやがったクソ野郎だ」
歯軋りの音が洗面所に響く。
ぶり返した痛みを黙殺して、モードレッドは乱暴にドアを蹴り開けた。
「だから忘れるなよ。必ずこの憎い傷を治して、顔も分からねえ敵をぶち殺すんだ。それまでは、オレはお前のサーヴァントで、お前はオレのマスターだ。もう暫く、魔術師として気張ってもらうからな」
固く力強い声に、顔を上げる。
目の前の鏡に僕が映り込んでいた。冴えない顔。天才じゃないただの男。
いや、魔術師だ。こんな男でも、英霊を側に置く選ばれた魔術師なのだ。
その顔の奥に、背を向けたままの騎士の姿がある。物憂げな立ち姿。力ない両腕を垂れ下げて尚、出で立ちには一本の芯を通した強さを感じる。
「全部終わったら。そん時にゃ、一緒にボートぐらい乗ってやるよ。王たる傑物からの褒美を仕ってやる」
「……ありがとう。頑張るよ、モードレッド」
「情けねえ声あげんなよ、バカマスター……ベッドに入る前に、ちゃんと歯ァ磨いとけよ」
つっけんどんな声を最後にドアが閉まり、僕は一人洗面所に残された。
僕はぴしゃんと自分の両頬を打った。鏡に映る情けない表情の男に渇を入れる。
「……聖杯戦争は終わっていない」
当たり前の事実を思い知らせる為に、そう呟く。
いずれにせよ、問題を解決しなければいけない。
戦いから逃げ出しても、進む先は必ず『前』でなければいけない。
どんな方法でもいい。僕は彼女を苦しみから解放してみせる。
愛する人を、幸せにしなければいけないのだ。