もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
勢いよく扉を蹴る。それだけで錆びた錠前は砕け、年期の入った木が悲鳴を上げる。
開け放たれた扉から早朝の白い外光が差し込み、倉庫の中の闇を取り払う。古い木壁の隙間からも外光が差し込み、全体の輪郭が薄ぼんやりと浮き上がっている。
立てかけられ、何年も乗り手のいない古ぼけたボート。埃を被った発電機。所々が粘つき溶解したプラスチックのバケツ。錆び付いた芝刈り機。
ずっと前に置き去りにされた道具達の生活の残滓が、まるで幽霊のように浮かび上がる。
重苦しく沈んだ、灰色の世界。
湿気って今にも崩れそうな角材の束に、ソレは静かに座り込んでいた。
外光が届かない奥。暗闇の中に、項垂れたシルエットだけがぼんやりと浮いている。
埃臭い空気を吸い込む。張り詰めた弦のように意識が冴える。両腕に走る痛みを黙殺して、オレは問いかけた。
「——何者だ」
「……私に、名前を名乗る程の意味はありません」
人間味の欠けた、穏やかとすら思える声。人影はゆらりと立ち上がった。
少なくとも、敵意のような物は感じられなかった。身構えるオレの前で、ソイツはゆっくりと歩き、明かりの中に姿を晒しだした。
ソイツは灰色のローブを纏っていた。顔をすっぽりと覆い隠し、表情までは分からない。影そのものが形を纏ったような薄気味悪さの中、首からぶら下げられた双眼鏡が、レンズを反射して場違いな存在感を光らせている。
身に纏う静かで希薄な雰囲気には、覚えがあった。
「前に会ったな。聖杯戦争の、監視者とか言う奴だ」
「その通りです。久しぶりですね、セイバー」
聖杯戦争に参加した時、挨拶としてマスターと共に顔を見せにいった。そこでコイツに、聖杯戦争の一通りのルールを教えられたのだ。手を借りるのは癪だったので、それ以来一度も会うことはなかったが。
聖杯戦争というシステムの上では欠かせない存在。けれど、それがここに居るのは、明らかに異常だった。
「何かあったら頼れとは言ってたけどな。これは干渉が過ぎるんじゃねえか? どこから嗅ぎ付けやがった」
「あなたは聖杯の魔力より産まれた英霊。どこにいても、その経路までは隠す事はできません」
無感情さに僅かな慇懃さを感じさせる丁寧語。空気は相変わらずひっそり冷え込んでいて、それが奴の不気味さを強調させている。
監視者が来た理由について大体は察する事ができた。奴は静かな声で、予想通りの言葉を放つ。
「聖杯戦争は、七騎の英霊が争い会う大規模な魔術儀式。それを悪戯に長引かせる事は、様々な弊害を産みます」
「泣きつきに来たなら、尻尾振って帰るこったな。第一、聖杯戦争に明確なルールなんて無いはずだ。何をしようと、オレ達の勝手だろ」
冷たく言い放つ。不機嫌を隠す気など微塵も起きなかった。
誰にも穢されず、静かに安らかに暮らしたいというのが、マスターの願いだった。
それが上手くいくはずないのは分かってる。けれど、こうも易々と土足で踏み込まれては、オレの溜飲が収まらない。
監視者は相変わらず表情を闇に隠したまま、フードを静かに頷かせた。
「……確かに。傷を癒やし、手を整え、時を待つのも戦略の一つ。私にはそれを止める理由はない」
「ッだったら——」
「それでも、ここに来たのは一抹の善意の為」
予想もしなかった言葉が飛び出し、オレは後に続く言葉を失った。
「善意だぁ?」
「教えて差し上げようと思ったのです。貴方がたの思い描く日々が……泡沫の夢であるという事を」
そう言って、フードの男は腕を持ち上げた。ローブから覗く枯れた掌から、二本の指を立てる。
心の準備もできないままに、奴は決定的な事実を突きつけた。
「サーヴァントは、残り二騎となりました」
「ッ——!」
「聖杯戦争は、近いうちに終わりを迎える事でしょう」
端的な一文。オレの心を何よりも突き刺す言葉。
オレの動揺など意にも介さず、管理者は言葉を続ける。
「やがてここは戦場になる。貴方が受けたモノを道導として……火蓋は落ちる。そう遠くない内に。今すぐにでも」
今更言われるまでも無い、自明の事だった。管理者すらここに辿り着いたのだ。敵のサーヴァントがここを見つけられない道理はない。むしろ、この管理者が公正を重んじる人物ならば、居場所を教えてしまうリスクがないから会いに来た——つまりは、相手はとうにここを突き止めている可能性もある。
冷や汗が頬を伝う。むず痒い嫌な感覚が顔を這う。
顔を拭う行動を妨げる両腕の傷は、消えていない。
つまりは、そういう事だ。
この傷を与えた張本人が、オレ達に迫っている。
「あの方の聖杯を追い求める願望は本物です。あの『神殺し』は、どんな手を賭してもあなたを殺すでしょう」
「……」
「ありもしない安寧に縋り付いて命を落とすのは、あなたの矜恃にも反するはず。ですからこうして、伝えに来たのです」
あくまで善意。そう強調して、監視者は伝える。在るはずの無い日々を求めるオレ達がいかに情けないかを。あって欲しいと願う時間がいかに有り得ないかを。
「……分かった。情報ありがとうよ。もう終わりか?」
確かに、善意だろう。吐き出される言葉は正論だろう。
だが、オレの気分は最悪だった。
「なら失せろ。十分だ。もう声も聞きたくねえ」
「……せめて、後悔なされませぬよう」
「失せろと言ったんだ。三度目はないぞ」
ドスを効かせて睨み付ける。その瞬間に両腕に痛みが走り、オレの瞼が痙攣する。
見え透いた虚栄。きっとその姿は、監視者の目にはさぞかし滑稽に映っている事だろう。奴は少し頭を下げると、滑るように後ろへと下がっていき、闇の中に溶けて消えた。
張り詰めていた緊張が無くなり、いつもの静かな空気が戻ってくる。何かの魔術か、最初から幻覚だったのか。何にせよ、そこに監視者の姿は無くなっていた。
冷え切った空気が背筋を撫でる。両腕がじくじくと耐えがたい痛みを伝えてくる。
「神殺し……神殺しだと?」
ヒントか、それとも挑発か、監視者が呟いた言葉が脳内を駆け巡る。
神に相見え、ましてそれを打ち倒した人間が、オレ達の敵?
オレの歴史を塗り替えられる程の、強力な能力を持った相手……その、未だ素性も知れない影が、異様な大きさに膨れあがる。
影の大きさは、己の疑心暗鬼の強さだ。
不安。畏れ。それがオレの中に居座っている。本当に勝てるのか? という、信じられない程臆病な問いが。
「……クソッ」
苛立ちのままに壁を蹴りつけ、オレは倉庫を後にする。
色んな感情がごちゃ混ぜになって、混乱する。足下の地面が、ぐずぐずに溶けていくようだった。
顔を上げれば、色づき初めた森の中に、ぽつりと佇む一軒の家。
視界には鏡のように澄んだ水面を讃える湖。腹の内にはぐらぐらと煮える、どす黒い感情。主体と客体が剥離して、現実味を喪失させる。悪夢か、蜃気楼でも見ているみたいに。
——なんでこんな場所に?
不意にそんな疑問が浮かんでくる。心に亀裂が走った音がする。
戦うための存在の筈だ。
願いを叶える為の、人生を賭した、全てを捧げる戦いの筈だ。
オレは誉れ高き英霊であり、怒りを宿す叛逆の騎士であり、マスターの剣であるはずだ。
決して忘れた訳じゃなかった。
けれどオレは、無意識に直視するのを避けていたのだ。
「……はぁ」
重たい……とても重たい溜息が漏れた。
倉庫の壁に頭を押しつける。古びてささくれ立った木の壁に、額を擦りつける。
マスターに伝えるとか、準備とか、必要なことは幾らでもあるはずなのに。オレはただただ、独りよがりにナイーブになっている。
「……なんだよ」
とても、気が重い。マスターの、あの底抜けに明るい面が寂しげに曇るのは、できれば見たくない。
残念で、無念で。
込み上げてくる感情に、改めて自分がいかに情けないか、自分らしくないか気付かされて。
「ここまで、気に入ってたってのかよ。オレは」
せっかく、いい物だと思い始めていたのに。
誰かを好きになる事が、好きな人が隣に居るということが、悪くないものだと気付けた所だったのに。
自分が何を考えているのか分からない。
あるべき姿を思い出した使命感。新たに芽生えてしまった女々しい感情。相反する二つの感情が、混じらないままに頭をぐるぐるしている。
「……」
けれど、いずれ来る筈の時だった。
だから、結局、この時間は全部幻想だったのだ。
オレは壁から頭を離し、家の中へと戻った。扉をくぐり、リビングへ。
ガラス張りの壁から、白く輝く朝日が射し込んでいる。透き通るような湖面が光を反射し、木々が蓄えた朝露が輝き、景色全部が星屑のように煌めいている。
ずっと見続けていた景色。不機嫌と苛立ちを抱えたまま、オレはソファに座って、ここの景色を見ていた。
何もせず。何もできない現実を認められず、何かする事を酷く恐れて。
尊い時間に気づきもせず、怯え続けていた。
そんなオレにも、あの男は優しかった。
全てにおいて、オレの事をひたすらに想い、案じていた。
その思いが脳裏をよぎると、オレの足は自然とそっちへと向いていた。
薄いカーテン越しに朝日の射し込む、寝室。
中央のベッドで、マスターは静かに寝息を立てていた。いつの間にか体勢が仰向けになり、オレが賭けてやった毛布はヨレヨレになって、腹にかかるだけになっている。
オレのマスターは、隣で何があったかも知らずに、幸せそうに眠っている。子供みたいな優しい表情を浮かべていた。
「……もー……れっど……むにゃ」
「バカみてえな寝顔……夢の中まで、オレのことかよ」
思わず、苦笑する。それと同時に、胸がきゅうっと締め付けられる。
陽光に温められた空気。淡い黄金色の寝室。耳をすませば聞こえる寝息。
温かく綺麗で、どこか甘く柔らかい空間。
退廃的で、屈辱的で、それなのにとても愛おしい。
二人だけの、偽りの安寧。
「……」
ここでなら、夢を見ることも許されるだろうか?
安らかな感情に、甘い欲望に、身を浸してもいいのだろうか?
もう少しだけ、甘えてもいいだろうか?
オレの女々しい感情が、急に存在感を増して、オレの胸を高鳴らせる。
ごくり、と勝手に喉が鳴った。
脳裏に浮かんだ馬鹿げた考えに、勝手に乾いた笑いが漏れる。
「……よお、マスター。オレに対して、やれ口寂しいだ、愛情が足りないとか、ずけずけと抜かしやがったな」
膝をベッドに乗せる。ギシ、と音がして、柔らかく沈み込む。心臓の音がうるさいくらいに高鳴っている。
オレは今、一度目の人生を含めても、一番馬鹿な事をやろうとしている。
けれど、もう止められなかった。
感情を振り切れない。
この空間を、彼を、愛しいと思ってしまう。
「さっき、嫌な事があってよ。苛ついてしょうがねえんだ……けど、お前に好き勝手されるのは、プライドが許さねえ」
両膝をついて、マスターの足下に腰を下ろす。
ごくりと喉を鳴らして、生唾を飲み込む。吐き出す息が熱い。自分がやろうとしている事に、興奮を隠しきれない。
何も知らずに寝ているマスター。オレを好きと抜かしやがる、オレの相棒。
真っ赤な顔を強がりで誤魔化して、オレはゆっくりと、マスターのズボンに向けて上体を屈ませた。
「だから——勝手に発散させてもらうぜ、バカマスター」