もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
温かい湯が、弛緩した身体を優しく包み込む。穏やかな雨のような音に、爛れた心と身体が清められていく。
湯気立つシャワールームで、オレは静かに、後ろから伸びるマスターの腕を受け入れる。太い腕に肢体をなぞられ、柔く抱擁される。
肌が触れ、湯が流れていく度に、迸っていた汗や色々な穢れが落ちていき、後には不思議な充足感だけが残る。
こんな感覚は、一度目の人生では終ぞ感じた事なかった。
強敵を屠った達成感とも、野を駆ける爽快感とも、唯一絶対な王に使える誉れとも違う。
満ち足りた感覚。他に何も要らないという、排他的な満足感。
人並みに生きる娘が目一杯に背伸びして思い描く、平凡な理想。
「……やっぱり似合わないよ、オレには」
解いた髪が垂れて、視界に影を作る。訳も無く俯いた視界は、排水溝の真っ黒な渦に注がれる。
「有り得ないんだ。オレがオレである以上、サーヴァントである以上……このまま、堕落するのが許される事なんて」
感じた事の無い満足は、オレから現実味を奪い去る。温かさに緩む心の中に、置き去りにされたような喪失感を感じさせる。
これ以上無く満たされたからこそ、断言できる。
違うのだ。オレが抱くべきなのは、こんな感情では無い。
自動車に軽油を入れても動きやしないのと同じ。そもそもの立場が違う。生きる世界が違う。
結局、壊れる程愛されても、胸の内の空洞は消えなかった。在るべき場所が違うという居心地の悪さは無くならなかった。
つまりは、そういうことだ。
「……これは夢だ。普通の女として受け入れられる、有り得ない夢。たった一人を求めて、それ以上に求められる、とびきり幸せな夢」
マスターに会えて良かった。ここで時を過ごせて良かった。
これ以上無く愛して貰えた。女としての喜びを、身体の内に満たして貰えた。
心から、幸せだった。
だからこそ、離別は切なくも、苦しくはなかった。
「夢なら、いつかは覚めなきゃいけない。覚める時は選べない……そして覚めたなら、もうその夢は忘れなきゃ駄目だ」
言葉にすれば、オレの心は急速に、元の形を取り戻していく。
蕩けていた身体に力が籠もり、思考が刃のように冴える。
身体が、モードレッドという存在の、在るべき姿を思い出す。両腕に深く刻まれた傷が、ズキズキと悲鳴を上げた。
「……ごめんね、モードレッド」
名残惜しむように、マスターがオレを優しく抱き締める。シャワーに熱く濡れた肢体が絡まり、オレの首筋に唇が吸い付けられる。
「色々、無理をさせたね。もどかしい思いをさせて、無駄な希望をちらつかせて、期待させて……」
温かな湯気に包まれた、二人だけの時間。逃げ続けたオレ達の、爛れた逢瀬。
「間に合わせたかった。君の苦しみを、最後まで癒やしてあげられなかった……君を酷い目に遭わせてしまう。戦士として戦わせてあげられない。それだけが本当に、残念でならない」
深く詫びるような、弱い声音。両腕の傷がじくりと軋む。
彼は『最後』と口にした。その認識は、至極正しい。
間抜けなマスターとばかり思っていたのに。現実だけはしっかり見据えている。そのギャップに思わず失笑する。
「気付いてやがったか」
「伊達に魔術師はやってないからね」
「いつから?」
「うーん、メチャクチャにしてっておねだりされた辺りかな」
「……オイ、その状況で続けるか普通? お前、エロに関してはマジで剛胆が過ぎるぞ」
「君が言えた話じゃないだろう?」
マスターが惚けて笑う。つられてオレの口角も持ち上がる。
夢のような時間。夢でしか有り得ない時間。
夢にしてはもう十分、長すぎる程堪能させて貰った。
目覚めの鬨の如く、両腕の痛みが響く。
「大丈夫かい、モードレッド」
「大丈夫なもんか。怖えよ、当たり前だろ。負けて、歴史から消される覚悟なんて、ちっともできてない」
「……ずっと一緒にいるよ。ここで終わりになんかさせない」
「ああ、だからこそ、負けてたまるか。諦めてたまるかよ。情けない不遇の身らしく、みっともなく抗ってやる」
「そうだね……行こう、
彼がオレの役割を呼ぶ。
唇を交わらせる。温かく柔らかい至福の時を、最後の瞬間まで味わう。
そうしてオレ達は、夢から覚めて、苛烈極まる地獄へ帰着する。
——聖杯戦争へと舞い戻る。
外は完全な無音になっていた。賑やかだった鳥の声は一つとして響かない。木々すらも息を潜め、固唾を飲んでいるようだった。
そんな静まり返った森に、ドアを蹴り開ける轟音が響く。殻を破るべく放った全力の一撃に、金具が契れて木板が吹き飛んでいく。
赤地に金の装飾をあしらったインナーを身につけ、オレは張り詰めた外の空気を吸う。
秋が迫る森。広葉樹が先に枯れ落ち、焦げ茶色に染まった大地。足を踏み出せば、カサリと乾いた音がする。
両腕は相変わらず、両脇にぶら下げたまま。痛みと痙攣は隠すべくもない。
「っ……ふぅー……」
身体が震えるのは、武者震いか、それとも恐れか。
心が研ぎ澄まされ、痛みが更に表出する。心臓の鼓動に合わせズキズキと脈動する。
背中に、マスターが手を置いた。
そっと添えるだけの、ささやかな接触。掌の体温がじんわりと染みて、オレの心を少しだけ落ち着かせた。
「……来るぞ」
一言。マスターが緩く首を立てに降る。
さぁと風が吹き、茶色に乾いた落ち葉がカサカサと舞う。
風の向こうから、落ち葉を踏みしめる音が近づいてくる。
くたびれた風体の男だった。緑を基調とした古めかしい戦装束。目元や鼻筋に皺の目立つ、壮年の顔。掠れた茶色の短いざんばら髪。
細身だが、袖から見える腕には逞しい肉体が覗く。
肩に担ぐは、十字架型の槍。刃先に灯る黄金の煌めきは、それが歴史に名を連ねる宝具である事を肌で感じさせる。
弥次郎兵衛のように肩で風切り、担いだ長槍を揺らし、男はオレ達に微笑を向けた。
「——わざわざお出迎えなんて気が利くじゃないの」
マスターに勝るとも劣らない飄々とした声。
男は髪と同じ乾いた茶色の顎髭を撫でながら、懊悩に言葉を紡ぐ。
「俺ぁてっきり、怯えるアンタ等と隠れん坊するもんだと思っていたんだけどねぇ。ぶらりと来てみれば、何とも肝の据わった目をしてらっしゃる」
気怠げでひょうきんな態度。それでいて、ゆらゆらと揺れる立ち振る舞いのどこにも、付け入る隙が見当たらない。
穏やかな態度は表層だけ。小皺の浮いた目の奥は、ぞっとするほど冷酷な黒に澄んでいる。
「参った。心の在り所はともかく、覚悟だけは決まってる。やけっぱちでも戦う気だ。こりゃオジサンも頑張らなきゃねぇ」
酩酊を疑うような愉しげな声。これから遊びに行くかのような気軽さで、男は槍の柄を撫でる。
間違いなく、オレが最も嫌いなタイプだった。余裕たっぷりの態度からは、此方を睥睨する意志をありありと感じさせた。
「……ああ、思い出したぜ」
オレの腸が、急速にグラグラと沸き上がる。噛みしめた歯がギリと鳴る。
「その得物。その格好。嫌でも思い出させる……テメエがやりやがったんだ。傷を付けるばかりか、オレの名に泥まで塗りやがった」
「おお、上手い具合に効いてるみたいだ。殺意に虚勢の匂いがぷんぷんするぜ」
呵々と笑い、オレを笑い飛ばす。今すぐにも飛び出して蹴り飛ばしたかったが、背中に置かれたマスターの手が、それを制する。
こちらから飛び込む訳にはいかない。有効な手は多くない。
それを見透かして、男は懊悩に微笑む。
「剣はなし。殴る投げるもなし。刹那の戦いにおいて痛みがどれだけ隙になるかは……お互い、検めるまでもないか。いやぁ仕留めるのが楽とはいえ、気の毒とは思うぜ、本当に。なぶり殺しと変わらねえもの」
わざわざ一同に羅列し、壮年の男は、肩に担いでいた槍にゆるりと手を滑らせる。
「けれども、だ。オジサンは逆境にはことさら縁があってねぇ。追い詰められた鼠がどれほど意地汚いかは、俺自身がよ~く証明しているのさ」
ぬるい湯が流れるかの如く、気怠く自然に、隙無く。男は姿勢を崩し、槍を虚空に漂わせる。
両手を添えて、穂先を向ける。
それだけで、漂っていた温和な空気が霧散した。
人を食った笑顔はそのまま、嗜虐的な空気を纏う。
目に昏く鋭い闘士だけを残し、壮年の男が言い放つ。
「——遊びはなしだ。慎重に、徹底的に潰させて貰おう」
「ハンッ、バカ言うぜ。泣いて地面に這い蹲るのはどっちだろうな」
「すぐに悲鳴以外言わせなくしてやるよ。オジサン、やると決めたらとことんやる男でね」
唇を吊り上げれば、獣のように尖った八重歯が覗く。
不穏で獰猛な笑み。不遜な態度。それがオレにとって不安となる事を心得ている、陰湿な立ち振る舞い。
否応なしに戦いが始まる。柔く温かい幻想を砕き、英霊同士の聖杯戦争が再開する。
「サーヴァント、ランサー——お前さんにゃ悪いが、存分に推して参らせて貰おう」