もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
夏コミではありがとうございました。
もう二度と~の前編・中編
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最後までお付き合いいただけますと幸いです。
第27話
――ああ、この世に神はいないのか。
その時、人類には悲哀が満ちていた。誰もが天を仰ぎ、涙を流して咽び泣いていた。
生きる希望を失い、途方に暮れていた。
貧富の差を問わず誰もが、浮浪者のように生きる意味を失い、現在に絶望していた。
今から数えて、三千と数百年の昔の事。
神は唐突に、この世界から消え去った。
何の前触れもなく、一言の別れも告げず、神と人は切り離された。
かつてこの世界は――それまでの何千年もの間――神の住まう場所であった。
海、山、空、草花、動物、岩、生、死……あらゆる場所に神は介在し、その神性を民と交わらせてきた。
世界の象徴であり、世界そのものでもあった。畏怖の対象であり、同時に信奉する英雄であった。時には友でさえあった。
そんな彼等は、理由も告げず、この世界から突然に消えた。
喪失の時に立ち会った人々は、ただ何が起こったか分からず、狼狽えるばかりだった。困惑の窮地に立たされながら、かつての気高き存在達の痕跡を死に物狂いで探し回った。
人々の捜索は、全て無駄に終わった。
神は消えていた。文字通り、跡形もなく。全て幻だったかのように、何の痕跡も残さずに。
人は嘆いた。嘘であってくれと懇願した。かつて瞳を輝かせて追っていた、あの御姿をもう一度見せてくれと哀願した。
悲しみの叫びと共に放たれた願いは、世界全土を覆い、天に木霊し、それでも終ぞ、神に聞く事はなかった。
時が経る毎に、悲哀は摩耗し、叫びはか細くなっていく。
百年を数える頃には、人は神が居た事の証明すら難しくなっていた。
かつて神がいたのだと、誰も証明できない。神を記憶する者は皆、失意の果てに息絶えた。
後に残ったのは、とっくに乾いてささくれとなった心の穴。『掛け替えのないものを失った』という、途方もない、かといって説明さえできない喪失感だけだった。
世界は疲弊した。あらゆる苦難が人々を襲った。
縋るものを失った民は、訪れる不幸にただ打ち拉がれ、嘆く他になかった。
救いの手は望めない。
神がいたかどうか、最早それさえ信じられない。
そして、神が存在しなくなったこの世界に。
果たして、存続する理由などあるのか――。
疑問が魂を満たし、苦悩が脳裏を掻き毟る。
そして耐えがたい苦痛と喪失感に、民は天を仰ぎ、叫ぶのだった。
――ああ、この世に神はいないのか!
「――いるとも」
だから彼は、言葉を紡ぐ事にした。
悲しみ、大地に伏せる彼等の耳朶を打ち、顔を上げさせる為に。
蹲るその肩を叩き、心を鼓舞した。
「神は、いるとも。我は知っている。彼等の凜々しき姿も、気高き在り方も、全て」
そう言い放ち、同時に彼は自分の使命に気付く。
人には、希望が必要だ。信じるものが必要だ。
彼等を風化させてはいけない。彼等の雄志を、共に過ごした日々を、無かった事になんてしてはいけない。
いつの日かまた出会う為にも、我々は神を信じ続けなければいけない。
「我が教えて進ぜよう。かつての日々を。神と共にありし、絢爛たる日々の晴れ姿を」
そうして彼は、語り始めた。
神を失った人々に、もう一度その実在を知らしめるべく。
人々の信仰によって、神をこの世界につなぎ止めるべく。
言葉を紡ぐ。情景を詠う。
気高き彼等の、在りし日の栄華を。
誉れ高き英雄嘆を。
全ては、彼の一節から始まった。
脈々と情報を伝播する、言葉も、歌も、書物も。
やがて人類史と証される、彼等の歩みの蓄積も。
過去も、未来も、史実も空想も、子供への物語も王への賛歌も。
繁栄も――衰退も、後悔さえも。
全て、彼の言葉が始めたのだ。
◇
「モードレッド!」
呼び声が、鬱蒼と生い茂る森の木々に木霊する。
その声に、彼女は応じられない。返事の代わりに、喉に開け放たれた穴から、ごぽりと血の泡が弾ける。
モードレッドは、未だ何が起きているのか分からない様子で、目を見開き、苦痛に呻く。呼吸困難にぱくぱくと口が開閉し、その度に喉から血が噴き出し、足下の腐葉土を鮮血で飾る。
突如として開いた傷が、モードレッドの白い喉を縦に割っている。
つい数分前、ランサー――ヘクトールに付けられた傷。激痛と絶叫に満ちた恐慌の果てにモードレッドが打ち倒した、その激闘の刺し違えで受けたかすり傷。
その傷が、広がっている。ひとりでに、明確な意志を持って、モードレッドの喉を割っていく。めきめきと痛ましい音を立てながら、彼女の皮膚を裂き、捲り上げ、気道を開いていく。
「が、ぷ。ぉ……!」
「モードレッド! くそっ……くそぉ!」
彼女の肩に手を置き、揺さぶっても、まるで助けになりはしない。
手を置いた彼女の肌から、温かさが抜けていく。小さな彼女の身体から、命がどんどん潰えていく。
どうしたら。どうすればいい? 何をしたらいい?
「勇士は決意した。例え負けようと、勝利を明け渡す事はしないと。自らの命に変えても、必ずやあの狂躁の騎士を打ち倒すのだと、槍に魂を籠めた」
――奴は、ただ語っているだけなのだ!
信じられない。目の前で起きている事が理解できない。
モードレッドは今、言葉に殺されようとしている!
突然現れた老齢の男は、淀みない口調で言葉を紡ぐ。
法衣に身を纏った大柄な姿。彫刻のように隆々とした筋骨に、泰然とした佇まい。空洞な彼の目は光を映さず、代わりのように周囲を覆う赤い紋様が、言葉の一節毎に淡く輝き、超常の気配を胎動させている。
ホメロス。ギリシア最古の偉人にして、最古の叙述史の語り部。
語り継ぐ事を始めた男。伝承の創始者。
歴史のはじまりにして、初めて神を語った男。
その大いなる言葉が、今、モードレッドを亡き者にするために紡がれている。
「その決意は、彼の躯を奮い立たせた。穂先は彼の命の燃えるままに動き、決意が騎士の喉を裂いた。彼のその気高き決意が、怒りを振り絞る狂乱の剣士に立ち向かい、相打ちたらしめたのだ」
「っ――その口を、閉じろぉ!」
僕は懐の宝石を投擲し、ホメロスを狙う。しかし、着弾の直前に、彼は一瞬で姿を掻き消し、全く別の場所に突如として現れる。
幻のように場所を点々とし、言葉だけは淀みなく綴られる。全方向から言葉が飛び交い、モードレッドを押し潰す。
彼の言葉が歴史になり、事実になる。言葉に引き摺られるように、本来は軽傷だった喉の傷が、致命傷へと変わっていく。
事実が、歴史に蝕まれる。
モードレッドが、『死んだ事』にされていく――っ!
「やめろ……やめろぉぉぉぉぉ!」
「戦いは決した。喉を貫かれた剣士は、断末魔の声すらも奪われ、溺れるように大地に――」
結末に向けて、魔力が膨らんでいく。
大なる歴史の紡ぎ手の言葉を断ち切ったのは、空気を劈く、紅き閃光。
「――かぁッッッ!」
突然にモードレッドが、穴の開いた喉で吼えた。
爆発したような赤雷が視界を染める。モードレッドの真紅の魔力が津波のように広がって、ホメロスの言葉の気配を押し返した。
顎まで到達しようとしていた喉の裂け目が、気合いに畏れを成したかのように、急速に閉じていく。
吹き荒ぶ魔力の暴風に、ホメロスが初めて口を閉じ、僅かに驚いた。
「むっ……」
「くたばれえええええええええぇぇぇぇぇぇぇ!」
その一瞬の硬直を逃すまいと、モードレッドは現出させたクラレントを蹴り飛ばした。銀の剣は彗星のように飛来し、ホメロスの足下に着弾。凄まじい衝撃が鳴り響き、土埃と落ち葉を舞い上げる。
激情の全てを乗せた一撃も、やはりホメロスには届かない。瞬きの内に彼は姿を消し、着弾点から僅かに離れた場所に現出する。
ホメロスは口を閉じ、白濁の瞳を僕等に向けて、泰然と佇む。
全身を鮮血で濡らしたモードレッドは、虎のごとく牙を剥いて吼えた。
「下らねえ嘘八百に、付き合ってやる道理はねえんだよ、クソジジイ!」
「ふむ……令呪の行使による自己認識の補強か。主の苦し紛れに救われたか」
死の淵に立たされていたモードレッドは、ぜいぜいと息を荒げて怒号を放つ。対するホメロスは、どこまでも冷ややかに、長く伸びた顎髭を撫でる。
「何であれ我の言葉を打ち払うとは、目を見張る気骨よ。流石は叛逆の騎士……国にも、王にも、自らの非業の産まれにも抗い続けただけはある」
「っテメエ、どこまで……!?」
「無論、全てだ。事実を知るからこそ、言葉は歴史としての有り様を成す――転じて、歴史の語り手には、事実を明るくする権能が宿るのだ」
「ふざけた口を……オレの傷を伝って、霊基の記録に入り込んだだけだろうが、覗き魔め」
忌々しげに吐き捨て、モードレッドは自らの両手、そこに深々と刻まれた傷を睨み付ける。
ヘクトールとの激闘の最中、魂が粉々になるほどの激痛に狂いながら、強引に剣を振るった。その余波に、両手は今もブルブルと震え、焼け付くような痛みで彼女の表情を痙攣させる。
「オレから剣を奪い、魂を穢し。事ある毎に過去に入り込み、オレの存在を否定してきやがった……許さねえ。マトモに死ねると思うなよ。その喉、オレの手で捻じ切ってやるからな!」
「……雑言も、こうも猛々しければ心地よくすらある。流石、激情に任せ、命すら短絡的に散らしただけの事はある」
「ッ覗き魔風情が、知った風な口を利くんじゃねえぇぇぇ!」
ドウ! と魔力が弾け、モードレッドが跳ぶ。
一瞬でホメロスに肉薄し、光を映さない双眸目がけ、赤雷の迸る踵を突き出す。
「……面白い」
ホメロスは薄く微笑み、次の瞬間に姿を消した。モードレッドの足が空を掻き、彼女は歯噛みして着地する。
「っさっきから、どうなってやがる。光のない盲目の癖に、見えているようにちょこまかと!」
「見ている景色が違うのだ。光を犠牲に、我の目はこの世ならざる神秘を目撃する器に至った。この双眸は神の威光を降ろす為にこそある。貴様のような矮小なる民は、直視されるだけ光栄と心得よ」
モードレッドの狂犬のような殺気を受けて尚、ホメロスには、まるで観劇を眺めるかのような余裕があった。
潰れた双眸は、何も見えていないにも関わらず、明らかに僕達を捉えている。僕等の視界よりも遙か高次元の――魔術的に高位な世界で、彼は僕等を睨み付けている。
視線ではない得も言えない気迫。膝を折らずにいられるのは、隣にモードレッドがいたからだ。怒りを原動力に膨れあがる赤雷が、彼女の周囲にバチバチと弾けている。
その激情の赤雷を、ホメロスは冷ややかに嘲笑した。
「怒り、か。人を縛り続ける、低俗で蒙昧な感情……貴様はまるで怒りの現し身だ。人の愚かさ、憤怒の罪を捏ねて作り出した泥人形のようだ」
ぷちん、と。堪忍袋の尾が切れる音がした。
泥人形――その言葉に、モードレッドが息を飲み、目を剥く。
両腕が、固く握りしめられる。ヘクトールの頭部を叩きつぶしたあの時のように、堪えようのない怒りに、纏った赤雷が弾ける。
「……上、等だよ」
臨界点を越えた怒りは、逆に彼女を静まらせた。
瞳孔をきゅっと窄ませ、わなわなと唇を震わせて、言う。
「来いよ……オウ、来てみろよ、クソジジイ。もう許さねえ。徹底的にぶちのめして、その髭もじゃの減らず口から『産まれてきてごめんなさい』と言わせてやる。歴史の代わりに、オレがトラウマって奴を刻んでやるよ」
絶対零度に至ったモードレッドの怒り。
それを受けて、ホメロスが放ったのは、嘲笑。
「……愚かな、蛮族め」
「――」
モードレッドの姿が、消えた。
全身全霊の魔力を爆発させた跳躍は、軌道に引かれる光の帯さえ視認を許さない。
次の瞬間、彼女の傷を負った両拳がホメロスのいた場所を抉り抜き、大地に巨大なクレーターを産み出した。両手から鮮血が迸り、全身がバラバラに切り裂かれるような痛みが、悲鳴になって彼女の喉を抜ける。
「っぎゃあああああああああ! あああああこのクソ野郎がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ダメだモードレッド! 君が先に壊れるぞ、感情を抑えるんだ……モードレッド!」
僕の叱咤は、のたうち回るモードレッドには届かない。
暴れ回るモードレッド、手が付けられない僕。広く抉られたクレーターの端に立ち、ホメロスは僕等を、愚かな道化師を見るように見下げる。
「唾棄すべき悪徳とはいえ、何と猛々しい炎か……万が一触れられれば、此方も焼かれてしまうか」
顎髭を撫でながらそんな事を呟き、空白の目が、僕に向いた。
瞬間、ぞっと、魂が身体から引き剥がされたような気配。
僕という存在を値踏みされているかのよう。凡百のそれと同じ人間だと断じられているような無力感が、全身に圧し掛かる。
「弱く、ありふれた魔力だ。隣の獣に比べれば、矮小と言っていい。だが希有な熱が在るな……それは、恋か?」
「っ……」
空洞の目。いや、ともすればそれは宝具かもしれなかった。神秘を見るために昇華された彼の視界は、僕の心の中をガラスのように透かし見て、せせら笑う。
「情欲とも、慰めとも違う、清く澄んだ熱だ……しかし、紛い物の魂との恋慕とは。長き衰退で、人の心はこうも爛れたか」
「……侮辱もいい加減にしろ。彼女は、騎士だ。魂の燃える限り生き続けた、人類の誇る英雄だ」
僕は呻くモードレッドの頭を抱き寄せ、叛逆の騎士の代わりに、神秘の双眸を睨み返す。
超常の神気に竦みながらも、視線だけは外さない。
怯む訳にはいかなかった。
どんな英霊が相手と言えど、相棒を……愛する人を、笑う事だけは許さない。
「彼女はこの世界に生きて……必死に生きて、戦って、歴史に爪痕を残したんだ。その有り様は誰にも否定させない。誇り高き英雄を、僕のパートナーを愚弄する事は、絶対に許さない!」
彼女のマスターとして、モードレッドを証明する相棒として、歴史の語り手に真っ向から対峙する。
ほう、と息を飲む音がする。
僕の臆病な反抗を、ホメロスは静かに聞いていた。顎髭を撫で、物憂げに何かを思考する。
「人類の誇る、英雄……そう、名乗るか。人形と凡夫の一組が、人の歴史を誇示するか」
僕の言葉が、彼の心の琴線を弾いたらしい。ホメロスの大柄な身体に満ち満ちていた覇気が、次第に霧散していくのを感じる。
そうして彼は、戦慄する僕に向けて、泰然と、自らの言葉が神の掲示であるかの如く、言った。
「二日だけ、猶予をやろう」
「なんだと……」
「貴様等は、確かに歴史に刻まれし英雄である。此度の聖杯戦争の最後の敵であり、我が大義に立ちはだかる最後の人類である。ならばこそ、我の全てを賭して戦うべき相手に値する」
言い終わる頃には、ホメロスの身から闘志は消えていた。
逞しい腕を持ち上げ、僕等を指さす。
「明後日に、この下らぬ世界は終焉を迎える。我は貴様等を滅却しよう。完膚無きまでに否定しよう」
唇を吊り上げ、ぞっとする笑みを溢す。
さながら世界を洪水で埋める神の如き、超然とした残忍さ。人ならざる冷笑。
脳裏に焼き付く笑みを讃え、ホメロスは法衣を翻し、僕等に背を向ける。
「そうして、証明しようではないか……人は愚かな存在だと。人類史には、何の価値もなかったのだ、とな」
「ッまち、やがれ……!」
僕の腕の中で、モードレッドが怒りを露わに呻く。
ホメロスは足を止めようとすらしなかった。法衣をはためかせて数歩進んだ彼は、一瞬でその姿を掻き消した。
絶対絶命の窮地と思われた戦いは、始まりと同様に、嘘のように唐突に、僕達から遠ざかっていった。
秋の森に、再び静寂が訪れる。冷たく寂しい風が、傷だらけの僕等に吹き曝す。
「……な、んだよ。一体……」
敵の消え失せた方向を眺め、モードレッドはか細く呻く。
そうして彼女は、度重なる激痛と狂躁の果てに、僕の腕の中で事切れたように意識を手放した。限界をとうに越えていた彼女は、ぐったりと項垂れて、死んだように眠りにつく。
寂寥とした風が吹き、森がざぁっとおどろおどろしいざわめきを立てて、蹲る僕等を僕等を冷ややかに取り囲んでいた。