もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
ざぁっ――と、風が走り抜ける。
木々を縫い吹き抜ける風が、紅葉を枝から千切り取り、吹雪になって飛んでいく。
黄色、橙、紅。一年で最も鮮やかに彩られる、冬を目前とした木々達。しかしそれは、枯れ落ちる運命を目前にした、臨終間際の最後の煌めきだ。地面には既に死に絶えた枯れ葉が、乾ききった茶色い肌を腐葉土に沈めている。
美しく、鮮やかで、それ以上に静まり返り死の予兆に満ちた森。
再び風が吹き荒び、枯れ葉が飛んでいく。
冷え切った風が通り過ぎた時、そこには白い法衣を纏う老爺――ホメロスが佇んでいた。
幻の如く現れたホメロスは、ついと顔を持ち上げ、潰れて空洞になった目で空を仰ぎ見る。
深く息を吸い込み、嘆息として吐き出す。
「……虚無にして、煩雑為り」
語り部は視る。神の視点で以て、この世界を卑下する。
「停滞し淀む空気。神秘は消え失せ、命の価値は分散し、薄弱と化している……森は神性を失い、ただ在るばかりである。命は物質同様に無価値である」
蕩々と紡ぐ。心に感じた情動を、悲哀を、言葉という名の憐憫に変える。
「人間……人間」
誰もいない森。あるがままの青い空を仰ぎ見て、それでもホメロスは人間と言葉を紡ぐ。盲目のその目で空を見上げ、美しい青の代わりに何を見ているのかは、彼以外には知る由もない。
「真に、五月蠅き、人間也や」
ホメロスは眉間に皺を寄せ、忌々しげに喉を鳴らした。彼以外には理解できぬ憎悪を滾らせる人間を、明らかに目にして。辺境のこの地でさえ逃れられないのかと憤慨するように。
「喧しく、雑多な種族。忘却と傲慢を振りかざし、この世を我が物同然に貪り、跋扈する……稲子と何も代わりはしない。この世は既に、食い尽くされた死地であるか」
歴史を紡ぐ大いなる言葉で、彼は唾棄する。魔力の籠もっていないただの言葉でありながら、周囲の木々をざわめき戦かせるせるほどに、彼の憎悪は本物であった。
「やはり、揺るがぬ。決意は乱れぬ。この時代に生まれ落ち、この眼を以て見てしまった以上、望みを果たさぬ道理はない」
常人には計り知れぬ憎悪を胸に、ホメロスは唸る。詳らかな言葉として語り、紡ぎ、より確固とした意志として胸に刻む。
冷たい風が吹き荒び、ホメロスの法衣をはためかせる。森達がまるでこの場から逃げ去りたいとでも言うように枝葉を揺らし、落ち葉を吹き飛ばしていく。
その風の中。落ち葉の影から浮かび上がるようにして、一人の男が現れた。
フードを目深に被り、表情は見えない。灰色の外套は紅葉の舞う森の中では逆に目立つはずなのに、その存在は今にも森の雑踏に紛れて消えるのではと思わせられるほどに朧気だ。幽霊のような出で立ちの中で、首から皮ベルトで提げられた双眼鏡が、レンズで陽光を照り返し、唯一現実味のある存在感を放っている。
今回の聖杯戦争の管理者は、静かな足取りでホメロスまで歩み寄ると、彼の前に静かに膝を着き、頭を垂れた。
「……面を上げよ」
「……はい」
ホメロスの言葉に恭しく頷き、管理者は静かにフードを外す。不健康そうな痩せぎすの顔が、佇むホメロスの顔を見上げる。
その顔は既に正気を失っていた。顔面は蒼白を通り越して土気色だ。眼窩は骨格を浮き彫りにするほどに落ち窪み、その中で瞳だけが、薬物を投与されたように爛々と光輝いている。
世の中の何もかもに絶望し、打ち拉がれ、その中でたった一つ信じる物を見つけた……そんな顔で、管理者はホメロスを見上げる。
「彼奴等は、どうだ」
「住まいより、動く様子を見せません。最後の時を無作為に過ごすと決めたようです」
管理者は明朗に応える。ホメロス一人に注がれる視線は、聖杯戦争において管理者は中立であるべきという原則さえ忘れているらしかった。彼の脳内には、既にホメロスと、彼の言葉に対する崇拝と信奉しか残っていない。
「そうか……元より分かってはいたが、やはり杞憂であったか」
「何やら小道具を用意しているようですが……妨害は、貴方の威光を損なうだけでしょう。勝利は揺るぎません。貴方は、ただ座してお待ち頂ければ十分かと」
神として、という言葉を待たずに管理者の恍惚とした表情から顔を外し、ホメロスはまた虚空を見る。蟻の行列を見るかのような無感動さで、世界の全てを睥睨する。
「虚無にして、煩雑。価値も、輝きも無き世である……人間はやはり愚かであった。過ちの上に蔓延る世は、修繕するべきである」
そう言葉を結んだホメロスは、未だ自分を見上げる管理者の、自分より遙かに盲目的な目を見据え、言った。
「ご苦労だった」
「っ……は」
「掃いて捨てる愚かな人類の中、貴様は正しき宿命、贖罪の為に立ち上がった……無価値たる世で、貴様は真の価値を見極める審美眼を有していた」
既に髑髏のようだった管理者の目がきゅうと窄んで、ふるふると震える。ざぁと風が吹き、葉の隙間から差し込んだ陽光が、彼の見上げる頭上、老爺の背中から後光となって差し込む。
「大義であった……貴様という存在は、後の世、我が言によって紡がれよう」
「っは……ははは、はぁぁ……!」
この瞬間、まるで人生の全てが報われたとでも言うように、管理者は喉を震わせ、歓喜の涙を溢れさせた。
陶酔し、眼前の老爺以外何も映さなくなった目を、果たして審美眼と呼ぶ物か……そんな単純な疑問さえ挟めない。彼の脳は既に考える事を放棄している。
彼は喜びに打ち震えながら、わなわなと腕を翳し、首に掛かる、双眼鏡の革ベルトを手に取った。
「全ては、貴方様の為……この世の、正しき姿のため――」
譫言のようにそう呟き、管理者はベルトを握り締める。
骨張った腕に血管を浮き上がらせ、思い切り左右に引っ張った。
ジャッ――と。
竹箒で砂利を払うような音が、秋の森に響き渡る。
それは、人工皮革のベルトが、管理者の後ろ首の外套に擦れた音だ。ベルトのギザギザの表面には、ほつれた灰色の毛糸がこびり付き、凄まじい摩擦に細い白煙を立ち上らせている。
続けざまに、管理者はベルトを引く。
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッジャッジャッジャッジャッジャッ。
何度も何度も、何度も何度も。交互にベルトを動かす。後ろ首に押しつけて、勢いよく。
比喩でも何でもなく、ヤスリをかけるように。
後ろ首のフードが、摩擦熱で発火寸前に加熱される。
灰色の布が千切れてボロボロになり、とうとう擦り切れた。剥き出しになった皮膚にぐっと押しつけて、管理者は思い切りベルトを引く。
今度はびゃっ、と水っぽい音がした。凄まじい摩擦に皮膚が千切れて、大地に落ちた落葉にそれよりも尚鮮やかな鮮血が散る。
管理者はベルトを動かし続ける。鋸のように交互に交互に動かし、じゃりじゃりと首を抉り取っていく。
木屑のように飛び散った肉片がベルトや方々の木々にこびり付く。無理矢理引き伸ばされて千切れた血管が、皮膚から剥がれてぶらりと垂れる。ぼどぼどと落ちる鮮血が足下に広がり、空気に鉄と死の香りを撒き散らす。
ベルトが頸骨に達し抉れた断面が見えるほどになっても尚、手は止まらない。暴走する機械のように腕が交互に走る。肉片と血飛沫を撒き散らし、頸骨をゴリゴリと削り、自らの首を抉り取っていく。
その空気を吸い込み、ホメロスは微笑む。今まさに激烈な自殺を続ける管理者に目もくれずに、泰然と頭上を見上げた。
「宿願は明日、遂げられる。穢らわしきこの世を滅却し――誉れ高き神々の威光を、この世に取り戻すのだ」
彼にしか見えない何かを仰いで、ホメロスはそう告げる。
崩れ落ちた肉塊が奏でるぐしゃりという音も、転がった首が足下に当たる感触も、彼にとっては、今まさに見据える神々しき光景の一遍の価値にも満たない、些末な塵に過ぎなかった。