もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
彼女が愛を囁いてくれている間から、最後の朝を迎えられない事には気付いていた。
同じベッドに潜り込んで、互いの安らかな顔を網膜に焼き付け、最後の時を慈しむ――そうしている間にも、無遠慮な視線は僕に突き立ち、強烈な存在感を放ち続けていた。
モードレッドの瞼が閉じ、吐息が安らかな物に変わり、重ねていた手の力が抜ける。彼女が眠りに落ちると、視線はいよいよ遠慮無く、世界そのものに見つめられるような迫力で僕に刺さる。
「……モードレッド」
僅かに強ばった声で、彼女を呼ぶ。
返事はない。いや、それどころか、重ねている手から、彼女の体温や触感を感じる事ができない。
触れているのに、触れていない。
まるで進み行く時間から、僕だけ取り残されているようだ。
視線は今も、彼方から強烈な強さで突き立てられ、鳥肌が立つような居心地の悪さを与えてくる。
目的は、あくまで僕らしい。
「……紀元前のギリシャには、恋人の間には割り込むなって常識は無かったのかな」
はぁ、と溜息。
聖杯戦争だから当然とはいえ、僕には最期の時を選ぶ資格さえ与えられないらしい。
身じろぎし、モードレッドの手から自分の手を抜く。シーツにぽすんと投げ出された手が、ほんの少し、名残惜しそうに動く。
モードレッドの安らかな寝顔。長い睫毛、桜色の唇を少しだけ開き、すうすうと規則的な寝息を立てている。
そのあどけない寝顔を最後に見つめて、僕は彼女の額に、そっと口づけした。
「大好きだよ、モードレッド」
唇には、なんの感触も伝わらなかった。それでも、気持ちだけは伝わると信じて囁く。
魔力を通し強化したばかりのスコップを握りしめ、用意していた幾つかの心許ない装備を纏い、ドアを開ける。
森の色は一変していた。
つい数時間前、抱き合う僕等を祝福するように輝いていた夜の景色は、今は全てが息を止め、身を潜めるように影を濃くしている。
まるで、この森全体が墓場になったようだ。
家から離れ、緩やかな坂を下った、湖沿いの草原。
奇しくもモードレッドが僕を待っていたのと同じ場所で、ホメロス全盲の瞳を湖に向けて待っていた。
深く皺の刻まれた顔は平静。瞑想をしているような、厳かな気配が漂う。
いかにも余裕に満ち満ちた様子に、僕は肩を竦めてみせた。
「決着は明日の筈だったけど、賢人サマはせっかちなのかい? それとも、戦を前に眠れなくなった、意外と血気盛んな質なのか」
最愛の時間を邪魔された苛立ちも交えて、あえて声を荒げて言う。
ホメロスは応えない。僕の言葉を意にも介さず、隆とした巨体を夜闇に佇ませている。
胃が軋むような静寂の後、ホメロスがついと上を向き、口を開いた。
「我が心は平静である。熱狂も、不安も、有りはしない。志は大河の流れの如く、何人たりとも打ち崩すこと能わず」
「そりゃまた大層な自信だ。うちの相棒の『うるせえ死ね』って声が聞こえてきそうだ」
「もとより、明日開かれるのは戦にあらず。我が大義を示し、愚昧な現在の妄念に別れを告げる、その為の儀礼である」
「愚昧な現在、ね……随分、腹持ちならない様子だ。彼女との関係がずっと続けばいいと思っている、僕とはまるで正反対だ」
敢えて懊悩に、つまらなそうに、背伸びする。その実心臓はバクバクと脈打って、凄まじい緊張で肌が引き裂かれそうだ。
真紅の紋様を讃えたホメロスの目はぴくりともしない。僕の虚勢も、その中の怯えも、下らない物として処理している事が、よく分かる。
「儀礼というなら、尚の事期日は守るべきじゃないのかい? こんな真夜中に行われるのは呪いの儀式か魔女会か、何にせよマトモじゃない物だと思うけれど」
「先ほど述べた通り、此は我と、それに立ちはだかる障害たる英雄の、魂の拮抗である」
そう呟き、ホメロスは初めて僕を向き、瞳を開いた。
自ら抉り抜いたとされる、光を失った、蝋のように白い瞳。
それが僕を捉えた瞬間、怖気が全身を駆け巡った。
いきなり、断崖絶壁に立たされたよう。
ただ視線を向けられただけで、壁際に追い詰められたネズミみたいに足が竦む。
その様子に、ホメロスはやはりと納得し、言う。
「この目で見て、しばし考えたが……此度の戦、やはり貴様は不要である」
「っ……」
「凡庸で、平滑な人生。妥協に溢れた薄弱な魂……誇りを賭けた我が覇道に、貴様のような輩は不純物でしかない」
そう、言い放つ。歴史を作った男の言葉は、物理的な重さすら感じるほどに、別次元の迫力を伴って僕を押し潰してくる。
僕は手にしたスコップを大地に突き刺し、膝を折りそうになる身体に渇を入れる。
「……酷い言われようだね。貴方がそうであるように、僕にだって矜恃がある。勝手に無価値と断じられて強制退場は、納得がいかない」
「貴様の心持ちも、考慮に値しない塵芥である」
「そう言わないでよ。人類史の英雄に、平々凡々と頑張る人間。それなりに現代代表を名乗る資格があると思うけれど」
相手が語り部と言えど、言葉で押し負けてはいけない。相棒である彼女のようにはいかずとも、せめて度胸だけは並び立つよう。僕はぐっと腹に力を込めて、ホメロスに向かい合う。
「平凡なのは自覚している。力だって、貴方やほかの英霊に比べれば塵芥だろうさ……けれど、それなら明日、予定通り掃いて捨てればいいだけの話だろう。貴方の言う通り、塵のように」
「……」
「聖杯戦争の正式な参加者が邪魔者? 意味が分からない。一体、貴方が明日の戦に賭ける志とは何だ? 歴史の始まりである貴方が、どうして人類史を忌み嫌う」
そう、問いかける。
ホメロスの木皮のような唇が僅かに開き、呻きにも似た吐息が顎髭を揺らした。
視線に敵意と、憐憫が混じる。自覚すらできない僕の愚かさを、哀れむように。
「――かつて、世界は神々の物だった」
そうして彼が語り出したのは、彼の作品にも描かれた神代の話。
大いなる戦の話。神々が地上を奔り、空を泳いだ、豊かで神々しき世界の話。
「しかしある時――今より数千年の昔。神は突如として、この世界から退却した。凜々しく猛々しかった彼等、神聖なる全ての存在は、一斉に箱庭としていたこの世界から離反したのだ」
敵意を忘れそうな程に美しい、低く透き通るバリトンの声。思わず聞き惚れそうになる内心をぐっと押し殺し、僕は頷く。
神々の退去。それは魔術師達の間でも未だ原因不明とされる世界の転換点の一つだ。神霊達はこの世界よりも遙か上層へと退却し、その境目は固く閉ざされ、隔絶されている。
今では少ない文献や魔術的証拠から、大いなる存在がこの地にいたと推測できる程度。
ホメロスの綴った『イーリアス』『オデュッセイア』も、その神代の存在を裏付ける証拠の一つだ。彼の言葉の一遍一遍には、情景を思い起こさせる緻密さと、何より彼自身の神に対する深い信奉を感じさせる。
「……神々の存在を、後世に伝えようとしていたんじゃないのか?」
「否だ。我は、神々を繋ぎ止めようとしたのだ。神々の退去の後、人はあろう事か神を忘却しようとしていた。あれほど素晴らしかった世が、人々の愚かさによって風化し、神との繋がりを閉ざさんとしていた」
無数に縒り合わさった人の心は、強力な魔術的作用を生み出す。英霊が形を成すのもまた、過去に思いを馳せる人の心があるからこそだ。
しかし、信仰にも根拠が居る。神を信じられなければ、祈りを向ける先は見つからない。ましてホメロスが始めるまで『伝承』というものは存在しなかった。情報は瞬く間に風化し、人々の記憶から消えようとしていたに違いない。
「我は、愚かにも忘れ行く人間に、思い出させようとしていた……この世は神の物である。貴様等は神を信奉する事こそ命題とする生命なのだと。だが奴等は、我の思うよりも遙かに愚鈍で蒙昧な、塵芥だった」
ホメロスは語った。仔細の漏れなく詳らかに、色褪せること無く絢爛に、今まさにそこに在るかのように圧倒的に、言葉を紡いだ。
けれど、それを聞いた人々が放った言葉は、彼の期待する信奉とは、全く異なる酷いものだった。
――へえ……そいつは、面白い『作り話』だ。
――そういう世界が、あったらいいねぇ。
――大層面白い夢物語だ! 酒の肴にゃうってつけだぁ!
「彼奴等は、我が言を絵空事と断じたのだ――自らの愚かさを省みる事もせず、神々を空想の産物と誤謬した」
ホメロスは初めて、ギリと歯を噛み、心の底からの憎悪を滲ませた。
彼が過ちに気付いた時には、もう遅かった。彼の言葉は伝播し、愉快な空想劇として人々の間で面白がられ、黒死病のように速く、広く、取り返しの付かない勢いで流布していった。
結果として、それらは神話――物語の一つとして形式づけられた。
神々の名は後世には残ったが、それはあくまで登場人物として。
魔術師を除き、人間の大半は、彼等がかつて本当に存在していたなど露とも信じないだろう。
さらにホメロスの語りは、人に『伝承』という技術を教え、『歴史』を誕生させた。
人類は、本当の真実……全ての始まりを誤解したまま、何千年もの間過去を堆積させてきた。
だからこそホメロスは、人類史を憎む。神々の世を歴史の澱の底に踏み躙る、人類そのものを憎んでいる。
「……」
それを理解し、僕はぞっと、背筋を慄然とさせた。
血管がきゅっと収縮し、青ざめずにはいられない。
分かってしまった。この男の抱く大義が、一体何なのか。
仮に僕等が敗北した、その先に待つ物が、どれほどの地獄かを。
「じゃあ……貴方が聖杯に望む事は――」
「然り。我が望むのは
確固たる声で宣言され、僕は驚愕に呼吸を忘れる。
何秒も経ってようやく、僕は言葉を絞り出した。途方もない危機感に、酸素不足に喘ぐように唇を戦慄かせながら。
「無理だ……不可能だよ! 全人類の認識を改竄するなんてしたら、確実に深刻な後遺症が残る。そうじゃなくても、神代のテクスチャを無理矢理に貼れば、世界に何が起こるか分かった物じゃない!」
願望機たる聖杯が、果たしてどのようにホメロスの願いを叶えようとするのかは分からない。
だが、それが今の時代、僕等の歴史を根底から覆す現象になるのは確実だ。
言葉や書物や伝承で過去を積み重ねて発展してきた、今や百億に昇る人類が、一斉に寄る辺を失い、数千年も昔の世界に叩き込まれるのだ。
「大惨事になるぞ! 貴方は自分の過ちを正すために、全人類を破滅させる気なのか!?」
「だから言ったのだ……神の介在しないこの世に、なんの価値もありはしないのだとな」
「っ……!」
ホメロスの言葉は明瞭で、一切の疑いを挟まない。
言葉に籠もる刃のような冷たさで、強引に理解させられる。分かってしまう。彼は本当に、この世界を過ちだと確信し、廃棄する事に何の躊躇いも挟んでいないのだと。
言葉も出ない。その戦慄を光無い目で見据え、ホメロスは言う。
「貴様も、その耳と心で理解した筈だ。我が成すべき宿業の大きさと、明日行われる戦の重要性を。愚かな蟻の一粒が割り込むなど、烏滸がましいにも程があるとな」
今やホメロスは、僕に向ける感情を隠しもしない。
憐憫、侮辱、軽蔑――僕は愚かな人間の一人。信じる事をやめた背信者であり、誤った歴史に立つ有象無象の一粒。
それ以上の価値を見出さないからこそ、彼は今ここに来たのだ。
不要な物は排除する。それこそ人を招く前に、客間を掃除するように。
要するに、僕はゴミだと言う事だ。何の価値も無い屑だと言う訳だ。
歴史の創始者たる偉人から放たれる『不要』の言葉は、強烈に僕の胸を抉り抜いた。
人の身には余りある程に応え、膝を折ってしまいそうになる。
「……はは」
けれど、応えるだけだ。
僕は顔を上げ、冷笑で以て、ホメロスの厳めしい眉を潜めさせた。
「何が可笑しい」
「可笑しいに決まってるよ。参ったな、僕等はあくまで自分たちの誇りの為に戦うつもりだったのに、負けたら世界は破滅ときた」
懊悩に言葉を紡ぐ。
声がスルリと喉を抜けていく。まさしく喉のつっかえが取れたようなその変化は、僕の心が、いよいよ覚悟を固めたからだろう。
唇を緩く綻ばせてホメロスを見る。盲目に僕の顔は映らなくても、僕の余裕は彼に不可思議なものとして伝わる事だろう。
「実はね、可能性の一つとして、勝ちを譲る事も考えていたんだ。モードレッドが苦しまず、穢されず、全てが穏便に済むのならね」
モードレッドの両腕の傷の正体は、ホメロスの言葉によって歴史を改竄させられる事で発生したスキル『無辜の怪物』だった。
それなら、ホメロスの能力次第で、モードレッドの腕は元に戻せる。霊基まで届かせず、彼女をモードレッドのままで英霊の座に退却させられる。
僕は最早、聖杯戦争に興味はない。何に変えても、彼女が無事で居てくれるならそれで良かった。
もしホメロスが、勝ちを譲る代わりに彼女を元に戻すと約束すれば――それがどれだけ彼女に対する侮辱になるかを理解しながらも――僕は応じただろう。必要とあれば、自分の命だって差し出したはずだ。
「けれど、甘い考えだった。僕等が負ければ、この世界も、彼女も含めた歴史自体が破壊される……それを聞いて、もう黙ってはいられない」
決意を籠めた言葉を、ホメロスは失笑で応じた。明らかな侮蔑を籠めて、僕の魂を直接見下げる。
「黙ってはいられない? 戯言を。貴様はここで物言えぬ死体に変わるというのに、随分と大言を吐く」
「ただでは殺されないよ。彼女も、彼女に付き従っていた僕も」
「我が覇道に、既に障害は無い。模造品の泥人形など、我が言で容易く――」
「盲目の爺は、人を見くびるのも大概上手だなぁ……ほざきやがれよ、クソジジイが」
突然の僕の豹変に、ホメロスは若干の狼狽えに顔色を変える。
それは自分の無力に嘆き失望を続けた僕の、初めての純粋な怒りだった。
「忠告してやるよ、盲人……あまり僕等を、人間を甘く見ない方がいい。僕等は困難を乗り越え、意志を繋ぎ、泥臭く藻掻いて何千年もの時を歩み続けてきたんだ。その価値は、決して一笑に伏して、否定できる物じゃあない」
押し黙る老爺に向けて、僕は初めて嘲笑を返す。今までコケにされた意趣返しとして、大げさに鼻を鳴らす。
「目を穿ち、自ら光を奪った事で、君は本当に盲目になったんだね。過去に縛られ、人間の良い部分、輝かしき姿を目にできないとは、本当に哀れなジジイだ」
「っ……貴様」
「はは、怒ったって事は、案外図星かな? 君は最初から人間を愚昧だと決めつけている。神がいなくなった先の日々を見ようとしていない。神をも見通す千里眼を持ちながら、人間から目を背けるなんて! ずいぶん滑稽な盲目じゃないか!」
僕は声を張り上げ、古代の英雄を挑発する。威圧に負けないように虚勢を張って。ずっと隣にいてくれた、彼女の気高く、何となしに荒っぽい居丈高を間借りする気持ちで。
ホメロスの深く皺の刻まれた強面に、烈火の如き憤怒が宿った。
「ッ神々の崇高さを忘却した罪人が、我が目的を侮辱するか!」
「予言してやるよ、ホメロス。お前は人間を甘く見ている。数千年をその足で歩き続けた、泥臭く底知れない執念を嫌悪している。その油断が、君の胸を貫き、敗北をもたらすだろう」
「騙るな! 神々を忘れた愚鈍な人間風情がぁッ!」
「それだよ。その傲慢のお陰で君は、
ホメロスの表情が、今度こそ凍り付いた。
呆とした老顔に、僕はとびきりの嘲笑をくれてやる。
「貴様、何を――」
「愚かな人間の、泥臭い悪あがき――ただの
言い放ち、僕は堪え続けた叛逆の感情と共に、ずっと絞り続けたゴム紐を解き放った。
握っていたのは、何の変哲もないただの小石。
魔力もない下らないそれは――けれど神霊を見る事に特化したホメロスの千里眼にとっては、何よりも強力な不可視の弓として機能する。
音もなく高速で飛翔した石は、とっくに手遅れな戦慄に強ばるホメロスの、皺だらけの眉間を過たずに貫いた。
「がっ――」
ずっと高慢で余裕を放っていたホメロスの、初めての呻き声。
不意打ちによろめくその一瞬を、僕は決して逃しはしない。僕は懐から取り出した魔石を握り、思い切り地面に叩き付けた。
敢えて不安定に調整した魔力が爆ぜ、耳を劈く爆音を産む。僕でさえ鼓膜に激痛を感じる程の音が、ホメロスの聴覚に頼る世界を真っ白に塗り潰し、凄まじい衝撃で脳髄を殴りつけた。
よろめき多々良を踏むホメロス。僕が生み出せる唯一無二の隙を突き、一気呵成に距離を詰める。
「ぐおおおお!? き、さまぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!」
「窮鼠猫を噛むってね! 現代の教訓をその身に刻んで消えろ、ホメロス!」
そして僕は、命を燃やす全身全霊で以て、スコップをホメロスに叩きつけた。
土を彫り続けた使い古された鋭利な先端が、叛逆の刃として、奴の肩に深々と抉る。
肉を食い破り、鎖骨を砕く。
銀色の月夜に真っ赤な血飛沫が吹き上がり、初めて人を切り裂く感触に僕の腕が震える。
やった――確かな手応えに確信を抱いたのも束の間。
次の瞬間、魂の引っこ抜けるような衝撃と共に、僕は夜空を飛んでいた。
何が起こったか、その疑問すら、吹き飛ぶ速度に追いつけない。
凄まじい勢いで大地に墜落。地面を何度もバウンドし、次に意識が戻ってきた時には、僕は顔面を大地に埋め、口に飛び込んだ土を噛みしめていた。
「っ……ご、っほ……!?」
力なく咳き込む。吐き出た胃液に、紅い鮮血が混じる。
骨の折れている気配。内臓のどこかが破裂しているかもしれない。腹がCGか何かのようにべっこりとヘコみ、遅れて焼き鏝を押し当てられたような熱と痛みを感じる。
「ぐ、げぇ……く、そ。殴られただけで、これかよ……!」
腹にめり込んだ痛みと圧迫感で、ようよう状況を理解する。
たった一発の拳で、僕は瀕死にまで追い込まれていた。止まらない血反吐を溢し、痙攣で身体に力が入らない。
これが、サーヴァント。人の理を容易く凌駕する英雄達。ただの端魔術師が相手を務めるなど、元より不可能な相手。
ホメロスは肩に深々と食い込んだスコップを引き抜いた。鉄の穂先がべっとりと付着した血を滴らせ、抉り抜かれた肩からは今も鮮血が噴水のように吹き出している。
「ぐ、ぬぅぅぅ! はぁ……愚者が、生意気にも我を謀るとはな」
荒げた吐息は憤怒に燃えている。鮮血と激痛は怒りに転換し、隆々とした巨体は、語り部としてではない、神の生き写しかのような雄々しき姿として僕を圧倒させる。
「この我が、まさか凡夫に諭されるとは。無二の経験。到底受け入れられぬ恥辱であったぞ」
怒りに滾るホメロスが、重々しい足取りで距離を詰めてくる。本能が全力で警鐘を鳴らしていたが、僕の身体は未だに腹に喰らった一発に打ち震え、自由を放棄させている。
何度起き上がろうとしても、腕に力が入らない。痛みと衝撃で脳が揺らぐ。
芋虫のように地面を這う僕の背を、ホメロスの大きな足が踏み付けた。
ゆっくり、体重を籠めて踏み付けられる。メキメキと背骨が悲鳴を上げ、爆ぜた内臓が圧迫に負け、内容物が血反吐になって喉から吹き出てくる。
「ご、ほぉ……!」
「窮鼠か――煩わしい。であれば鼠らしく無感動に、挽き潰してくれる」
肺が押し潰され、喉が血反吐に埋め尽くされ、呼吸ができない。
けれど、ホメロスがスコップの背で僕の手首を叩き潰した瞬間、僕の喉からは血痰と共に千切れるような悲鳴が吹き出した。
「があああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
どちゅ、という無慈悲な音が魂の奥底まで響く。全力で振り下ろされた鉄の穂先は手指の骨を容易く砕け散らせ、皮膚をゴム風船のように破裂させた。
捲れ上がった大地に、僕の鮮血が花火のように飛び散る。ホメロスは穂先を踏み付け、とうに砕け散った僕の拳を更に挽き潰す。
「ぎっ!? ぐううううぅぅぅ!! うわああああああああああ!!」
「地に伏し、腕を潰され、醜い悲鳴で世を穢す――身の程を辨えさせるには、相応しい懲罰である」
全身の神経を火あぶりにされるような凄まじい痛みと、語り部による冷徹な侮辱。視界が明滅し、脳がミキサーにかけられるようにぐしゃぐしゃにされていく。
最早状況は既に決していた。ホメロスがもう少し足に力を籠めれば、僕の背骨は砕け、内蔵を破裂させて息絶える事だろう。
圧倒的な死の気配。恐怖が、僕を見下ろしている。
「今すぐ詫び、土を喰いながら許しを請えば、このまま楽にしてやろう。鼠ではなく、せめて人として殺してやるが、如何か?」
「が、か……は、かははっ」
その絶望を前に、僕は笑った。踏みにじるホメロスが、とうとうイカれたかという侮蔑を露わに、冷たい視線を寄越す。
轢き潰された腕に力を籠める。とうに人の形など失った手に全神経を総動員させ、振り下ろされたスコップをカタカタと揺らす。
「こんなのが……こんな痛みが、懲罰になるものか。僕の相棒は、これ以上の絶望と喪失の中で、必死に生き続けていたんだ。彼女の屈辱に比べれば、片手を潰されたぐらい屁でもない!」
ブルブルと痙攣する唇を必至に吊り上げ、笑ってみせる。どこまでも得意気に、頭上の神気取りの老爺を嘲笑うべく。
「決して降参などしない。胸に燃える怒りを絶やしはしない。お前の巫山戯た理想に屈したりしない! 今に見ていろ。僕の相棒が、必ずや貴様の耄碌した頭蓋を叩き割って、その馬鹿げた空想を――」
言いかけた言葉は、吹き出した血に喉を埋められる事で、強制的に塞がれた。
ホメロスが踏み付ける足に力を籠め、肋骨と共に肺がぺしゃんこに押し潰される。
「っ、ご……!」
空気が喉を通らない。辛うじて出たか細い悲鳴も、血の泡を吹き出すだけ。
英霊の圧倒的な力によって、身体が紙細工のように潰され、蹂躙されていく。
それでも、瞳に宿した決意だけは揺るがせない。
決して屈さない。
例え無力で愚図な、塵芥も同然な一介の凡人だとしても。
歴史に名を残す事も無い、何の能も知恵もない凡夫だとしても。
僕は、彼女を信じているから。
マスターとして、一人の男として、僕は彼女の勝利を確信している。
その、胸の内に火を灯す決して折れない志を見透かし、ホメロスは僅かに唸る。
「愛か、愛ゆえの盲信だけで、我が言を撥ね除けるか。一人の妃の為に戦乱を巻き起こしたメネラオスが如く。ヘクトールへの忠を為したパリスが如く、勇士の帰りを待ち続けたペネロペイアの如く……成程。煩わしいが、その薄弱な心の頑強さだけは認めよう」
だが、と口添えて、ホメロスはまた僕の背を踏み付けた。
「神の居ぬこの世の愛など、持つ手のない宝剣と同様、空虚ながらんどうに過ぎぬのだ」
ざわ、と空気が揺らぐ。僕の頭上、ホメロスの霊基が、凄まじいエネルギーに焔の如く滾るのを感じる。
為す術などない。掃いて捨てられる小石のように、言葉は撥ね除けられない。
そしてホメロスは、僕を徹底的に冷笑するとどめの一言を、神の鉄槌の如く振り下ろした。
「故に、貴様に捧げる言葉は一つで足りる――
語り部の言葉に魔力が籠もり、刃になって、僕の魂を確実に貫く。
痛みと屈辱に遠ざかっていた意識。そこに死よりも暗く混沌とした闇が押し寄せる。足先から蔦を這わせるように身体を這い上がり、無数の蛆に食い尽くされるように感覚が蝕まれていく。
歴史を紡ぐ彼の言葉が、事実よりも強い真実として、僕を上書きしていく。
消えていく。無価値だった僕の人生が、本当の無にされていく。
余りにも広大で空虚な無空に、僕が分解されていく。
「……もー、どれっど……」
僕は辛うじて残った理性で、彼女の事を思う。
囁く口に浮かべるのは、微笑。
大丈夫だよ、モードレッド。
どれだけ痛くても、どれだけ恐ろしくても、大丈夫。
僕には、君がいる。
君を愛している。
君の勝利を信じている。
「……、…………」
意識に闇が這い、視界が夜よりも深い黒に塗り潰されていく。
身体が、魂が、分解され、焼却され、灰のように細かな塵になって虚無に溶けていく。
その一縷が潰えるまで、僕は彼女を信じ続けた。
愛する彼女の事を願い続けた。
たとえどれだけ魂を砕かれ、虚空にばら蒔かれたとしても、この心だけは、必ず彼女に繋がると信じて。
一途に信じるその先に、僕等が願い続けた未来が広がっていると信じて。
君を愛している。
君を信じている。
だから、だから。
「……がんばれ、モードレッド」
最期にそう呟いた僕の唇が塵に代わり、僕の意識は夜空にばら蒔かれる。
そうして僕は、無意味で無価値な、本当の闇へと叩き落された。
お待たせしました。最後の戦い、開幕です。
後は駆け抜けるのみです。
お付き合いよろしくお願いいたします。
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