もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
一体、どれだけ剣を交えた事だろう。
時間すれば僅か十分少々。
その間に賭けた命の数は――もう、数え切れない。
「上等、上等! そおら、まだまだ、もっと速くなるぞ!」
「ッ――!」
一秒を何倍にも引き延ばした、達人の境地。
その連続する刹那の一瞬毎に、致命の一撃が迫る。
突き出された槍を、剣で跳ね上げる。距離を取って放たれる神速の突貫は、魔力放出も使って跳ぶ事で辛うじて射線から外れる。
掠めただけでも鎧を砕き割るだろう、最強の英霊が持つ宝具。それが一つ息を吸う度に、両手の数じゃ足りない死の驚異になってオレに襲いかかる。鋼を打ち鳴らす度に飛び散る火花が、ストロボのように眩しく瞬く。
「っが、ああぁぁぁ! がぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ははっ、まだ食らい付くとは見上げた根性だ! だがしかし、痩せ我慢だけじゃオレは越えられんぞ!」
一秒も緩めず攻勢を続けるアキレウスは、ますます笑みを強烈なものにし、槍を振るう手を奔らせる。
止む事のない警鐘が頭を埋め尽くし、張り詰め続ける戦局に精神がみるみる擦り切れていく。思考が身体についていけず、頭が爆発しそうに熱くなる。
「まだ、まだ、まだだ! オレを楽しませてくれよなぁぁ、モードレッド!」
スポーツでも嗜むように笑い、アキレウスが再度突貫。
槍を振るい、オレの握るクラレントと火花を散らし――次の瞬間、槍だけを残し姿が消える。
高速で大地を駆ける擦過音は、オレの後方。
振り向けば、姿勢低く、徒手空拳で迫る英雄の姿。
「何でもアリが戦場だ! その腕一本、貰い受ける!」
吼え立ち、アキレウスの両手が、蛇のようにオレの左腕に絡みつく。
組み倒し、砕かれる――その理解に脳が追いつくより速く、オレの本能が脚に魔力を纏わせた。
オレは大地を爆発させ、技を仕掛けるアキレウスごと、大砲のように宙を飛ぶ。驚きを浮かべた彼の顔に、みるみる喜色が満ちていく。
「はははは、さすが俺が認めた相手だ。あらゆる手を尽くしてこそ戦いは楽し――」
「らあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
その愉快げな口上を、オレの咆哮が塗り潰す。
腹を貫くべく突き出したクラレントを、アキレウスは絡めていた腕を離す事で難なく回避。
「さっきから喧しいな。狂い、獣になるんじゃあない! この気付けの一発で、目を覚ませ!」
返す刀で振り下ろされた踵が、オレの兜を貫いた。
金属の引き裂けるけたたましい音。脳味噌が飛び出る程の衝撃。銀の破片を撒き散らしながら、オレは盛大に大地に墜落する。
砕き割れた兜から、乾いた風が吹き込んでくる。舞い散る砂塵が顔にこびり付き、べっとりと肌に塗りたくられる。
衝撃で巻き上がった砂塵が、視界を茶色に埋めている。
遠くで、軽やかに降り立つ気配。アキレウスの、消耗の全く見られない闘志が、オレに吹き付けられる。
アキレウスは槍を手に取り、ヴンと一振り。視界を覆っていた砂塵が吹き飛ばされていく。
「貴様の闘志を感じるぞ。まさかこれで終わりじゃないだろう? まだまだ、オレを楽しませ……て……」
アキレウスの声が、途中で搔き消える。
彼が浮かべていた勇猛な笑みは、砂塵が晴れ、オレの顔を認めた瞬間に、蝋録の火のように消え失せた。
自分が何を見ているのか、上手く理解しきれない。英雄の顔には、そんな困惑がありありと浮かんでいる。
奴の目にオレは、まるで幽霊か、心の砕けた亡者のように映った事だろう。
兜が砕け、剥き出しになった表情は、もう自分でもどんな顔をしているか分からない。
「お前、女か……いや、それ以上に……なんだ。一体、どういうことだ?」
アキレウスすら目の前の状況を信じられず、言葉を上擦らせる。
それ程に、オレは壊れきっていた。顔も、身体も、ぐずぐずになっていた。
一体どれほど、両手に握った剣を交えた事だろう。
神速の殴打を、小手で受け止めた事だろう。
もはや全ての感覚が、痛みに塗り潰されていた。
剣を振るう度に、殴りつける度に、両腕の傷が激痛でオレを責め立てる。
飽きもせず、容赦なく、神経をずたずたにしてくる。
気合いや根性で、どうにかなる次元じゃない。
それは生きたまま身体を引き裂かれる拷問だった。
一度のミスも許されない戦いの最中、一撃交える度に激痛に魂を断ち切られ、それが無限に続いていく。
ここが地獄だった。
オレは生きながらにして、死よりも酷い苦しみに叩き落とされていた。
「か……ひ、ぁ……」
呼吸の仕方はいの一番に忘れた。
涙はとうに枯れ、見開かれた眼球の奥で痛みが弾け、霞む視界を真っ白に明滅させる。
涎を溢す半開きの口からは、絞め殺される直前の雛鳥のような、か細い声だけが漏れる。
身体が痙攣し、鎧が擦れてチリチリと音がする。指先に辛うじてぶら下げたクラレントが振り子のように、力を無くしたオレの身体ごと揺れる。
神経は焼け爛れている。細胞は粉微塵だ。
痛みだけが、ずっとずっと、ずっとずっと鮮烈だった。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
痛みに脳味噌をすり下ろされて、思考らしい思考はもう残っていない。
随分前から、オレの身体は直感だけで動き、アキレウスの猛攻に追い縋っていた。
「呪いか? 古傷か? ……いや、問題はそこじゃない。馬鹿げているのはお前だ。そんな状態で戦っていたというのか? 心を砕かれて尚、俺と拮抗していたというのか?」
火傷するほどに滾っていた闘志は消え失せ、アキレウスは愕然と、立ち尽くすオレを見る。
数度剣を交えた段階で死にたくなった。
十を越えれば、膝を折って殺してくれと懇願したくなった。
許してくれ、助けてくれ、もう解放してくれ――そんな哀願が浮かんでは、激痛の奔流に押し流されていった。
「ぁ……ぁ……」
けれどオレは。
そんな地獄でも、諦める事だけはしなかった。
執念が、クラレントを握り続けた。
本能が、負ける事を拒否し続けた。
どれだけ心を砕いても、魂までは折れなかった。
「戦える状態じゃない。そうだろう? どうして戦場に来た。何がお前を突き動かす」
「っ……」
死にたいほど苦しいのに、どうしてオレは生きている。
さっさと殺して楽にして欲しいのに、どうしてまだ戦っている。
どうして。何故。
――そんなの、聞くまでもない。
「……大切な、人に。必ず勝つと約束した。オレを人として愛してくれた男に、最後まで共に居ると誓った」
ガチガチと痙攣する歯をギリと噛みしめる。大地を確かに踏みしめる。
「ソイツが、どこか遠くで、オレを待ってくれている。オレの勝利を信じてくれている」
上手く動かない指を曲げ、首に提げた革袋、そこに収まる宝石を握る。
ずたずたにされた心でも、繋がりを感じている。
か細く、あまりに気迫でも、忘れる筈のない魂の繋がり。
彼の魔力が。信頼が。オレに結びついている。
オレの力として、心に宿っている。
オレを待っている。信じてくれている。
「っオレは、マスターの剣だ。アイツに勝利を捧げる英雄だ……! アイツが信じ続けてくれる限り! オレは決して、その想いを裏切らない!」
だからオレは、クラレントを握る。
ガクガクと震える腕に必死に力を籠め、鮮やかに輝く銀色の切先を、アキレウスに向ける。
「オレに幸せを教えてくれた! 生きる喜びを教えてくれた! そんなアイツの人生を、敗北で終わらせて堪るものか! 例えどんな古代の神々が相手だろうが、オレは全員に唾を吐いて、この剣でぶち殺してやるんだよ!!」
オレは吼える。テメエを殺すと宣言する。痛みに狂い、壊れきって、涙すら枯れて揺れる瞳に、それでも決意の炎だけは絶やさずに。
「理解はしきれないが――その意気、闘志、確かに受け取った」
そのオレの心は、英雄の胸を確かに打った。
痛みにふらつき、今にも倒れそうなオレを見る奴の目に、哀れんだり軽んじたりするような色は、もう無い。
「お前に詫びよう。俺はお前の決意を見誤った。戦う資格がないのではと邪推した……大きな誤解だ。お前は確かに、この戦場に参じ、勝利を得るに値する戦士だ」
そうして、アキレウスもまた、己の手にした槍の切先を、オレに向けて突き出す。
「だが! だが! 俺の闘志は決して濁らない! いかな理由があろうとも、勝たねばならぬ執念があろうとも、負ければ全てそこで終わる! それが戦場だ! 俺達が生きる命懸けの舞台だ!」
英雄の言葉が、ビリビリと俺の肌を痺れさせる。翡翠色の魔力が強烈に膨れあがっていく。
「儚く消える命だからこそ、己の全てを賭して戦う、そう在ることこそが命の輝きだ! 勝利し翳す野望も、無残に潰える後悔も、俺は全てを受け止め、誉れとして讃えよう!」
朦朧とした俺の視界が、翡翠に染まる。アキレウスの魂から、まるで太陽が産まれたような強烈なエネルギーを感じる。
「故にこそ! 俺は決して貴様を逃がさない! 俺は俺自身の誇りにかけて、貴様という好敵手を打ち倒そう、モードレッド!」
遠くの空に、ガァンと雷が奔る。
天を割るような雷光の中、猛々しい音を立てて、三頭の馬が引く戦車が降りてきた。
それに飛び乗り、アキレウスが天高く飛翔。夜空を舞う一陣の流星になる。
「クサントス! バリオス! ペーダソス! ――我が世界最速を手向けとし、誇りに思いながら散るが良い!」
「ッ――ふざけんなよ」
流れる星の煌めき。神々しき魔力を前に、俺は全身から赤雷を吹き上げさせる。
意志の炎を宿した目を、更に怒りで燃え上がらせる。
「勝手な事を言ってんじゃねえ! 誉れも手向けも必要ねえ! 騎士の矜恃だってどうでもいい! この痛みも、この昂ぶりも! 生きてアイツを取り戻さなきゃ、何の意味もありゃしねえんだ!」
生きようが、死のうが、輝きを放てば満足?
冗談じゃない。そんな価値観はクソ食らえだ。
空っぽの手で死ぬならば、それは全て敗北だ。
負けてたまるか。止まってたまるか。
世界最強だろうが、怯んでたまるか。
だからオレは、どれだけ痛くても、辛くても、狂ってでも、大地を踏む。
何に変えても勝つのために。求めた物を掴み取るために。
拳を握り、立ち向かう――!
「さらばだ、モードレッド! 我が戦車は星のように、我が誇りに懸けて貴様を挽き潰す! ――『
「履き違えんなよ、アキレウス! オレは必ず、テメエをぶち殺すと言ったんだよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
遙か彼方の夜空から、翡翠の星が落ちてくる。
全てを薙ぎ払い轢殺するその彗星に、オレは懐の革袋から掴み取った宝石を、思い切り投げつけた。
マスターの魔力が籠められた宝石は弾丸のように飛翔し、オレよりも数秒早くアキレウスの戦車に激突。けたたましい爆音を轟かせた。
「くっ――!?」
その音は、オレの耳にも確かに届く。
マスターがオレために残した武器は、戦車を駆る馬を僅かに驚かせ、アキレウスの手綱を一瞬曇らせる。
膨大な魔力がほんの僅かに揺らいだ、その隙。太陽に浮かぶ黒点のような小さな隙間に、オレは全力の魔力放出と共に、自分の身体を飛び込ませた。
豪雨の中、濡れずに矢を射るような、自殺に限りなく近い決死の特攻。
けれど、オレは死なない。
マスターに必ず、勝ちを捧げると誓った。
故にこそ、オレの直感はこの賭けへの勝利を確信する。
果たしてオレの脚は、翡翠の魔力の渦を貫き、戦車を繰るアキレウスを打ち抜いた。
「何だと!?」
「っははは! 相乗り禁止とは聞いてねえからなぁぁ! 邪魔するぜぇ、アキレウス!」
オレの蹴りを小手で受け止めたアキレウス。その驚愕の目と、痛みと狂躁に狂い悶えるオレの目が交錯する。
戦車に降り立ち、クラレントを突き出す。切っ先を弾いた奴を、剣に纏わせた魔力の爆発で強引に押し返す。
薙ぎ払った腕がビキビキとひび割れる錯覚。激痛が全身を駆け巡り、オレの顔に貼り付いた笑みを、更に鬼のように吊り上げさせる。
「ぎ、いいぃぃぃぃぃぃっひひ! ははははははぁぁぁぁ!!」
「ッまさか俺の戦車に乗り込んでくるとは! それは流石に苛つくぜ、モードレッドぉぉぉぉ!」
初めての状況に対する混乱と興奮、プライドを穢された事に対する憤り。それらに爛々と目を輝かせ、アキレウスは手綱を片手に、もう片方の手で槍を振るう。
翠の魔力を噴き出し奔る、世界最速の戦車の上で、最強の英霊と対峙する。
トロイアの戦場を駆け抜けながら、幾度となく剣を振るい、鋼を打ち鳴らす。
「何千年も昔の矜恃を押しつけやがって! テメエのカビ臭え誇りなんざ、オレの赤雷で焼き尽くして、綺麗さっぱり消毒してやるよぉぉぉ!!」
更に高まった勝利への決意は、激痛を衝動に換え、咆哮になってオレの魂を揺さぶる。瞳孔を窄ませ、唇を食いちぎって歯を噛み割る。血反吐を噴き出し、それよりも紅い赤雷を噴き出して、我武者羅に剣を振るう。
その獣のような猛攻は、手綱で片手を塞がれたアキレウスの槍捌きを僅かながら上回る。
オレの放った一撃が奴の槍を掻い潜り、手綱を握る肩鎧を砕き割り、その首筋を切り裂いた。吹き出した鮮血が高速で奔る戦車の軌跡を追う一陣の線を引く。
「ックソ――わっ!?」
浅い。そう歯噛みしたのも束の間、戦車のバランスが大きく崩れる。
首を押さえたアキレウスは、憎しみと驚きを籠めてオレを睨み付ける。オレという戦士を、確かに覚えておくと約束するように。
「その執念は尊敬に値する。だが遊びは終わりだ――オレの宝具から、その不遜な脚を退けるがいい!!」
そう言ってアキレウスは、手綱を思い切り引っ張った。
戦車が大きく横にカーブする。神速が揚力になって、オレから重力を取り払う。
「っ逃がして、たまるかぁぁぁぁぁぁぁ!」
迷っている時間は無かった。オレは宙に棚引く手綱に手を伸ばし、オレの左腕に巻き付けた。
瞬間、オレの身体が宙に浮き、遙か彼方へと吹き飛ばされる。
神速が破壊のエネルギーになり――左腕に巻き付いた手綱が張り詰め、オレの腕をぐしゃぐしゃに締め潰した。
「ッぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
今までの比ではない激烈な痛みが襲う。
オレの小手はたちまち砕き割れ、無数の破片がオレの皮膚を食い破る。粗い縄が骨をへし折り、ごきゅごきゅという音を立てながら原型を留めない程に引き絞る。裂けた肌からソーセージのように肉が飛び出し、そこに折れた骨や鎧の破片が突きささる。
一瞬でオレの腕は、ボロ雑巾のような肉塊へと変貌した。
もう痛み以外の全ての感覚を失った腕を、それでも手綱を握る錨として、オレは戦慄するアキレウスを睨み付ける。
ぐしゃぐしゃの腕に力を入れて身体を戦車まで引き戻し、無事な手で握ったクラレントを、アキレウス目がけ振り下ろす。
「ヴ――ヴぅぅぅぅぅ! ヴァアアアアアアアアア!!」
「馬鹿な――そうまでして、勝ちたいというのか!? 獣に落ちてまで抗うか!? 何がお前をそこまで駆り立てる!?」
訳の分からない、畏れさえ抱いた目で、アキレウスが問う。
その戦慄する顔目がけクラレントを立て続けに振るい、オレは吼える。
「どうして? 何が? ――テメエにゃ分からねえよ! たとえ一生かけたって分かりゃしねえさ!」
ああそうだ、テメエとオレじゃ何もかもが違う。
勇士だと持て囃された貴様が。
才覚に恵まれ、約束された武勲を立てる英雄サマが。
人間以下の道具だったオレの心を汲み取れるものか!
たった一人に愛される喜びを、分かられて堪るものか!
生きるという、ただそれだけが、どれだけ幸せか! どれだけ尊い事か! 守るべき物なのか!
「分からねえまま死ね! あの世でずっと悩んでろ! それが理解できねえ古びた神々に、オレは絶対に負けやしねええええええええええええ!!」
飛びだす程に見開いた眼窩を血走らせ、オレは吼える。激痛にバリバリと全身を引き裂かれながら、剣を奔らせ、怖じ気づくアキレウスを圧倒する。
土手っ腹に放った蹴りが深々と突きささり、初めてアキレウスが膝を折る。跪いた衝撃で手綱が揺れ、戦車の軌道がぐらりと傾く。
血反吐を吐き出しながら、それでもアキレウスは怯まない。闘志に輝く目で、獣と貸したオレを睨む。
「まだだ! このアキレウス、戦いで決して遅れを取る事は――」
「いいや、もう終わりだ。テメエはここで、オレにぶち殺されるんだ!」
奴の覚悟を怒号で掻き消し、オレは両脚をアキレウスの胴体に巻き付かせる。
身体を密着させ、視界を塞ぎ、手綱が食い込んで使い物にならなくなった片腕を振るう。
「ッ貴様、何を――」
「悪いな。お前の言うとおり、何でもアリが戦場だ」
オレの遺言は、突然の行動に驚くアキレウスには届かない。
勇士の膂力で振り払われ、アキレウスの視界が開かれる。
そうして奴は、ようやく目にする。
覚悟を決めたオレの涼しい顔と。
ずたずたの腕に絡みついた手綱が――奴の首に巻き付いている事を。
全てを悟ったアキレウスの顔が青ざめるも、もう遅い。
「まあ――卑怯のツケは、オレの腕一本でチャラにしようや」
「モードレッド! 待――」
「あばよ、英雄!」
最後に嗤って、オレは自ら、戦車から身を翻えさせた。
同時に、現出させたクラレントを、渾身の力で蹴り飛ばす。
剣は紅い光を纏って飛翔し、戦車の片脇、手綱の結び目を千切り取る。
オレを繋ぎ止めていた楔が外れ、空中に投げ出される。
首に巻き付いた手綱に戦慄くアキレウスが、神速の戦車と共に遙か彼方へと消えていく。
撓んでいた手綱が、一瞬で張り詰め――
――ばつんっ。
拍子抜けするような軽い音。
それが、戦いの決着と、一人の英雄の終焉の音色だ。
衝撃に、意識が一瞬ブラックアウトする。
瞬きを数度。
朦朧とする視界を起こせば、そこはトロイアの遙か上空。
ばたばたと空気を棚引かせながら、オレは何千メートルという高度を落下していく。
視界に広がる空には、太い線を引く鮮血と、千切れて宙を舞う、ずたぼろのオレの左腕。
そして、その奥。繰り手を失った戦車が、翡翠の光線を引きながら、稲妻と共に彼方に消えていく。
戦車に括り付いていた首の無い身体は、やがてぐらりと傾くと、先に落ちた頭を追うようにして、紅い線を棚引かせながら空を舞い、遙か彼方へと落ちていった。
「……オレだって、ちゃんと心は踊ったよ。両腕が無事なら、思う存分戦いたかったさ」
宙を舞う鮮血のアーチを目で追いかけ、オレは聞く者のいない空の上で、静かにそう吐露する。
「いつかまた、どこかで。今度はちゃんと戦おうぜ、英雄」
最高の英雄の惨めな最期を見届けて、オレは静かに目を伏せ、奴の死を穢した事に詫びるのだった。