もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
高速で空を落ちる開放感は、すぐに迫り来る地面のプレッシャーと、戦場の喧噪に塗り潰される。
墜落の直前に、オレはクラレントを蹴り、大地を爆発。爆風で身体を浮かし、ぺしゃんこになる事だけは避ける。
落ちた場所は、海岸沿いに立つ砂の防波堤。オレはきめ細やかな砂の上に衝突し、もんどり打ちながら急斜面を転がり落ちる。
熱い砂が鎧の隙間や割れた兜から入り込み、血と汗、唾液に塗れた顔にこびり付く。
捻じ切られた左腕からボタボタとこぼれ落ちる鮮血が、砂に染み込んで紅い塊を作っている。
「っ――」
忘れていた痛みが、とうとうやって来る。
「あ、ああああああ! うわあああああああああああああああああああああああああああああああ――!」
オレは叫んだ。左腕の喪失に、悶えずにはいられなかった。
激戦をくぐり抜けた後の、神経が焼き切れる程の集中から解放された脳では、この痛みは到底処理しきれる物ではなかった。
オレは腕を押さえ、胎児のように身体を丸め、全身を焼かれるような激痛に叫ぶ。
トロイアのあちこちで爆発が起こっている。剣劇は雨のように鳴り響き、オレを包んでいる。
「ッうう――うおお……お……!」
まだだ、まだ戦いは終わっていない。
オレは涙の滲む顔を持ち上げ、血走った目で辺りを睨む。既にオレに気付いた数人の兵士が、手柄を得るべく得物を抜き走り寄ってくる。
朦朧とする意識で大地を踏み、感覚の遠い右腕で、クラレントを握る。
「へへ……上等だ。オレのドタマを、捕れるモンなら捕って見やがれ」
もがれた左腕。剣を持つ右腕は、癒えぬ傷で常に痛みに苛まれている。既に肉体は満身創痍。
オレを動かすのは、決意だけだ。
決して折れない、折れてはいけない、鋼の決意。
「何人だろうが相手になってやる! 最強の英雄を下したオレが、一兵卒に後れを取ると――」
「――それはさながら蝋の翼を焼かれたイカロスの如く。戦士の肉体は星のように空を墜ち、砂上にその身を横たえさせた」
耳を抜ける、そんな声。
唐突にオレの膝が、ばきんと音を立ててへし折れた。
支えを失ったオレの身体が、みっともなく膝を折る。
「な……がっ!?」
驚愕のオレを、兵士の一人が振るった棍棒が吹き飛ばす。
砂塵を巻き上げ大地を転がりながら、オレは新たに植え付けられた脚の痛みに悶える。
何が起きた? いや違う。
「――どこにいる! 姿を見せろ、ホメロス!」
「執念こそ優れようと、勇士の偉大なる槍は、一人が受けるには余りに強く。あらゆる刃は、戦士の身体に致命の跡を植え付けていた」
どことも知れない。まるで脳に直接響くような、流麗なバリトンの声。
アキレウスの猛攻を耐え続けていたオレの鎧、そこに付けられた無数の細かい傷が、音を立てて広がっていく。
まるで言葉がそのまま、見えない手として襲うように。ホメロスの言葉を大言するように、オレの鎧は粉微塵に砕け散った。
「っぐ、ぼ……!?」
鎧を砕くと共に押し寄せる、無数の衝撃。アキレウスに受けた攻撃と同等の一撃が、オレの身体を滅多打ちにする。
意識を吹き飛ばすには十分すぎる痛み。堪らず、血反吐が喉から吹き上げる。
膝を着いたオレ。その脇腹に、兵士の一人が突き出した剣が、呆気なく突き刺さった。
「洒落臭ぇぞ、雑魚共が!」
「ペーレウスが子を打ち倒した戦士に、これ以上戦場を駆ける力は残されていなかった。あの大英雄を倒した猛者の武勲を求め、兵士達はこぞって、大地に伏す亡骸も同然の戦士に襲いかかった」
「ッぎゅ、ぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
バキバキと音を立てて、脇腹に穿たれたばかりの傷が押し広げられる。鮮烈な痛みに神経が暴れ、流れていく血で意識が霞む。
朦朧とする視界には、怒濤のように押し寄せる兵士の群れ。法衣を纏った爺の姿は、どこにも見つからない。
ただ声だけが耳を抜け、魂まで滑り込み、オレの認識を穢してくる。
「ッふざけんな! オレは戦える! 貴様を倒すまで戦い続けるんだ、ホメロォォォォォォス!」
「為す術は無かった。傷は深く、立って逃げる事もままならない。猛き戦士の命は、既に火の灯された紙のように潰える寸前である」
一文紡がれる毎に、事実が塗り替えられていく。
傷が拡張され、疲労が何十倍にも重くのし掛かり、オレの身体を壊していく。
どれだけ叫んでも。まだ戦えると吠え立てても。既に満身創痍だったオレの身体と心は、歴史の創始者たる奴の言葉を、撥ね除ける程の力を持たない。
また一つ刃が身体に突き立ち、兵士がトドメを刺すべくオレにのし掛かる。魔力放出で撥ね除けるたのも束の間、ホメロスの言葉がオレから力を奪い、傷を致命傷まで押し広げる。
「やめろ、やめろ! オレは戦う! 戦わなきゃいけないんだ!」
「不幸にも彼女の命は、飢えた鼠の群れに食まれるように奪われた。勇士を倒した栄光にも関わらず、彼女は名だたる騎士でもなく、神でもなく、戦場そのものによって、無残に命を蝕まれるのだった」
「オレと戦え! 姿を見せろぉぉぉ!」
無数の兵士が、オレに覆い被さってくる。沢山の刃がオレに突き立つ。
それと同時に、身体が霧散していくのを感じる。
奴の言葉によって、霊基が分解されていく。モードレッドでない何者かとして、オレを抹消しようとする。
刃が突き立つ。身体が重くなる。付けられた傷からホメロスの言葉が浸食し、霊基が霧のように漏れ出ていく。
痛みと、底なし沼のような倦怠感。
抗おうにも抗えない。言葉によって存在が塗り潰され、死よりも遠い無が押し寄せる。
「クソ、クソォォォォ! マスター! マスタぁぁぁぁぁぁぁ!!」
もう、身体は半分も残っていない。
剣を握る腕がない。クラレントも出てこない。
戦士からただの肉塊へと成り下がる。
身体が塵になり、虚無に消えていく。
必ず勝つと約束したのに。
どんな苦しみにも耐えて、立ち上がったのに。
勝利を捧げると誓ったのに。
必ずこの世界にお前を取り戻すと、心に決めたのに。
また会いたいと、願っていたのに。
なのにオレは、負けるのか?
何の約束も果たせずに、消えるのか?
「悔やむ事はない、愚かな歴史の銚子よ。世界の最盛たるこの戦場において、抗うという選択がそもそも誤りなのだ」
視界が淡くぼやけていく。
水底に沈むように、感覚が遠くなっていく。
「優れた方が勝るが道理。ゆえに誤った歴史に産まれた貴様の敗北は必然である――先に逝くが良い。何者でもなく、意味も価値もなく、選ばれなかった世界の泡沫の一つとして揺蕩うがいい。直ぐに世界の全てが、貴様の後を追う」
泰然とした声が、最期に残ったオレの意識を掴み、無為の闇へと引きずり込む。
身体が溶けて、消えていく。
必ず勝つという覚悟が、真っ黒な闇に混ざって、見えなくなっていく。
「……ます、た……」
最後に残ったのは、心に秘めた彼への思いと、頬を伝う涙の熱さ。
それさえすぐに、塵に変わる。消えていく。
譫言のように呟く唇も、無慈悲に闇に塗り潰される。
オレという存在が、食い尽くされる。
最後に垂らした涙も消え、オレはこの世界から、完全に姿を消した。
「怒り、暴れ狂った名も無き戦士の詩――此にて、終幕」