もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
神と人が共に生きるとは、果たしてどういう気分なのか。
その心地は推測するより他に無いが、きっと当時の世界は、とても眩しく輝いていたのだろう。
神。人よりも遙かに優れ、常理を逸した超常の生物。
その身に奇跡を宿す彼等は、遙か天から地上を見下ろし、人の営みを眺めていたという。
時には父母のように人を愛し、時には友のように飲食を共にし、時には乙女のように恋焦がれた。
そして戦士として刃を握れば一騎当千。木の葉のように人を吹き飛ばし、圧倒的な力であらゆる障害を薙ぎ払った。
そんな存在が、確かな実存を伴って、世界に君臨している。
――考える。
神が傍にいるとは、果たしてどれほどの光栄だろう。
今の世界をくだらないと断じられるほどに、素晴らしいだろうか。
そして――仮に、神が居たとして。
それは、果たして素晴らしい世界だろうか?
どれほど違いがあるだろう。
神の予言に沿って進む人生と、自ら喘ぎ苦悩し、自分自身で切り開く人生は。
自分以上の大いなる存在を仰ぐ世界と、見果てぬ夢を追いかける世界は。
短く燃え尽きる戦士の輝きと、健やかな家庭の暖炉の火は。
果たしてどちらが、尊いものだろうか。
そんな事を、考える。
何千年もの昔の、想像だにできない浪漫と神秘を空想し。
語る事も少ないちっぽけな自分の経験から、必死に思い馳せ。
生きてて良かったという喜びが不変である事だけは、確信して。
――――ああ。
数少ない思い出の、輝く光の粒を、掻き集める。
今にも燃え尽きそうな小さな火を、抱き締める。
――――もう一度、会いたいな――――
そんな事を考える。
そんな事ばかりを、考え続けている――。
――仮にもし、死後の世界があるのだとしたら。
中でもここは、最も悍ましい場所に違いないだろう。
天国でも地獄でも、かつて本当にあったとされる冥界でも、死者には確かに『存在』があった。
誰かに悲しまれ、伝説と仰がれ、時には信仰されもする。永遠の眠りにありながら、別の誰かの生に影響を与え続ける。
死には価値があった。脈々と続く流れの一つという意味があった。
ここには、それさえもない。
あるのは、ただただ、無。
果てなく広い、真なる闇。
あるいはそこは、宇宙の始まりにほど近い場所かもしれない。超新星爆発も起こる前。何になるかも定まらない粒が揺蕩っていた闇の水槽。
この場所での粒は、『可能性』だった。
例えば、枝分かれする運命のもう片方。ほんの少し条件が違えば広がっていた世界。
有り得たかも知れないが、終ぞ有り得る事はなく、実現されなかった無数の選択肢の数々。選ばれず焼却された『可能性』だけが、意志を持たず揺蕩っている。
その闇の只中に、オレは漂っていた。
「……………………」
身体の感覚はとうにない。感覚すら夢のように曖昧だ。
フィルムに焼き付いた影のような朧気さで、オレは辛うじて『オレ』という存在を保っている。
けれどそれも一時的。この自意識も直ぐに溶けて、オレは何者でも無い、有り得た可能性の一粒として、この虚無に消えるのだろう。
奴が聖杯を手に入れ、歴史を消却する事で、オレは今度こそ何者でもない、存在しなかった者として消え去る事になる。
「……………………」
物理的な法則はもちろん、時間や空間の概念も無い。
身体があった時の事なんて、もう何百年も前の事のようだ。
喋る口や、涙を流す目や、考える為の脳はない。
けれども、影法師として残ったオレは、感情を抱えていた。
とても強い、悲しみを。
死よりも深い虚無を揺蕩い、オレは言い様のない無常に、一人孤独に泣く。
「ごめん……」
声は出ない。意識が朧気な靄のように宙を揺蕩い、すぐに闇に搔き消える。
どうして謝るのか、思い出せない。
誰に向けて謝っているのかも――もう、思い出せない。
けれど、オレは悲しかった。
誰に対してかを忘れても、謝らずにはいられなかった。
何か、とても大事な約束があったのだ。
それを、たぶん、破ってしまったのだ。
自分は誰か、大切な人を、裏切ってしまったのだ。
「ごめん、ごめんよ……ごめんなぁ……」
漠然と、ここにいてはいけない気がする。
けれど、もう手遅れだった。藻掻く為の力も無い。実体を持たず、次第に消えゆく魂があるだけだ。
理由も分からず、悲しくて。虚しくて。
そんな感情を抱えたままここに漂っている事が、とてもとても悔しくて。
オレは姿の無い意識で泣きじゃくる。闇の中で残った自意識で、オレ自身を責め立てる。
ごめん。情けなくてごめん。みっともなくてごめん。
きっと失望させた。幻滅させた。
誰かにそう思われる事が、とてもつらい。
顔も名前も、もう分からないけれど。
こんなに細く朧気になった意識の中で。
残っているのは、その誰かの事だけなんだ。
ずっと傍に居たかった。
もう一度抱き締められて、幸せを感じたかった。
だからオレは、こんなにも悲しいんだ。
形も忘れた胸が、こんなにも苦しいんだ。
ああ、
ああ――。
「…………もう一度、会いたいよぉ…………」
絞り出すような懇願が、靄のように揺蕩い、闇の中に消えていく。
その想いが。無限に広がる虚無に漂った、オレの切なる想いが。
ぽっ――と、闇の中に光を灯す。
「……?」
それはさながら、濃霧の向こうで輝く太陽のよう。か細く朧気で、けれどもとても温かい光。
影のようなオレは、その光に誘われるように、闇の中を泳ぐ。
光を放っていたのは、小さな革袋だった。この虚無の中に於いて強烈な存在感を放つそれは、眩い色とりどりの光で、内側から輝いている。
「……これ、は……」
強烈な既視感。これは君の物だ、という、いつか聞いた誰かの声がする。
ノイズのように奔る走馬燈が、霧散していたオレの存在を収束させる。
恐る恐る触れようとした瞬間、袋はひとりでに弾け、収められていた色とりどりの宝石を虚空に散りばめる。
呆気にとられるオレの目の前で――ぱぁん、と。宝石が弾けた。
目が覚めるような音。色とりどりの光。
宝石は花火のように破裂し、虹のように鮮やかな燐光が、オレの周囲をキラキラと舞う。
闇が、星々の瞬く夜空に変わったような光景。オレは呆気にとられたまま、同時にその輝きに見惚れる。
音が響き渡り、遠く遠く、遙か彼方まで飛んでいく。
輝きがキラキラと宙を舞い、虚無の世界を美しく彩る。
その光が潰え、闇と静寂が再び世界を覆い尽くそうとした――その時。
『――ああ』
忘れかけていた、ずっと聞きたかった声が、オレの魂を揺さぶった。
「……ます、たー?」
『一体いつぶりかな。音と光で、意識が冴えてきた――また会えて良かったよ、モードレッド。ここではない方が、よっぽど嬉しかったけれど』
嬉しそうな、飄々とした声。
その、二度と聞けないと諦めていた優しい響きが信じられず、オレは愕然と問いかける。
「なんで、お前……」
『ホメロスの与える消滅が、死ではないと予想していた。こういう場所が在る事も、想定の範疇だった。だから怖くはなかったよ。ここで待っていれば、もし君が負けてしまったとしても、また会えると思っていたからね』
「いや、待て……待てよ」
オレは自分を取り巻く虚無を感じる。
圧倒的に広大で、何もない。宇宙よりも尚空っぽな、世界の墓場。
「
『難しい事じゃないよ。君の事を考え続けるなんて、朝飯前さ』
「馬鹿言ってるんじゃねえ! 身体を失って、存在を無くしてまで……ッ絶望なんてもんじゃない! そんなの、地獄と何も変わらないじゃないか! なのにお前は……!」
『はは。まあ、生涯勉強漬けで拗らせ続けた男の初恋は、馬鹿にはできないって事だよ』
「っばか、バカマスター! お前は、一体どれだけ……っ!」
この無限に広がる虚無の中、果たして何十年、何百年。
確証も無い再開を夢見て、待ち続けて。
信じられない。本当に馬鹿げている。
けれど、同時に分かってしまう。
飄々とした声に混じる安堵と喜びが、途方も無い年月を経た邂逅に対してである事に。
「なんっ……なんっだよ、それ……!」
オレは"頬を伝う涙の熱を、確かに感じる。"
およそ感じられる筈のない喜びに、心が震える。
「こんな辺鄙な場所で、ぼーっとしてんじゃねえよ……! 傍に居るって言ったじゃねえか。ずっと一緒だって、約束したじゃねえかよぉ……!」
後から後から、止め処なく涙が伝う。その感触に、オレは自分の形を思い出す。ふるふると心を震わせる熱が全身を駆け巡って、血潮の温かさを知らしめる。
「ばかっ、馬鹿野郎がぁ……オレが、どれだけ辛かったと思ってる。朝起きたら一人で、最初から一人だったみたいで……! ぐすっ。ほんとに、もう会えないかもって思ったんだぞ! それを……」
『うん。つらい思いをさせてごめんね。頑張ってくれて、本当にありがとう』
「っく……うぅ、ぅ……!」
オレの声を、聞く奴がいる。
一番大切な人が、直ぐそこにいる。
それが嬉しくて、嬉しくて。
だからこそ、こんな形の再開になった事が、堪らなく悔しくて。
「っひぐ……マスター……ごめん、ごめんなぁ」
『え?』
「お前を取り戻すと誓ったのに、折れちまった。必ず勝つって言ったのに、あの糞爺に負けちまった」
悲しみが後から後から溢れ出て、子供のように泣いてしまう。彼の存在を感じながら、感情を抑える事なんてできない。
マスターに会えた事がとても嬉しい。けれど、敗北した先での再開なんて、これ以上なく惨めで。
情けない。マスターに会えて嬉しいのに、合わせる顔がないなんて。
「無様だ。サーヴァント失格だよ。お前の剣なんて嘯いて、勝利を捧げるなんて大言を吐いて……」
『はは。こんなだだっ広い世界で、まだそんな細かい事を気にするのかい? 乱暴なのに、そういう所だけ妙に律儀なんだから』
オレの悲しみを受けて尚、マスターはあっけらかんと笑う。
『落ち着いてよ、モードレッド。僕はとっても幸せだ。だって君にまた会えたし、こうして声を聞けたし……まして君は、まだ敗北しちゃいないんだからね』
「……え?」
呆けた声を漏らし、オレは泣きじゃくっていた顔を上げる。
『君は僕を信じてくれた。繋がりを信じて、だからこうしてまた会えた……死中に活有り。君のお陰で、僕はこの奇跡を、勝利への活路に変えられる』
「どういう、事だ?」
闇の中、存在だけを残したマスターが、薄く笑う気配がする。
どこまでも気楽に、気さくに。けれど決して現実逃避ではない、覚悟に満ちた声で語る。
『ここは特異な場所だ。法則や常理すらない、可能性という最も単純なエネルギーが、形を持たず漂っている――そんな中で、僕達はまだ『僕達』のままでいる。ホメロスに強引に引きずり込まれたという状況と、令呪で繋がった魔力経路と……その……肉体的な、もにょもにょした繋がりで、互いを認識している』
「そこはもう、愛だか何だかではぐらかしときゃいいじゃねえか……ダレるなぁ」
オレの呆れた苦笑に、マスターの笑みも重なる。
随分昔のように感じられる、慣れ親しんだやり取り。
愛しい時間を堪能しながら、マスターは話を続ける。
『つまり言いたい事はね。この世界にあるのは、全ての存在の根幹に当たる部分だ。小さな素粒子の組み合わせがあらゆる物質を生み出すように、ここに満ちたエネルギーは、全て最高峰の魔力リソースに転換できる』
「どうやって? エネルギーなんて言われたって、全然感じられないぞ」
『普通は無理だろうね。僕等もここではエネルギーの一つに過ぎないから……けれど君は、この世界でたった一つだけ、確かな形を持つ物を知っているだろう? 今目の前にいて、こうして話している存在を』
そうして、彼は言い放った。
何の躊躇もなく、これ以上無いほど自信に満ちた声で。
『
「……な?」
『謂わば今の僕はエネルギーの塊だ。物理学的に見れば太陽にさえ匹敵する程の莫大な、ね。君は魔力経路を使用して、僕の全てを無駄なく魔力に転用することができる。世界を飛び越える程に、存在を補強できるはずだ』
「待て! 待ってくれよ、冗談キツいぞマスター!」
何を言われているか分からない。分かりたくない。
マスターの概念を魔力に転換する。
彼を構成する『可能性』そのものを消費する。
脳筋のオレの頭でだって、そのおぞましさが魂喰いの比ではない事は分かる。
「消えて無くなるぞ! ホメロスみたいな一時的な否定じゃない、お前は本当に世界から消滅するんだ!」
『そうだろうね。手足が無くなったら、君に担いで貰わなきゃいけなくなるかも』
「そんな次元じゃねえよ馬鹿! 身体どころじゃない。精神も、魂も、下手すりゃお前が生きていた痕跡や、記憶だって……!」
最悪、マスターは世界から消え失せる。
世界の全てから『ないもの』として扱われる
誰でもない、どこにもいない、虚構になる。
それは、かつてオレが手首に傷を負った際に見た悪夢だ。余りの恐ろしさに、心を完全に打ち砕かれる程の。
「嫌だ! 嫌だよ、マスター! お前を穢したくない! 別の方法があるはずだ、今からでもそれを探そう!」
『残念だけれど、悠長にしてる暇はない。これが唯一の活路だ……なに、心配する事は無い。むしろようやく大好きな君の力になれるんだから、願ったり叶ったりかも』
「ふざけんな! お前を喰うぐらいなら、オレはこのまま、一緒に溶けて消えた方がマシだ! ……なあ頼むよ。オレに、お前を奪わせないでくれよ!」
『いいんだよ、モードレッド……いいんだ』
マスターが柔らかく優しく、オレに囁く。
その、余りに泰然とした、全てを悟ったような声音に、オレは何も言えなくなってしまう。
『前にも言ったよね、モードレッド。僕は本当に、君の隣に立つには値しない、つまらない男なんだって』
「っ……」
『凡百の魔術師の一人。生きる価値なんてありはしなかった。聖杯戦争を前に僕は自分自身を諦めきって、君に会う前に僕は死んだ。そして君に出会った瞬間、僕は世界で一番幸せな人間に生まれ変わったんだ』
生きる理由の無かった人間が、生きる喜びを教えられた。
得られる筈のなかった幸せを与えられた。
決して訪れるはずがなかった、愛する人との穏やかな時間を過ごすことができた。
どれだけ言葉を並べても、この喜びは表現しきれない。
いくら気持ちを伝えたって、この愛が底を突く事はない。
『なら僕は、僕の全てで君に尽くしたい。君の栄光の糧になりたい。君に勝利を捧げられるなら――そこが、僕の終わりでも構わない』
「……」
『だからお願いだ、モードレッド。僕に、君のマスターとしての務めを果たさせてくれ。弱くてちっぽけなこの僕を、君の力にさせてくれ』
切実な――文字通りの、全てを賭けた願い。
言葉通りに全てを捧げる、余りに強く透き通った愛。
それが、否応なしにオレの胸を打つ。ここで拒否する事が、何より彼を傷つける事になると分かってしまう。
何に於いても、勝たねばならない――そう、確信する。
「分かった……分かったよ、マスター。だけど、一つ言わせろ。そして一つ、命令させろ」
だからオレは、頷きながらも、虚空に向けて指を突き出した。
マスターがオレを見ている。その優しく温かい視線に向けて、オレは宣言する。
「オレはお前の剣だ。聖杯なんてくだらない物の為じゃない。お前のためだけに戦うんだ! ……ッオレはお前が大好きだから! 世界で一番大好きなお前に、もう一度会いたいから、死に物狂いで戦うんだ! そんなオレに、決してマスター殺しなんて汚名を着させるんじゃねえぞ!」
『うん……了解だよ、モードレッド』
「そしてオレは、こんな形での離別なんて許さねえ! 必ず勝って、糞爺をぶち殺して! 世界を砕き割ってでもお前を取り戻す!」
心が、確かに繋がる。
か細かった魔力の経路が、温かい愛で満ちるのを感じる。
「だから、堪えろよ。忘れるなんて許さねえ。必ず生きて、あの湖で、お前の口から、愛してるって聞かせてもらう。元通りの両腕で抱きついて、キスをさせて貰う――お前の王からの勅命だ。破ったらぶち殺す。いいな?」
『はは――なら、ぶち殺される為にも、頑張って生きなくちゃ、だね』
温かな光が流れ込んでくる。
オレの身体が、心が、莫大な力に輝きを放ち始める。
魂に、マスターを感じる。
肌を触れ合わせるより何倍も強く、一つになるのを感じる。
大丈夫だ。
この胸の内の繋がりがあれば。
魂に注がれる、熱く燃える力があれば。
必ず会うと、マスターが約束してくれたから。
オレ達の覚悟は、鋼よりも固く研ぎ澄まされ、恒星よりも眩く輝いている。
だから、後は勝つだけだ。
引導を渡して、幕引きだ。
叛逆の騎士らしく、問答無用の無頼漢らしく。
糞爺から、ハッピーエンドを簒奪してやる。
『勝てよ、モードレッド』
「生きろよ、マスター」
軽く、互いを呼び合う。
またすぐに会えるから、挨拶はそれで十分。
そうして、オレはしばしの別れに、マスターから背を向けて。
力を溢れさせる。
虚構の世界から、浮上する――。