もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
長く、厳しい、戦いがあった。
人の誇りと、神の面子を賭けた、雌雄を決する大戦であった。
男と神々はトロイアの地に集い、十年を戦い続けた。
多くの英雄が生まれ、それと同時に多くの英雄が散った。神の加護が大地を包み、寵愛が勇士を奮い立たせ、己が手と信奉する神に勝利を捧げるべく剣を握らせた。
世界の全てが、その戦場に収束していた。終わりを迎えるその時まで、そこが世界の中心だった。
その厳しい戦いを終え、互いが互いの帰路に着き。
そこで更に、長く、厳しい、旅をした。
あらゆる神秘が立ち塞がった。神々の手が、幾度も自分を翻弄した。
神の洪水に流されながら、人を喰う巨人を躱し、悪しき魔女を退ける。幾度も生死の境をさまよい、時には溺れる程の耽美な愛にさえ背を向けた。
想像を絶する困難が待ち受けていたが、そのいずれにも屈さなかった。
自分には、帰りを待つ家族が居たから。
収めるべき国があったから。
そして、使命を胸に進む自分を、神が照覧されていたから。
だから自分は強く在った。決意を胸に、死よりも辛い、気の遠くなるほどに長い旅路を、進み続けた。
過酷な旅路の先に待つのが、長らく求めた安寧であると信じて。
しかし、現実は違った。
ようよう帰り着いた自分を待っていたのは――失望。
自分はとうに死んだ事にされ、王城には資産を狙う下素共が虻のように集っていた。
奴等は大いなる戦に繰り出した自分への敬意も何もなく、ただ欲望の赴くままに財を食い荒らし、女を漁り、酒池肉林の中で堕落の限りを尽くしていた。
神の姿など、そのどこにも見当たらない。
直ちに全員処断を下し王座を取り戻したが、胸に抱えた失望までは消え去らない。
ようやく辿り着いた安寧は、愚かな人々が意義もなく堕落を貪る、退廃の世であった。
人間の愚昧に、気付いた瞬間だった。
揺るがぬ玉座に座り、無味乾燥な空気を吸い、思い浮かぶのは過去の激動の事ばかり。
恐怖し、憔悴し、何度も死を覚悟したが、それでもあの世界は美しかった。
神と共にある戦いは、何よりも尊い誇りに満ち満ちていた。
例え幾年と時が過ぎようと、あの戦い、あの旅路に勝るものは現れるまい。誰よりも深く、激しく経験したからこそ、自分はそう確信を以て言う事ができた。
そうやって、玉座に居座り、過去の誉れに浸って時を過ごしていた――ある日。
唐突に、神はこの世界から姿を消した。
自分は何の予兆も感じる事はできなかった。今をもっても、その理由は不明なまま。
ある日不意に神の声が聞こえなくなり、それっきりだ。
予言も、寵愛も、世界から消えていた。
瞬きの内に、世界は神々から隔絶された。
あらゆる痕跡を探し回ったが、無駄だった。
身体に満ち満ちていた神性は霧散し、微々たるものとなっていた。
神の血を引いていた勇士も友も、理解の追いつかないまま、嘆きながら死んでいく。
神々が、急速に我々から離れていく。
あの輝かしき世界が、二度と訪れない幻になってしまう。
その恐怖は、いくら言葉を尽くそうとも語れない。
だから自分は両目を潰し、空洞になったそこにあらん限りの神性を集めた。
千里眼を得た自分の目は、未だ世界に流れる微弱な神性を見た。
この神性を守らなければいけない。いかなる手を使っても、残さなければならない。
ゆえに男は語り始めた。自らが経験した全てを、余すところなく言葉にして。
人々の信仰を集め、神霊をこの世に繋ぎ止めるべく。
その試みは間違えていなかった。
男の行いは正しいものだった。
ただ一つ読み違えていたのは――人間の愚かさ。
男の言葉を空想と断じ、嘲笑を交えて面白がった。
自分の言葉は、神話を、愚昧な人間共の酒の肴にしてしまったのだ。
そうして、神霊は潰えた。
地上から完全に神は退却し、愚かな人間達だけが跋扈する世が始まった。
故にこそ、自分は
世界を人に明け渡させた大罪人。
愚かな人の世界に置き去りにされた囚人。
幾ら悔やんでも、嘆いても、時を戻す事は出来ない。
以降何千年と続く歴史の全てが――自分の罪なのだ。
「なるほどな……」
新たに現出させたクラレントを握り、オレは立ち上がる。
目の前に立ちふさがる老爺は、いまや聳え立つ山を前にしたような途方もないプレッシャーを感じさせる。
その意匠は、もう語り部ではない。ただの老人でもない。
その正体は、かつてアキレウスら勇士らと並び立ち戦場を駆けた、世界最大の英雄の一人。弁舌に長けるギリシア随一の知恵者であり、それでいて勇猛果敢の猛力の将。
英雄、オデュッセウス。
「つまりは、自叙伝か。イーリアスも、オデュッセイアも、テメエの作品は全部、テメエの目で見た経験って訳だ」
「そうだ。我は、信奉した素晴らしき世を風化させぬべく、我が人生を言葉にして語って聞かせた。実に三百年をかけて、延々と」
遠くはヘルメスの系譜。体内に残った微弱な神性が、彼の老いて尚の活動を可能にさせたのだろう。
そこで「しかし」と言葉を区切り、オデュッセウスは憎々しげに奥歯を噛む。
「それこそが我の、大いなる誤りだった。愚昧な人間の空想を頼りにしたが故に、神話は本来の神性を失ってしまった」
「だがお前の言葉は、今の人類史の下地を作ったぞ。それは紛れもなく、お前の功績じゃねえのか?」
「ハッ……功績であるものか。これは罰よ。我が崩れさせた世界が苔生していくのをただ眺めさせられる、生涯続く拷問だ」
そうしてオデュッセウスは、懐から聖杯を取り出す。眼前に翳し、神を見据える千里眼で以て、その輝きを見る。
「故にこそ、我は必ず、この世界を修正する。今度は間違えない。聖杯を用いて、疑いようのない力で以て、この世に神を顕現させる」
「進展のねえ押し問答だ――オレの世界を穢させやしねえって、何度言や分かんだクソジジイ!」
咆哮と同時に、オレは走り出す。
そのオレに向けて、オデュッセウスは静かに手を掲げた。
手に現れるは、身の丈ほどもある巨大な弓。
巨大な生物の角を削り出して作られた白磁の強弓をギリと引き絞り、オデュッセウスは紅に輝く千里眼で、オレを確かに射竦める。
「『
「ッ――!?」
ぞっと背筋を駆け巡った悪寒に、咄嗟に身を翻す。
赤黒いの魔力を噴き出して飛翔した矢が、先ほどまでオレの胸のあった空間を、ヴンと音を立てて抉り抜いた。
その一矢の鋭さ、迸る魔力は、オレのクラレントに匹敵する程の力。空間が削れる迫力に、肌がビリビリと痺れを覚える。
「ッお、おおおおおおお――ぉ!」
気圧されて堪るか。オレはクラレントを握り直し、巨体に向けて躍りかかる。
下から掬い上げるように振るったクラレントを、大上段から振るわれたオデュッセウスの弓が迎え撃つ。
相当の業物か、あるいは余程の怪物の骨を素材にするか、オデュッセウスの弓は火花さえ散らして、オレのクラレントと拮抗する。
否……拮抗するばかりか。
「ん、だよ、その馬鹿力……!? オレが、押し、負け……!」
「いつまでも頭に乗るなよ、泥人形風情が! その蒙昧、王への、神への! 不敬と知れぇぇぇぇ!」
咆哮したオデュッセウスが更に振り下ろした剛弓が、大地を抉り抜きながらオレを遙か彼方へと吹き飛ばした。
このオレが、鍔迫り合いで押し負けた。どんな奇跡かスキルが働いているか知らないが、今のオデュッセウスは、セイバーを越える程の膂力を身につけている。
力比べでは押し巻ける。ましてやこちらは片腕。更に悪い事に、残った方の腕も手首に――
そこまで思考し、はたと気付く。
何ヶ月もオレを苦しめ続け、ほとんど諦めていた痛みが、無くなっている。
「手首の傷が、消えてる?」
「然り。我は既に詩人に非ず、猛き世を生きた戦士なり。この身に神の権能を宿した時、我は語り部として有していた力を失う」
オデュッセウスは二本目の矢を番え、盲目の身でありながら、真っ赤に燃える鏃をオレの眉間に真っ直ぐ突きつける。
「故にこそ! 我は貴様を、力によって叩き潰す! 我自身が神の勇猛を体現し、貴様の誇りを、真正面から打ち砕いて見せようぞ!」
「ッハハ、上等だ! いけ好かねえ居丈高だが、その啖呵は気に入った!」
オレは牙を剥いて笑みを作ると、力強くクラレントを握り締める。
もう痛みも畏れも必要ない。手に吸い付く柄の感触に、否応なしに心が昂ぶる。
ようやくオレは、心おきなくオレであれる。
戦う事に、素直に心を踊らせられる。
「我が王の足下にも及ばねえちっぽけな王が、よくもまあ吼えやがるぜ! この叛逆の騎士モードレッドが、ブリテンに引き続き、テメエの頭の中の仮初めの王国もぶち壊してやるよ!」
「仮初めでは無いと、言っておろうがぁぁぁぁぁ!」
オデュッセウスが弓を引き絞り――解放。伝説の勇士が放つ一矢が地を奔る。
彗星のような一撃を、オレは横っ飛びで回避。クラレントを手に突貫する。
「戦神アテナの寵愛を受けしこのオデュッセウス、力で勝る事は決して叶わぬと知れ!」
「ああ、身内にもそういう奴がいたよ! バカ力で、その分頭もバカなゴリラ野郎がなぁ!」
振り下ろされた剛弓。それに迎え撃とうと剣を翳し――直前でひらりと身を翻す。
大地にクレーターを産むほどに強烈な一撃。その反動で硬直したオデュッセウスの腕を駆け上がり、そのしかめ面目がけ、魔力を乗せた膝を叩き込んだ。
骨を砕き、肉を潰す確かな手応え。
しかし膝を引き抜くより先に、オデュッセウスの丸太のような腕が、オレの足首を鷲掴みにし、そのまま大地に強かに叩き落とした。
「ちょこまかと煩わしいぞ、鼠がぁ!」
何度も、何度も。身体がバットのように振り回され、大地に叩き付けられる。勢いだけで、太股から身体が千切れてしまいそうだ。頭に血が上り、視界がカァッと赤くなる。
「ッが、ぁぁぁぁぁ!」
振り上げられた一瞬の隙を突き、オレはオデュッセウスの手首を切り裂いた。かつてのオレがそうであったように、奴の手から力が抜け、オレの身体が宙に舞う。
「顔面を砕いても駄目なら――その首を、貰い受ける!」
落下の勢いのままに振るう一閃は、しかしオデュッセウスが上体を逸らした事で、奴の肩に深々と突きささる。
吹き出す鮮血。バキバキと骨を断ちながらクラレントが埋没する。
しかし肉を断つ感触は直ぐに止まり、オレの一撃は、鋼鉄のような肩甲骨を中程まで砕いたあたりで押し留められる。
「かっははは! この程度の刃で、我を下すとは片腹痛いぞ!」
「ちょっとは痛がれっての、クソジジ――わっ」
悪態を吐く隙に手首を握られ、またもオレは空中に拘束される。
もう一方の手がオレの首をがっちりと鷲掴みにする。
猛烈な息苦しさの中見下ろせば、奴の肩にめり込んでいたクラレントが一人でに抜け、その傷跡が凄まじい速度で塞がっていく。
圧倒的な回復。神の恩寵を授かる天性の肉体。それでも眼前で蠢く肉体は、さながら悪夢が形を為したよう。
「っなん、だよそれ。正真正銘の、化け物じゃねえか……!?」
「我はいかな傷を負っても、神がどのような試練を与えようとも、全てを耐え抜き、生き延びてきた……今の一撃、確かに響いた。しかしただの鋼が、我が身体を貫くことは決して叶わず」
酷薄に、獣のように牙を見せて笑うオデュッセウス。先ほど確かに砕き割った顔面は、もう鼻血の一滴も残さず回復している。
光を映さぬ盲目は、しかし迸る程の野心による黒濁とした色を讃えていた。ミシをオレの首を軋ませ、凄惨に笑ってみせる。
「ぐ、が……!」
「命の、格が違うのだ。神々の系譜に座す我と、不出来な泥人形の貴様。優れた方がどちらか等、論じるまでもない」
今度は殴り飛ばしも、叩き付けもしない。
ただ奴は悪魔のように笑うと、首から手を離し、オレのもう片方の手――アキレウスとの激戦でねじ切れた腕におもむろに手を伸ばし、思い切り握り潰した。
「づ――ぎゃあああああああああああああああああ!!」
「くはははは! 治らぬなあ、その腕は! 今貴様の身体を劈く痛みが、貴様の不出来たる証拠であるわ!」
ぐずぐずに潰れた肉が更に挽かれ、砕かれた骨や鎧の破片が神経を更に傷つける。ようやく忘れ掛かっていた痛みが、何倍もの刺激になって脳を焼け焦がせた。
オデュッセウスは更に笑みを吊り上げ、手に力を込める。血管がブチブチと音を立てて千切れ、まるで新聞紙を丸めるように、オレの断面が捏ね潰される。
「ぎぃぃぃぃぃぃ! うわああ、わああああああああ!」
「天罰であるぞ、叛逆の騎士ぃ! 度重なる神への不敬、自らの愚昧も認めぬ傲慢、その痛みで以て魂に刻めぇぇぇぇぇい!」
「ぎゃああああああああ! あああ、死ねぇぇぇぇぇぇ!」
発狂寸前の意識を振り絞って蹴りを放つも、オデュッセウスはあっさり顔面で受け止める。へし折った鼻が、強烈な笑みの中でゴキゴキと回復していく。
お返しにオレの胸に飛び込む、強烈なアッパーカット。ひび割れていた胸当てが、千切れるような音を立てて砕け散る。
「そしてぇぇぇぇ!」
「がッ――」
「己が下等を思い知り――地に伏し、恥じ入り! 崇め奉れぇぇぇぇぇぇぇい!」
そのままオデュッセウスは、オレに突き刺したままの拳を、全力で地面に叩き付けた。
地殻と一緒に骨が砕け散る。まさしく星を割るような一撃が、オレの胸に直撃する。
大地を消し飛ばす衝撃。その爆発に巻き込まれ、オレの身体も吹き飛んでいく。
言葉も出ない。感覚すらも追いつかない、圧倒的な力が、蹂躙する。