もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 作:オリスケ
うんざりするほど遅い速度だった。歩いた方が速いほどのノンビリした調子で、馬はパッカラパッカラ歩く。
マスターの胸が、数十センチの距離を開けて、オレの背中の近くにある。
「……本音を言うとね。ここに逃げ出した理由の五割くらいは私情だ」
「ハハッ。やっぱりかよ、このド変態」
「そうだよ。まともな神経の魔術師なら、サーヴァントが壊れたくらいで聖杯を諦めたりするもんか。僕は君とできる限り長く一緒にいたいが為に、ここに来た。聖杯よりも、君を選んでね」
「そうかよ。物好きなマスターもいたもんだぜ」
つっけんどんな対応を取って、精一杯はぐらかす。
胸がムズムズして、どうにかなってしまいそうだ。適当に癇癪を起こして逃げ出してしまいたい。だけど、両脇にマスターの腕があって、オレを逃がしてくれない。
「……例え、戦う事が君の本質だとしても。その喪失に苦しむくらいなら、忘れてくれたほうがいい」
言い聞かせるような圧力のある声が、頭の上から振ってくる。
暫くは静寂が続いた。マスターは俺の返事をじっと待つ。
「……マスターとサーヴァントだもんな。そりゃ、分かるよな」
「君の苦悩全部を推し量るなんてできないよ。けれど、辛いって事は分かる。怖いって事も」
背中をマスターに包まれ逃げ場のない状況で、マスターの柔らかな声が
耳朶を打つ。強ばった心が弛緩する。それにつられて、俺の口も自然に動いていた。
「……お前のことだ。今朝の夢も、どうせ見てるんだろ?」
「うん。酷かったね、アレは」
「やっぱりか、クソッタレ……あれは悪夢だが、限りなく現実だ。今はまだ可能性の段階だが、このままだと、オレは”ああなる”」
「……」
「傷は時間すら越えて”最初からあったもの”に変わりつつある。オレの霊基は不安定だ。というより、壊れかけだ。今ここにいるっていう事実だけで存在を確立している状態だ」
両腕はオレの脇で、所在なくブラブラと揺れている。痛みは僅かに和らいでいたが、心にのしかかる重圧は、今も耐え難く重い。
「自分が分からなくなる。こんな場所にいれば尚更だ。少しだけでも、自分が自分である証拠が欲しい。けれど、オレは暴れて、逆らって、憎み続けた人間だ。今のオレに許されてる『オレらしさ』は、何も残ってない」
馬が歩く度に視界が揺れ、周りの木々が懊悩に通り過ぎていく。
訳もなく視界が滲んだ。滲みはオレの声まで届き、心をしおらせる。
「なあ、マスター。オレの事がその……っす、好き、なんだろっ? なら聞かせろよ。オレって、何者なんだ? 剣も握れねえ。戦いも叛逆もできねえ。父上に見向きもされず、路傍に打ち捨てられる片輪者だ。そんなオレでも、オレなのか?」
涙が馬の鬣に落ちて消えた。役立たずのオレの腕は垂れ下がったままで、涙を拭うこともしない。顔を見られたくない。だけど、このまま抱えることもできない。
だから、こぼれる。涙と一緒に、弱音が溢れる。
オレは黙って、マスターの言葉を待った。オレを壊す事も、認める事も、オレ自身には無理な話だった。オレはオレの全てを、背中を向けるマスターに委ねた。
返ってきたのは、頭に乗った優しい感触だった。
「……君は君だよ。ありきたりすぎるけど」
ぐりぐり。子供にそうするように、強めに髪の毛をかき回される。
「叛逆も闘いも、君の個性(キャラクター)だ。人格(パーソナリティ)を侵害するものじゃない。君らしさの喪失で、君が君であることを失うなんて、それこそ順番が逆。筋が通らない話だよ」
「……」
「現実は現実だ。何が起ころうが時は流れるし、突然夢から醒める事もない。ここが地獄なら地獄だよ。だけど生きているのは必ずモードレッドだ。ここが地獄なら、君は地獄に落ちたモードレッドだ。否定なんてできやしない。『らしくない』っていうのは、現実から目を背ける言い訳だ」
頭頂部に置かれていた手が、横に回る。男のゴツゴツした指先が、そっとオレの頬に触れた。むずがゆさに背筋がぞくりとする。けれど決して嫌な感覚ではない。
「んっ……」
「理詰めは嫌い?」
「……ああ、嫌いだな。薄ら寒い御託はうんざりだ」
「じゃあ、もう少し優しい言葉で言おうか」
頬に添えていた手が、馬の手綱に戻る。頬の温もりを追いかけるように、俺の首がこくりと傾く。
全く。何もかもお見通しみたいな口を効きやがる。
そうだよ、寂しいんだよバカ。早く慰めやがれ。
「モードレッド。君の事が性的に大好きだ」
「ぼふっ!?」
「もうひと目見たときからゾッコンだったからね。超かわいいし、ツンツンした態度もいじらしいし、何だかんだで打たれ弱いし。ぶっちゃけ召還した時からランデブーを計画してたからね。途中から何が目的か本気で見失っていたし、いやあ我ながらこれは聖杯戦争も勝てる訳ないって半ば悟ってたなー」
「ちょ、おい、ざけんな!? それはさすがにふざけんなよ!?」
予想を裏切るマスターのダメ人間ぶりに、オレは久しく痛みを忘れて驚愕してしまう。落馬しなかったのが奇跡とすら思えた。
「まあ半分くらいは冗談なんだけど」
「半分が何かによっちゃ叩っ斬るぞお前」
「ははっ。まあまあ、僕はそんなだからさ。戦いとか、騎士とか、心底どうだっていいんだ」
バッサリと、そう切り捨てられた。
「……良かったな、今俺がクラレントを持ってなくて」
「そう。君はクラレントを持ってない。だから今の君は戦士ですらないだろう? そして、そんな君も大好きだ。それでいいじゃないか」
「……そうか?」
「そうだよ」
「そうか……」
平常時なら、きっとコイツの首は、もう繋がってはいないだろう。
そのぐらいには、腸が煮える。だけど、煮える以上に、器がくうっと広げられたような気がした。
「どうでもいい、か……ははっ、ムカつくヤローだ」
俺自身の、心の内が透けた。
ちくしょう。そういうことかよ。
誰かに……マスターに言ってほしかったのか。もういいと。気にしないと。
自分が嫌になる。結局、ガキのわがままって事か。
けれど……どうでもいい、か。ははっ、どうでもいいんだな。コイツめ。
馬が緩やかな上り坂に足を降ろす。体がほんの少し傾いて、マスターの胸板が近づく。
触れるか触れないかのギリギリの距離。胸が詰まる。目が熱い。内側からこぼれてくる液体の熱で、火傷してしまいそうだ。
「そうかよ……ああ、そうかよ」
こんなオレでもいいって、言うのかよ。
癪だから、嗚咽は漏らさない。声も滲ませない。面皮は崩さず正面を見据える。
頬を伝う涙の温もりが、ただ心地いい。
一面に茂っていた木々は眼前で区切れ、森はそこで終わっていた。馬はどことも知れない頂に向かって、のんびりと進み続ける。
「失った物は口惜しい。知らない事は怖い。でも動かない事は腐り果てる事だ。人というのは、常に自分の世界を新たにしていくんだよ。英霊だって、今ここにいる以上変わらない」
「それは、お前の格言か?」
「当たり前の事だよ。君が特別だから目新しく感じるだけでね」
視界が開ける。小高い丘を登っていた。あくびが出るくらいのんびりと。このまま永遠に続くんじゃないかと思うくらいゆっくりと。
「……諦めろ、とは言わない。叛逆こそが君の本質ならばこそ、地獄に呑まれる事を由としない。僕も君のために尽力する。いずれ、君の両腕に、煌銀のクラレントを取り戻して見せよう」
ふふっ、というマスターの微笑が耳をくすぐった。惚れてしまうような口上を笑い飛ばし、空気を緩ませる。
「だから、怖がる事はないし、こだわらなくていいと思うんだ。騎士であることは一旦休憩してさ、今ここにいる君を、目一杯楽しんだ方が、何かとお得なんじゃない?」
「……得、ときたか」
「楽しまなきゃ損だよ。こういう言い訳の方が、君にはしっくりくるんじゃないかな」
マスターはそう言って、どこまでものんびりと笑った。
のらりくらりと馬は進む。足取りは遅く、しかしそろそろ丘の頂点に差し掛かる。鬣ばかりを見ていたオレは、そこでようやく顔を上げた。
「…………、…………」
夕暮れに染まる景色があった。厳かに立ち並ぶ木々は、奥へ行くごとに互いの境界を失い、緑の絨毯を形作る。更に遠くで森はぱったりと途切れ、淡い緑の草原が広がる。その向こうでは、名前も知らない山の峰が緩やかな曲線で空と陸を区切っている。
その何もかもが、夕焼けの橙色に塗られ燃える。森に幾つか空いた穴は湖か。オレンジの光を反射して、鏡のように煌めいている。
どこにでもある、ひどくありきたりな景色だった。それこそ、オレがかつて生きた時代に、飽きるほど見た景色。
けれど……夕日とは、こんなにも温かみのあるものだったろうか。
丘の頂点に足をつけると、馬は一息入れるように進行を止めた。風がさぁっと吹き抜ける、僅かな空気の停滞。
「マスター」
強情だった背中の力が抜け、オレはマスターの胸に身を寄せた。最初からそのためにあったように、オレの体はすっぽりと収まった。
体の力が抜ける。目の前には代わり映えのしない橙の景色が広がる。視覚から入った色が心を洗い流すようだった。
馬が再び歩き出し、視界が懊悩にブラブラと揺れる。マスターは返事をせず、ただオレの背もたれとして、オレの声を聞いていた。
「オレにとって、馬は侵攻の為の脚だった。森は切り開くべき障害で、山は踏破すべき厄介者で、丘は敵を屠る戦場だった」
景色が流れていく。なんの意味もなく、ただそこにいるだけの物が、のんびりと流れ去っていく。
「……ずっと、そうやって駆け抜けてきたんだ」
ぶら下がったままの両腕に力を込める。焼けるような痛みを黙殺し、マスターの腕に静かに置いた。
マスターに触れた箇所が、ほんのりと温かい。不安定な馬の歩みはまるで揺りかごのようで、オレの心を解きほぐす。
背もたれも、肘掛けも、心を許せる。
じくじくと痛む腕も、まあいいやと思わされる。
中々、悪くない特等席だ。
「……たまには、いいかもな。こういうしょーもない時間も」
頭の上で、マスターが首を緩く振った気がしたが、よくは覚えていない。瞼は勝手に落ちてきて、意識はすぐに微睡みに溶けてなくなった。
悪い夢を見なかった。
だから、この時のオレは、きっと幸せだったんだろう。