プロローグ -猫のいる喫茶店-
「空閑君、今お仕事の帰りですか?」
とある冬の、すっかり夜の帳が降りる頃。細く白い息を吐きながらマフラーを巻き直して歩いていると、横合いから聞き知った声が飛んでくる。私がそちらへと視線を向けると、そこには私のクラスメイトの少女──綾地寧々さんの姿があった。
短いスカートに防寒具一式を合わせた冬仕様の女子高生然とした彼女は、私に視界で捉えられるとにこにこと笑顔を浮かべて私の方へと歩み寄ってきて、私の目と鼻の先で動きを止める。その楽し気な
「うむ、今しがたこっちに帰ってきたところでね」
「ふふ、お疲れ様です」
「ありがとう」
綾地さんの問いに簡潔に答えると、彼女は笑みを絶やさぬままに労いの言葉をかけてくれた。普段通りの綾地さんの優しさが少しばかり疲労を訴えてくる私の身体に染み渡っていくようだ。
「綾地さんも今帰りかい? 下校時刻はとっくに過ぎているけど……」
「いえ、学校からではなく、今日は喫茶店に寄ってまして。そこから帰るところなんですよ」
会話を途切れさせないために私からも問いを投げかけると、綾地さんは自分が出てきた路地の方へと一瞬視線を向けてからそう説明してくれた。人通りが少なそうでお店があるとは思えない場所であったが、彼女はそのような嘘を吐く人ではないので実際にあるのだろう。
促された好奇心が私の視線をその暗がりへと固定する。
「良かったら案内しましょうか?」
「……いや、もう遅い時間だし今日はいいや」
分かりやすい興味に綾地さんが反応して、親切にも私にそのような提案をしてくれたが、流石にこのような時間に女子高生を連れ回すのは忍びない。故に、若干後ろ髪惹かれつつも私はそれを断った。
単純に今は既に食事を済ませて何かをお腹に入れる気分ではないので、件の喫茶店はまた後日訪れればいいだろうという理由もあったのだが。まあ、店が逃げるわけでもあるまいし、焦る必要は無い。
「それより、夜道は危ないし送ってこうか?」
「いえ、明るい道を通りますから大丈夫ですよ」
「そう? じゃあまた明日学校で」
「はい、また明日、空閑君」
それから気分を切り替え、社交辞令を綾地さんを交わしてから私は帰路に着く綾地さんを何となくその場で見送った。白雪の様な彼女のたなびく銀髪は冬の夜道によく映えるなとぼんやり思考してから、自分も帰路に着こうとしたその時、私は何かの気配を感じ取ってその場に脚を縫い留められる。
「化生の気配……?」
何かを感じた──例の暗がりへとこちらも視線を向けて、私は再び気持ちを切り替えてからそう独り言ちた。人が大勢暮らす町並みに潜む妖しげなる気配に私の警戒度は増し増しだ。
そして、この地に降りて来てから幾度となく繰り返してきたこと故に、私の脚は自然と暗がりへと動き出す。仮に気配の主が悪性のものであれば、それ相応の対処をせねばなるまいと、そんな意思を抱きつつ。
「ここ、かな……?」
しばらく歩くと気配の下に辿り着き、私はその建物──恐らく先ほど話題に上がった喫茶店と思われる──を軽く見上げた。動く気配もなく、また、ここまで近づいて一片の邪気も感じない時点で杞憂で済みそうではあるが、念には念を入れて突入することにしよう。まあ、突入と言えるほど物騒なことにはなりはしないだろうが。
「おや、すまない、今日はもう店じま……」
徐に戸を開けて、まだ明かりが照らす店内へと入り込むと、マスターと思しき女性がすぐさま私に声をかけてきた……が、その声は何故か途中で途切れてしまった。ふむ、私が妖性を感じ取ったのと同様に、彼女もまた私の気配を感じ取ったのだろうか。
「や、すみません、もう店仕舞いでしょうか?」
「あ、あぁ、いや……コーヒーの一杯ぐらいなら、その……」
しかし、その思考を表に出さずにあくまで一般客を装って話しかけると、推定店長のお姉さんはそれに非常に歯切れ悪く言葉を返してきた。一応拒否はされなかったので、私はその誘いに乗っかって入店を果たす。
お腹も空いていないし、彼女の言葉通りコーヒーを一杯頂くとしよう。
「大丈夫ですか?」
「……君があまりにも恩人に似ていてね。少し驚いてしまったんだ」
カウンター席に座ってからも桃色の髪のマスターの動揺は収まらないので声をかけると、彼女はほんの少し間を置いてからそう語る。一言謝罪してからコーヒー作りを再開しても、ちらちらと作業の合間にこちらに視線を送る辺り、相当その恩人と私は似ているらしい。その瞳には有り得ないものを見たという気持ちが多分に孕んでいたのが気になるが。
「どうぞ」
「はい、いただきます」
ルーティーンにも近い作業をしている内に幾分か落ち着いてきたのか、コーヒーを出す頃にはマスターに同様の色は見られなくなってきていた。化生探りもすっかり頭から抜け落ちていた私は差し出されたコーヒーを受け取って、鼻を抜けていくそれの香りをゆっくりと堪能する。
「隣、いいかな?」
「えぇ、構いませんよ」
コーヒーを口にする前にマスターはこちら側へと回ってきて、一言断りを入れてから私の隣の席へと腰を掛けた。他の客もいない以上、それを咎める理由は個人的にはない。
「すん……」
特に会話が起きるわけでもなく、カップがソーサーと合わさる音だけが響く空間に、ふと隣から匂いを嗅ぐために鼻をひくつかせる音が聞こえてくる。ちらと視線を寄こせば、そこにはこちらを向いているマスターがいて、必然、その二つの視線が直線上でぶつかり合った。真っすぐにぶつけられる
「すんすん……」
「え、えっと……?」
匂いを嗅いでいると気付いたことに気付いたのか、店長さんは逆にその動作を隠すこともせずに堂々と私の首筋の匂いを嗅ぎ始めた。突然の凶行を止める間もなく、私はそれをされるがままだ。
「やはり、この匂い……」
そして、ついに鼻が密着する程近付いた店長さんは、堪能する様に閉じていた瞼をゆっくりと開いてから私から離れていった。と言っても、離れたのは顔だけで、全体的な距離は寧ろ先程よりも近いが。
「店長さん?」
「ナナオ」
「へ?」
独身貴族の現状、美人にくっつかれて悪い気はしないが、真意を問い質さないのはそれはそれで変な話なので、疑問符を浮かべつつ店長さんに話しかけると、何かの単語で話を遮られて、私は更に疑問符を頭に浮かべることとなる。彼女は今何と言った?
「君が名付けた『ナナオ』という名で、呼んでおくれ」
二の句を告げずにいると、店長さんは潤んだ瞳でそう口にした。遥か昔に刻まれた思い出を揺さぶる名前に、私は目を見開いて動きを止める。
偶然訪れた場所で、私と黒猫の止まった時間が再び動き出した。
開幕寧々ちゃ。