箱庭の世界に降りてきてから、私は最初の五年を工房に引き篭もって楽器を作ることにほとんど費やすこととなった。予想に反して時間に猶予があったからと、元資金に余裕があるうちに質の良い物を作り上げて、それを売り込むことで楽器職人としての地盤を固めたかったからだ。
その甲斐あってか、その間で世界レベルとはいかないまでも、日本国内においては一流の楽器職人として知られるようになって、順調な人生の軌道を作り上げることには成功した。これで第一の関門は突破できたと言ってもいいだろう。
この期間に起きたことでついでに言っておくことと言えば、元々動かなかった私の両脚が、ある事情によって膝から先が綺麗さっぱり無くなったことだろうか。あってもなくても大差ないものなのでそこまで気にしている訳では無いが、ある母子に突っ込もうとした暴走トラックから母子を庇った結果とだけ言っておこう。
ちなみに、その時に使っていた名前はもう仕事以外では使っていないので、最初の頃はあったその家族との交友も、今は途切れてしまっている。
次の五年は工房を出て外の世界を色々と見て回ることが多くなった。前世ではできなかった
この頃になると、楽器作りのために月に二、三度ほどしか工房に戻らず、家を空けることが多くなったような気がする。不思議な伝承や物を見たり聞いたりすることに傾倒していたのだろう。
そして、最後の五年はほぼ全くと言うほど工房に戻ることはなかった。お金を一生働かなくていいほどに稼ぎに稼いでしまったので、消費のために旅行しまくったせいだ。
一応、件の学院に行くための準備が必要な時期は、そちらに奔走していたので旅行は控えていたが、中学にはほとんど顔を出さなかったので、多分皆からは妖精みたいな何かと思われていたことだろう。
あと、この頃から楽器職人の
それでもって今日、2015年4月7日、私は何事も無く合格した姫松学院に入学することとなる。楽器態故に目立つ容姿に、欠けているが故に目立つ外見、その二つが相まって、学年問わず非常によく視線を浴びることが多かったが、それは仕方の無いことだと割り切っていこうか。
「あ、れ…………? わ、私、戻ってきた……?」
突如切り替わった光景に、私は掠れた声で辛うじてそれだけを言葉にすることが出来ました。
そこに広がるのは先程まで見えていた悪夢のような光景ではなく、遠い記憶の中にある私が小さい頃に使っていた部屋。それはつまり、魔法が発動して過去へと戻ってきたことを意味します。
「あ、あま、天都君、は…………?」
現状を認識した私は、次いでうわ言のように恋人の名を呼びました。私を庇ったせいで下半身を失って、赤黒い血を吐いていたところまでは覚えていますが、その後どうなったのかは記憶が混濁していて覚えていません。
『魔法が発動した』ということは、天都君もこの世界に来ているはずですが、時間を飛ぶ直前があのような状態であったこともあり、私の心の中は言いようのない不安で満たされていました。
「う、うぅぅぅっ……! やだぁ……っ、あまと、くん……っ! 会いたい……会いたいよぉ……っ!」
恐怖、不安、絶望。そういった、天都君がいないかもしれないという現状から生まれた負の感情が瞬く間に心を蝕んでいって、私は次第に大粒の涙を流し始めます。
怪我を負っていた私も怪我が治って時間を遡ったから大丈夫。そう思って、天都君の死から目を逸らすことしか今の無力な私にはできませんでした。心が壊れないように、無意識的に防御機構が働いたのかもしれません。
そして、そんな私の泣き声を聞いた私の両親が二人揃って部屋に入ってきて、幼い私を慰めるために私を抱きしめながら言葉をかけてくれました。長年追い求めてきて、やっと再び感じることが出来た二つの温もり。それはとても嬉しいことのはずなのに、私の心の痛みと苦しみは、全く晴れることはありませんでした。
それからの私は虚ろな人形のようにして生きていたと思います。人の営みはなるようにしかならなくて、お父さんとお母さんの冷めきった関係を見ていると、私の『両親が離婚しない』という願いは、結局のところ意味の無かったものだったと気付かされて、天都君の安否も分からない不安も相まって、前回以上に人から距離をとって過ごしていました。多分、何をする気力も無かったんだと思います。
時間を作っては天都君の面影を探すように、天都君との思い出の場所を彷徨って、『彼は死んでいない』と、心の中で何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も言い聞かせて、私は心が折れそうになりながら生きていました。
去来する楽しかった思い出や嬉しかった出来事。それが非情な現実をより色濃いものにしてしまって、こんなことになるならいっそのこと忘れてしまいたいと思ってしまったことも一度や二度ではありません。それでも、天都君は生きていると信じて、私は生き続けました。
工房に天都君の姿を確認出来ず、空木天羽という字面が似ているだけの方がそこの所有者であることを聞かされた時、私の心は完全に折れてしまいました。今まで薄皮一枚で保っていた生命線が絶たれたような想いでした。
天都君のいない世界なんて生きる意味はない。そんな想いがみるみるうちに私の心を埋め尽くしていって、その場で自殺することも考えましたが、寸でのところでそれはまだ踏み止まりました。天都君と初めて出会った姫松学院の入学式。それを最期の希望にすることにしたからです。
それが駄目だったら、もう未練もないこの世界からは旅立つことにします。
そして迎えた運命の日。久しぶりに目にした久島先生に案内されたクラスの中に、天都君の姿を見ることはできませんでした。半ば諦めかけていたからかは分かりませんが、やっぱりもういないんですねと、折れて残骸になった私の心はそれを大人しく受け入れます。もう私には何も残されていませんから。
でも、最期に一度だけ、オカ研には行けませんので、特別棟の側に生えた、前回最後に天都君と一緒に見るはずだった、『
もう少し学院を見て回りたいからと嘘を吐いて、お父さんとお
そして、目的の場所に辿り着いた時、私は桜を見上げるようにして動きを止めている車椅子の男子生徒がいることに気が付きます。前回の世界ではそのような方はいなかったと思い────車椅子?
直感にも近い何かを感じて、私は震え始めた脚を必死に動かして、一歩一歩、ゆっくりと件の男性の方へと歩み寄っていきます。
「あ、ぁあぁぁ……」
目の前の男の人に近づくほどに、灰色になっていた私の世界に色が戻り始めました。私の直感が、本能が、目の前の彼があの人だと訴えかけてきます。
「あっ、あま……」
上擦った声で呼びかけると彼は私の存在に気がついたようで、桜を見上げる姿勢から、車椅子を転身させて私の方へと向き直ってきました。そうして見えるようになった顔はやっぱり────
「あ、まとく、ん……ッ!」
鞄も捨て置いて、私は私の天都君に駆け出して、跪いて縋り付くようにして抱き着きました。何年も溜め込んでいた涙が錆び付いていた涙腺から流れ出して、天都君のワイシャツを濡らしてしまいますが、彼は驚きながらもゆっくりと私の頭を撫でてくれます。じわりと手のひらから伝わってくる、何年も待ち望んでいた天都君の温もりが、私の凍り付いた心を氷解させていくのを確かに感じました。
しかし、今まさに地獄の底から引っ張り上げられている私の心情は、次の瞬間に横っ面を殴られるような衝撃に見舞われることになります。
「美しいお嬢さん、どのようになされたのですか?」
「天都、君……?」
「おや、私と何処かでお会いしたことが?」
何処か懐かしい感じがする桜の木を車椅子を止めて独りで眺めていると、突然号泣しながら
ふむ? これだけの美少女であれば、面識があることを忘れるとは思えないので初対面のはずであるが、どうやら彼女の方は私のことを知っているらしい。どういうことなのだろうか。
「う、そ…………ね、寧々です……! 綾地寧々です……! あま、天都君の恋人で、将来を誓い合った……」
「恋、人……?」
次いで、綾地寧々と名乗った少女は鈍い光を放つ瞳を私に向けたまま、私と彼女の関係を『婚約者』と呼称する。彼女とよく似た髪の色の娘と契約を結ばれそうになったことはあるが、当時はまだ年端もいかない幼子であったあの子がこのような場所にいるとも思えない。というか、まず名前が全然違う。
それに、そのような関係であればなおのこと忘れるはずはないと思うが、しかし、同時に目の前の少女から嘘を吐いている音も伝わってこないのだ。それはつまり、彼女の言う婚約関係が本当のことであるか、或いは少女が私と彼女の間に婚約関係があると妄信している、かなりの程度危ないお方であるかの二択であることを意味していた。
流石に私に話を通さずにそのような関係が結ばれるとは到底思えないので、後者である可能性が濃厚であるが、いや、これはどう対処したらいいのだろうか。どうしても視線に疑いの色が乗ってしまうことぐらいはどうか勘弁して欲しい。
「失礼ですが、何方かと間違えて……」
「そんなわけないです! 天都君は歌唱者としての
「!! 何故それを……それに、過去に戻ってきた……?」
かと言って、徒に刺激するのもまずいので真っ向から否定するわけにもいかず、私は遠回しにそれを指摘してみると、何と驚くべきことか、少女は私がこの世界に降りてきて、まだ一度も口にしたことのない私に関する情報を話し始めた。これには私も混乱してしまい、思わず否定の意思も揺らいでしまう。
待て待て待て待て、どういうことだ? まさか本当に……?
「もう、もう二度と、離れたくないです……! 死んでしまったかと思って、ぐすっ、それでも生きてるって信じて、今日まで天都君をずっと、ずっとずっと探し続けてぇ……! うぅぅ、えぐっ……やっと、やっと会えたのに、私のせいで記憶も、脚も失くしてて……! ひぐっ……うぁ、あぁぁぁぁっ……!!」
ボロボロと、少女は輝きの濁ってしまった二つの
力を行使して彼女を助けた? 一緒に過去に戻る約束をしていた? 死んだかと思っていた? 少女のせいで記憶と脚を失った? それらの疑問が、大した問題ではないと今まで捨て置いてきたことを線で結んでいく。
初めて転生したと思っていたつもりが実は二度目の転生で、最初に感じた永い眠りからの解放に近い感覚は、それによって生じた記憶と身体の感覚のズレだったということなのだろうか。飛躍した話だと思うが、しかし、同時にそう考えると繋がってくる話があることもまた事実である。
楽器を扱う時に妙に指が動くとは思っていた。作る楽器の数々が想定以上の出来になることも少なくはなかったはずだ。工房のある街を歩いていると、初めて訪れる場所でふとした時に郷愁に駆られることもあった。他にも小さな引っ掛かりを覚えることは多々あったように思える。
これらのことを、私は調子が良いと解釈したり、既に消え去った前世の記憶の名残であると考えてきたが、少女の言ったことを総て真実であると仮定するのであれば、一度目に転生した時に私がしてきたこととして説明がついてしまう。
そうであるならば楽器も上手く扱えよう。それは過去に積んできた研鑽の結果であるのだから。
そうであるならば質の良い楽器も作れよう。それは身体が覚えるほどに多くの楽器を作り続けてきたのだから。
そうであるならば懐かしい想いも感じよう。それは婚約者になるほどに想い合った少女と隣り合って歩いた道なのだから。
頭に靄がかかったような感覚があって、記憶は依然として戻ってはいない。しかし、少女が、綾地さんが吐き出した言葉と抱いている想いが真実であることは、心で理解できた。そこからは、何度も同じことをしてきたのか、まるで身体が覚えているかのように私は動き出す。
「……あなたのことはまだ思い出せません」
「っ!」
「でも、あなたが嘘を吐いていないということは、何となく分かりました」
止め処なく涙を流しながら、綾地さんは口を結んで私の言葉を待ち続けた。それは不安と恐怖に圧し潰されそうな脆さを感じさせて、記憶が戻らない私の心をキュッと締め上げる。
「ですから、あなたが触れ合ってきた私のことを教えてくださいませんか?」
「ぐすっ、そ、れって……?」
「信じます。私が綾地さんの婚約者であったことを。取り戻させてください。綾地さんとの思い出を」
「は、い゛ぃ゛ぃぃ…………!!」
意を決して、心に浮かぶまま言葉を連ねると、綾地さんはもう先程の号泣で枯らしていたと思っていた涙を再び流し始めて、感極まった表情のまま私の胸に飛び込んできた。震えながら嗚咽を漏らす綾地さんの姿にも、何故だか懐かしい気配を私は感じる。
こうして、私は初めて出会った少女と十五年ぶりの再会を果たすこととなった。それが何を引き起こすことになるのかは、この時の私にとって知る由もない。
こっそり本編の方でも使う予定の小話とかが出て来てます。