「天都君♪」
「あや……寧々さん、どうかしましたか?」
不思議な邂逅から時は流れて翌日の昼休み。まだ授業が本格的に始まるわけでもないので、比較的楽な時間が過ぎ去って教室内を和やかな雰囲気が支配し始めた頃、教室の後ろの方の扉が開かれて私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
その声の正体は隣のクラスの綾地寧々さん。現段階ではまだ色々と謎が多く、しかし、同時に記憶を失くす前の私が大切に想っていた人……らしい。前向きに接する心持ではあるものの昨日の今日でいきなりのことであったので、記憶が戻るどころか未だに実感が湧いてこないのはどうか勘弁してほしいところである。微妙にしっくりきていない呼び方のせいもあるかもしれない。
それはさておき、今朝も一緒に登校した、絶世の美少女と言っても差し支えないほどの美貌を持つ彼女であるが、はて、何か用事でもあったのだろうか。
「お昼休みですし、一緒にお弁当を食べましょう」
なるほど、そういうことであったか。恋人同士であったというなら、そういう風にして同じ時の流れの中で過ごすこともあったのだろう。
「では、購買で何か買ってくるので少しだけ時間をいただいてもよろしいですか?」
「今日は作ってきてないんですか?」
寧々さんはお弁当を用意しているようであるが、私は買いに行かなければ食べるものが何もないので、それを彼女に伝えると、彼女は不思議そうな顔と声をこちらに向けてきた。
「私がお弁当を?」
「はい、ですのでいつもおかずの交換なんかもやってましたよ」
「なるほど、道理でやけに料理の時に身体が動くと……」
どうやら、記憶が無くなる前の私は毎日お弁当を自作してくるほど料理が好きだったらしい。まあ、お弁当は基本的に前日の夕餉で上手く遣り繰りするのが賢いやり方なので、毎朝わざわざ作っていたのかは定かではないが。しかし、こういった知識がノータイムで引き出されることを考えると、料理に詳しかったのは間違いなさそうである。
「天都君?」
「いえ、何でもありません。そうですね、それなら明日からは作ってくることにします」
動きを止めていた私の顔を覗き込むようにしながら、寧々さんはボーっとしていた私に声をかけてくる。おっといけない、少し考え事に耽ってしまった。
「それで、おかずの交換もしましょうか」
「ふふふ、久しぶりの天都君の手料理、楽しみにしてますね」
「これぐらいで喜んでいただけるならいくらでもお作りしますよ」
にこりと笑顔を交わし合って、ここでようやく私たちは教室から立ち去っていく。目立つ組み合わせの奇妙な会話だったせいで、向けられる視線の量が尋常ではなかったが、寧々さんは気にしたようなそぶりを見せていなかったので、私も特に気にしないことにした。
「ところで、目の下に隈があるようですが大丈夫ですか?」
「はい、これからはぐっすり眠れますから」
廊下を二人で進みながら、私は先程寧々さんの顔が間近に迫った時に見えた、化粧で巧妙に隠された寝不足の象徴のことを尋ねると、彼女は声を弾ませながらもう平気であると主張する。
これからはぐっすり眠れるということは、今まではぐっすり眠れなかったということで、邂逅時の少々異様とも言える寧々さんの様子から察するに、その原因は間違いなく私であろうが、そのことで私が謝罪をすれば逆にまた彼女は自責の念に囚われてしまうことも想像に難くない。直感ではあるが、そのことに関しては何故か確信めいた予感が私の中で存在しているので、ここで敢えて藪を突く必要はないだろう。
「天都君、あーん……♪」
「あ、あー……んむっ…………んぐっ、寧々さんの料理は美味しいですね」
「えへへ、まだまだたくさんありますからね」
あれから購買で昼食を買ってから人気の少ない中庭まで移動して、私たちは二人きりの食事会を楽しんでいた。そして、好きなものがあまり残っておらず、購入量が少し心もとないものとなっていたが、寧々さんがにこにこと笑顔を浮かべながらおかずを分けてくれると提案してくれたので素直に乗った結果、今のようにあーんで食べさせてもらうことになっている。
確かに恋人らしい行為ではあるが、まだ実質的に出会ったばかりの美少女にやられると気恥ずかしいものを感じなくもない。寧々さん曰く、記憶を失くす前は寧ろ私がノリノリでやってくる側であったらしいのだが。
「あー……」
「こ、こうですか?」
「んむっ……ごくっ……ふふ、天都君とのキス……♡」
続いて、次は私の番だと寧々さんは目を閉じて口を開けたまま無言で催促してきたので、戸惑いつつも咄嗟に食べていた焼きそばパンを差し出すと、彼女はそれを上品に咀嚼して飲み込んだ後、いやらしい笑みを浮かべながら自身の唇に人差し指を走らせてそう口にする。そう言われてから、もろに食べかけの部分を食べさせてしまったことに気が付いて、私は自分の頬が熱くなっていくのを知覚した。正確にはキスではなくて間接キスであると指摘する余裕はなさそうだ。
「うふふ、そういうこともたくさんしてきたのですから、今更遠慮する必要もないんですよ……♡」
「ね、寧々さん、学院内ですから……」
そんな風に初々しい反応を見せる私に、寧々さんは妖艶な笑みを向けながら誘いの言葉をかけてくる。それに対して私は口では及び腰になっているが、意思に反して私の目は少しだけ突き出すように形作られる寧々さんの桜唇に釘付けになっていた。意識がそこに吸い寄せられて、何だか頭もボーっとしてきたような気がする……。
「ふふ、冗談です。でも、お家に帰ったら……熱くて激しいのをお願いしますね♪」
しかし、揶揄う様な寧々さんの声が耳に入ってきた瞬間、何かに沈みかけていた意識が浮上させられて一気に覚醒した。危うくその場の流れに流されるところであったか。
うーむ、記憶が無くなる前の私は、学院内でも身体を求め合うほど寧々さんと熱々な関係だったのだろうか。何だか今の私との差異の大きさにまるで実感が湧いてこないが、かといって、それに対して拒否の感情が浮かんでくるのかと聞かれると、全くもってそういうことではなかった。
あの後、結局キスすることはなかったが、昔の私の話を聞きながら寧々さんと一緒に食べる昼餉は、今まで一人で食べてきたものよりも格別に美味しかったような気がする。記憶には残っていないけれども、それは私の魂が、以前の私が寧々さんのことを本当に愛していたという証明をしてくれているようだった。
昼餉を終えて教室に帰った後、午後の部も午前と同じように楽な感じで流れていって、時はあっという間に放課後の時間。ホームルームが終わると、昼休みと同じように寧々さんが隣のクラスから私のことを迎えに来てくれた。そして、二、三言会話を交わしてからまだ賑やかな教室を後にして、そのまま立ち止まることなく私たちは学院を後にしていく。
寧々さんの美貌故によくかけられる新入生獲得のための部活勧誘の声も、彼女は気に留めることすらせずに、私の車椅子を押して無言で足早に歩いていく様子は少しだけ怖かった。
「寧々さんは部活はやらないのですか?」
「はい、もう私には必要のないことですから」
私はそれが気にかかってか、諸々の事情で部活動ができない私にここまで付き合う必要はないと言外に寧々さんに告げると、学院を出て歩くペースが元に戻った彼女は一瞬の間も置くことなくそう答える。その声はほんの少しだけ硬かった気がした。
「前の時も部活はやってなかったのですか?」
それに言いようのない居心地の悪さを感じてしまい、私は続けて彼女に対して問いを投げかける。『もう』ということは、以前は必要だったということだったのかもしれない。
「いえ、以前はオカルト研究部という部活に所属していましたよ」
「それは私も?」
「はい、そこから私たちの関係が始まったんです」
その問いに寧々さんは嬉しそうに声を弾ませてそう答えた。部内恋愛から始まって学生の内に婚約まで果たすとは、随分と豪気だったんだなぁ私。
しかし、オカルト研究部か……。何だか想像がつかないな。黒魔術でもやっていたのだろうか。
「それには入らないので?」
「天都君が一緒に入ってくれるなら、今すぐにでも」
つまり、入る気はないということか……。仕事もあってその上身体が不自由な私は、事前に部活に入る気が一切ないことを寧々さんに伝えているのだ。だが、いくら将来を誓い合う仲であったとはいえ、ここまでべったりでいるものだろうか。
「その、お気持ちは嬉しいですが、常に付きっ切りというのも疲れるでしょうし……」
好かれているという自覚はある。それも特大の愛で以て寧々さんが私を愛していることは、彼女の態度でも言葉でも示されてきた。まだ会って二日であるというのにだ。
しかし、それに胡坐をかいて彼女のお世話になりっぱなしでいいものだろうか。その疑問に対して、私の心はそれを否としている。そう思って、自分のために時間を使って欲しい旨を伝えると、車椅子を押していた寧々さんが急に立ち止まり、ゆっくりと動いていた景色が動きを止める。
「寧々さん?」
「…………私は邪魔ですか?」
どうしたのだろうかと顔を寧々さんの方へ向けると、そこには虚無が存在していた。表情が抜け落ちた寧々さんの顔を見て、思わずぞわりとした感覚が私の背中を駆け抜けていく。
「いえ、そういうわけではないのですが、やはり申し訳ないと言いますか……」
「それなら天都君が気にする必要はないですよ。私は天都君と一緒にいることが一番の幸せですから」
取り繕うような言葉を紡ぐ私に対して、寧々さんは輝きを失った
「どんな時も天都君と一緒にいたいんです。もう天都君と離れたくないんです。それが私にとっての唯一の幸せで、生き甲斐なんです。ですから、どうか、私を天都君のお側においてください。身の回りのことは私が何でもします。どんな命令でも聞きます。犬になれと仰るのであれば、喜んで犬になりましょう。ですから、ですから私を独りにしないで…………」
「寧々さん……」
寧々さんの瞳の奥に渦巻く極大の狂気を垣間見て、私は二の句を告げることができなくなる。それと同時に私の胸に罪悪感が広がっていって、一人の少女を狂わせてしまった事実に胸が締め上げられるような感覚に襲われた。
「……分かりました、変なことを言ってしまって申し訳ありません」
「えへへ、天都君……♪」
寧々さんの手を取り、先程までの言葉を訂正して私の側にいて欲しいと伝えると、寧々さんは今の今まで放出していた闇を奥に引っ込めて、心の底から嬉しそうに笑顔を浮かべる。その笑顔は昼休みに見たものと同じもののはずなのに、何処か危うく脆いものに感じられた。
何か天都君が急に童貞ムーヴかまし始めましたけど、書いてる本人が一番困惑してますよ。