その日も提督は帰ってこなかった。
私は指折り数える、提督が行方不明になってから何日経ったのかと。
ああそうだ今日で
もう擦り切れそうなくらい磨いた提督の机、予備の軍服を最後にクリーニングに出したのはいつだろうと、背広掛けに並んでいるそれからハタキで埃を落とす。
はぁっと息を吐きながら部屋の窓ガラスを拭く。
鎮守府にある窓ガラスは枚数を覚えてしまった、全部で2326枚。
もう、鎮守府に残っているのは初期艦である私しかいない。
いつもみんなの艤装をチェックしていた明石さんも、大本営の連絡員だった大淀さんも大本営から召還されて去ってしまった。
提督と共に泣き笑い、練度を限界まで上げた艦娘も、提督とケッコンカッコカリして限界を越えた艦娘も、みんな新しい鎮守府へと異動していった。
かつては200を越える艦娘を収容していた寮にはもう誰も入っていない。拡張に拡張を重ねて10階建てにまでなってしまったそれが廃墟になっていくのは心寒々しいものだ。
修理ドックに湯が張られなくなって久しい。誰も傷つかなくなったことで使われなくなったそれは空っぽのままで、どこから入り込んだのか落ち葉が湯船の底に何枚か落ちている。私はそれを拾ってポケットに収めると見回りを続けた。
妖精さん達が忙しそうに動き回っていた工廠もがらんとしている。ここで武蔵さんが開発講座をして新しく来た艦娘をドン引きさせていたの思い出す。
何千何万という資源を溶かした溶鉱炉も火が落とされている、これを動かすにはまた何日もかけて温度を上げていかなければならないだろう。いや、その前に全面的な機械のメンテナンスをしなければいけないな、それもこれも全部妖精さんの仕事だけど。
そういえば溶鉱炉から産まれたドイツの艦娘達はどうしてるだろう、駆逐艦の可愛い方は提督に大分お熱だったような気がする。それなのに提督はドイツ重巡の尻を追いかけていたので、私も彼女のことは顔よりも尻の方を思い出してしまう。
工廠の片隅には工作室があった。そこは明石さんの改造機材が置いてあったところだ。明石さんが武装の改造に失敗しては提督に
……私がここに1人取り残されてから大規模作戦が何回も行われたそうだが、テレビも見なければ新聞も読まなくなった私には戦局のことなどついぞ分からない。この鎮守府さえ無事平穏ならば私はそれでいい……
……そう、私はいわばこの鎮守府に残る思い出の墓守なのだ。
掃除点検を含めた鎮守府の見回りが終わる頃には昼になっていた。私専用の広々とした食堂に行くと、その隣の甘味屋間宮は「CLOSED」の板がかけられっぱなしだ。間宮さんも伊良子ちゃんも新しい鎮守府で頑張っていることだろう、戦う物にとって甘味は貴重な娯楽だ。甘味チケットを巡った争奪戦や裏取引は非常に楽しかったのを思い出す。あ、そういえば貸しっぱなしのチケットあいつから取り立ててない。
兎も角、調理室に入って冷蔵庫の中身を確かめてからご飯を作り始める。業務用の高火力ガスコンロで作る炒飯は手早くできる。本当に一人で使うのはもったいないぐらいだ。朝作った味噌汁を温めて一緒に食す。
艦娘達の笑い声、嬌声、咀嚼音、どんよりとした潜水艦達の目、悲鳴、高い声、低い声、ひそひそ声、声、声、声。
食堂でひとりぼっちで食べていると。それらが幻聴のようになって私の耳を叩いた。この鎮守府が最も輝いていた頃、提督が中心となって皆が生き生きとしていて、オリョール海を周回し、精密なスケジュールを立てられていた遠征部隊は毎日のように出撃して帰ってくるのが深夜なのも珍しくない。だから24時間開いていたこの食堂はいつも誰かがいた、いたんだ。
ごちそうさまと呟いて1人分の食器を片付けて休憩時間は終わり。ああ、午後は畑の様子を見なければ。
放置されていた裏庭を開墾して家庭菜園を作った。毎月振り込まれる維持管理費から捻出して作った私の生命線。キュウリにトマトにジャガイモ、ニンジン、サツマイモ。1人で喰っていくには十分な量だ。私の人間としての部分に十分な栄養を供給してくれる。近所の人と物々交換の種になるので多めに作っている。
そして、艤装の油や弾薬もこの鎮守府の備蓄分で十分にまかなえる。だけど出撃命令を出してくれるものがいないので、艤装はドッグに入れっぱなしだ。
だからこうして週に1度は艤装の点検をする。脊髄接続端子良し、電探良し、砲塔良し、魚雷管良し、弾薬燃料共に良し。
最高クラスにまで改良されたそれは深海棲艦に対する十分な威力を秘めていたが、今ではどこかしら輝きがくすんでいるように見える。やはり兵器は使われなければこうなってしまうのだろうか?
夕方になると、鎮守府の近所にある居酒屋鳳翔までつい足を運んでしまう、当然ながら閉店の板が扉に張り付けられている。私は浮浪者や泥棒が入り込んでないか一応裏口までチェックしてから鎮守府へと帰る。
鳳翔さんは去年か一昨年頃かに、年賀状で結婚しましたというメッセージと共に新しい居酒屋で配偶者と一緒になっている写真を送ってきた。いつか帰国することがあれば必ず足を運ぼうと思っている。
そして今日の最後のお仕事。
提督の執務室のカーペットを引き剥がすと地下室への扉がそこにはある。重々しい音を立てながら両開きの……まるで銀行の金庫のような分厚さの鉄の扉を開く。これも全て艦娘から提督を守るためなのだと明石さんは言って、段々と頑丈な扉に改造していった末がこれだ。艦娘の馬力でなければ開けられないような重さの扉。提督のような人間では絶対に開けることは出来ないので、鍵すら不要になった。
そうだ、提督が行方不明になったのは
長い地下道を探照灯で前を照らしながら歩いて行き、突き当たりのドアを開いて電灯を点ける。ワンルームマンションのように生活環境の整ったそこは風呂もトイレも完備されていて――
――――そこには誰もいなかった。
監禁中に自殺しないように精神病院の病室を参考にして設計されたクッション付きの床や壁はびっくりするぐらい綺麗で、湿ったダブルベッドには枕も毛布もシーツもなくマットしか残っていない。
入り口から見渡せる範囲には血の一滴の痕跡すら何もない。私は思わず四つん這いになって鼻を効かす。あの香しい提督の残り香を求めて。すぅーっと胸いっぱいに空気を吸い込んでも湿ったカビ臭い匂いしかない。
思わず奥歯を噛みしめてギリギリと歯ぎしりをしてしまう。分かっていたはずなのに、せめて毛布やシーツの1枚でも残っていれば慰めになったものを。一体誰が持ち去ってしまったのか。容疑者が多すぎて搾りきれない。私に大和や武蔵のようなザイバツの強力なコネがあれば追っ手を差し向けて提督の血と汗と精液が染みついたそれを回収してやったものを……私は肩を落としながら地上に戻った。
鎮守府本舎の四畳半の宿直室が私の今の住居だ。夕飯を食べ、簡易シャワールームで今日の汗を流すとさっさとパジャマに着替えて寝床に入り込む。
湿った布団をそろそろ日干ししたいなと思って何ヶ月経ったことか、明日晴れたら干そう、明日晴れたら干そう、そう思いながらもぞもぞとしていると睡魔が私を襲い、夢の世界へと連れて行った。
夢の世界では私は提督と共に旅をしていた。近未来の横須賀で提督と事件を追っていた。私は提督の車椅子を押していた。提督に秘密クラブに連れて行かれた。提督が死んだ。提督が監禁された。提督が工場になった。提督が……提督が……最後に提督に抱かれたその日私は……
もやもやとした気分で目が覚める。夢の内容はいつも曖昧模糊で、ほとんど何も覚えてないと言っても良い。だけどたまにもの凄く切なくなって涙が流れることもある。よっぽどいい夢を見たんだろう、その時の内容ぐらい覚えていればいいのに。
そして……私はいつもの習慣で寝間着のまま夜明け前の港に立った。水平線の向こうまで耳を澄ませば、あの音が……みんなの汽笛の音が聞こえそうだから。
それが聞こえたような気がして、私は水平線に顔を向ける。まぶしさに思わず目を細めて――
暁の水平線から伸びる影、それは――