「彼はプロテスタントの信者だったけれど、同時に先祖であるユダヤ人のことを尊敬していた。そのことを鬱陶しく思う人もいたでしょう」
「実家は金持ち、その上本人の音楽的才能も豊かとくりゃ、彼とお近づきになって……と考える人間も多かったんじゃないかなあ」と私もいった。
「彼らはメンデルスゾーンを『友だち』と思っていても、当人はそう思っていなかった。あるいはその逆もあり得たでしょう』と、副書記官長。
「そうかあ……難しいなあ」と、オルガは独りごちた。
「ですから、オルガ殿下」と、厳かな口調で副書記官長はいった。
「この世に『誰からも文句を言われない人間』というのは存在しないのですよ。それは神様ですら成し遂げられないことなのですよ」
ですから殿下、と彼は言葉を継ぐ。
「殿下は、この屋敷の侍従・女官全員からの信頼を勝ち得られるようになってください。そうすれば、世間が下すあなたの評価も、少しは変わるはずです」
「わかりました。努力してみます」と、オルガは答えた。
それから三人で世間話をしていたら、時計の針は17時を指そうとしていた。
「おや、ずいぶん長居をしてしまいました。それでは、私はこれでおいとまさせてください」
と長官は言い、私たちに深々と頭を下げた。私たちは長官を玄関まで見送った。
「それではエルヴィラ殿下、オルガ殿下をよろしくお願いいたします。オルガ殿下、エルヴィラ、ルイーゼ両殿下と、仲良くやってください。それで、なにか気になることがあったら、何なりと私にお申し付けください。自分で抱え込んでいるのは、一番よくないことです」
「それは、エルヴィラにいえばいいのですか?それともアダルベルト副書記官長に伝えればいいのですか?」不安そうな面持ちで、オルガが尋ねる。
「エルヴィラ殿下を通じてでもいいですし、私に直接尋ねても構いません」
「わかりました。いろいろとお気遣いしてくださり、本当にありがとうございます」
神妙な面持ちで、オルガが言った。
「では、私はこれで」
「今日はわざわざおいでくださり、本当にありがとうございました」
私とオルガは声をそろえて彼に頭を下げ、彼が屋敷の敷地から出るのを見送った。
来客がわが敷地から外に出るのを確認し、私は邸内に入ろうときびすを返した瞬間、誰かがスーツの裾を強く引っ張るのを感じた。
視線をその方向に向けると、オルガが剣呑な表情で私をにらみつけていた。
「オイ、マリナ……てめぇ、私のことをアダルベルトにチクっただろ? 」
「だからなに? 」私は即座に返答した。
「副書記官長は、あんたを監視するために、私の屋敷にやってきたのよ。あなたの身元保証人として、彼に嘘を突き通せるとでも? 」
「なんですって! 」オルガは私の発言を聞いて、その場で絶句した。
「当たり前でしょう。確かに、私はあなたの身元保証人を引き受けた。でも、そのことを私一人で決めたとでも? 」
「違うのか? 」オルガは気色ばむ。
私は心の中で(アホか、このバカ皇女)と毒づく。
「あったり前でしょうが。まだ17歳の私が、あなたとの同居を誰にも相談することなく、一人で決められるとでも思っていたの? それにこのことで、裏でどのくらいの人が動いているか、あなたは今まで考えたことがなかったでしょ? 」
オルガは、すっかり顔色を失っている。ま~ったく、コイツはなにも考えていなかったのか? あなたみたいな不良皇女を、黙って受け入れるほど私はお人好しではないのだぞ。
私はオルガを引き取るにあたり、彼女の父親であるネマニッチ大公に2つの条件をつけた。
一つは、私たちがオルガの面倒を見る代わりに、この屋敷にやってくる以前のオルガの悪い噂を全部もみ消すこと。もう一つは、かりにオルガと我々の関係が悪化し、私の屋敷を追放される事態になっても、彼女の存在を一切認めないこと。
大公は、この二つの条件を嬉々として受け入れた。面倒くさい過去を持つ娘を受け入れてくれるところが見つかった上、もしそこから追放されても、こちらは「何の関係もない」としらを切ればいいのだから。
私と大公家で交わされた約束は、当然皇帝陛下にも包み隠さず報告してある。もちろん関係する役所や各種情報機関にも、これらの合意事項は予め伝達済みだ。
私はオルガと一緒に屋敷の応接室に入り椅子に腰掛けると、そのことを全部彼女に話した。
「あちゃーっ」これらのことを私から聞かされたオルガは、頭を抱えてテーブルの上に突っ伏した。
「なによそれ……じゃあ、私がこの屋敷における行動はみんな……」
「そうよ。全部関係各所に報告しているから」
冷たい口調で言い放つ私を、オルガは放心していたように見つめていた。