とりあえず今は、バルツァー一族の叙勲を阻止することが先決だ。
わたしはその狙いをおくびにも出さず、シャンパングラスにシャンパンを注ぐ。
まあヤツのために注ぐシャンパンは、名前こそ「シャンパン」と名前がついているが、その中身は最低クラスの発泡酒である。
「素敵な夜と2人の将来のために、乾杯」
私はシャンパングラスを掲げると、ヤツのグラスにぶつける。
「殿下の将来のために、乾杯」
彼はそういうと、グラスのシャンパンを一気に飲み干した。
「冷たくて美味いですね。もう一杯ください」
彼はそう言いながら、空になったグラスを私に差し出した。
「お気に召されたようで、私も嬉しく思いますわ」
心にもないことを言いながら、アタシは差し出された空のグラスに、安酒を注ぐ。
ヤツのシャンパングラスに注ぐ瓶を持つ、アタシの腕が震えているのは、たぶん気のせいではない。
晩餐会など公のディナーでは、シャンパンを注いでもらう時、グラスはテーブルに置いたままにするのがマナーだ。シャンパングラスの持ち方も、スティムといわれる足の部分を、人差し指と親指で挟み、中指で添えるようにするのが正しいとされる。
だがアントンは、まるでビールジョッキの取っ手を掴むような持ち方で、グラスをアタシの前に差し出した。公の場でそのような振る舞いをしたら、招待者から「マナーを知らない粗忽者」という評価を下され、二度と招待されないのは確実だろう。
コイツは公の宴席でシャンパンを飲む時は、いつもビールを飲み干す感覚でグラスを扱っているのだろうか? そういえば今夜の食事会も、このオトコは何度も、無作法な持ち方を周囲に目撃された。そのたびに注意していたのは、あたしの妹エミリアだ。
ヤツは注意されるたびに「すいません」という表情を浮かべてはいたが、懲りずに同じことを繰り返した。察するに、ヤツのまわりには両親を含めて、正式なテーブルマナーを教える人間がいないし、当人もひょっとしたら、テーブルマナーはどうでもいいとでも思っているのだろう。
こんな無作法な人間が「皇帝の夫」として、私の隣に座る。その光景を想像しただけで、私は頭がクラクラした。
ああ、美味しい……と呟きながら、アントンは2杯目のシャンパンを、今度はゆっくりと飲み干す。
「バルツァー様は、普段はシャンパンは口にしないのですか?」
「殿下、私のことは普通に名前で呼びかけて構いませんよ。そうですね。私はシャンパンよりはブランデーやコニャックの方が好きだな」
ヤツは、コニャックという酒が、旧フランスのコニャック地方で醸造されるブランデーだということを知らないようだ。
「じゃあ、私もマルガレータと呼んで構いませんわ。それでアントン、好きなお酒の銘柄はないの?」
「ブランデーだろうがコニャックだろうがシャンパンだろうが、胃の中に入ってしまえば同じだよ」
「じゃあ、ワインも……」
「もちろん。肉料理には赤ワイン、魚料理には白ワイン、野菜料理にはロゼワイン。それだけ知っていれば十分だろう?」
(ロゼワインは、日本料理や中華料理でも出されるんだよ)と、アタシは心の中で毒づく。
「ああそうだ」
アントンは、思い出したように呟き、アタシに視線を向けた。
「今晩のシャンパンだが、この銘柄はなにかな?」
「あの……アナタは先ほど、何とおっしゃったかお忘れですか?」
「確かに、先ほどはああったが、せっかくの機会なのでね」
まさか、今時の庶民でもめったに口にしない安酒だとは、口が裂けても言えない。アタシは、適当に銘柄をでっち上げた。
「へぇ。この銘柄はこういう風味なんだ。覚えておこう」
彼はそう言いながら、グラスのシャンパンを一口、二口含んだ。
このとき、ワタシの胸には一つの疑念が湧いた。彼は先ほど
「胃の中に入ってしまえば、ブランドなんか問わない」
と発言した。しかし彼は銘柄について「問わない」とはいったが、「興味がない」とは言わなかった。
ということは、彼はアタシが思っている以上に、酒の銘柄とその特徴を熟知しているのではないか?だとしたら、アタシが今ヤツに飲ませている酒の正体を、彼は知っている可能性はある。
私の浅慮がヤツにばれたら……と想像したとたん、私の背中を冷たい汗が流れた。
「あのね、アントン……」
私は先ほどよりもいくぶん親しみをこめて、ヤツに話しかける。
「なにかな、マルガレータ?」
「お友達と会食する時、お酒の銘柄について話し合わないの?」
「周りの友人や部下の中には、銘柄に詳しい人間もいるぜ。だがさっきも言ったとおり、僕は酒の銘柄にはさして興味がない」
「じゃあ、まったく知らないというわけではないのね?」
「よく耳にする銘柄については、自分でも調べるがね」