大粒の雨が激しく扉を打ち、窓を鳴らす。
木々を鳴らす風がまるで誰かの叫びのようだ。
いや、たしかに誰かが叫んでいる。
「誰か!誰かいないか!助けてくれ!病人がいるんだ!病人が…、誰か……!」
扉を叩くのは雨だけではなかったようだ。
四角く切り取られた灯りに照らされて、ぐっしょりと雨に濡れそぼった少年が立っていた。
「ここは医者の家だと聞いた……頼む、助けてくれ」
「聞いた? 町の人間にか」
「ああ、そうだ。治して……やってくれ」
ぐしゃり、と泥を跳ねて少年が膝をつく。頼む、と深く頭をたれたその背に背負っていたのは荷物でなく小柄なひとだったとわかる。
「たしかに俺は医者だ。この町に医者はひとりしかいない。だが、」
稲光が空を引き裂き、夜が白く爆ぜる。町はずれにあるここまで、少年が今しも歩いてきた一本道が白々と浮き上がって見えた。数秒と間を置かず、轟音が耳に届く。
「だが、高いぞ」
君に払えるのか?と尋ねた言葉の返事が帰って来るより先に、少年は頭から泥の中に倒れ込んでいた。
「で、これであり金ぜんぶか」
「ああ……ほれで……トチ、ローを……なほひて……」
「食ってからしゃべれ」
「ん、ぐ」
頬いっぱいにパンを詰め込んで水で流し込むと、少年はやっとひとごこちついたようだった。ぶっ倒れた原因は空腹だ。三日なにも食わずに歩き詰めで、いちばん近いこの町に辿り着いたのだと言う。パンくずまみれの口を手の甲でぬぐうと、真剣な眼がこちらを向く。
「頼む。金なら全部やる」
「ああ、そのつもりだ」
「こいつは……治るしてくれるか? 三日前に急に熱が出て動けなくなってから、ずっとこんな具合なんだ……」
視線を落とした先、ベッドで真っ赤な顔をして荒い呼吸をしいてる友人へ。
「様子を見たが手遅れってこともないだろう」
「よかった。よかったなぁ、トチロー!」
「だが、悪いな。断る」
「なんでだ」
「金が足りない。君がいま食った飯とそいつが寝てるベッドと、それにうちの風呂を使わせてやった分。それでおまえたちの有り金ぜんぶだ。なに、まだ若いし体力もあるだろ。十日も寝てればいい」
「寝てたら、治るのか」
「自力で回復するかさもなくば死ぬ。十日でわかるって意味だ」
立ち上がった少年が、思いがけず強い力で肩に掴みかかってきた。怒りに輝く両眼が言葉よりも雄弁に、彼がどれほどその友人を大切に思っているかを伝える。可愛いじゃないか。純粋な友情なんて西部では珍しい。その青臭い可愛げに免じて、いくらか言葉を増やして伝えてやる気になった。
「鉄道駅から外れたこんな町じゃ薬は貴重だ。数に限りがある。あいにくシャーマンのやるようなまじない術は俺の宗旨に合わなくてな。患者から相応の金を取らなきゃ、次の薬が買えない。俺も飯を食わなきゃならない。さぁ、理屈はわかるな?」
「……金は、かならず俺が用意する。今は、こいつを助けてくれないか」
「俺には君達を信用する理由がない。前払いじゃなきゃやれないな」
「だが……どうすればいい……」
俺の肩をきつく掴んでいた手が外れ、だらりと落ちる。
「なんでもする、こいつを死なせないでくれ」
「なんでも、なんてかんたんに口にすると馬鹿にされるぞ小僧」
からかいと親切心を半分ずつこめた助言のつもりだったが、少年の意志の強い視線はむしろ覚悟を固めた色を見せた。
「渡した金でベッドは貸してくれるんだな。しばらく俺の友達を頼む。 待ってろよトチロー、もう少しの辛抱だ」
まだ雨の降りしきる嵐の中に出て行こうとする少年の肩に手をかける。
「まぁ、待て。金を工面するアテがあるわけじゃなかろう。そうあからさまに手近の質屋を襲う顔で出て行くな。俺の仕事が増えるだけじゃないか……本気でなんでもできるか?」
ふり返りためらいもなく肯いた少年の肩ごしに、吹き込む風がアッシュブラウンの髪を激しく揺らした。
――――――――――
ずっと頭の中で鳴り響いていた雷が遠ざかっている。体中の関節が撃たれたみたいに、バラバラになりそうな痛みも重たいだるさに変わっていた。死んだにしては、まだしっかりしんどいから、こりゃあ生きてるなぁ、と夢の中で考えていた。しばらく唸っていたが、どうにか目蓋を開いてみたらシマウマみたいな木目の天井が真っ先に目に入った。それから、同じくっきりした木目の壁と床。それに小さなテーブルの上に、水差しとコップが見えた。水が目に入った途端、猛烈に喉が渇いていると気が付いて、もぞもぞとベッドから起き上がる。と、水を浴びたみたいに濡れた体に風が入ってぶるっと震えた。なんだこりゃ、俺の汗か。ひどいな。そりゃ喉も乾く、はず……とそこまで考えたとき、部屋がぐらぐらと揺れた。
「う、お……おわぁっ」
ごん、と床に落ちてから、やっと揺れてるのは部屋じゃなく自分のほうだとわかった。あー、くそ思い出してきたぞ……ガンガン痛む頭も体も酷い寒気も、こいつは熱のせいだ。
「トチロー!トチロー、目が覚めたのか!」
「はー、ろ…く」
隣の部屋からハーロックの声が聞こえたから返事をしたら、驚くほど掠れた弱々しい声しか出ない。だめだ。起き上がれもしない。足音がして転びそうな足取りでハーロックと、その後に見知らぬ男が顔を出した。
「こらこら、まだ動いていい体じゃあない」
背の高い男はベッドの横に転がった俺を跨いで手際よくシーツを替えると、ハーロックの腕が俺をベッドに戻してくれた。口元に水のはいったコップが押し当てられる。
「少しずつ飲みなさい。口にふくんで、ゆっくり飲みこまないと胃がうけつけない」
ずいぶんと時間をかけて、コップ一杯の水を飲み干すまで、じっと見守っていたハーロックがやっとほっと息を吐いた。そのまま毛布ごと俺の肩に腕を回したハーロックだったが、力を込めたら俺がバラバラになってしまうんじゃないかと恐れているような軽い抱擁だった。
「よかった……トチロー、よかったな……」
「わり、ぃ、しんぱい、かけたな……」
薄らと目さえ潤ませてそう言うハーロックの表情からすると、どうやら俺はあやうく死にかけていたらしい。ぼんやりと数日の記憶を手繰り寄せると、親友の背におぶさって背中越しに俺を励ます声をずっと聞いていた。いかん、思い出したら涙が出そうだ。せっかく飲んだ水分がもったいない。ぐぐぐっとこらえている間に、熱を測っているらしい男の手つきは職業的な慣れたものを感じさせる。
「あんた、医者か…?」
「そうだ。熱は下がってきているが、もともと周期的な発熱をする病気だからまた熱は上がるだろう。だが、薬を飲ませてこの期間で効いてきているなら、君の体質にはよく合ったようだ」
男はそう言って、いったん隣の部屋にゆくと、コップに新しい水と一服の薬を手に戻ってきた。
「口を開けて。苦くても、前のように吐き出すじゃないよ。もったいないから」
「前って……」
「夕べ飲んだんだろ? 覚えてないのか?」
覗きこんだハーロックが首を傾げる。
医者の男が「そのほうがいい」と口の端で笑う。
「味わう回数は少ないにこしたことはない」
その言葉の意味を、飲みこんだ薬がわかりやすく教えてくれた。
「うげぇ……うぇ……死んじまう……」
「薬の味で死んだやつはいないんだトチロー、おまえが1人目になるなよ」
俺は口の中の苦みと戦っていながら、自分も苦いものを飲んだような顔で眉根を寄せているハーロックを息も絶え絶えに見上げていた。なんだか薬を飲み込んだだけでひどく疲れていた。ハーロックの顔がぼんやりとして、まばたきするほどに滲んでいって……。すこしひんやりした手がひたいにふれるのに安心しながら、気絶するように眠りに落ちた。
――――――――――
「薬が効いて眠れているようだ。この様子なら、君の友だちはもう大丈夫だろう。安心するといい」
「……ありがとう、先生」
「ずいぶんとしおらしくなったな」
少年はベッドのそばにしゃがみこんだまま、眠る友人の顔を見つめて動かない。その腕を掴んで無理やり立ち上がらせる。
「立ち上がれないんだろう? 腰に力が入らなくて」
「……っ」
「来なさい、中のものをかき出さないと腹を壊す」
風呂場まで連れて来て服を脱がそうとすると、拾ったばかりの野良ネコでもあるまいに嫌だやめろと暴れる。めんどくさいなとため息をついて。
「ハーロック。それが名前だな?」
「……」
「さっき君の友達が呼んでいた。ハーロック、俺は医者だ。患者を増やさないでくれ」
そう言うと、やっとおとなしくなって少年は自分で服を脱ぎだした。
「……あんた、知ってて俺を町長のとこへ連れていったんだな」
「おまえだってまさか皿洗いや馬の世話で薬代が稼げるとは思わなかっただろ」
湯に浸した布を投げてやると、少年は肌が赤くなるほどきつく身体を拭く。
「あの町長もかわいそうな男さ。ガキ相手じゃなきゃ性的に興奮しないってのに、素封家の跡継ぎ娘に惚れられてな。結婚したら、あれよあれよと言う間に町長に成り上がってしまった。町中に顔を知られてちゃ金で町人の子を買うわけにもいかない、嫉妬深い妻の手前幼い妾を囲うわけにもいかない。せいぜい旅芸人の子に手を出すか、行商の丁稚を数日借り受けるくらいしかできないわけでな。結局ノイローゼにかかって自分は病気なんじゃないかと医者の俺に相談するありさまだ」
「それで、あんたは町の外から来たガキを言いくるめて町長のベッドに送り込むのか。大した医者だな」
「まさか。かわいそうな患者の相談に、俺は絵や人形でもマスターベーションの役には立つかもしれませんよとアドバイスをくれてやっただけさ。生身の子どもに手を出さなくともイマジネーションを働かせればヤりようはあるってな。こんな小さな町だ、外からガキが来るなんて滅多にない。ほら、こっちに来て脚を開けよ、ハーロック。なんせ奴さん久しぶりだから、がっついたんだろう?」
町長の好みはもっと幼い子どもだが、まだ華奢な少年は十分にそそる相手だったらしい、腹から首筋まで点々と鬱血の跡が赤く、細い腰には男の手形がくっきり残っている。油薬を指にとって後孔にふれると少年の脚がわかるほどに強張った。だが、ためらったり同情を見せたりしないほうがいい。施術と同じ事務的さで指をさしこみ、中に塗り込むように動かす。
「っ……く、ぅ」
「おまえな、締め付けるなよ。ゆるめろ、つってもわからんか……腹に力を込めてみろ、そしたらケツの方はゆるむ。な? その方が楽だし、そうしないと……こうなる」
「っ、ん」
指を増やして中を広げると、とろりと半透明の粘液が零れる。その中に混ざる赤を目にして、少年は眉を寄せて毒づく。
「下手くそめ……」
「これで懲りただろ。ガキが稼ぐ方法なんて、そんなに多くない。なんでもするなんて気軽に言うと後悔するはめになる」
中に残った精液をかき出すために指を深く挿し入れ曲げると少年が喉を鳴らす。床についていた手がすべって、ずるずると床に沿って倒れ込んだ。柔らかくうねるアッシュブラウンの髪が軽い音を立てて木の床に散らばる。薄らと汗ばんだ白いこめかみに、いく筋か乱れた髪がまとわりつく。くっきりとした形の良い眉を悩ましげに寄せて、唇を噛んで声を殺す表情は痛みをこらえるのに似ていながら、たしかに艶めいた色合いをふくんでいた。たまらない、表情をする。
あと十年たてばさぞ精悍な男になるだろう、だが、まだ幼さを頬のラインに残した少年は、女でも男でもない。夕べさんざ男に吸われただろう唇を吐息で濡らして、少年は端正な面に淡い微笑を浮かべた。
「だが、トチローは生きてる」
なにひとつ傷けることのできない強かな光を瞳に宿して、少年は後悔などするわけがないと笑って言ってのけた。
――――――――――
少年にとっては思いがけない、だが医者にとっては予感していたとおりの訪問者は二日後の夕陽が窓を赤く染める刻限に医者の家を訪れた。
「こんばんわ。君のお友達のお見舞いにと思ってね」
熱帯の果物をいくつか乗せた籠を手に、町長はにこやかにそんな挨拶をした。扉の前で立ち尽くすハーロックの頭の中が驚愕から混乱へ、そして町長の言葉からどんな思考を辿ったのか医者には手に取るようにわかった。
「町長…さん、友達はまだ熱が高くて、他人に会えるような具合じゃない」
「そうかい。それは心配だね。薬は足りているのかい? 滋養のある食べ物は?」
後半は医者に向けられた問いかけだった。肩をすくめて見せる。
「薬代はちょうど今日の分まで。あとは……彼が、町の酒場で皿洗いの手伝いを見つけたんだとか。食って寝る分くらいは稼ぐそうですよ」
「おやおや。医者の君の見たてじゃあ1週間は投薬が必要なのだろう? 回復したら今度は食事だ。病気で弱った体に必要なのは栄養価の高い食べ物だ。ねぇ、君、酒場の下働きで稼げる金などたかが知れているんだよ」
人柄の良さで町民に慕われている町長の穏やかな笑顔が、ただひとりハーロックにとっては悪魔の微笑に見えただろう。だが、小児性愛癖の町長に、自分より小柄で歳より幼く見える友人の見舞いを許すなどもっての他、と彼は考えている。(実に真剣に危惧しているらしいから、口を出すつもりはないが、町長だってベッドに連れ込む相手の健康状態くらい配慮するだろう。まな板の上に乗せる魚は活きがいいにこしたことはない)そして、町長の提案は、たしかに今の彼らにとって魅力的なのだ。
「今夜も私の屋敷においで。身寄りのない子どもは、大人に頼るのに遠慮などいらないんだよ」
町長は少年の身丈にあった小奇麗な服をひと揃え置いて、やはりにこやかな笑顔でハーロックの肩を叩くと町からの短い距離には不釣り合いに仰々しい馬車に肥えた身体を押し込んで帰って行った。
「ずいぶん気に入られたじゃないか」
夕食後。町長が置いて行った白いシャツに袖を通し、細いリボンタイに苦労しているのを見かねて、襟の下に結んでやる。品の良いビロードのズボンを履くと、良家の子息と言っても通じる程には着こなしている。なめらかな白い頬にゆるくうねる髪が濃い影を落とす。
「あんなに嫌がってたくせに」
少年がちらりと唇の片端で笑った。
「あんたが言ったんだぜ。ガキが金を稼ぐ方法は多くないって。トチローを頼むよ。起きたら食わせてやってくれ」
投げてよこした果物の鮮やかなマゼンタと同じ色のリボンをなびかせて少年は夜の中に歩き出していった。
――――――――――
「美味い!うまい!うまーい!」
顔中で食い尽くすような健啖っぷりでどっちが縦だか横だかわからないくらい分厚い肉を食べきると、今度は口いっぱいの美味さを表現しなきゃならんとでも言うように大きな声でトチローは叫んだ。
「やっぱ肉だよなぁ、肉! なぁ、ハーロック!」
「おまえよく食うようになったなぁ」
「寝込んでた間ほとんど食えなかったからな!取り戻さにゃならん!」
「じゃあ俺の分も食え」
「なんだ、食わんのか?」
「んー……肉って気分じゃない。そっちの果物と交換してくれよ」
「いいぞ。ほら」
「よく噛むんだぞ。喉つまらせるぞ」
口いっぱいに肉を頬張ってこの上なく幸せそうな友人を見つめて、ハーロックもまた自分が食べているように満足げな顔をする。そういう顔をしている少年を見ると、つい悪戯心が湧いてくる。
「おまえ昨日も口いっぱいに肉を頬張ってきたんだもんな。そりゃ食い飽きもするか」
ギッ、と音がしそうな鋭い視線が飛んでくるんだから、まったく素直な子どもってのはいいもんだ、などとにやついていたら、ハーロックのフォークが俺のステーキをかっさらっていった。おい。
「なんだー、おまえ酒場でそんな良いモン食ってんのか? いいなぁ、俺も酒場で働こうかなぁ。きれいなお姉ちゃんもいるんだろー?」
「馬鹿言うな。働けるくらい元気になったら、さっさと街出るぞ」
「キシシ、そうだったな。よし、もっと食う!」
宣言通り腹が膨れるまで食べると、居候の務めだと言いつけたのをちゃんと守って、ふたりで皿を洗う。美味かった食べ過ぎたとしゃべりったり小突き合ったりしている背中は微笑ましい。彼らがどんなきっかけで共に旅を始めたのか知りもしないが、今では彼ら自身もそんなきっかけを忘れているのだろう。
やがてトチローは、床にぺたりと座り込んで肌身離さず持っているサーベルを抜いて丹念に手入れを始めた。ベッドから出て動けるようになってから、彼は毎晩手入れを欠かさない。昼間は体力作りだと言って、刀だけを持って裏の山に出かけている。その剣の腕を見たことはないが、彼の刀への扱いはガンマンが愛用の銃に対して向けるのと同じ愛情深さがあった。その刃先に己の命がかかるのを、彼はわかっているのだろう。トチローが刀の手入れを始めると、ハーロックは白いシャツに袖を通す。そういう光景を見慣れていた。だが、今夜のハーロックは、友人の横に腰を降ろした。友人の短い指が器用に柄と刀身を分解し、丁寧に刃を拭い手入れをほどこすのを神妙に見守る。トチローもまた気が散るといったふうでもなく、馴れた手つきで紙を滑らせる。
「なぁ、トチロー。おまえの具合が良くなったんなら、もう町を出ようか」
「そうだな、俺も、そろそろと思ってたんだ。なぁ、先生俺の体はもう大丈夫なんだろ?」
あぐらをかいた少年と、膝を抱えた少年から、同時に視線を向けられる。片方は期待を込めて、もう片方は……縋るような視線を。
「もう数日は療養を勧めたいところだが、まぁ旅暮らしなら仕方がない。体力が戻るまで無理な旅程を組まないように、とだけ忠告しておく」
ぱぁ、と同時に明るくなった顔を見合わせて少年ふたりは笑い合う。
「それじゃあハーロック、明日出発しよう!町で食糧を買い込まなきゃな!」
「帽子と長袖の服かマントもだ。熱いからって半袖はもうやめだ。おまえの熱だって虫に食われたせいだって言われてたじゃないか」
「そうだ、それに薬もいるぞ、ちょっとした傷薬とか腹痛の薬とかくらいさ……金足りるかなぁ。あ、先生」
鞘に納めた刀を置いて、少年がおずおずと言いだす。
「俺たち十日も世話んなって、俺は薬までもらっちまってよ……なのに大した礼もできねえんだ……」
「なに、金のことなら心配ない。君の友達がよく働いてくれたからな。そう、旅を続けるなら金を貯めて馬を手に入れるといい。君たちふたりなら一頭の馬に相乗りもできるだろうし、馬に荷物を載せて自分たちが歩いてもいい。どこを目指すにしろ、西部を行くなら馬がないと話にならない」
「馬かぁ。そりゃ馬があれば旅はずっと楽になるけどよ……こんな町じゃ貴重なもんだろ。売ってくれる奴がいたとしたって、値が張るんじゃないか……?」
話を聞いていたハーロックが黙って立ち上がり、ベッドにひっかけていた白いシャツに袖を通す。
「心当たりがある。譲ってもらえないか頼んでみよう」
「ほんとか! 頼むぞハーロック!」
ひらりと手を振って答える背中を追いかけて家を出たところで掴まえる。肩に手をかけて、耳元で声をひそめる。
「おまえ、町長に頼む気か?」
「大きな厩があった。この町で一番馬を持ってるのはあいつだろう」
「その通りだ。町長の道楽だな。だが、ハーロック。おまえ町を出るって町長に言わない方がいいんじゃないか」
「?」
シャツの首元で揺れるリボンを軽く引っ張る。今夜は幅の広めの紺色のリボンで、指先でなめらかにすべる生地はシルクのサテンだろうか。ハーロックが夜に町へ出かけ、朝に帰ってくるたびに、襟を飾るリボンは違う色になっていた。一晩かけて愛でた少年と別れる朝にどんな名残惜しさを絡めてこれを巻いていることやら。
「ずっとここにいろ、養ってやる、って町長に言われてるんじゃないのか」
「まさか、冗談じゃない。俺は俺の好きなように生きる。トチローが元気になったんなら、こんな町に用はない」
「たしかに、おまえたちはひとつ所に留まって大人しくしていられるタチじゃなさそうだ。だったら、なにも言わずに出ていけ。町長だって町の外までは追って来ない」
「だが、町を出ると言わなきゃ、馬を譲って欲しいとも頼めない」
少年は俺の手からリボンを取り返すと、振り返りもせず町への道を降りて行った。髪が明るい月を弾いてやわらかな琥珀色の光を湛えていた。その背がずいぶん遠くなるまで見送って、ふと気づくと隣に小柄な少年が立っていた。眼が悪いらしい少年は、細く目をすがめて遠い友人の背中を見ていた。
「なぁ、先生。あいつ、酒場で働いてるんだよな……?」
「似たようなところと言えばそうだな。気になるんなら俺じゃなくハーロックから聞けばいい。いつか、あいつがしゃべっていいと思える日に。これからも一緒に旅をするんだろ?」
少年はにっかりと歯を見せて笑った。
「ああ、きっと長い旅になる。あいつとなら、どこへでも行ける気がするんだ」
――――――――――
「なにを考えているんだい、ハーロック」
「なに……?」
「微笑んでいたよ、幸せそうに」
ともすれば霧散してしまいそうな思考を拾いあげるために少年はやや視線を彷徨わせた。ひとつきりの燭台が照らす部屋は薄暗く、かすかに通る風が灯心を揺らめかせるたびに、あらゆる影が形を定めず呼吸するように伸び縮みする。壁にかけられた幾面ものあどけない少女達の肖像さえ、声をひそめて此方を盗み見ているように生々しい。
「ともだちの、こと」
「あぁ、病気だった子だね。おまえはずっとその子に会わせてくれないね。友だちに私を取られると思っているのかな?」
甘ったるく絡みつく言葉が少年の耳元にささやかれる。
「おまえだけだよ、ハーロック」
「っ……ふ、ぁっ」
少年の中に納まっていた肉の棒がずるりと引き抜かれ、また根元まで埋め込まれ深々と内側をえぐる。繰り返し脆弱な箇所を擦られるたびに、少年の頭の中でチカチカと火花が散った。
「おまえの嫉妬がかわいくて今まで言わずにいたけれどね。おまえさえいればいいんだよ。私はおまえが可愛いのだ、私の子になりなさい。いつまでも愛してあげようね」
「はっ……あ、ァ……」
男の体がぐっと密着し、少年の細い腰がしなやかに反り返る。のけぞった首すじに、ねっとりと舌を這わせて男は少年の中を埋めた陰茎でぐちゅぐちゅと掻き回す。男が身動くのにつれて弛んだ脂肪が揺れるのがいかにも醜かった。人形のように為すがままの少年の体を全身で犯すように男は貪り、その白い肌のひとひらさえ甘やかに味わうように舐めしゃぶった。感情のともなわない涙がすべり落ちて髪を濡らす。
閉じた目蓋の裏に、少年は馬の背から見遥かす荒野を思い描いていた。やはり馬がいい。親友の短い足と歩幅を理由にしたら、あいつはまた怒るだろうが。熱く乾いた風を顔に受けてふたりで走るなら、無慈悲に広がる黄土の大地さえも、どこまでもどこまでも恋焦がれるばかりに自由な世界になるだろう。船に命をあずけて海をゆく海賊のように、馬の背で西部に漕ぎだすのはたまらなく楽しいだろう。トチローと、どこまでも行きたいと少年は願った。果てのない広さは自由そのものだ。呼吸のたびに喉をひきつらせる喘ぎの合間に、少年の唇は幸福な夢のような微笑みにほころんだ。
――――――――――
「ハーロックのやつ遅いなぁ……出発は正午って言ってたのに、もう夕方になっちまうじゃねーか」
すっかり荷物をまとめたトチローは、手持無沙汰に窓のそばをウロウロしていたが、とうとう荷物を肩にかついで扉の前に立った。いちど振り向いて、世話になった医者に向かってぺこりと頭を下げる。
「先生、俺あいつを迎えに行ってくるよ。今まで世話になった。ありがとうございます」
「迎えね……酒場に行ってもハーロックは皿を洗っちゃいないよ」
「けど、町にいるんだろ。買わなきゃならんもんもある。ついでに探すさ」
「……待て」
扉に手をかけた途端、襟をぐいっと後ろに引っ張られ、トチローは一歩戻されてしまう。いきなりなんだと振り向くと、医者が真剣な表情で窓の外を見つめるていた。その視線の先、窓の向こうにちいさく人影が見えたような気がしたが、いかんせん目が悪いのでわからん。
「ハーロック、戻ってきたのか?」
「いや、ちがうな。あまり良い訪問者ではなさそうだ……君は裏口から山のほうへ出るんだ。荷物も君のサーベルも持って。いつも水を汲む湧き水の場所はわかるな? 迎えに行くまでそこで待ってなさい」
「な、なんで?」
「説明してる暇がない。今すぐだ。行きなさい!」
トチローはごくりと唾を飲みこむと、裏口から駆け出した。急な山道を駆けのぼるとすぐに息が上がる。情けないが、まだ体力が戻りきっていない。井戸のない医者の家で飲み水に使っているちいさな湧水の泉の近くに立って振り返ると、木々の間からわずかに町が覗く。
「ハーロック……」
なんで戻ってこないんだ。追われるような危険な事をしていたのか?
今、どこにいるんだ? なんかあったのか? どうして俺になにも言わなかった?
息が上がったせいだけではない、嫌な予感に心臓が脈打っていた。
医者が来たのは陽が大きく傾いた頃だった。
橙色の空を背にして、医者はいきなり「町を出る気はないか」と言った。
「言われなくったって、今日にも出て行く気まんまんだ」
「おまえひとりで、という話だ」
ぽかんと口が開いていただろう。そんなの、考えもしなかった。
「ハーロックは?」
「あっちは町に残って、おまえだけなら……あぁ、悪かった。そんな馬鹿みたいな顔をするな。そういう選択肢があるのか考えてみろってだけだ」
「ない。ないないない。俺はハーロックと一緒じゃなきゃ町を出る気はない。あいつが追われてるんなら、なおさら置いていけねぇ」
「追われてるのはハーロックじゃない。さっきの男は君を探しに来たんだ」
「へ? 俺を? なんで?」
首を傾げる俺に、医者は「鳥を籠にいれるためかな」と謎めいた言葉をつぶやいた。そして、日の沈む地平線をふり返った。
「日が暮れたら町長の家に忍び込むんだ。町では君を探している奴がいるかもしれないが、幸い君の顔は知らないはずだ。ハーロックは君を町長に合わせなかったからね。運が良ければ屋敷の裏口の鍵は開いたままだろう。町長の私室は2階の一番奥。その手前の客間との間に隠し部屋がある。たぶんハーロックはそこで囚われている」
「ちょっと待ってくれよ……囚われてる?」
「忠告はしたが、どうもわかってないようだったからな……彼は逃げ方が下手そうだから、君の助けが必要だろう」
「わかった、行く」
肯くと医者はおもしろそうに片眉をあげた。
「なにも聞かないのかい?」
「戻って来ないなら、迎えに行くのはあたりまえだ」
「そうか。あの子はいい友達を持ったようだな」
――――――――――
トチローは走っていた。
肺の中を嵐が吹き荒れている。手足にはずっしりと重しがついてくる。町はずれの医者の家から町長の家までの距離は決して遠すぎるわけではなかった。ただ、病み上がりの体がどうしようもなく言うことを聞かない。
「はぁ、はぁ……はー、あー・・・ちくしょー」
町で一番大きな家だった。木立の陰に隠れて、塀を背にしてずるずるとしゃがみこむ。座ってしまったら、立ち上がるのがつらくなる。そう、わかっていても足がガクガク震えてどうしようもない。いっそのことだと両手も投げだして大の字になって転がると、枝の先に星が散らばって見えた。医者の言葉が耳に甦る。
『ハーロックは一度も酒場になど行っていない』『夜に出かけて朝まで帰って来なかった日の行先は町長の家だけだ』『君の命を救った薬代も、君たちの飯代も、みなあの子が稼いだものだよ』
形にならなかった不安が、言葉になって次々に手渡された。ハーロックは嘘を吐くのが嫌いだから、隠し事をすると途端に口数が少なくなる。何か、俺に言えないようなことに手をだしているんじゃないかって、気がついていた。だけど、わかっていたってベッドから出れない病人じゃあなにもできないから、口を出すのもあいつに悪い気がして黙っていた。ああ、そうさ。甘えていた。気弱になっていた。熱が下がってからも、あいつが出かける夜に止めようとしなかった。右手の刀をぎゅっと掴む。俺はどうしようもない甘ったれだ。刀を支えに立ち上がる。
「いま迎えに行ってやるからな、待ってろよ……」
持ちなれた刀さえ手の中で重たくとも、トチローは駆けだした。立ち止まってしまったら、そこから動けなくなるとわかっていた。裏口はトチローを待っていたように音もなく開き、屋敷の中に迎え入れた。駆けあがる階段がこんなに長く高く見えたことはない。小柄なトチローは誰にも見とがめられることなく町長の部屋の前まで辿りついたが、手をかけたドアノブは硬質な鍵の音がした。扉ごと壊すか?逡巡する数秒。不意の物音にふりかえる。隣室から出てきた男が、一瞬遅れてトチローに気づいた。
「おい、そこでなにしてる。おまえ誰だ」
男はガンベルトをしていたが、右手に持った酒瓶を手放すために動きがもたついた。ガンベルトから銃をひきぬくのと同時にふところに飛び込んで一閃。銃ごと切り裂いた右腕から、ぱっと血が飛んだ。なにが起きたのかわからなかったのだろう唖然とした顔で自分の腕とトチローを交互に見やる男を鞘に納めた刀で思いっきりなぐりつける。倒れこむ男の脇を駆け抜けて、扉の開いた隣室に駆けこむ。いっせいにつきつけられる銃口、を覚悟したが、その部屋はがらんとしていた。空の酒瓶がひとつ転がるきりだ。ほっと息を吐いて、廊下に倒れている男の体をひきずり込み扉を閉める。目を覚ます様子のない男を見下ろして、刀を抜いた。いつ目を覚まし大声で加勢を呼ばれるかもしれない。口を封じて、おいたほうがいいのか。
ヒュン、と振り下ろす。
男が着ていた上着が切れた。布きれになった服をねじって男の手足を縛ってから苦労して扉の影に転がした。トチローは剣の腕ならば誰にも負けない自信があったが、まだひとの命を斬ったことのない少年だった。
ちらり、と視界の端で動くものが見えた。じっと目を凝らしても、しばらく何が動いたのかわからなかった。だが、やがてそれが壁一面のタペストリーだと気がついた。どこからか風を受けて時折揺れるのだ。タペストリーの端をめくりあげると、壁と同じ色の扉があった。薄く開いたその向こう側で、たしかに人の気配を感じた。取っ手がわりの窪みに手をかけて引くと、扉はわずかな軋みとともに開く。
「ハーロック、迎えに……」
迎えに来たぞ、俺だ!トチローだ! と高らかに宣言して飛び込むつもりだった。だが、思いがけず狭い部屋で、思いがけず間近で、俺を振り向く男がふたりもいた。ひとりは、さっき殴り倒した男と似たような服装で、ただ腰にガンベルトだけはなかった。男自身もそう気づいて慌てたのだろう、両手に抱えていた白いものから手を放してベッドの上のベルトに手を伸ばそうとした。白いものが支えを失って膝をつく。膝を。そのときやっと、蝋燭の灯りにほの白く照らされたそれが、よく知る相手だと気がついた。男が自分の股間の前で抱えていたのは、少年のほっそりした腰で、しなやかな弧を描く背中があって、ベッドの上に胡坐をかいて座っている肥えた男が掴んでいるのは暗く色を落としたアッシュブロンドの髪だった。
「なんだてめぇ!どっから入ってきやがった!」
ガチリと撃鉄を上げる音が狭い部屋に響く。
向かい合って立つ男の銃口がこちらを向いているというのに、トチローはまったく目に入らなかった。視線はただ一点。その男が両足を開いて立つそのズボンの前は大きく開いて、赤黒い陰茎が剥き出しだった。ぬらぬらした肉の棒はいまだ太く張りつめてそそり立っている。その滑稽さ。そのおぞましさ。
「おまえこそ、なんだよ……しまえよ、股ぐらのもんを」
舌打ちして、ズボンに手をやったのは相手が銃も持たぬ小柄なガキだと気づいて油断したためだったろうか。だが、ベルトにかかった男の手は、ぼとりと床に落ちた。
「あ?」
その手の横に血と精液を垂れ流して陰茎が転がる。あわてて拾おうとしゃがみこんだ男は、自分の両手が手首の先についていないのが理解できないままに虚しく床を擦っていたが、やがて前のめりに倒れ込んだ。びくん、びくん、と幾度か痙攣して、それっきり男は動かなくなった。
赤く濡れた刀身が、光の尾を引いてベッドの上の男へ向けられる。
「ひっ……や、やめろ、私はこの町の、町長なんだ、ぞ」
「離せよ。そいつを離せ。ハーロックを離せ」
男は掴んでいた頭を股間から引きはがすと、自分の腕のなかに抱き込んだ。けほ、と咳き込む少年の体を、男の太い腕が折れんばかりに抱きすくめた。それはお気に入りの玩具を手放さない子どもの頑是なさにも、わが身かわいさに少年を盾にする大人の狡猾さにも見えた。だが、どちらであろうと同じだった。武器が拳銃ならばトチローは躊躇っただろう。だが、トチローにとって刀は己の手指の延長に等しかった。ひらめく速さで正確な切っ先が深々と男の肩を刺しつらぬいた。引き抜かれた刃を追って、おびただしい血液があふれる。少年を投げ出すように手放すと、肩の傷を抑えて男は獣じみた唸り声を上げた。トチローの刀が振り下ろされる。一撃。二撃。三撃。切ろうと思えば骨ごと撫で斬る鋭利な刀を、棍棒をふるう粗暴さでトチローはふりおろした。何度も。潰れた肉が血だまりに落ちる。砕けた骨片が跳ね飛ぶ。顔の判別がつかなくなったときには、町長だった男はどんな声も上げなくなっていた。
腕に抱えたハーロックを引きずるように小部屋から連れ出した。ずるり、とハーロックの体が床に落ちる。トチローの手が滑ったのではない、ハーロックが腕をふりほどいたのだ。床にうずくまるように伏した肩が震えていた。思わず伸ばしかけたトチローの手が止まる。首筋をすべる髪の間から、細い首に昨日までなかった痣が見えた。
「だい、じょうぶだ……わるかった、な。昼までに、帰れなかった」
掠れた声だった。苦労して体を起こしたハーロックはトチローを見上げた。その眼に隠しようもなく涙の痕を目のあたりにして、トチローはしゃがみこんだ。足が、もう体を支えていられなかった。
「ハーロック……なぁ、どういうことだ……?」
「さぁな……馬をくれと頼んだのがいけなかったのか……部屋に見張りがついて……」
「そうじゃない! ハーロック、そうじゃないだろ! おまえは、俺をなんだと思ってんだ……!」
トチローの左手がハーロックの肩を掴み、抜き身の刃を首に押し当てた。切っ先から滴る血が生き物のように床を這う。肉を切り血を吸った日本刀はその白銀の刀身も木作りの柄もその柄を握るトチローの手までも、ぞっぷりと赤く濡らしていた。
「俺はなぁ! たったひとりの友だちを売ってまで、生きたいなんて思わない……!!」
ぽたり、とハーロックの裸の胸に落ちたのは血ではなかった。
歯を食いしばって、トチローは涙を流していた。ハーロックの眼が大きく開く。
「おまえが泣くのか」
「おまえが馬鹿だからだ! おまえが、こんなこと、するからだ……!」
「だからって、泣くなよ……なぁ、泣かないでくれ、トチロー……たいしたことじゃない。酒場の女が売ってるもんと変わらない」
「おまえは女じゃねえし、ガキじゃねえか!」
殴りつけるような語気の迫力に、ハーロックは言葉を呑んだ。押し当てられた鋼よりも、涙を拭いもしない友の泣き顔のほうがよっぽどハーロックを狼狽えさせた。
「……怒ってるのか」
「あたりまえだ!あたりまえだ!! 俺が許すと思ってたのか! おまえが、俺のせいで、こんな、こんなの……っ、ちくしょう……っっ!!」
「トチロー……とちろー、ごめんな」
弱々しい言葉に、トチローは握りしめた柄が軋むほど手に力を込めた。首におしあてられた刃がわななく。ハーロックの謝罪など聞こえぬように。いいや、その言葉にさらに深く傷ついたように。友が真に怒りと憎しみの切っ先をつきつけている相手が誰か、ハーロックは不意に思い知った。もういちど「ごめん」と呟いて、柄ごとトチローの手を包み込み身体を起こすと、その手にぐっと力を込めた。その力の向きが押し返すつもりではないとトチローが気づいた時には、既に鋭利な鋼はハーロックの皮膚を切り裂いていた。互いの手が固く握りしめた刀をひとすじ挟んで、視線が交わる。ゆっくりと、まるで刃に頬ずりするようにハーロックが顔を傾げる。わずかに目を細め、だが痛みのためとも思えないほど静かな表情のまま、傷は大きく頬を横切った。
「ハーロック…ッ!」
高く音を響かせて、トチローが投げだした刀が床に落ちた。空っぽになった両手でハーロックの顔を包みこむ。血がその手をあたたかく濡らした。
「なんでっ、なにしてんだ!?」
「こんなツラじゃもう売り物にもならん。もう、しない。約束する。俺が約束するから、おまえは信じろ」
呼吸が触れるほどの間近で、大きな鳶色の瞳がトチローをまっすぐ見つめていた。顔を横切る大きな傷跡から、今もまるで泣いているように真っ赤な血が零れ落ちているのに、その眼には一筋の揺らぎもなく、強い光を沈めてただただ真摯だった。トチローはこいつは馬鹿だと思った。底なしの馬鹿だ。だが、顔半分を朱に染めながら、はじめてこの友が美しいと気づいて慄然とした。
「わ、わかった……おまえを信じる」
ハーロックの顔が安堵にゆるんだ。
「よかった、今にも斬りそうな顔してたから……」
「俺が、おまえの首落とすわけないだろ」
たぶん、と心の中でつけくわえるトチローに、ハーロックが笑う。
「そうじゃない。おまえ、今にも自分で自分を斬っちまいそうだった」
「あ、ぁ……」
ハーロックの顔が近づくのを、トチローは咄嗟に避けることも受け止めることもできなかった。ごつん、と額がぶつかる。そのまま、ずるずるとハーロックの頭が落ちてトチローの肩に乗った。
「なぁ……なんかクラクラしてきた」
「ばぁか!顔は血がたくさん出んだよ!おまえ失血で死んだら笑いもんだぞ!?」
裂いたシーツを傷ごと頭にぐるぐると巻きつけて、互いに互いを支え合うようにしながら屋敷の外に出た。厩から引き出した一頭の馬にどうにか這い上がって、町はずれの医者の家を目指して月の照らす細い道を走った。病み上がりの疲労が今さら襲ってきたトチローと、血を流し過ぎて気が遠くなりがちな二人の道のりは無口なものだったが、どちらともなく「腹減ったな」と呟くと肯きあった。
―――――――――
「それで?」
シヌノラは頬杖をついたまま続きをうながす。
「医者にこいつの顔縫ってもらって、そのままとんずらよ。なにせ町長をぶち殺しちまったからなぁ。ハーロックのやつ自分で斬ったくせに、縫われるときのほうがよっぽどうるさくって大変だったんだ」
「そりゃ、顔に針つき刺されてチクチク縫われるんだぞ。ヤだろ」
「暴れたせいで、そんだけ目立つ傷になっちまったんじゃねえか。そのくせ相変わらず女にゃモテんだから世の中不公平だフコーヘー」
ふくれっつらのトチローはフコーヘーフコーヘーと妙な動物の鳴き声のように繰り返しているし、ハーロックもすでに何の話をしていたのか忘れた顔でマグカップの中に残ったスープを啜っている。
「そうだ、あの医者どうしてるかなぁ。おまえ口説かれたよなぁ」
「あんなもん冗談だろ」
「そうかー? 顔縫った分の治療費はいらんが十年したら来い、可愛がってやるって」
「針と糸だけじゃないか」
「飯も食わせてくれた」
「そっちはきっちり金取られたぞ……」
「で、どっちの傷なの?」
男ふたり、きょとんとした顔をして、同時に顔を見合わせる。
「……どっちだっけ?」
「右……いや、左だったか……?」
「俺がこう、左手でおまえの肩を抑えて、右手で刀を持ってたからによってだな……」
シヌノラの細い指がハーロックの頬に触れる。
くちづけそうな間近に顔を寄せ、ツツ、と傷跡を辿る指がそこはかとなく艶めかしい。
「それで?」
「シヌノラ、ちょっと…近い……」
「こっち、かしら?」
ねぇ?と囁く吐息がふわふわとハーロックの頬にふれる近さである。
片膝を立てて座っていたハーロックの脚の間に、いつのまにか細い腰がするりと入り込んでいる。
思わず顔を引いたハーロックに、そのままシヌノラが身を寄せれば、自然と……。
ぱさりと帽子が地面に転がり、さらさらと流れる金糸がハーロックの頬を撫で、追いかけて白い指が頬をなぞる。
「あなたがトチローに貞操を捧げた証、なのね?」
「いや、それは違うような……捧げてないし……」
「あら、そうかしら……?」
シヌノラの唇が男の頬に刻まれた傷跡に触れ、赤い舌先が見せつけるようにゆっくりと舐め上げる。見せつける相手はもちろん横で口を開けたり閉じたりしているトチローである。
「あーあーあー……! ハーロック、あー、シヌノラ……!」
「あら、どっちに妬いてるの? ハーロック? それとも私?」
押し倒した男の長身の上に身を摺り寄せて、美女は妖艶な流し目を送る。
「ハーロック、あなたは?」
「もちろん、こっちが好き」
艶やかな髪ごと細い腰を抱いて即答のハーロック。
慌ててトチローがシヌノラの手を取る。
「俺も! 俺もシヌノラが大好き!」
「ダメよ、トチロー。今夜はハーロックのほうが早かったわ」
「そんなー、そんなぁ……シヌノラぁ……」
ひらりと手をふりほどいてつれない女の言葉に、トチローはがっくりと肩を落とす。未練がましい視線送っていてもシヌノラがハーロックの上にぴったり体を重ねて動かないのを見ると、トチローはとぼとぼ馬車の向こう側へ歩いて行ってしまった。その寂しい背中を見送って、ハーロックは女を見やる。
「いいのか。ほんとに行っちまったぞ」
「いいのよ。それとも、あなたは私じゃよくない?」
「……」
答えの代わりに大きな手が女の服の中に滑り込んだ。
銃を持ちなれた男の、硬く乾いた指先を肌に感じながら、女は花びらを散らすように纏う布を脱ぎ落した。
男の裸の胸にしなだれかかって、女はちいさな嘆きをため息に乗せる。
「あなたに妬いちゃったわ、ハーロック」
「あのなぁ……俺とトチローは、そんなんじゃないぞ」
「そうじゃないわ。私が女の子の時には、あなたと違って助けに来てくれるひとなんていなかったんだもの」
あなたが羨ましいの、そう呟く声が口づけのように男の胸に落ちる。長いブロンドの髪を梳く手を止め、ハーロックはこの髪がまだ腰まで届かない少女を夜空に思った。
「トチローは俺じゃなくても来ただろう。相手が誰でも。あいつは、そういう男だ」
「……私でも?」
「ああ。……それだけじゃだめか?」
女は長いまつげを伏せて、男の鼓動に耳を傾けて沈黙する。
「そんな男が、今頃おまえの裸を想像してナニをおっ勃てちゃあ、ひとり寂しくマスかいてるんだぜ。それでもまだ足りないってのかい?」
揶揄する言葉は、だが夜に染み入るような深い声で女の体に響いた。
「そうね。ちょっと気が晴れたわ」
そうして女は男のやさしい唇に唇を合わせる。
「あなたのナニも寂しがってるわね」
「良かった。それに気づいてくれて」
女の指が男のガンベルトを外せば、あとはもう西部の荒野と月が見守るばかりの夜だった。
end