何か締め付けられるような感覚と、そして極度のくすぐったさから目を覚ます。
カーテン越しに零れる仄かな明かりはまだ朝の早い時間であることを知らせてくれるけど、今は状況把握が先だと部屋の照明のリモコンを探す。
探そうとはした。
湿ったふにゃふにゃが脇をこそいで……だから俺は、またもや普通の少女のように「きゃあっ!?」なんて悲鳴を上げてしまったのである。
リモコンを探すために伸ばした腕を勢いよく引き戻さなかったことを褒めて欲しい。もしそれをやっていたら、俺は寝ぼけている悟香ちゃんの後頭部に思いっきり肘鉄を食らわせてしまっていたことだろうから。
「ちょ、と……悟香ちゃ、んんんっ、くすぐったい……」
「……」
意識の有無はわからないけれど、それはもう一心不乱に俺の脇を舐めこそぐ悟香ちゃん。まさか指フェチ首フェチ匂いフェチに加え脇フェチ……いや、指も首も脇もひっくるめて匂いフェチに分類されるのかな。
そんな取り留めのない思考の裏腹で、「そんなに体臭やばいのかな……」というショックを受けている自分もいる。いや、あの、彼女らにとってみればおじさんもおじさんな俺だから、いや今の身体的に絶対ないと思うんだけど、その、まさか加齢臭とか。加齢臭って実際の臭いというよりは行動とか精神性から滲み出たりするものなのだろうか、とか。
いやいや、匂いフェチの娘に好まれているのだから、ちゃんと少女らしい体臭はできているはずだ、とか。
結構な力で抑えつけられているから抵抗も出来ずに、ただただ脇を舐められて、吸われて、絞り取られる。こう、比べるものではないとわかっているけれど、やっぱり比べてしまう。奈央はとても長い舌で、秋華ちゃんは繊細に動く舌。そして悟香ちゃんは……なんだろう、例えは失礼かもしれないけれど、どこか肉食獣を思わせる舌だ。ザラザラが強くて、獲物を捉えたら激しい摩擦で巻き取る……みたいな。
犬、が一番近いのかな。痛いほどじゃないけれど、だからこそ脇が非常に、その。
くすぐったさはある。というかすんごいある。けど、悟香ちゃんがあまりにも必死そう過ぎて、その……なんだろう、雛鳥に餌をあげる親鳥、みたいな。そんな気持ちだ。
もしかしたら悟香ちゃんもそういう夢を見ているのかもしれない。こっちの世界にあるかどうかは知らないけれど、前の世界におけるラッキースケベ漫画の代名詞な某LOVEるでは、主人公がお菓子の山の夢を見てフィーバーしてて、それが寝相に反映される、とかあったし。
だから、くすぐったさは勿論なんだけど、いつも見ているクールではない方の幼い悟香ちゃんへの母性本能が……いや父性本能? どっちでもいいけど、それが刺激されてなんとか我慢できる現状にある。
思わず。
反対側の手で、彼女の頭をぽふ、と……撫でてしまった。
「……これだけされて、まだ相手に優しくしようとできるのか。なるほど、奈央が虜になるわけだ」
「ひゃぁっ!? あ、さ、悟香ちゃん起きた?」
「生憎ともっと前から起きていたよ。昨夜も言ったけどね、君は抵抗というものをしな過ぎる。夜だから気分高揚でどうにかなっていた可能性も考慮していたけれど、これはどうやら平良木真奈美という存在のアイデンティティに近いものらしい。
しかし、これは困ったな。奈央が謹慎を受けて反省すれば事態が好転するものとばかり思っていたけれど、まさか君側にも激しい問題があるとは。ああそんな怯えた顔をしないでくれ。君が悪いと言っているわけではないよ。いや君に問題があるのは事実なんだけど。あーと、そうだな。そもそもの話からしてもいいかな」
「そもそもの話、ですか?」
まるで強力な磁石でもあるかのように、悟香ちゃんはグギギギと思い切り力を込めて自らの顔を俺の脇から離した。別にもっと吸っててくれてもいいのに、というのは流石に気持ち悪い発言が過ぎるので言わないけど。
「そもそもの話。君は奈央を受け入れると言っていたけれど、それはつまり、奈央の気持ちに気付いてはいる、ということでいいんだね?」
「はい。……その、私なんかで……ストレスを解消できるなら。そもそも……奈央のストレスは、私が」
「よーし何にもわかってないことはわかった。……いや、流石にそこまで口を出すのは度が過ぎるな。うん、今の話は聞かなかったことにして欲しい」
「えと……わかりました」
鈍い俺でもこれはわかる。
多分悟香ちゃんは今難しい話をしようとしていたけれど、俺の知能レベルを鑑みて言葉を選んで、選んだ結果話すことは何もないと判断した──そんなところだろう。
彼女は死ぬほど頭が良いみたいだし、色々と気遣ってくれているのはありありと伝わってくる。それを汲み取れたんだ。ここでわざわざそれを追求するような馬鹿になるのだけは避けなければ。
「さて、少し早いけれど朝食を用意するよ。今から二度寝、というのもアリではあるけれど、私が保たなそうだからね」
なんて言って、これまたグググと思い切り力を込めてベッドから抜け出した悟香ちゃん。
そんなに匂いが好きならもうちょっと嗅いで行ってもいいのに……とかは、こっちもこれまた口にはしないけれど。
何より保たなさそうと来た。
お腹空いてたんだなぁ、なんて。やっぱりなんだか母性本能をくすぐってくる子である。
さて、今日は日曜日。
悟香ちゃんは家の仕事があるとかで自分の部屋に戻っていった。
奈央も実家に帰ったきりでまだ連絡も音沙汰もない。
よって、久しぶりの一人の時間である。
相部屋の寮であるから、一人きりの時間というのは本当に少ない。お風呂とトイレの時間くらいだ。
それがこうして大部屋に一人きりとなると……うん、まぁ、寂しくはある。
ただ真昼間に一人で泣き言を言えるような精神年齢はしていないというか。対人のコミュニケーション以外であれば別におどおどしないというか。
とりあえず勉強道具を広げる。
やることを思いつかない時は勉強するか運動するかが一番だ。特にここはお嬢様中学。サボればサボった分だけ置いていかれる。俺はお婆さんの特別推薦枠で入って来た身柄なので、その成績が中弛み、なんてことをし始めたらお婆さんの顔に泥を塗る結果になってしまう。
コミュ障は浅学の理由にはならないのである。
そうして勉強を開始すること三時間。端末にセットしていたアラームを切りに勉強を終了する。
勉強というのは長く続ければいい、というものでもない。むしろ一日何時間勉強して、後の時間は他のことに当てる、という風にした方が効率も成長度合いも格段に上がる。今日はこの範囲を完全に覚える、みたいな目標を建ててもいいし、知りたいことを連鎖的に勉強していく方法でもいい。
大事なのは好奇心を尽きさせない事。人間、覚えたいと思って、覚えようとして覚えたこと、というのは中々に忘れないものである。
「よし」
未だ春、あるいは初夏と呼ばれる季節。
勉学で凝り固まった身体は運動を欲している。別に普段が運動不足ということはないけれど、とりあえず毎日運動はしておきたいものだ。筋肉を動かすのは単純に気持ちのいいことだから。
そんなことを考えながら、制服ではないジャージに体を包み、運動用シューズの紐をぎゅっと締めて──玄関のドアを開ける。
「はろ」
「えっ……あ、お、おはようございます、葛西さん」
「うん」
そこにいた。タイミングが悪いのか良いのかはわからないけれど、気のせいでなければ勉強道具一式を持った葛西さんが。
「ええと」
「ああ、ごめん。気にしないで。クミのトコに行くついでに寄っただけだから」
「伍橋さん……と、仲が良いんです、ね?」
「幼馴染。平良木さんは、何? そのカッコ。部活とか入ってたっけ?」
「あ、いえ、そういうのには……。えと、ただジョギングしにいこうかな、と」
「……それ私も行っていいヤツ?」
え゛。
「あ……はい。大丈夫、です」
「ん。じゃあ10分くらい待ってて。着替えてくる」
「え、でも伍橋さんとの勉強会は」
「そんなのいつでもできるから」
「はぁ。あ、行っちゃった……」
一瞬だけ天秤はあった。
運動中というのは、特にジョギング中は頭に酸素が行かないから走ることに集中できて、余計なことを考えずに済む気楽な時間なのだ。それを、美少女とはいえまだ距離感を掴めていない相手と共に、というのはどうなんだろう、と。
でもすぐさま思い直す。
そんなんだからコミュ障なんだ。というかそもそも日曜日の朝から美少女と美しい汗を流せるとかご褒美でしかないだろう。
葛西さんは幼馴染だという伍橋さんと並んでクールビューティ枠である。先述の通り伍橋さんがクラス委員であることも相俟ってかリーダーシップに長け、その傍らの葛西さんが細かい所に手が届く感じの……「相棒」という言葉がぴったりな二人。
二人三脚を誘われた時も嬉しくはあったけれど、この二人を引き裂くのはかなり気が滅入る話だった。奈央の誘いがあってくれて本当に良かったと思う。
……そういえば、今の拗れたままの関係だと、二人三脚は。いいや、二人三脚はおろか、相部屋を続けてくれるかどうかさえ……。
「お待たせ」
「うぇっ……まだ5分も経ってません、よ?」
「急いできたから。さ、いこ」
がし、と手を掴まれる。
そのままぐいと引っ張られて、連れ出される。
葛西さんは無地のTシャツにテニススカートという……なんだろう、ありあわせ、みたいな服装をしている。テニスをやっているのだろうか。にしてはトップスが運動着でも何でもない服だけど。靴は……流石に運動用か。
「平良木さん?」
「あ、は、はい!」
足を止めてしまっていたらしい。
ダメだな、ほんと。考え事に耽ると周りが見えなくなるクセ、なんとかしないと。
さて、ではめくるめく美少女とのランナウェイへ。
と息巻いてはいたものの、走っている最中は特に何もなかった。会話らしい会話も発生しない。俺がコミュ障故かとも思ったけれど、どうやら葛西さんは結構自分を追い込んで走っているらしく、その余裕がない、といった様子だった。まぁ結構な速度で走っているのでさもありなん。
にしても隣に人がいると競い合いもできるしペースもブレにくいしいいかもしれない。あとその、たとえブラをしていても……というか色々と汗染みで透けて……るせいで横を見るのが憚られ、結果的に前だけ見るので雑念がさらに減った、気がする。
一人で走っていると割と目移りするからなぁ。
そんな感じで学校の敷地をぐるっと3周し、俺がいつも使わせてもらっている休憩所で一服。……タバコではなくスポーツ飲料を飲む。なおこの学校は全館禁煙だ。当然か。
「っふぅ……っふぅ……」
「大丈夫、ですか? あの、これ、買ってきたので……」
「ん……」
ちょっとやり過ぎたのかもしれない。もうちょっとスピード落としてあげればよかった。
息も絶え絶え、と言った様子の葛西さんは、こちらのペットボトルに手を伸ばし──。
「あ、そっちは」
「ん……んんっ……ぅ」
俺の飲みかけの方を引っ掴んで、ごくごくと飲み始めた。
あー。まぁ見分け付かないか。
というか嫌じゃなかっただろうか。間接キス……とかいうのを女の子同士で気にする方がキモいかこれ。
「ふぅ……うぅ、んん」
妙に艶めかしい声を発しながら、ペットボトルを俺に返してくる葛西さん。
……わかっててこっちを取ったのかな? あれか、どうせ飲み切らないんだから、新しいの開けるより二人で一本の方が、みたいな。あと開けるのが面倒だったのかもしれない。走った直後に握力使いたくないのはちょっとわかる。
差し出されたペットボトルを受け取り、俺ももう一度飲む。
ぷは、なんて音を出して口から離せば、またまたそれを奪っていく葛西さん。
なるほど、一口ずつ、か。
可愛いなそれ。
「ああ、効く……疲れに……染みる……」
可愛いけどちょっとおじさんクサくないか、とか思っちゃった。
「ね、このあと暇?」
そんな感じの小休憩があった後。
葛西さんからそう問われて、首を縦に振る。
暇も暇である。あと2セットくらいジョギングしてから帰って読書かな、程度の予定しかなかった。それを何かで穴埋めしてくれるのなら、そんなに嬉しいことはない。
あ、でも大勢の人がいる場所とかは……ちょっと……。
「私とクミと一緒に勉強しない? 平良木さん主席だったからさ、色々教わりたい」
「私でいいん、ですか?」
「ちなむと、私はそんなじゃないけど、2位がクミなんだよね。だから追いつきたいとか言ってて」
おお。
とてもいい上昇志向だ。うんうん、学生の切磋琢磨というのはこうでなくちゃ。
やっぱりこの学校の生徒は凄い。お嬢様であることに胡坐をかかず、常に上ばかりを見ているのだから本当に頭が下がる。
上から目線になってしまうけれど、今この時ばかりは俺の知識面を頼られているのだと好意的に解釈しよう。知能レベルでは悟香ちゃんに大きく劣ってしまう俺だけど、確かに勉学においては流石に中一の彼女らよりも前にいると思いたい。……いるよね?
「わかり、ました」
「あとも一つお願いあるんだけどいい?」
「えと、私にできること、なら?」
「じゃあ」
そういってこちらに手を向ける葛西さん。
?
「ちかれた。負ぶって」
「……えと、は、はい」
クールビューティ枠……ではない、のかな、もしかしたら。
悪戯なのだろうけれど、首元をそれはもうスーハースーハーされながら寮に戻り、とりあえず勉強道具を持って行こうとした……ら、止められた。曰くこのまま伍橋さんの部屋に直行がいいらしい。
いやいや。流石に。
だって俺今汗かいてるよ。流石にそれはエチケットじゃないか。
そんなことをやんわり伝えたら、シャワーは伍橋さんの部屋で借りればいい、とか言う始末。
ここまで言われたら分かる。
──葛西さんはもう一秒も立っていられないのだろう。
俺が部屋に戻って着替えなりシャワーなりと準備をしている時間、葛西さんは待ちぼうけを食らう。それが我慢ならないくらい疲れているのだろうことは窺えた。
であれば一度伍橋さんの部屋へ行って彼女を降ろし、その後準備をしてくる、でも良さそうだ。
そう思考を切り替えて伍橋さんの部屋へと向かい。
「葛西!! あんた勉強放り出してどこ遊び歩いて──」
「ひ、ひぅ!?」
俺を葛西さんだと勘違いしたのだろう、ドアを開けた開口一番に怒鳴り声をあげた伍橋さんの剣幕に腰を抜かし、そのまま部屋に引きずり込まれるのであった。
一瞬舌が溶けてしまったのかと思った。
芳醇な香りに包まれながら、葛西はそう独り言ちる。
先程のことだ。下心オンリーで真奈美に「一緒にジョギング」なんてことを申し出た葛西は、割と後悔していた。思っていた数十倍キツい運動だったからだ。
授業にある運動以外はあまりしない葛西は、だからこそ授業とは比べ物にならない運動にそれはもう視界を白黒させてしまっていて、ほとんど本能的に
瞬間、バチッと脳内で何かが弾けて、舌が溶解した。
これが命の水である、と言われても信じ込んでしまうような、あまりにも優れた味わい。甘いのか美味しいのか染みるのか効くのか──わからない。ただ天にも昇るほどの味で、同時に必死で隠していた下心を露にさせる味だった。
だから何も聞いてこないのをいいことに、何度も何度も
「んん……あぁ……ふぁぁ」
「か、葛西さん、くすぐったいよ……」
「ん-? んー」
「す、吸わないで……」
くらくらするし、下腹部の熱が止まらない。
まるで大きな音を聞いた時のように耳へはいる音が遠くなっていて、全身が弛緩していっているような錯覚まで覚えた。今まで必死に取り繕っていたものがガラガラと音を立てて崩れていくことを認識しながら、往来の場である、というただ一点だけが葛西を押しとどめる。
それは言ってしまえば、人目に付かないところだったら襲っていたということに他ならず。
あまりにも無理矢理すぎる言い訳をして真奈美を伍橋の部屋へ直行させたのは、英断極まりないという自尊心さえ芽生えていた。
──自身の蒔いた種で、幼馴染も真奈美も傷つくような結果にさえならなければ、だ。