灰色に染まった街角を一人の女性が駆けている。
二十代中頃のその女性は、さながら草原でキツネに追い立てられるウサギの様にしきりに周囲を警戒しながら通りを進む。
ぜぇぜぇ、と荒い呼吸と共に肩。額に滴を浮かばせる汗から見てその女性がどれだけの必死さで走ってきたのかは想像に難くない。
「えほっ、えほ……っ」
やがて体力が限界に達したのか、彼女はふらふらと崩れ落ちるように電柱に寄り掛かった。
しきりに酸素を求めて肺が喘ぐが、空気の大部分を占める煙草のような煙も吸い込んで思わずむせる。
彼女は少しでも体を休めるために足を止めてはいる。だが、また
半ばパニックになっている頭で必死に周囲を警戒しながら、気が休まらないままに呟く。
「なんなの……ここ……」
彼女の勤め先は、今日の営業は午前までというスケジュールだった。営業を終えて店じまいをして、いつものように少し遅めの昼食を摂ってから買い物に出る。
今日明日以降の……数日分の食事を吟味して意気揚々と帰路につき――そこで
一瞬、エレベーターが誤動作を起こしたような奇妙な感覚を覚える。そして次の瞬間、彼女は灰色に染まった街角に立っていたのだ。
建物や道路、それ自体は自分が暮らしている町のものと何ら変わらない。
だが、その全てが塗りつぶされたように煤けた灰色に覆われており、不快な香りが漂うこれまた灰色の霧に包まれていた。
何が起きたのかさっぱりわからない。ただ彼女にとって確かなのは、自分以外にはまったく人の気配がしない場所であること、携帯電話がつながらない場所であることくらいだった。
(それに……なんなの、
電柱の陰に蹲りながら、ぶるぶると震え始める自らの肩をかき抱く。
着ているシャツの内側がじっとりと湿って不快感を煽る。この汗は走ったことによるものか、それとも――恐怖によるものか。
(あぁ、鞄を落としてきちゃった……!財布が中に入っているのに、本当最悪……。一緒に買い物袋も……もしかしたら瓶が割れているかも……)
彼女の頭の中で取り留めのない思考がぐるぐると渦を巻く。それがただの現実逃避だとは彼女自身も理性的に考えれば理解している。
だが今はそんな考えに没頭していたかった。突然迷い込んだ灰色の街、突然襲い掛かってきた謎の怪物、そんな非現実的な脅威の事を忘れて、現実的なありふれた問題にあくせくしていたかった。
「どこか……帰る道……」
しばらくそうして蹲っていた彼女は、何分も経ってからようやく立ち上がった。
荒れていた呼吸も随分楽になった。煙たい空気だけはどうしても慣れず、時折咳き込むが問題はない。
壁に纏わりついている、黒くて硬い枯れたような蔦を引っ掴み手すり代わりにする。女性は周囲をきょろきょろと警戒しながら立ち上がった。
一刻も早くこの異常な状況から逃げ出したいと切に思った。
ここは人っ子一人いない町。ここにいるとさながら自分が世界に一人取り残されたみたいで恐ろしいほどの孤独感が恐怖と共に込み上げてきた。
おまけにあのような
心の中を占有し始めた恐怖を振り切るように、彼女は再び無人の通りを歩き始め――――
「ひっ」
ふと、警戒するように視線をぐるりと巡らせた先に過ぎった黒々としたその影。それに目の焦点を合わせた瞬間、彼女の喉奥から微かな悲鳴が漏れる。
通りの向かい、建物の屋根の上。こちらを睥睨するかのように佇む――異形の
凡そどんな生物図鑑にも記載されていない、奇怪な化け物が様子を窺っている。
それは例えるならば、タコとヒトデと多肉植物を掛け合わせたような姿をしていた。
その体は黒ずんだ濃緑色の縄のように太く強靭な触手の塊であり、胴体らしき部分はそれら触手群の中に埋もれて良く見えない。
およそ知能があるのか、それ以前に目があるのか耳があるのか――どのようにして周囲を知覚してどのようにして思考しているのか、それすらも定かでない奇形の怪物。それは確かにこの世界に迷い込んだ――――否、
「――――キシィィ……ッ」
「ひ、ぃっ……!」
羽虫の群れが鳴るような微かな、それでいて不快感を煽る鳴き声。
どのような仕組みで発した音なのかもわからないその声を聞いた女性は、理由もわからず、それが
怪物は触手の表面を粘液でぬらつかせながら蠢かせる。
その動きはさながら、獲物を前にした獣の悪意に満ちた舌なめずりの様であった。
「きゃあぁぁあぁっ!!」
悲鳴。脱兎。
悍ましい異形の怪物、その姿を認めた女性は金切り声を上げて走り出した。
脇目も振らない見事な遁走。恐怖の赴くままに目の前の小さな路地に駆け込んで逃げの一手を打つ。
――その背後で「べちゃん!!」と大きな音がする。高い所から巨大な濡れ雑巾を地面に叩きつけたような音だ。
先の怪物が地面に降り立ち――そして追跡を開始する。
「キ、キ、キッ!!キキイィィィィッッ!!」
ガラスを切り裂くような声を上げて怪物が、この地獄の浅層に女性を引きずり込んだ悪魔が吠えた。
無人の通りに着地した悪魔は女性が逃げ込んだ路地裏に意識を向け、にやりと微笑むように全身の触手を蠕動させ、跳躍した。
濡れたゴムのようなぶよぶよとした質感の触手を地面に着けて、大きくたわませた反発力によって宙を舞う。その跳躍動作はどことなくバッタを連想させるものだった。
飛び跳ねた悪魔は、路地を形成する建物の壁に張り付くと、手足の代わりに触手を器用に動かし、壁伝いに女性を追い始めた。
伸縮する触手はゴムの様。それを器用にシャカシャカと動かして壁を這いまわる姿は巨大なクモかさながらゲジゲジのようであり、見るものに生理的な嫌悪感を抱かせた。
それはこの悪魔に追われる女性であっても例外でもない。
「いやぁぁっ!!」
「キキィィィッ!!」
路地裏から別の通りへ――遮二無二逃げ回る女性を、悪魔が追い回す。ある時はクモのように壁を伝い、ある時はサルのように
時折その触手がまるで鞭のように伸ばされ、走る女性の近くの地面をしたたかに打ち付けた。
地面のタイルが弾け飛び、アスファルトが砕けて破片が舞う度に女性は悲鳴を上げた。息を切らせて必死に走るその双眸には涙さえ浮かんでいた。
「キイィッ!!」
悪魔が振るう触手の打擲はさながら牛馬を追い立てるが如くであった。
いや、それは比喩ではないのだろう。事実、悪魔はいつでも女性を直接打ち据えて殺すこともできるのである。
それをしないのはただ一つ、この悪魔は愉しんでいるのだ――こうして獲物を追い回す行為を。
逃げまどう哀れな人間の恐怖を煽って、嬲って、殺す。
それは悪魔にとってこの上ない娯楽であり、同時に新鮮な
喜悦に全身を蠢動させながら思い出すのは、女を一人この地獄に引きずり込んだ時の事。
見知らぬ場所にいきなり放り込まれた女から染み出す『困惑』が芳しく匂いたった。『混乱』の内にある彼女に死角から襲い掛かれば『驚愕』が弾け、持っていた手荷物が地面にぶちまけられた瞬間に感じた『喪失』と『憤怒』は瑞々しいものだった。
そして悠々とその視界に入るように姿を現してやれば、しばしの『放心』の後に絶叫と共に『恐怖』が周囲に溢れだした。
その『恐怖』を更に搾り取るように追い立てるのはたまらない快感だった。女の走る傍からボロボロと零れていく想念を、悪魔は貪るように食らった。
ただ、絶え間なく脅し続ければいいというものでもない。
人間の感情には鮮度が重要だ。いつまでも同じ感情を絞り続ければそれはやがて枯渇してしまう。――――
なので、悪魔は一旦女を追うのを止めて姿を隠しながら、一度逃げ切った女から染み出す『疲労』や『逃避』、『混乱』といった想念を食らっていたのだ。
「キ、キキキキッ!!」
逃げまどう女性を上方から付け狙いつつ、悪魔が嗤う。
今もこうして追い回しながら美味なる『恐怖』を平らげているところだが――――そろそろ、新しい
――――そして、次の瞬間目にもとまらぬ速度で触手が振るわれる。
「ひッ、ぎぃぁっ!!」
女性の口から喉を潰されるような悲痛な呻きが漏れる。
何か激しい衝撃がその総身を襲ったかと思うと、彼女の体が吹き飛ばされ、タイル敷きの路上を転がって近くの壁にぶつかったのだ。
「あ、あぁぁ……っ、あぁぁぁぁぁ…………っ!!」
埃のような、あるいは煤のような汚れに体を塗れさせながら必死に女性が身を起こそうとすると、激痛と熱感が左足を襲って立ち上がることができなかった。
目を向ければ足首の辺りが奇妙な方向に捩じれている。明らかに骨が折れていると思しき重傷。
それを理解した瞬間、名状しがたい激痛が足から全身を走り抜け、女性は嗚咽を漏らした。
痛みのあまり涙がボロボロと眦から零れ、灰色の地面に染みを作った。
「あぁっ、やだっ、やだあ……おねがいやめて……こないで……っ」
足が折られ、もう走ることのできない彼女。そのすぐ横で――――大きくてぬめりのあるものが地面に落ちるべちゃり、という音が聞こえた。
その音は彼女にとっては恐怖以外の何物でもなかった。ガチガチと歯の根も合わないまま、悲痛な声を上げる。
せめて少しでも距離を取ろうというのか、服が汚れるのも厭わず両手で壁際を這いずって逃げようとする。
そしてその獲物の哀れを誘う姿は悪魔をより一層愉しませてくれた。
女から溢れだす『苦痛』と『絶望』の味は、人の想念を食らう悪魔にとって何よりも甘露であった。
ただ、人間から負の想念を引きずり出し、啜り食らう――――悪魔の
幾重にも様相を変える万華鏡の如き、生きた人間の――生の想念。
それをたっぷりと味わうために、悪魔はぬらぬらと光る触手を女に伸ばした。
「いやぁぁぁぁっっ!!やめてぇっ!!だれかたすけてぇぇっ!!」
絹を裂くような悲鳴というこのような声を言うのだろうか。
女性を触手で捉えた悪魔は、衣服に触手の先端を引っ掻け、包装でも破るかのようにビリビリに引き裂いていった。
怪物の真意がわからない『困惑』。衣服を剥かれ裸にされることへの『羞恥』と『屈辱』。
そして醜悪な触手の塊に全身を触れられることへの『嫌悪』――。
手中に収めた獲物の放つ新鮮な想念を食らい、悪魔は歓喜の声を上げた。
そして更なる想念を搾り取るために――――悪魔は女を
「やめてぇぇぇぇぇっ!!おねがいやめてっ!!なんでもするからそれだけはやめてゆるしてたすけておねがいいやぁぁぁあっっ!!!!」
衣服をバラバラに千切った悪魔の触手。それらが躊躇なく下着もむしり取り、脚を開かせた辺りで女は自分が何をされるのか気が付いた。
理解してしまったことへの『恐怖』、『屈辱』、『嫌悪』、『絶望』。それらがないまぜになって絶叫という形でその細い喉から悲鳴を上げさせる。
それを満足して聞きながら――――悪魔は女性の喉に触手の一本を捻じ込んだ。
「うん……っ!?んん゛っ、ぅ゛ぶぅえぇぇぇっっ」
桜色のリップを引いた女性の唇。その奥に向かって濃緑色の野太い触手が捻じ込まれ、女の悲鳴を無理矢理に押し殺した。
喉をいきなり突かれて猛烈な吐き気で女性が悶絶する。
自分が今、あの化け物の体の一部を口に入れられ、咥えさせられている――――そう理解した瞬間に猛烈な、文字通りの吐き気を催すような嫌悪感が襲ってくる。
「こっ、かっ゛、かほ゛っ」
びくびくと胃が、食道が蠕動して胃液ごと喉の異物を押し流そうとする。それは人体の生理として正しい反応ではあったが、最後まで実行することは叶わなかった。
意外にも細かった触手が咽喉を滑り落ちて食道を物理的に封鎖したからである。
吐き出すことも許されず、異物に犯されるばかりの消化管。その悶絶は激烈な異物感と嫌悪感となって女性の頭を埋め尽くした。
(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い…………っ!!!!)
「キッ、キヒヒッ!!キィヒヒヒヒヒィィィッッッ!!!!」
程よく化粧された女性らしい顔。その桜色の唇に縁どられた口腔に醜悪な肉隗を咥えさせられ、ほっそりとした喉の奥まで悍ましい悪魔の欲望にレイプされる。
あまりの苦痛と苦悶に女性の体が生ぬるい汗でぐっしょりと濡れる。
艶めかしさを感じさせる白い女体は今や、悪魔が慰みものとするように濃緑色の醜悪な蝕指を伸ばしてまさぐられている。
口から喉までを一本の触手に貫かれている様はさながら串刺し刑を連想させた。
無残にも引きちぎられた衣服の残骸が裸体を覆っているのがなおさらに、光景の残酷さを物語っていた。
そして――――涙で潤む女性の視界に、悪魔が一本の触手を見せつけるように掲げた。
それはさながら肉で出来た棍棒の様であり、
濃緑色の幹の先端の部分は人間を撲殺するための
だが、特筆すべきはその最先端――――縦に割れた筋のような穴だろう。
それは時折ひゅくひゅくと悍ましく蠕動したかと思うと、そこから生臭く塩っぽい臭気の漂う粘液を涎のように垂らすのである。
その凶器のような肉の棒を眼前に見せつけられた女性は――自分の見たことのある
そしてそれ故に背筋が凍りつくほどの『恐怖』と『絶望』に、ボロボロと涙を溢れさせた。
(無理……あんなの、挿れられたら死んじゃう……絶対に死んじゃう……)
女性がそう思ったことは間違いではない。そう、まさしくそれは間違いではなかった。
今から彼女を犯そうという悪魔にあるのは単純な性欲ではない。
『羞恥』、『屈辱』、『苦痛』、『苦悶』、『絶望』、『諦念』――――そして『死』。
人間から採取できる新鮮な負の想念。それを搾り取るために彼女を嬲るという
「キッ、キキキキキ……ッ!!」
女の肌に先走りの雄汁を擦りつけながら、ゆっくりとゆっくりと
そして、それがいよいよ女の黒々とした陰毛が生える股間に辿り着いた――――その時の女の『恐怖』と『絶望』の味たるや、それだけで悪魔は笑いが止まらなかった。
だが、いよいよ此処からがメインディッシュ。
この拷問具のような肉竿で女体を引き裂き、貫き、犯し、嬲る……その時に味わえる『苦痛』の味を想像し舌なめずりをして――――
――――次の瞬間、総身を衝撃が叩く。
「ギ……ッ!?」
体から伸ばした幾つもの触手が突如千切れ飛び、緑色の体液をびちゃびちゃとぶちまけながら跳ね落ちる。
横から悪魔の体を細かく叩いた
それと同時、女性の体を戒めていた悪魔の触手群も千切れていた。
どさり、と地面に落とされた女性は無我夢中で自分の口元に手を伸ばし――喉まで突き刺さっている触手を引きずり出した。
「お゛っ、お゛っ゛、お゛うう゛うぇぇぇぇぇっっっ――――!!」
ずろろろぉ……っ、と長い根っこを引きずり出すような手応えと共に、触手を引っ張り出す。
ようやく喉が解放された次の瞬間、栓が抜けたかのように女性は盛大に嘔吐した。
半ばまで溶けた胃の内容物と酸っぱい匂いのする胃液が蛇口を捻ったような勢いでぶちまけられ、地面の上で水音を立てた。
「え゛っ、え゛ぅぅっ、うぅ゛ぇぇぇ……!!」
四つん這いになって舌先から粘っこい汁を垂らし、いっそ哀れなほどにえづく。
助かったことの安堵さえ抱く間もなく、わけもわからないままに彼女の意識は急速に黒く染まっていった。ごく短時間のうちに猛烈な負荷をかけられた彼女の脳は自らを
強い貧血のような、意識が遠のく感覚を覚えた彼女は揺れる頭の片隅で、コツコツと石畳を革靴が叩くような音と――――桃色がかった小柄な人のシルエットを認めたような気がした。
だが、それを何なのか確かめる余裕すらなく、彼女は無言のままに倒れ込んだ。
******
「よかった。間に合って」
東雲朝陽の口から零れたのはそんな感想だった。
商店街の端、アーケードと普通の通りの境目付近に当たる場所で彼女は悪魔に追いついた。
地面を構成するタイルの上で、鮮やかなピンク色のストラップシューズを鳴らしながら彼女は歩を進めた。
彼女の視線の先にいるのは先ほどまで悪魔の慰みもの、あるいは
引き裂かれた衣服は辺りに散乱して裸体を晒し、あまつさえ自らの吐しゃ物が作った汚液だまりに顔から突っ伏して気を失っている。
その顔は涙と汗と鼻水と胃液でとても見られたものではなかった。
それを確認した上で朝陽は冷静にそう述べたのであった
「あぁ、でもそうだ。確か吐いた時にお腹の中身が喉で詰まって窒息することがあるから、処置するときは注意するように……ってお父さんが言ってたっけ」
細い黒髪をさらり、と流しながら朝陽はそう呟いた。確かに痛ましい光景かもしれないが、そんな所感を述べる余裕があるような状況でもあった。
何せ、
夫の目の前で妊娠している妻を全身犯し尽くした挙句、胎児を生きたまま貪り食うようなことも悪魔なら嬉々としてやる。
あらゆる残虐、非道によって人間から負の想念を搾り取るのが悪魔にとっての食事なのだから。
性器を蹂躙されず、喉に触手を突っ込まれて嘔吐させられる程度で済んだのであれば、十分早く助かった部類に入るだろう。
故に朝陽にとって今回の被害者はとても幸運な部類に入るのだ。
昔はもうちょっと動揺していたと思うんだけど私も擦れちゃったな、などと暢気に思いながら歩み寄ろうとする朝陽だが、動くものの気配を感じてその場にとどまった。
「キ゛、イ、イ゛ィィ……ッッ!!」
「……まだ生きてたんだ。」
彼女の足を止めさせたのは、朝陽の攻撃によって吹き飛ばされたはずの触手の悪魔だった。
濃緑色の体についた無数の傷、特に痛々しく千切れた触手から緑色の血液を滴らせながら立ち上がる。
その鳴き声は憤怒に満ちていた。食事を邪魔された怒り、そして己に傷をつけたことへの怒り。
楽器の弦を鋸で引くかの如き唸り声を上げる悪魔。その触手が植物の成長を早回しにしたかのように急速に伸長し、再生していく。
その光景を見ながら朝陽は嘆息した。
先ほどの攻撃は被害者女性を巻き込まないように、狙いを重視して威力を控えめに抑えたものだった。
それでもいい具合に決まったのだし大人しく死んでいてくれればよかったのだが……という、なんとも身勝手な感想だった。
「ま、いっか。今度はちゃんと仕留めよう」
――――被害者からは離れたし、今度は思いっきりやっていいよね。
心中でそう呟いた朝陽は、自らの武器である巨大な注射器を腰だめに構えた。
押し子の部分を右腕の脇で挟みながら固定し、左手で先端近くを持って矛先を照準する。
純粋に命中率を求めるのであれば目線の高さで構えた方が良いのだろうが、この武器の特性上、こうして重心が安定するように構える方が良いのである。
朝陽が戦闘態勢を取ったとともに、悪魔もまたその戦意を――否、悪意を漲らせた。
――――自身の食事を邪魔立てし、あまつさえ傷つけた報いは受けさせねばならない。
その細い体の全身を触手で締め上げ、『苦悶』の内にあらゆる穴を犯しぬいて『恥辱』を与え、『絶望』と『諦念』の涙を啜りながら、生きながらにして臓物を食らいつくして『苦痛』の果ての『死』を与えなければ気が済まない。
そしてなにより――――今、こうして己を目の前にして『恐怖』の念の一つも流さないというのが腹立たしくて仕方がない!!
「キィェェェッッッ!!!!」
奇声を上げながら悪魔が触手を伸ばす。
その伸縮の速度はさながら投槍の如し。
幾条もの黒い閃光のように宙を走る触手が、桃色の衣装に身を包む少女に殺到する。
直撃すれば少女の細い体など枯れ枝のように圧し折れるだろう威力。だが、決して急所は狙っていないのは悪魔の狡猾さ、いやさ悪意故であった。
四肢を砕き、苦痛に泣き叫ぶ少女をそのまま締め上げ、嬲りものにしようという濃密な悪意に満ちたその攻撃。
――――だが、悪魔は知っているべきだった。理解しておくべきだった。
少女はただの少女ではなく、魔法少女なのだということを。
魔の法の執行者。無法の悪魔を狩る者なのだということを。
「ギッ、ガッ……!!」
幾つもの乾いた音が宙に響く。悪魔の押し殺された苦痛の鳴き声はその中にかき消された。
連なり轟くその破裂音は、さながら巨大な飛行機のエンジンを間近で慣らした時のような音の衝撃を撒き散らす。
だが、それはあくまで副次的なものに過ぎない。これはただの攻撃の余波でしかなかった。
魔法少女・東雲朝陽が構える巨大な注射器。
その巨大な
鞄の中から魔法によって無尽蔵に供給される
重低音を轟かせ、丸みを帯びた円錐形の(ちょうど座薬のような)形状の銃弾が飛翔し、悪魔の触手を打ち砕いていく。
無論それだけでは終わらず、絶え間ない銃撃はその先にいる悪魔の体も打ち据えていく。まるで横殴りの雨のように、雪崩のように。
銃撃の雨に晒された悪魔は自らの判断の迂闊さを一瞬にして悟ったが、その時にはもう遅かった。
悪魔の全身はまるで豆腐のように易々と分解され、最後には原型を留めない緑色の体液のペーストになるまで破砕された。
悪魔が灰色の地面の染みになったところでようやく朝陽は銃撃を収めた。
ぷしゅう、と魔力の残滓を吐き出しながら
「一丁上がり」
ぐるり、と役目を終えた注射器を肩に担いで朝陽はそう独り言ちた。
言ってしまえば今回の悪魔は雑魚の部類であった。
より賢い悪魔であれば自身に攻撃を加えてくる存在に対してより注意深く対応してきただろう。
少なくとも
だが、今回のものは攻撃を加えられてそのまま攻撃し返してきた。直情的で考えなしの行動は知能が低い証拠である。
強い悪魔程、理性的に行動をする傾向にある。つまり知能が低いものは弱い悪魔なのである。
(まぁ、どれだけ低レベルな奴でも普通の人間だったら勝てないんだけどね)
朝陽は心中でそう考えながら、被害者の女性に改めて歩み寄り、その体を検分する。
見たところ片足の骨折と嘔吐以外に問題はなさそうである。吐しゃ物が喉に詰まって呼吸困難になどはなっていないようだった。
後は魔法で破られた衣服を修復し、体を治し、記憶を消去すれば良いだろう。
こと悪魔狩りに関係することであれば、魔法少女の『魔法』は無制限に許可されている。
ポイントで管理され、制限がついているのは魔法少女が物質界で私的に使用する分である。
魔法、それは想念の力で世界の理を捻じ曲げる力。
想念が作り出した
地獄の最下層に座す上位の悪魔たちが自身らの決定を『法』と呼び、下位の悪魔たちに従えているのはそれだけ彼らの力が強く、他の
つまり――『魔法』とは想念の、ひいては自我の強さで決まるのである。
魔法少女も同じことだ。
心の弱いものは魔法少女としてやっていけない。
それが善であれ悪であれ、正であれ邪であれ、清廉であれ醜悪であれ、真理であれ虚偽であれ、普遍であれ異端であれ――――強固な心の在り様こそが魔法少女の拠り所となる。
己こそが
この信念は譲れないと、
そう言い切る
(……なんだかひどい話だけど、私もそんな魔法少女の一人なんだよね)
朝陽は被害者の女性を介抱しながらそう思う。
こうして魔法少女として活動し始めるまで分からなかったが、彼女は殊更に他人に対して
全く無関係な他人がどれだけ傷ついていても――――それに心動かされないのだ。
代わりに思うのが、もしこれが自分の知っている誰かだったら?というもしもの話。
特に悪魔に襲われて慰みものにされるのが自分の父親だったら、とそう思うと叫びながら手当たり次第に周囲に怒りをぶつけたくなるような、そんな衝動に駆られるのだ。
つまるところ、東雲朝陽とは大切なものはとことんまで大切にするが、それ以外は心底どうでもいいという非常に極端な人間なのだ。
彼女自身、それを自覚して自らを人でなしだな、と自嘲する。
だがその彼女の性質を見抜き、それを称賛するのが彼女と契約した上位悪魔であった。
――それでこそ『魔法』を担うものに相応しい、と朝陽を称えるのである。
「さてと、後は送って帰るだけかな」
女性の体はすっかり治り記憶も操作しているので、目覚めたときには何事も無くなっているだろう。
そういえば途中で落とし物みたいなのを見たっけ、とそう思い返しながら朝陽は女性を背負って歩き出した。目指す先は自分の降りてきた次元の歪みである。
(帰りに夕飯の用意買っていこうっ)
灰色に染まった地獄の浅層。原型を留めない悪魔の死体を踏み越えながら帰路につく朝陽。
彼女の頭の中は既に愛する男性――自身の父親に何を食べさせてあげるか、というそれだけの事で占められていた。
父への愛。
それ以外は本当にどうでもよく、それだけのために全てを擲てる精神性。
それこそが東雲朝陽という魔法少女の強さの根幹であった。
ただ――――今、この場ではもう少しだけ他の事に考えを向ける余裕を、周囲を索敵する余裕を持っていれば話は変わったのかもしれない。
彼女が立ち去った街角。そのマンホールの淵から、一本の触手が覗いていた。
その触手はきょろきょろと周囲を見渡すように先端を動かして悪魔の死骸を一瞥した後――朝陽が立ち去った方向へと向いた。
その先端部分が如何なる原理によってか空気を震わせ、言葉を紡いだ。
「見ツ、ケタ、ゾッ」