浴室のシャワーの音が、ベッドに横になったままのゴロドクの耳に届く。
帰省前に訪れてきたクラーラとの二度の交わりを経て、心地よい脱力感が身を包んでいる。油断するとこのまま寝てしまいそうだ。
「んん……」
寝返りを打ち、窓の外に視線を向ける。冬至を開けたばかりの日の入りは早く、まだ時計の針は17時を指していないが既に夕暮れだ。
今朝まで一緒にいたノンナは午前中にカチューシャからの連絡を受け、手荷物を持って出ていったきりだ。どんな用件かは彼女にも分からないようだったが、「今日はこのままプラウダ高校の女子寮の方に戻るかと思います」と言っていたし、なかなかに面倒な内容なのかもしれない。
そんな事を思い出していると、卓袱台の上に置いたままにしていたゴロドクの携帯が鳴った。軽快なアレンジが加えられたロシア民謡「カチューシャ」のメロディーが室内に響く。
「ととっ!?」
聞き間違えようもない番号指定メロディーに、ゴロドクは慌てて身を起こした。カチューシャからの着信である。
ゴロドクは咄嗟に浴室のクラーラの方に視線を向け、それから携帯を手に取った。気持ち浴室から距離を置きつつ通話ボタンを押す。
「もしもし、伍堂です!」
既にメロディーがサビの部分に届きかけていた。これだけ待たせた場合、最初にカチューシャから返ってくるのは『遅いわよ、ゴロドク!』という一喝だ。
『……ゴロドク、今、大丈夫?』
しかし、電話口から聞こえてきた彼女の声は予想とは異なる静かな問いかけだった。いつもと違う様子に戸惑いつつ、ゴロドクは答えた。
「あ、ああ、大丈夫。どうしたんだ、カチューシャ?」
「その……ゴロドク、もう夕食は食べたかしら?」
夕食どころか、帰宅後に摂ろうと思っていた昼食もクラーラとのセックスでまともに食べていない。正直なところ、少し腹が鳴っている。
「いや、全然。これからコンビニに行こうかと思ってたところさ」
「そ、そう、それじゃ、これから一緒に夕食とかどうかしら?」
「夕食?」
「カチューシャの行きつけのロシア料理の店があるの。あ、あくまで良ければだけれど……」
やはり今日の彼女はおかしい。普段であれば「今からお昼を食べに行くから一緒に来なさい! 10分以内に公園の噴水前! いいわね!」と一方的に言ってくるのがカチューシャのはずだ。無論、そういう風に強引に誘ってくるだけあって彼女のおすすめの店は当たりばかりなのだが。
また、夕食を共にしようと提案してくるのもゴロドクの記憶の限りでは初めてだったはずだ。生活リズムが健康的と言うべきか子供っぽいと言うべきかは議論の余地があるが、彼女は早寝早起きが基本で、暗くなるとすぐに眠くなってしまう。
それらの違和感を感じつつも、ゴロドクは頷きつつ言った。
「ああ分かった、喜んで。時間は?」
『ええっと、そうね、『クレムリン』の前に18時……』
「ゴロドク! すみません、コートの中のハンドクリームを取ってもらえますか?」
突然、浴室からクラーラの声が飛び込んできた。慌ててゴロドクは通話口を押さえ、身を覗かせるクラーラに視線を送る。
それだけでクラーラは察したのだろう。申し訳なさそうに頭を下げると、浴室の戸を閉じた。
『今、クラーラの声がしなかった?』
「……いや、部屋には俺だけだけど?」
『そう……ごめんなさい、ゴロドク。ちょっと気疲れね』
「あ、ああ。大丈夫。それじゃ後で」
これも普段のカチューシャならば追及してきたところであろう。それもゴロドクの言葉にあっさりと引き下がる。やはり今日の彼女は変だ。
ゴロドクとしては心配する気持ちもあったが、このままクラーラを浴室から出られないままにもできない。短い応答の後、電話を切る。
「……もう大丈夫!」
「カチューシャ様からお電話でしたか。すみません、ゴロドク」
そう言いつつ、クラーラは浴室から身体を拭きつつ出てきた。シャワーに火照る白い肌に水滴が残る様が何とも艶めかしい。
「ああ。ちょっと様子が変だったけど、夕食を一緒にどうだって。18時に待ち合わせだから、シャワーを浴びたらちょっと出かけてくる」
「お気になさらないでください。私も着替えたら家に戻りますので」
そう言いながらクラーラは自身のコートを探り、小物入れに入ったハンドクリームを取り出して塗り始めた。
「ところでゴロドク、カチューシャ様の様子がおかしかったとは?」
「それが……何だか、元気がない感じ。『気疲れ』とか言ってたし、何かあったのかな?」
「ゴロドクとノンナ様との関係に気付かれたとか?」
「怖い事を言わないでくれよ……」
からかいめいて言うクラーラの言葉に、ゴロドクは恐ろしそうに答えた。
ふと、クラーラの表情が真面目なものに変わった。
「しかしゴロドク。何処かで答えを出さねばならない事ではないですか?」
「……それは、まあ、分かってる」
もともとはカチューシャと交際する事になったゴロドクに対し警戒し過ぎたノンナの勇み足から始まった関係ではある。しかしここまで長く、深い関係になってしまった以上、最後に物事を決めるのは男の務めだろう。
しかし、では具体的にどうしたものかとなるとゴロドクには見当もつかなかった。カチューシャとの交際を始めてからの数ヶ月、自分とノンナが彼女に隠し事をして裏切っていたのは事実なのだ。
悩むゴロドクに、クラーラは軽く言った。
「良い方法でしたらありますよ? カチューシャ様もノンナ様も、ゴロドクも幸せになれる方法が」
「え? いや、そりゃ無理だろ。幾らなんでも……」
「いいえ、簡単な事です。カチューシャ様の身も心も、完全にゴロドクの物にしてしまえば良いのです」
ゴロドクは思わず口を半開きにした。
「……カチューシャを、俺の?」
「はい。もともと貴方はカチューシャ様の“彼氏”なのですからその権利があります。カチューシャ様を篭絡させて、ノンナ様との関係を明らかにしても怒らない。ノンナ様を責める事もしない。そうなる程にゴロドクに依存するようになれば誰も辛くはなりませんよ。もちろん、私も」
よくよく彼女の発想は図抜けている。ゴロドクはクラーラの言葉に呆れと驚きを同時に感じつつ尋ねた。
「カチューシャがそんな風になるのは、クラーラ的にはどうなんだ?」
「私としては喜ばしい事です。敬愛するカチューシャ様と戦車道で共に戦えるだけでなく、快感も共有できるようになるのですから」
「……そうですか」
思わず敬語で答えつつ、ゴロドクは想像してみた。
ベッドの上で先に横になるカチューシャ。緊張を解くように彼女の髪に触れ、優しくキスをする。
幼さを残した──と言うより、まだ第一次性徴期すら迎えていないような凹凸の無い小柄な身体を抱きしめ、小さな女陰に自身の肉棒を埋めてゆく様子。それを痛がるでもなく受け入れ、圧迫感を感じつつも悶えるカチューシャの姿。
「うーん……」
しばらくゴロドクは唸っていたが、やがて首を横に振った。
「……いや、やっぱり駄目だ」
「駄目ですか?」
「そういうんじゃ無いんだよ、カチューシャは」
それはゴロドクにとっての本心だった。決してカチューシャの事が嫌いな訳ではない。彼女の事が好きかと聞かれれば「好きだ」と迷わず答えられるだろう。
しかしそれがセックスしたいという欲求と直結しているかと問われれば、ゴロドクは否定するだろう。カチューシャの事は好きだが、それは家族などに向けられる親愛に近いものだ。
大事にしたいという気持ちに嘘は無い。だが彼女とセックスしたいという気持ちとそれがどうにも繋がらない。
ゴロドクの言葉はクラーラの予想の範疇だったのだろう。小さくため息をつくと彼女は言った。
「しょうがありませんね、ゴロドクは」
「……悪い」
「でも、そういう選択肢が貴方にある事は忘れないでくださいね」
とりあえず、今のクラーラの言葉が善意からのものである事は間違いないのだろう。
そこまで考え、ゴロドクは自分の股間が乾き始めている事に気付いた。一応ティッシュで精液や愛液は拭きとったが、拭き残しがこのままではカピカピになるだろう。
ベッドから立ち上がるとゴロドクは言った。
「んじゃ、シャワー浴びたら行ってくるよ」
「お気をつけて。私も着替えたら出ますので」
髪を拭きつつクラーラが言う。ゴロドクは頷くと浴室に向かった。
1時間後。
雪がちらつく夜の町をゴロドクは歩いていた。胸元には小さな赤いピンズ。クラーラがコーヒーのお礼にと部屋に残していったものだ。
帰省で一時的に艦を降りている学生が多いせいか、通りを歩く人もまばらだ。全く居ない訳ではないが、皆早足で家路に向かっている。艦に残る人も年末の準備に忙しいのだろう。
ただそれでも商業地区が近くなってくると街並みは華やかになり、『年末セール!』などのポスターや張り紙が貼られた店が立ち並ぶようになってくる。
「悪い、待たせたか?」
「い、いいえ。カチューシャもさっき来たばかりだから」
学園艦内唯一のアミューズメント施設「クレムリン」の前で、既にカチューシャは待っていた。何故かその服装は戦車道の試合時に着るパンツァージャケット姿だ。
「それじゃ、行きましょ。お店は私が案内するわ」
「OK、楽しみだ」
カチューシャはゴロドクに言うと、先導して歩き始めた。その小さな背中をゴロドクも追う。
「それにしても珍しいな、カチューシャが夕食に誘ってくるなんて」
「……そうかしら?」
何気ない問いかけだったのだが、カチューシャの反応は鈍かった。
大通りを離れ、ロシア人の店が並ぶ民芸品などの通りに出る。この場所はゴロドクも覚えていた。先月、ノンナと共にカチューシャへのクリスマスの贈り物を選ぶために訪れ、偶然カチューシャと遭遇して窮地に陥りかけた通りだ。
まだ18時過ぎという事もあり、通りのどの店も店頭に明かりを点けて営業していた。柔らかな電球の光にガラス細工店のステンドグラスが照らされている。クリスマスが近いからか、その絵柄は青い服を着た老人と白い服を着た少女に変わっている。
ロシアのクリスマスにおいてサンタクロースは存在しない。その代わりとして登場するのが「ジェド・マロース(吹雪の老人)」と呼ばれる冬の精と、その娘の「スネグーラチカ(雪娘)」だ。
スネグーラチカは冬の象徴であるジェド・マロースとヴェスナ・クラスナという春の精の間に生まれた雪の身体の少女で、夏を迎えるために溶けて消えてしまうという悲劇的なエピソードがオペラで歌われ知られるようになった。
現在ではそういった悲劇性は陰を潜め、ジェド・マロースと人間を結ぶマスコット的な存在としてロシアの人々には広く認知されている。
「ここよ、ゴロドク」
ステンドグラスに視線を送っていたゴロドクは、カチューシャの声に我に返ると前方を見た。木製の簡素な店構えが家庭的な印象を与える、ロシア家庭料理の店だ。
慣れた感じで戸を開け入店してゆくカチューシャの後に続いて入ると、暖かな空気と共にトマトスープの酸味と肉の焼ける匂いが混じり合った旨そうな匂いがゴロドクを包んだ。
「いらっしゃい、カチューシャちゃん。席の用意は出来てるよ」
「ありがとう、おばさま」
如何にも“ロシア人の女将”といった風情の恰幅の良い女性がエプロン姿で陽気に出迎えてきた。微笑みつつカチューシャが答える。戦車道においては“小さな暴君”の異名に恥じない攻撃的な指揮ぶりを見せる彼女だが、日頃は素直な少女なのだ。
カンテラ型の証明が並び暖かな光を放っている店内の窓際の二人掛けのテーブルに案内され、カチューシャはぴょんと軽く跳んで椅子に腰かけた。次いでゴロドクもその正面に腰かける。
「アンタがゴロドクさんかい? 噂はカチューシャちゃんから聞いているよ。色々と助けてあげてくれてるんだって?」
「ど、どうも……いえ、そんな」
「ハハハ、照れるもんじゃないよ! それじゃ、用意してくるかね」
店主であろう女性は流暢な日本語で話しかけてくる。おそらく学園艦暮らしも長いのだろう。ゴロドクは少し恐縮しつつ頭を下げた。
厨房に彼女が入っていったのを確認し、ゴロドクはカチューシャに言った。
「常連なのか、この店?」
「まあ、それなりにって所かしら」
照れくさそうにカチューシャは言うと、手元に出されたお冷を飲んだ。釣られてゴロドクも手元のグラスを傾ける。レモンの微かな香りがする、程よい冷たさの水が気持ちを落ち着かせてくれるようだ。
やがて、テーブルには幾つかの大皿が運ばれてきた。赤いスープに大きい野菜がたっぷり入ったボルシチ、揚げたての
「ここの料理は本当に美味しいわよ。ゴロドク、先にお食べなさいな」
「ああ、それじゃ遠慮なく……いただきます」
小さなボウルに移したボルシチをスプーンで掬い、少し冷ましてから口に入れる。
「……!」
以前、カチューシャが手作りでボルシチを作ってくれた事があった。あれもあれで旨かったが流石はプロの味という事だろうか、じっくりと引き出された肉と野菜の深みのある味わいが口の中に広がってゆく。
「美味い!」
「でしょ?」
ゴロドクの反応が嬉しかったのだろう。ここまで固い表情になりがちだったカチューシャは緊張を解き、自身もボルシチを口にした。
それ以外の料理も流石と言っていい物だった。学園艦に来てから自炊とコンビニやスーパーで済ませていた事をちょっと後悔しつつ、ゴロドクはその味を堪能した。
カチューシャもゴロドク程に食べはしないものの、他愛ない会話を交えつつ食事を進めていった。
「……ねえ、ゴロドク?」
「え?」
その空気が変わったのは、最初の肉料理を食べ終え魚料理が出てきた時である。
カチューシャは大きく息を吸うと、ゴロドクを正面から見据えた。彼女の態度の変化に、思わずゴロドクも襟を正す。
「どうしたんだ、カチューシャ?」
「その……来年、卒業したらどうするつもり?」
正直なところ、その質問はゴロドクにとっては拍子抜けするものだった。
「どうするって、まあ……前に言ったかもしれないけど、普通に青森の大学に行くつもりさ。とりあえず『津軽味噌大』や『じゃっぱ汁国際大』あたりなら何とか俺でも行けそうだし」
「そう……」
「カチューシャも、大学に上がってからも戦車道は続けるんだろ? だったら……」
少なくとも彼女からゴロドクはそう聞いていた。大学戦車道を続けるならば、学園艦でない青森の大学に入学する事になる。彼女の華々しい戦歴からすれば、スポーツ推薦も余裕のはずだ。
そう思いつつ言葉を返したゴロドクに、カチューシャは静かに言った。
「私は……ロシアに留学する事になるわ」
「え?」
ゴロドクの言葉が途切れた。
「ロシアで……より本格的な戦車道を学べる事になったの。一応学業面でのテストはあったけど、それも今朝になって合格通知が来たわ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、カチューシャ!? そんな事、今まで一度も……」
寝耳に水のカチューシャの話に、ゴロドクは動揺を隠せずに尋ねた。
「……合格できるか、実際、微妙だったの。はっきりするまで、言えなくて」
そう絞り出すように答えるカチューシャの表情には、深い苦悩があった。
「年明けに、高校戦車道としての最後の大会“無限軌道杯”があるわ。それを終えたら、カチューシャはロシアに行く事になる」
「………」
ゴロドクは言葉を失い、カチューシャを見た。
その視線を正面から受け止めつつ、カチューシャは言った。
「だから……ごめんなさい、ゴロドク。カチューシャからお願いした事なのに、貴方と一緒に居られるのは、あと一ヵ月も無い」
「いや、それなら遠距離で……」
「それは駄目よ! これはカチューシャの身勝手だもの……ゴロドクを付き合わせる訳にはいかないわ」
寂しそうにカチューシャは笑った。
その笑顔を前に、ゴロドクは自分の中から湧き上がる感情に強い怒りを覚えた。
馬鹿野郎。別れ話を持ち出されて何を安心しかけてる。もっと本心から彼女を慰め、関係を続けようと呼びかけるべき場面だろうが。
「………!」
苦しそうなゴロドクの表情を、別れの悲しみと判断したのだろう。カチューシャはあえて元気な声を出した。
「さ、食べましょう! 料理が冷める前に食べてあげるのが、お店の人への最上のマナーよ!」
──あの女将さんには悪いと思ったが、その後の味は分からなかった。
二時間ほど経って店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。民芸品店なども既に明かりを落とし、人の無い通りには静かに雪がちらつくだけだ。
「その……ありがとう、カチューシャ」
「いいのよ」
短く答え、カチューシャはゴロドクに向き直った。ゴロドクも少し腰を落とし、彼女と視線の位置を合わせる。カチューシャの瞳が閉じられる。
「………」
「………」
カチューシャが何を望んでいるのか、ゴロドクにも理解できた。肩を柔らかく掴み、そのまま静かに唇を合わせる。
「ん……」
「ンッ……」
数秒そうしていた後、唇を離しゴロドクは腰を上げた。
「……おやすみなさい、ゴロドク」
「ああ、おやすみ。カチューシャ」
別れの言葉を交わすと、カチューシャは背を向け足早に歩いてゆく。潤んでいた瞳をゴロドクに見せたくなかったのだろう。
時折こちらを振り向くカチューシャに、ゴロドクは微笑んで手を振り見送った。小さな背中が更に小さくなり、見えなくなる。
「………」
振っていた手を下げ、ゴロドクは自分の背後に向かって言った。
「いるんだろ?」
そう、こんなカチューシャの大事な場面に彼女が立ち合っていない訳がないのだ。
「……はい」
背後からの返答。ゴロドクが振り返ると、そこにはカチューシャと同様にパンツァージャケットを着たノンナが立っていた。
「その……ここじゃ何だし、ちょっと話できないか?」
「……分かりました」
ノンナは頷いたが、自分からは動こうとしなかった。行き先はゴロドクに任せるようだ。
無言でゴロドクはノンナに背を向け、歩き出した。それに付いてくるのが足音で分かる。
「………」
「………」
言葉を交わさず、ゴロドクは通りから離れてゆく。しばらく無言で歩いた後、その脚は帰路の途中の公園前で止まった。
「ここで、いいか?」
「はい」
そのまま公園に入る。学園艦にはホームレスは存在せず、年末の冬の公園という事もあり園内に人の気配は全く無かった。少し奥まで入ったところのベンチの雪を、二人が座れる程度に掃う。
ゴロドクはそこに疲れたように腰かけた。その横にノンナも座る。
ひと息ついた後、ゴロドクは口を開いた。
「……知ってたのか、この事?」
「ロシアの大学から打診を受けているという程度は聞いていました。ここまで話が進んでいたと知ったのは、今日が初めてです」
淀みなくノンナは答えた。そこにおそらく嘘は無いのだろう。
「今朝の電話がそれだったのか?」
「はい。カチューシャ自身も相当に悩まれていましたが、自身でゴロドクに伝えると決められました。あのジャケットは、カチューシャにとってこれが臨戦態勢でなければ言えなかった事柄だからです」
「そっか……」
「ロシア戦車道が日本人の実力を認め招聘するのは非常に稀で、同時に名誉な事です。プラウダ戦車道としても断る事は許されません」
まるで事務員が文書に書かれた内容を説明しているかのように、ノンナは淡々と言葉を続ける。
「良かったじゃないか。これで、ノンナにとっては最初の思惑通りになったんだから」
「………」
ノンナからの返答は無い。
「……ごめん、意地の悪い事を言った」
「いいえ」
自身の中に正体の分からない苛つきがある。それを自覚し、ゴロドクは謝罪した。自己嫌悪に額に手をあてる。
「……ゴロドク、貴方は悪くありません」
そこで初めてノンナはゴロドクに向き直った。視線を真っ直ぐにこちらに向けている。
ゴロドクも彼女と視線を合わせ、その感情が読めない瞳をじっと見た。
「その、ノンナは……」
尋ねようとして、言葉が途切れる。
聞くまでもない事だ。常にノンナは言っていた。何があろうとカチューシャの側に居ると。
彼女の頭脳と語学力なら今からでも容易にカチューシャと同じ大学に行けるだろう。対して自分は国内の私立が精一杯、今から勉強して間に合うとは到底思えなかった。
「……聞いては、くれないのですね」
ゴロドクが何を言おうとしていたのかノンナにも伝わっていたのだろう。その言葉には幾らかの寂しさが混ざっている。
「そりゃ、まあな」
嘘だ。
彼女を「行くな」と引き留めたい。強く抱きしめ、何処にも行けないようにしたい。
しかし──果たしてそれで彼女は“ノンナ”のままで居られるだろうか。
カチューシャを強く敬愛し、凛として戦車を駆り、“ブリザード”の二つ名に負けない強さと激しさを持ち合わせた鉄の淑女。
その彼女を構成している要素を全て失った上で、彼女は彼女のままで居られるのだろうか。その迷いがあった。
「ゴロドク」
ノンナは、静かにゴロドクの手を取った。
「……どうすれば良いのでしょうね、私は」
「ノンナ?」
「かつての私であれば、迷わずカチューシャと共にロシアに向かい、貴方を一瞥もせずに去る事ができたのでしょう」
その手をノンナは自身の胸に当てさせた。厚手のジャケット越しにでも分かる彼女の乳房の重みと、動悸が伝わってくる。
「………!」
「今も理性は正確な判断を下しています。カチューシャは留学し、私はそれに共に行き、貴方とはもう会わなくなる。それが最も収まりの良い状態です」
ノンナの空いた手がジャケットのボタンを外した。ゴロドクは手を振り払う事もできず、彼女の動悸を感じていた。激しく、熱い。
「でも……身体は今も、貴方を求めてしまっている」
ジャケットの隙間からゴロドクの手を奥に差し入れさせる。汗ばむ肌と、弾力ある乳房の感触が直接伝わってくる。
「ノ、ノンナ……」
「お願いします、ゴロドク……此処で、していただけませんか?」
ノンナの瞳の奥に、欲情の炎がゆらめいている。
声を出す事もできないゴロドクの頬に、一片の雪が落ちて水になった。