昨晩の争いはなかったことのように
今朝の遊郭は静まり返っている。
桃子は早朝から部屋の隅々を雑巾がけしていた。
終わるころ、玉江の部屋に粥を届けに行った。
「ねえさん、お加減は如何ですか?」
「桃子、おおきに。あたしは大丈夫だよ。
それより桃子こそ、体調はどうなんだい?」
「大丈夫です。明日もまた、高野さんがおいでになります。」
「そうかい・・・高野はんは、杉江ねえさんを愛しておいでだったからねぇ・・・桃子、あんたのことも大事にしてくれるよ」
「ええ・・・旦那さんはいつもやさしくて、良いお人です」
「高野はん、桃子の身受けを申し出ているらしいで」
「・・・・・」
「ええ話やさき、考えとき」
「はい・・・・」
杉江が唯一愛した男、高野は桃子と床を共にした時に
桃子の肌の白さやうなじの美しさがあまりに杉江と似ていたことから
一晩で桃子のとりこになってしまった。
しかも、杉江には太ももの内側にほくろがあったが
桃子にも同様のほくろがあり、杉江と桃子が赤の他人とは思えなかった。
高野は早々に桃子の身受けを申し出たのであった。
------11年前--------
「痛ぁーーー!」
「堪えて!あともう少し!踏ん張るんだ」
わずか11歳の杉江は水揚げ後すぐにやや子をもうけた。
赤子は透き通るような白い肌で、桃のように淡いピンク色の
唇を持っていたことから「桃子」と名付けられた。
当初は里子に出される予定であったが、杉江が狂ったように
泣きわめき、舌を噛んで死ぬと騒ぎ立てたことから
遊郭で育てる以外に手段を択ばせなかった。
杉江にとって桃子は心のよりどころだった。
孤独と嫌悪に耐えられるのは、桃子を腕に抱く時であり
我が子の寝顔をみるのが、苦しい日々を回避できる唯一の楽しみであった。
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桃子が杉江の娘であることは、おかみと杉江本人以外は知らないことであり、
当然、桃子にもその事実は伏せられ、同郷であるよしみで杉江が
桃子を可愛がっているのだと、桃子は信じて疑う余地さえなかった。
しかしながら、なぜ自分だけ小さい時からここにいるのか
疑問に思いながらも、誰に問いただすことさえせず、ただただ
自分の置かれた状況を受け入れる他なかった。
姉さんたちはやさしかった。玉江とやりあった君子でさえも
桃子には情をかけてくれていた。
地獄絵図のような女たちの戦いを目の当たりにしても、この牢獄から
脱出を試みようという気持ちにはならなかった。
ここから出たとしても、まともに暮らせる術がないことを
わずか12歳になろうとしている少女は悟っていた。
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「桃子、高野さんがいらしたよ。部屋でお待ちだ」
「わかりました。おかみさん」
桃子は高野が待つ部屋に急いだ。
桃子が部屋に入ると高野は経木の包みを差し出した。
「桃子さん、このみたらし団子、来る途中で買ってきたんだ。
よかったら召し上がってください」
「ありがとうございます。みたらし団子は好物です。」
「そうか!杉江さんもみたらし団子が好きだったんだよ。
桃子さんも好きなんだね。よかった」
「はい。杉江ねえさんと私の好物は似ているんです。
ぶぶ漬けもだいすきで、よく二人で食べていました」
高野は静かにほほ笑んだ。
「桃子さん、おかみさんからも話があると思うが
実は、君を身受けしたいんだ。この遊郭を出て
私の屋敷に来てほしい」
「・・・・はい・・・・まだおかみさんからは
何も聞いていませんが、考えさせていただきます」
「君を学校に入れて、できれば高等女学校まで
進ませてあげたいんだ。」
「勉強は・・・・私もしたいです。でも・・・」
「ほかの女郎たちに気を使っているんだね?
それなら心配ないよ。それなりの配慮はするつもりだから」
財閥の家系に生まれた高野は、愛した女の形見とは知らずとも
目の前のはかなげで美しい少女を救いたい一心で、無謀な賭けに出ようとしていた。
壮絶な女の戦いは収まるところを知らない。
やがて桃子にも飛び火が襲ってくるやもしれない。