放課後の図書委員の主な仕事は、貸し借りを担うカウンター業務と、貸した本を元の棚に戻す返却業務に分けられる。
もちろんそれ以外に仕事はあるし、互いに補い合って進めるのだけれど、主にという意味ではその二つだ。
「川上くん。今日はどちらがいいかしら?」
先輩はいつも僕に気を遣って、そう尋ねてくれる。
今日もいつも通りそう聞いてくれたのだが、先ほどの戸塚との会話が頭に残っていたいせいか、思わず、先輩の胸に目をやってしまう。
その豊かな二つの膨らみの自己主張は激しく、物静かで知的な佇まいとのギャップに、僕は思わず顔を背けた。
そして、なんとか先輩の質問に答えを返す。
「僕が返却をしましょうか」
「お願い。それじゃあ、私がカウンターね」
先輩はそういうとカウンターに入っていき、カウンター業務の担当がつける紺色のエプロンを身につけ、長い髪を後ろで一つに結わえた。
その仕草すらも見惚れてしまうほどで僕は固まっていたようで。
「どうしたの、川上くん?」と声をかけられた。
「いえ、なんでも」
と答えつつ、僕は先輩を見て気づいたことを思わず口に出す。
「先輩こそ、大丈夫ですか、少し顔色が悪いみたいですけど」
先輩はハッとした顔になる。
「いえ、大丈夫よ……。でも、もしよかったら……いえ、やっぱり駄目よね」
先輩にしては歯切れが悪く、最後の方の言葉はほとんど呟くような大きさで、聞き取ることができなかった。
先輩はちらりと自分の指先を見る。
そこにはいつもはしていない指輪が収まっている。
それで自分を取り戻したような顔つきになって。
「そろそろ開館時間だから、開けるわね」
そういうと先輩は図書室の扉を開けた。
待っていたといわんばかりの利用者が続々と入ってくる。
そのほとんどは男子生徒で、つまりは先輩目当てだ。
なんでも先輩が当番の日は利用者が二倍以上になるそうだ。
先輩はそんなことを知ってか知らずか(十中八九知らないと思うけれど)、あまり利用者を気にすることなくカウンターに入っていく。
僕も自分の仕事をと思い返却棚に向き直る。
『絶対にうまくいく告白の方法』
『彼女が彼氏に望む一〇のこと』
『OKがもらえる一〇〇のプロポーズ』などなど。
一体全体なんでこんな本が図書室に入っているのかと思うが、何のために借りるは利用者の様子を見れば明白だった。
それぞれの思い思いに先輩を見つめている男子生徒を横目に僕は仕事を始める。
返却棚の本をまずは移動ラックにすべて移す。
量が量だけにラックは三つほどになる。
次に本の背の番号ごとに振り分けていく。
こうやって最初に分類ごとにしておくと、戻すのが楽になるのだ。
後はそれぞれの棚を回っていけばいい。
そうして準備を進めている間に、ちらりと先輩を見る。
先輩は利用者カードの整理をしながら、次々に来る先輩目当ての利用者(男ども)に丁寧に対応をしていく。
やはりどこか調子を崩しているように見える。
気になったが、先輩は僕の心配を素直に受け取ってくれるとは思えず、僕はラックの本を棚に戻し始める。
単純作業のようだが、僕はこの仕事が嫌いじゃない。
人が借りた本がわかるし(さっきのは極端な例だ)、戻す時にいろんな題名の本が目に入り、読みたい本が増える。得した気分だ。
僕はその作業に集中していると、ずいぶんと時間が経っていたようだ。
すべての本を戻し終える頃には、ちょうど先輩目当ての利用者も落ち着いたのか、図書室には僕と先輩だけになったっていた。
先輩の様子は変だった。
先ほどは青白く体調を崩しているように見えたが、今度はやけにその顔は赤くなっていた。
熱があるんじゃないかと思い、僕はもう一度声をかける。
「先輩。やっぱり調子悪そうですけど」
「いえ、体調は大丈夫なのだけれど。その……」
何か言葉を繋げようとしたが、でもそれは最後まで言葉にならないようだ。
「あの、もう、今日は僕一人でも平気ですから」
「ありがとう。でも大丈夫よ、でも、その」
先輩は何かを言おうとして顔を伏せる。
その頬から汗が伝わる。
風邪や緊張というよりは、恥じらいの表情のようにさえ見える。
でもそんなはずはないと思う。
先輩が僕に対して恥じらいを見せるとは思えない。
けれど、振り絞るような小さな声で出てきたのは。
「ねえ、川上くんさ。聞きづらいことを聞くのだけれど、Hなことってしたことある?」
先輩は顔を伏せたままそんなことを尋ねてくる。
頬は先ほどよりもさらに赤くなっている。
意味がわからない。
意味がわからなかった。
けれど、そんなことを考えるより早く思わず僕は答えていた。
「いえ、したことはないですけど」
「ごめんなさい。今のは忘れて」
先輩と僕の声が重なった。
なぜ、そんなことを、と聞くことさえ気まずくて僕は黙った。
先輩も同じなのか恥ずかしそうに、目をパチクリさせている。
お互いに何も言えないまま。
沈黙の時間が生まれる。
何か言わなきゃ、まずい。
そんな焦りから、
「先輩はどうなんですか?」
と僕はそんなことを口走っていて、
「ごめんなさい。今のはなしで」
「私もしたことないわよ」
また声が重なり、沈黙を作った。
「その本当にごめんなさい。私がいけなかったわ。変なこと聞いて。ちょっとね。色々あって。そのそういうことを……」
上ずったような声色のまま、先輩は意を決したような顔つきになった。
「あの、川上くんっ!」
それは先輩に似つかわしくないぐらい大きな声だった。
続く言葉に勢いをつけるように発せられたように思えた。
僕は身構えるように先輩の次の言葉を待つ。
けれど、そのタイミングで最終下校時刻を示すチャイムが鳴った。
先輩は何かを言いかけたが、そのチャイムに萎縮するようにトーンをひそめ、次の言葉を続けることはなかった。
さっきのは一体なんだったのだろう?
結局、先輩が、何を言いたかったのかわからなかった。
あの後すぐに先輩は恥ずかしそうに駆けていってしまった。
そんな先輩の姿を見るのはもちろん初めてで、僕は動揺した。
残っていたわずかばかりの後片付けをして施錠し、職員室に鍵を返して僕は自転車置き場に向かう。
体育会系の部活を終えた幾つかのグループとすれ違うが、どうにもピントがうまくあわない。
ほんとにさっきの先輩の質問はなんだったんだろう?
いやそれよりも、僕はなんてことを聞いてしまったのだろう。
思わず尋ねたあの質問の答えは嬉しくもあったが、それ以上に恥ずかしさがあった。
それに、最後先輩は何を言おうとしたのだろう。
答えが出るはずもないことを考えながら、僕は自転車に跨がってペダルを漕ぎ始める。
一人暮らしの自宅までは自転車で一〇分強だ。
六月の風は爽やかで新しいとさえ感じたが、依然として頭の中では先輩とのやりとりがくるくるとまわっており、落ち着かなかった。
普段なら気づかなかったと思う。
頭に先輩の姿があるせいか、僕はそれに気づいた。
「あっ」
と僕は思わず声を出してしまった。
自宅からすぐ近くにある、小さな広場のある公園。
名前すら覚えていないその公園に先輩がいた。
その姿は捨て猫みたいだった。
うずくまるようにしてベンチの前で屈んでいた。
僕は自転車を止めて、少し駆け足気味でその小さな公園の入り口をくぐり、先輩に声をかける。
「安城院先輩、大丈夫ですか?」
先輩は声をかけるまで、僕に気づいていなかった。
気づくと驚きからか、戸惑いからか、その大きな瞳をさらに大きくした。
同時に藁にも掴むような、それでいて目当てのものを見つけたようなそんな表情を浮かべた。
なぜ、そんな表情をとはもちろん聞き返すこともできない。
僕は先輩が口を開くのを待った。
すぐに。
「川上くん……」と頬を赤らめながら、僕の名前を呼んだ。
僕は先輩の次の言葉を待った。
今度は遮るものは何もなかった。
先輩は顔を真っ赤にしながら、
「あの、私を君の奉仕奴隷にして下さい」と言った。