翌日。昼休み早々に葵に屋上に呼び出された。
「ずいぶん顔色が良くなったみたいだけど、その様子だと智花ちゃんとは仲直りできたみたいね」
「まぁな」
「そう。そのまま嫌われなくて良かったわね」
「まったくだ」
なんだろうか。このプレッシャーようなものは……。
俺を気遣ってくれている言葉を投げ掛けてくれているはずなのに、言葉の節々に棘のようなものを感じる。
おそらく葵も万里や独自の情報網を駆使して、ある程度は俺と智花の接触事故を知ってしまったみたいだが。
すぐには俺を追求せずに事態が収束するまで敢えて触れずにいてくれたのだろう。
現時点では完全決着まで、あともう一つ最大の壁が控えているのだが……。
確かに葵たちに話すタイミングとしては丁度良かったのかもしれない。
「それじゃ、ここからが本題」
「お、おう」
妙な緊張感が一段と強くなった感じがする。
「ねぇ、昴。ちょっと前の話なんだけど。私に告白してきたバカが昴は智花ちゃんと付き合ってるって言ってたんだけど――」
ちょ、ちょっと待て!?
いくらなんでもその情報は最新のトップシークレットだぞ!
いずれ葵の耳に入る。っていうか、今まさに俺が順序立てて説明するつもりだったのに。
「はぁっ!? なんで葵がもう知って――」
「ふぅん。やっぱりそうなんだ」
「あ……………………」
語るに落ちてしまった。すっと頭から血の気が引いていく。
そのおかげだろうか、少しばかり冷静になった頭が働いたようで、ようやく俺も合点がいった。
確かに部活中にうっかり智花の名を口に出してしまい、それを勘違いしたバカが葵に告りに言って見事玉砕していたが……。
……てか、あんの野郎。普通告白するのに幼馴染をネタに使いやがるか。
まだ葵の中では信憑性の低い噂程度だったのだろうけど、今の俺の失言で真実になってしまったのだろう。
「いったいどーいうことなのか説明してくれるわよね?」
笑顔だけど目が一切笑ってなくてメチャクチャ怖い。
葵の迫力に思わず決意が鈍りそうになってしまったが、逃げるわけにも行かない。
そうだ、これは前哨戦なんだ。
俺は忍さん相手に智花を賭けた一大勝負を仕掛けなくてはならないのだ。
何より目の前にいる葵だって、俺が再びバスケと向き合うことを信じ続けて、
俺の心とバスケを繋ぎ止めてくれた恩人の一人なんだ。
そんな彼女に背を向けるような真似できるわけがない。
蹴られるのはいつものことだが、もしかしたら本気で愛想を尽かされてしまうかもしれないが……。
「そうだな。怒られるのはいいんだけど……できれば、その、怒っても最後まで聞いてもらえると助かる」
「私が怒るのは確定なんだ」
不機嫌そうに腕を組んでいるが、どうやら応じてくれるみたいで一安心。
それじゃ、葵の気が変わらない内に、
「実は――」
俺が口を開きかけたところで、突然ばたんと勢いよくドアが開くと、大柄な男が姿を表す。
俺も葵も一瞬身構えるも、その人物が誰なのか一目でわかり安堵する。
なんだ、万里か。
さすがに完全に無関係な第三者の乱入だったのなら、今すぐこの話題は中断すべきだが、彼もこの場に現れてくれたのならちょうどいい。
そんなことを考えていたのだが、どうも万里の様子がおかしい。
妙に慌ただしく俺たちを探していたようだが、何かあったのだろうか?
まるで俺の疑問に答えるように開かれた彼の口から驚くべき事実が告げられる。
「ここにいたのかっ。昴、荻山。ヤバいぞっ! 俺たちが慧心と関わりがあったことが教師たちにバレちまったみてぇだ!!」
「なっ!?」
「えぇっ!?」
くそっ。なんでよりによってこんなタイミングで。
ようやく男バスが軌道に乗り始めようとしているのに……ヘタすると葵がいる女バスだって巻き添えを食らっちまうんじゃ……。
どうしてなんだよ……。俺たちはただ自分たちのバスケがしたいだけなのに……。
「……今すぐ俺たち三人、指導室に来いだそうだ。先生方が色々俺たちに確認したいことがあるらしい」
「どうする? 昴」
「どうするも何も、行くしかないだろ……」
はなから俺たちに逃げるなんていう選択肢はない。
もともと後ろめたい行為なんて一切していないんだ。
それなのに逃げてしまえば俺たちは掛けられているであろう疑惑の全てを認めてしまうことになるのだ。
しかし……小学生絡みで謹慎処分を受けていたバスケ部が、まさか謹慎中に小学生と関係を持っていたなんて知られたらどうなるかなんて……。
おおよそ考えられうる最悪の展開の数々が脳裏を掠める。
屋上から指導室までなんてものの数分で到着してしまう。
そのわずかな移動距離の間にも必死に思考を巡らせ続け、ひたすらに打開策を思案する。
ちらりと右隣を歩いていた葵を一瞥。
まずは人一倍責任感や強く義理堅い葵が精神的な揺さぶりに負けないように、彼女にとって最大の懸念事項である女バスを最優先だな。
「……悪いな葵。だけど女バスに被害が出る様な事態だけは絶対に避けてみせ――ぐはっ!?」
その想いを告げ終わる前に文字通り一蹴された。
「ったく昴のバカっ! まぁ、確かにあんたの行動の全てが無実だとは言えないけど、それでもあんたがこれまでやってたことは決して間違ったことじゃないってことは私もよく知ってる。だからあんたに協力してあげたんでしょうがっ」
一番余裕ないくせに余計な心配するなとそっぽを向かれてしまった。
「万里――」
「おおっと。余計なこというなよ、昴? 荻山なんかとは比べ物にならないくらいキツイヤツをぶちこまれたくなければな」
不敵な笑みを零しながらも、硬く握られた拳が冗談半分なのはわかるが、それでも割と本気で怖い。
こいつも葵と同意見か。
「はは。二人がいてくれて心強い」
「昴は気負いすぎ。別に私達は悪いことして怒られに行くわけじゃないのよ」
「まぁ、何にしてもだ、昴――」
「くれぐれも変なことは言うんじゃねぇぞ」
「くれぐれも変なことは言っちゃだめよ」
二人揃って、こちとら全く身に覚えのないことに釘を刺してきやがった。
変なこととはなんだ。何度も寝食を共にした小学生たちとの思い出のどれもこれもが俺にとっては何物にも代えがたい大切な物だ。
まるで俺がコーチという立場を利用して、彼女たちと遊んでばかりいたようじゃないか。
互いの親睦を深め合うために誕生日を祝いあったり、ちょっとした合宿や旅行にだって行ったことはあるが、どれもこれもとても有意義な物だった。
まったくもって健全そのものじゃないか。
二人に食って掛かろうとしたが、残念ながらタイムアップ。目的地に到着してしまった。
教室のドアに掲げられているプレートにも間違いなく『進路指導室』と書かれている。
あまり馴染みの無い場所なだけに何故か妙な緊張感が走る。
別に後ろめたいことがあるわけでもないのに、何故か警察官やパトカーとすれ違う時に変に緊張してしまう時のような不思議な感覚。
「失礼しますっ」
息を飲み、やや緊張した面持ちで指導室へ入り――
一足早く中で控えていた教頭をはじめとした、数人の先生方からめちゃくちゃ褒められた。
最初の一言二言は短い質問に短い回答という、どこか互いに牽制し合うような質疑応答だった。
しかし俺があっさりとコーチをしていた事実を認めると、すぐに張りつめた空気が柔らかくなっていった。
どうやら慧心学園初等部から七芝高校へ直々に謝辞の一報があったらしいのだ。
設立直後の女バスがわずか一年で出すことができためざましい成果の数々は俺たちの協力があってこそと、判断したらしい。
呆然とした様子で彼女たちの成果を改めて再確認することになったのだが……。
確かにあまりにも嘘くさい……っていうのは適した表現ではないな。
彼女たちの頑張りを間近で見てきた俺がそんなことを思うこと自体失礼だ。
言伝に聞いた立場では確かに信じ難いこともいくつかあるだろうけど、俺の記憶が正しければ紛れもない事実だ。
公式戦のレコードは初戦敗退の一度切りで終わってしまったが、対戦相手である硯谷女学園が圧倒的な強さで初の全国優勝を果たしている。
そんな硯谷女学園と唯一延長戦までもつれこみ、試合終了の間際まで勝敗を争うことができたという事実も一部ではかなり有名な話になっていたそうな。
硯谷女学園側も慧心学園を感謝すべき最高のライバルと称していたとのことだ。
そして地区は変わるが、同じく全国大会を間近に控えていた八栗ドレッドノータスとの練習試合。
これには見事に勝利し、その後の八栗ドレッドノータスもまた全国大会で優勝という成績を修めている。
この他にも例えばForM主催の非公式のミニバス大会では出場した二チームがそれぞれ優勝とベスト4入り。
バスケからは離れるが、夏休みの時には都市部を外れた南端部で行われた『ちびっこトライアスロン・リレー大会』では、後続を大きく引き離しての圧倒的大差で見事優勝と準優勝を独占。
現在は中等部へと進学した智花たちと、ミニバスを引き継いだ現六年生たちの今後の活躍にも大きな期待が掛かっているそうな。
今思い返してみると、卒業式の時にやった男バスとの試合もなんかいつも以上にギャラリーが多いような気がしたけど……そーいうことだったのか!?
「そっか。いつの間にかみんなとの思い出も抱えきれないくらいたくさんあったんだなぁ~」
対面している先生から客観的に彼女たちの活躍を教えられ、ぽつりとそんな言葉が零れてしまった。
ほんの少し思い返すだけで、一人一人との大切な思い出がいくらでも蘇ってきて、思わず頬を綻ばせてしまった。
「そこで、だ。長谷川君」
少女たちとの楽しい妄想に耽っていたところで、教頭の言葉にハッと顔を上げる。
「実は、慧心学園から君達に今後も女バス以外のところのコーチもお願いできないかと依頼があったのだが――」
「申し訳ありませんが、お断りさせて頂きます」
教頭が言い終わる前に丁重に断らせてもらいながら、頭を下げつつ、内心で思い切り毒づいてやる。
何言ってんだこいつは。そんなもんダメに決まってんだろうが。
「香椎君と荻山さんはどうかね?」
「私は昴と違って正式にコーチに採用されたわけではなくて、あくまで昴の手伝いとしてだったので……」
「俺もコーチというよりは妹がバスケを始めたからだしな。昴から教えてもらうまでは全然知らなかったし」
『申し訳ありませんが、お断りさせて頂きます』
俺と同じく二人もやんわりと辞退の意をする。
当たり前だ。俺たちはもう『自分のバスケ』に忙しいのだ。
何より俺も万里も他のことにかまけていられるような余裕なんて一切ない。皆無だ。
「ふむ。まぁ、君たちの事情がわからないわけでもないしな。すまなかったな、後で私の方で丁重に断りの連絡を入れておこう」
どうやらあっさり引き下がってくれたようで安堵。
下手に食い下がられるようなことがあったら、さすがに俺も激昂せずにはいられなかったかもしれない。
この人らだって、どうして俺たちがそんなことをやれる余裕があったのかを知ってるわけだし。
「確かに、いくら慧心とのコネが作れるかもしれないと言っても、これ以上あまり危ない橋を渡らせるわけには行きませんからね」
何やらひそひそ話をしているが、内容が内容だけにさすがに内心穏やかにはいられなくなりそうだ。
「あぁ、いやいや。別に君たちを疑っているわけではないんだ。確かに最初話を聞いた時は驚いたけどね」
思わずムッとした表情をしてしまったのだろう、それを見た教師の一人が慌てて俺を宥めようとするがどうでもいい。
「あちら側の多くの先生方も君が来てくれることに賛同しているようなんだけど、なぜかそれこそ女バスの顧問の先生が、もし万一君がまた来たりでもしたら、あることないこと言いまわって即刻追い出してやる。とか言っているようで……」
その言葉にがっくりと肩を下ろす。
「ミホ姉……」
「あ、あはは……美星ちゃんならやりかねないわね」
隣にいた葵も乾いた笑いを浮かべていた。
その後、もしコーチを引き受けるにしても、万一自分たちが知らないところで何か問題が起きてしまってはいけないので、まずは自分たちに一言相談してからにして欲しい。とだけ言われて、俺たち三人は指導室を後にするのだった。
「ったく、先生たちもビビらせるなってんだよ。いきなり『慧心学園との関わりについて確認したいことがあるから、すぐに昴と荻山を連れて、指導室に来い』だぜ」
「はぁ~……一時はどうなることかと思った」
再び人気のない屋上まで戻ってきたところで、俺と万里はだらしなく溜め息を漏らしながら一息つく。
「とりあえず、余計な誤解が生まれる前に片付いて良かったと考えていいだろ」
今後俺が智花たちと会っているところを見られたとしても、元コーチと教え子だからが、周囲に通用するのだ。
もう二度と、あんな俺の黒歴史の集大成たる姿を晒すことなく、堂々と彼女たちを学園祭にだって呼べるのだ……。
「……コーチ引き受けなくて良かったの?」
葵にしては珍しくどこか遠慮気味にそんなことを聞いてきた。
「何言ってんだ。そんなのやってられる余裕なんてあるわけないだろ」
確かにコーチを引き受ければ、もしかしたら平日でも智花たちと会う機会が増えるかもしれない。
だけどそれは、もはやコーチどころか、自分のバスケすら疎かにしてしまうただの私情だ。
俺が中学の舞台で活躍するであろう彼女たちを送り出したのと同じく、彼女たちも笑顔で俺を自分の舞台へと送り出してくれたのだ。
それなのに、わざわざ戻ってくるような恥ずかしい真似できるわけがない。
「……せ、せっかく彼女になった、智花ちゃんとも会えるのに?」
「それとこれは別問題だろ」
俺も智花もそんな形で会うことを別に望んでいるわけでは……いや、そりゃ少しは望んでるけどさ。
多分真帆たちにはすでに知れ渡っちゃてるだろうから、会ったら会ったで絶対囃し立てられそうだけど。
それはそれで楽しそうな気もするけど、そういうのは別にわざわざ慧心学園でしなくてもいい。
いや、むしろされたら誤解が誤解じゃなくなってしまう。
「ちょっとまてーっ!? おい昴っ!! お前、マジで湊さんと付き合ってるのか!?」
「ん? あぁ、そうだった。そういえばさっき葵に話そうとしてた時にお前が来たから話し損ねてたんだったな」
しかし、他の奴らにも恋人関係を指摘されるたびに一々恥ずかしくなっちまうな。
『ニヤついてないで、ちゃんと説明しろーーーっ!!』
二人の攻撃を同時に食らったのは初めてかもしれない……。
刈り取られ、薄れゆく意識の中、ぼんやりとそんなことを思った。
「ふぅん。要するに前に智花ちゃんとケンカしちゃって、仲直りする方法を考えてる間に偶然智花ちゃんの気持ちを知っちゃったのね、それでフることばかり考えてたけど、昴も自分が智花ちゃんのことが好きだったら、別にフる必要がないと思って、付き合うことにした。と」
「まぁ、概ねその通りだな」
そしてその交際もおそらく今週限りで終わって、また元コーチと教え子の関係に戻る。
俺自身は彼女にさえ会えるのであれば、別に無理に恋人関係を維持することに固執する必要はないと思っている。
「昴はそれでいいと本当に思ってるの?」
「だからこそ、二人にも聞きたいんだ。俺は本当に智花と付き合ってていいのか?」
俺と智花、そして母さんたちは付き合っていい。という答えをくれた。
他の人間ならともかく、葵も万里も今回の一件に限らず、今まで多大な迷惑を掛けてしまったにも関わらず俺たちを支え続けてくれたのだ。
そんな二人の考えを無関係だからと蔑にするつもりなど毛頭ない。
「仮に一週間後。もし湊さんのお父さんがお前たちの交際を認めない。なんて言ってきたらどうするんだ?」
今まで追及を葵に任せ、傍観に徹していた万里が当然の疑問を口に出す。
「どうするも何も別れるしかないだろ」
「そんなあっさりでいいの!? 智花ちゃんがかわいそうじゃないの!?」
「正直智花の本心全てはわからないし、俺も別れずに済むならそれが一番だと思う。でも俺たちが守るべき本当に大切な物を犠牲にしてまで関係を維持しようとは思ってないし、それは智花も了承してくれた」
俺も智花も相手以上に大切な物があることを理解している。
せっかく相手が守ってくれた大切な場所を奪わせる行為をするわけにもさせるわけにもいかない。
「ま、お前らが納得してるんだったら、俺からは何も言えねぇよ。俺もお前に救われたようなもんだしな。少なくとも俺が見てきたお前は湊さんと問題を起こすような奴だとは思えんしな」
溜め息交じりにそう告げる万里。どうやら俺と智花の関係に肯定的な意志を示してくれたようだ。
しかし、何故かどこか気まずそうな視線を葵に送っている。
それを受け、葵は。
「ごめん。万里くん。ちょっと昴と二人にしてくれる」
「あぁ。んじゃ、放課後な昴」
何かを察したのであろう、手をひらひらと振りながら、その場を離れて行く万里を見送る。
ばたんとドアが閉まり、再び俺と葵二人だけの空間になったところで会話を再開。
「葵。もし俺が信用できなくて、智花に何かよからぬことをすると思うのなら、今すぐ別れろって言ってもいいだぞ?」
「言えるわけないよ……そんなの。そんなこと言ったら、私絶対に自分を許せなくなる……」
自分が許せなくなる? 何を言っているんだ葵は。
許せないのはこんな暴挙に出てしまった俺の方だろうに。
「お前なんかちょっと様子が――」
変だぞ? という前に言葉を遮られた。
「ねぇ。昴。智花ちゃんと付き合ってるってことは、キスしたの?」
「なっ!? うぇっ!? そ、そそそれは……っ!?」
「したの?」
あまりにも予想を大きく越えた質問にひどく狼狽えてしまう。
そんな俺を特に気にした様子もなく、ただ淡々と答えを求めてくる葵。
「……………………はい」
普段の威圧的な雰囲気はないのだが、何故か絶対に嘘をついてはいけないように感じられ、逡巡の末に正直答えてしまった。
「そっか。そうだよね。二人は付き合ってるんだもんね……」
どこか儚げな、悲しそうな表情をしている。
見ているこっちまでなんだか不安になってくる。
「葵。本当にどうしたんだ?」
俺みたいなのが幼馴染で本当に愛想を尽かされてしまったのだろうか?
思わず葵を見つめ返すと、ゆっくりと彼女が動き出す。
まるで時の流れが止まっているのかと錯覚するくらい、ゆったりとした感覚の中で、少しずつ葵の顔が近づいてくる。
その動きに惹きつけられているように、呆然としていると、お互いの顔をくっつきそうな距離まで少女の顔を接近してきたかと思うと、幽かにその唇が動く。
「ごめん。昴」
「え?」
葵の言葉の意味がわからないまま、気づくとさらにもう一歩踏み込んだ葵と物理的な接触をしてしまっていた。
つい最近誰かと経験したような感触と非常に酷似しているが、それとはまた違う柔らかな感触と温かさ。
「んっ……」
俺がこの行為をキスだと認識する頃にはすでに葵の顔は離れていた。
今にも泣いてしまいそうなくらい悲しげな表情のままだった。
肩をわなわなと震わせている少女に掛けるべき声が見つからない。
「ごめん、ごめんね。昴」
「葵、どうしてこんな……」
「私だって昴のことが好きだからだよ」
葵が儚げな表情のまま呟かれた言葉が耳に届く。
「………………え? はぁ!? あ、葵っ!?」
当然の幼馴染からの告白に思考が真っ白になる。
直前まで、葵とこんなことをしてしまって智花になんて説明したらいいのだろうかと必死に考えていたのだが、それすらもキレイさっぱり消滅してしまっていた。
「……昴の初めては智花ちゃんにあげちゃったみたいだからさ、せめて私の初めてだけは昴にもらって欲しかったから……だから、勝手に押し付けちゃった」
「お、押し付けちゃった……って、なんで、そんな……」
智花といい、なんだってよりにもよって、俺みたいな男に女の子の大切な物を、投げ捨てるような真似をするんだよ……。
「だから昴のことが好きだからだよ」
俺の胸中の疑問に簡潔に答えてくれた。
……が、そんな些細な問題が解決したところで、深刻な状況は一切変わっていない。
「で、でも、俺は……」
「智花ちゃんと付き合ってるんでしょ」
「あ、あぁ……」
その通りだ。俺は智花と付き合っている。
だから今、葵の告白を受けたとしても、絶対に受け入れるわけには――
「来週にはせっかく付き合えた智花ちゃんと別れないといけなくなっちゃうでしょ? そんなタイミングで昴に告白するなんて卑怯なこと、絶対できないよ…………」
いつも活発でことあるごとに俺を叱咤激励してくれる大切な幼馴染。
そんな彼女が今はとても弱々しく身体を震わせている。
ダメだ。今の彼女を放っておくことなんて……俺にはできない。
「葵……」
例え智花に浮気と咎められようと、大切な幼馴染をこのままになんてできるものか。
俺は葵の気持ちに応えることはできない。
でも、せめて、憔悴しきった少女の気持ちをほんの少しの間だけでも癒してあげることができるのなら……。
彼女の細い両肩に手を置き優しく抱き締めようとしたところで、
「ふんっ!!」
「ぐはぁっ!?」
葵の渾身の右ストレートが俺の頬をとらえた。
「あ、葵っ!?」
ちょっと待って、なんで俺、急に殴られたの!?
「ったく、なにどさくさに紛れてヘンなことしよーとしてんのよっ!」
「ヘンなことってなんだよっ!! 放っておけるわけないだろっ!!」
「自分でフったくせに、優しくしないでよ……。そんなの……そんなのなんか私がすごく惨めに感じるじゃない……」
気丈に振る舞っていた声が次第に勢いを失い、涙声に変わっていく。
「……すまん」
謝りつつも俺は途中で中断されてしまった行為を再開する。
再び彼女の肩に手を置き、抱き寄せるが今度は抵抗される事なく無事成功。
やっぱり最初の一回で抵抗する気力も尽きてしまったのだろう。
葵の方からは抱き返してはこないが、俺のなすがままになってしまっている。
「……バカ。こんなことして、知っちゃったら智花ちゃん悲しんじゃうわよ」
「あとで智花に必死に謝る。それに智花のことだから、俺が今の葵をほっぽりだしたなんて知ったら、自分のせいだ。って絶対そっちの方を悲しむに決まってるだろ」
智花だって事情を知ったら、きっと許してくれる。っていうのは、俺の過信ではないはずだ。
彼女にとっても葵は大切な存在なんだ。
「ほんとお人好しすぎるんだから………………。ごめん、昴」
「ん?」
「勝手にフられた癖に八つ当たりして、それなのに、まだ私のこと受け入れようとしてくれて……………………ありがと」
「礼を言われる事なんてしてない。俺はお前みたいに気配りができたり、気の利いたことなんて何も言えないからさ」
俺がいつも自分勝手にバカばかりやっていられるのも、葵のおかげなんだ。
できることなら、これからも大切な幼馴染で友達で居続けて欲しい。が、きっとこんな身勝手な考えは許されないだろう。
それでも何もしないまま、彼女を失って後悔するよりはいい。
「昴。もう大丈夫だから、離れて」
どうやら大分落ち着いてきたのだろう。
声にもいつもの生気が戻ってきたような感じがする。
だけど、まだ本調子じゃないような……?
「ほんとに大丈夫なのか? 時間ぎりぎりまでこうしてていいんだぞ? なんだったら頭でも撫でてやろ――」
「いい加減離れろっ!! こんのバカ昴っ!!」
思い切り蹴り飛ばされた。
うん。これは完全回復してるな。間違いない。
「まったく。いくら幼馴染だからって、調子に乗って女の子をベタベタ触りまわるんじゃないの。ほらっ。予鈴もなってるんだし、いつまでもぶっ倒れてると授業遅れるわよ」
倒れてる俺を無視して一人でずんずんと歩いているが、ドアの前で一度ぴたりと立ち止まる。
「……もとはと言えば私が原因だけどさ。ちゃんと智花ちゃんに謝らないとダメよ。私ももし智花ちゃんが会ってくれるなら謝らせてもらうけど、こういうのは早く済ませておかないと、後々でこじれちゃったら大変なんだからね」
一方的に伝え終わると、今度こそ一人で先に行ってしまった。
どうやら葵は今後も俺の幼馴染のままいてくれるようで、それが何よりもすごくありがたいことだった。
俺たちは大切な物を一切失うことなく、一週間限りの智花との恋人生活を続けられそうだ。