俺と智花の二人の大切な将来のことが話し合いの末に無事決着がつき、四月も数日を残すところまで来ていた。
お互いに新学期、新入生気分もすっかり抜けきっていきそれぞれの生活スタイルが確立されつつある。
これまで通り走り込みから戻れば智花の笑顔が出迎えてくれる。そんな幸せな日々を送れるのも、もうすぐ終わっちゃうのか。
頭の中で思い浮かべたカレンダーも、もう印を付けられる場所が終わってしまうところまで来ている。
ほんの少しだけ心細さや寂しさのような感情が出てしまいそうになったが、かぶりを振り気持ちを入れ替える。
いやいや智花とは平日に会う機会がなくなってしまうだけで、休日は彼女のことだからきっと変わることなく俺に会いに来てくれるだろう。
今まで通り変わることなく家の玄関前でボトルを片手に俺の姿を見るなりすぐに表情を綻ばせてくれた少女の姿で確信できた。
「おはようございますっ、昴さん。ロードワークお疲れ様でした」
「おはよう、智花。智花の方も体はもう解れてるよね?」
「はいっ。私の方も準備万端ですよっ。――お口に合うかわかりませんが、よかったらどうぞ」
そう言いながら、俺に差し出してくれた特製のドリンクをありがたく受け取らせてもらう。
母さんから作り方を教わってからは、以来彼女が作ってくれているらしいが、そう聞くとロードワークの疲れが吹っ飛ぶ気がする。
せっかく智花がわざわざ俺のために作ってくれたのだから、一気に飲まずにしっかりと味あわせてもらうとしよう。
「ありがとう。――それじゃ、さっそく見させてもらおうかな?」
智花の邪魔にならず、且つ彼女の姿が良く見える位置に移動しながら、一足早く流した汗と疲労を彼女の甘酸っぱいオレンジミルクで癒す。
「んしょっ……と。それでは、さっそく始めますね」
一度だけ体を大きく伸ばしてから表情を引き締めると、体中に張り巡らされた神経一つ一つに意識を集中しているかのように微動だにせずに、じっとゴールを見つめている。
やがて彼女の中でイメージが一つに固まったのであろう。彼女の体が動き出したのを無意識に目で追ってしまう。
彼女が膝を曲げ強く踏み込んだ瞬間から、スローモーションで再生したかのように彼女の動きがゆっくりと流れていくような錯覚を覚える。
智花が深い集中状態に入るのと同時にこちらもまた無意識に神経を研ぎ澄ませ彼女の一挙手一投足を見逃すことなく全てをこの目に焼き付けようとしていたのだろう。
まるで背中から生えている翼を羽ばたかせたかのように、ふわりと高く飛び上がると掲げていたボールが、ここだという最高のタイミングで放たれる。
高いアーチを描きながら徐々に視界の端へと追いやられていくボールの行く末には興味なんてなかった。どうせゴールに入るに決まっている。
それよりも彼女のシュートフォームを最後までしっかりと目に焼き付けていたい。
ワンハンドシュートを放ち終わった後も、智花はじっとボールを眼で追っている。
きゅっと引き締めれていた表情がほんの一瞬だが、わずかに嬉しそうに緩んだ様子から、予想通りゴールに入ったことを察する。
「えへへ。ちゃんと決めることができて良かったです」
彼女が安堵の溜め息を一つついた後に、転々と転がっているボールを拾いに行ったところで、俺にはにかむような笑顔を向けてくれた。
「そうか? 俺にはいつも通りに見えたけど、シュートフォームもすごく綺麗だった」
「ふぇぇ!? ぁ、ありがとう……ございます……」
俺の素直な感想に恐縮してしまったのか、頬を染め俯いてしまった。
相変わらず慎み深いというか、せっかく大好きなことなんだし、もっと自信持っていいと思うんだけどな。
ふと、彼女と同様俺の大切な教え子の一人でもあり、彼女の友人の一人の姿が思い浮かぶ。
頭の中の彼女は腰まで届くツインテールを揺らしながら大きく胸を張り、褒めてと言わんばかりに自信満々の表情で目を輝かせながらこちらを見ていた。
真帆たちも元気にやっているだろうか?
智花から聞いた話では問題なさそうだけど、しいて言うなら中学入り立てということもあり、今はまだ基礎ばかりをやらされているらしい。
まぁ、最上級生で自由にやれていた頃に比べれば色々と不自由さを感じてしまうかもしれないが、少しの間の辛抱だ。
五人がバスケを始めた原点は少し違うが、スポーツであることには変わりない。
日々互いに実力を高めるためにぶつかり合い、激しいレギュラー争いを勝ち抜き、実力が認められることでようやく試合に出られるのだ。
正直なところ身内贔屓と思われそうだが、彼女たちの強さがあれば、いずれレギュラー争いだってものにできるだろうと思っている。
ミニバスの頃と違って五人揃って試合に。というのが叶わないこともあるかもしれないが、最終的には絶対に彼女たちが揃うと信じている。
むしろ大変なのは来年からかもね。
君たちよりもっと勝負に対して貪欲だった後輩たちが乗り込んでくるぞ。
――って、はは。彼女たちよりも自分の方を心配するべきはずなんだけど……やっぱ智花たちがいると自然と彼女たちのコーチになっちゃうな。
「それじゃ、もうちょっとだけ一人で続けてくれるかな? 俺も少し休んだら混ざらせてもらうからさ。そしたらいつもどおり一緒にしよっか」
「はいっ。あの……よ、よろしかったらでいいんですが……その……私が一人でしてるところも、見て頂けると……」
「もちろん。智花のシュートを見れるのも俺にとって最高の楽しみの一つなんだ。しっかり見させてもらうよ。……あ、でもあんまり一人でがんばりすぎないようにね。あとで俺とできなくなったらイヤだからさ」
冗談めかした伝えた言葉にも彼女は満面の笑顔で応えてくれると、再び黙々とシュート練習を始め出す。
……なんていうか、いつもすごい贅沢なことしてるよな。
決して俺のためではないのは重々理解しているのだが……それでも彼女のこの時間を唯一俺だけが独占してしまっているような気持ちになってしまう。
ふぅ。と思わず感嘆の溜め息が零れてしまっていた。
彼女のシュートが一本。また一本とゴールネットを潜り抜けて行く様子を見て行く度にどんどんと心が惹き寄せられていく。
まだまだ発展途上だっていうのはわかってたつもりなんだけど、増々綺麗に精錬されてきてるし。ほんとどこまで伸びちゃうんだろうな。
小学……いや、中学生でありながらここまでの素質は羨ましい限りだよ。もちろん相応の努力を積み重ねているのも知っているし、それも含めて彼女の素質だろう。
以前聞いた話だともしかしたら小学生になる前からすでにバスケと出会い、その時からシュート練習をしていたらしいし。
「えへへ。なんだか昴さんと最初の頃にお会いした時みたいですね。こうやって私のシュートをじっと真剣に見て下さって……」
「正直驚いてるよ。初めて見せてもらった時からあれだけ見事なシュートだと思っていたのに、この一年で更に上達するなんてね」
彼女のシュートはすでに完成していた。なんて我ながらとんだ勘違いをしていたよ。
智花は去年までどころかほんの一月前までランドセルを背負っていたような少女なのだ。いや、正しくは慧心の初等部の通学鞄はランドセルではないのだが。
日々絶えず成長を続けている少女がこの程度で完成なわけないだろ。
さて、そろそろ彼女の成長を肌で感じさせてもらうとしよう。
あんなに綺麗な物を見せつけられちゃ、俺だってもう我慢の限界だ。
「智花。そろそろ俺の相手をしてもらってもいいかな?」
「はいっ。えへへ、実はずっと昴さんにお相手をしてもらいたくて待ちわびちゃってました」
「そういうことなら、また新しく思いついた攻め方を試させてもらおうかな。智花には俺の攻め方をいっぱい覚えてもらったし、これからもどんどん教えたいからね」
「新しい攻め……すっごく楽しみですっ。昴さんの攻めも、しっかり受け止められるようがんばりますねっ」
俺も彼女を見習って、しっかり成長しないとな。
いつもワンパターンな攻め方で彼女を抜いても、それは単に俺と智花との身体能力の差でできることであって、技術の差とは言い難い。
頭の中ではこう来るとわかってても体が付いて来れなくて止められない。じゃ、彼女だってただ悔しいだけだろう。
どうしようもない理不尽なスペック差が原因で悔しがられるよりは、俺だって智花に「こういう攻め方があったなんて知りませんでした」みたいに彼女に尊敬されるように驚かれたいんだ。
お互いに新しい攻めを開発し合いながら、今日もすごく充実した時間を過ごすことができた。
新しい境地に目覚める。ってこういうことを言うんだろうな。
「はふぅ……昴さんの攻め、すごかったなぁ……激しい動きから、急にゆっくりになって、いっぱい焦らされちゃったと思ったら、いきなりまた激しくなって……」
「智花だって、途中まで完全に俺の動きについてこれてたじゃないか。危うく抜かれそうになった場面だっていっぱいあったんだぜ」
「えへへ、もっと昴さんにご満足頂けるようにがんばりますので、これからもいっぱい教えてくださいねっ」
才能があるのにどこまでも貪欲な姿勢はほんと感心だけど……
このままだと近い将来、たとえ全部出し切ってこれ以上は無理だ。って言ってももっと下さい。って、ねだられてしまいそうだな。
日頃からしっかり溜めてストックしておくようにしないとダメかもな。
「わかってると思うけど、智花の方も自分で色々考えてみるんだよ。お互いに色々考えあって、それを出し合った方がもっと楽しくなるし、俺にとっても新しい発見に繋がるからさ」
「はいっ。これからもよろしくお願いします、昴さんっ」
それじゃ、今日はこれくらいにしようか。と朝練を切り上げると、智花がキョロキョロと周囲を確認する仕草をし出した。
何か落としてしまったのだろうか? と思ったが、練習前と特に変化はない。
どうしたのかと試しに声を掛けようかと思っていたら、彼女の方から近づいて来るなり耳元で、
「……こ、今度のお休みの時でいいので、また……あ、甘えさせて頂いてもいいでしょうか?」
恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めながら小さな声でおねだりをしてくれた。
言われて気づいたが、今日の彼女は俺の古着を着ていた。ということはつまり俺に抱いて欲しいということだ。
もともと彼女自身の羞恥心もあったためか、それほど機会はなかったのだが、ここ最近の出来事で人の温もりが恋しくなってしまったのだろう。
最初に周囲を見渡していたのは、ミホ姉が近くにいないかを確認するためか。
確かにミホ姉が見てる前でこんなお願いできないだろうし、されたら俺の命が危ないところだ。
「もちろん。智花にはいっぱい気苦労を掛けちゃったし、気の済むまでいくらでもしてあげるよ」
久しぶりの智花のおねだりなんだ。叶えてあげるに決まってる。
快諾しながら優しく頭を撫でると、恥ずかしそうな表情はそのままだが嬉しそうに目を細めてくれていた。
こんな智花の姿を見てしまった以上、今週は絶対に生き残らなくてはならないとな。
俺は絶対に休日まで生き延びて智花のことを思いっきり抱きしめてやるんだ。
結果、肉体的にはギリギリだったが、それでも意志だけは絶対に折れることなく一週間を乗り切ることができたのは、間違いなく智花のおねだりのおかげだろうと確信する日々を送ることになるのだった。
心配していた部員の流出問題はようやく落ち着きつつあるが、残っている部員の全員が部活に慣れるのはまだまだ当分先というか、もしかしたら卒業するまでないのかもしれないな。という半ば諦めの境地に達しようとしていた。
かつてこのシゴキに耐え抜いた親父の存在の偉大さを身を持って実感させられながらも、自分もまた絶対に乗り越えてみせると強く誓うのだった。