四月二十八日、土曜日。この日から祝日の振り替え休日があてがわれる月曜日までの三連休を終えるといよいよ五月へと入る。
四月最後の連休の初日。
いつも通り朝練を終えた俺たちは自室で、週の初めに交わした約束を果たそうとしていた。
「大丈夫だよ。俺は逃げたりしないから……おいで」
その場に腰を下ろし胡坐をかきつつ、両手を広げ受け入れる体勢を見せながら、優しく呼び寄せるように声を掛ける。
「……し、失礼……します、ね」
どこか落ち着きなくそわそわしながらも俺に恥ずかしそうな視線を向けていた少女が少しずつ近寄ってくると、俺と向き合うようにゆっくりと俺の膝の上に腰を下ろしてくれた。
約束したんだから、遠慮しないでどんどんきてくれてもいいのにな。
そんなことを思いつつも、俺もまた膝から伝わってくる少女の淡い重みと、お風呂上りの彼女の体から発せられているミルクと石鹸の混じりあった芳香に緊張してしまっているのも事実だが。
これまでにも何度か、少女とお互いの温もりを伝えあったことはあるのだが、こればっかりはいつまで経っても慣れることはなさそうだ。
智花の方も俺の上に座ったはいいものの、それだけで羞恥心の限界を迎えてしまったのか、体を縮こまらせながら小刻みに震えていた。
……やっぱり俺から行くしかないか。
「このまま抱いちゃっていいんだよね? 自由に動いていいから、痛かったり苦しかったらちゃんと教えてね」
「……お、お願いしますっ」
智花からの了承を得たところで、意を決し彼女の肩と背中に手を回し小さな体を抱き寄せるが、彼女からの抵抗はない。
まだまだあどけない少女の柔らかな感触と、先に感じていたミルク石鹸とはまた違った別の甘い香りが鼻腔をくすぐり始めてきて、思わずドキリとする。
……い、痛くないかな? いつも通りそんなに強くしてないはずだけど、大丈夫だよな。
湧き上がりかけてしまった思考を紛らわすように、俺に抱きしめられた体勢のまま緊張のあまり体を動かすことができない少女の反応に注視する。
「はぅぅぅぅ……す、すみません……」
「え?」
突然の少女からの謝罪の言葉に驚きつつも、すぐに何に対しての『すみません』なのかの予想がついた。
「大丈夫だよ。重くもないし、嫌でもない。俺がしたくてしてるんだから、智花も遠慮しないで思いっきり甘えていいよ」
「はぅ!? え、えへへ……ありがとうございますっ」
どうやら全部正解だったみたいだな。
智花の体からふっと力が抜けて行く様子が感じられた。
少しでも俺と触れ合える面積が増えるようにするためか、俺の左右の太腿上に跨るように両足を大きく広げ、両手を背中に回しながら体を強く密着させてきてくれる。
普段の慎ましやかな少女らしからぬくらい大胆な行動だが、彼女も俺に全てを曝け出す覚悟が決まったということだろう。
「……こんなはしたない格好、お父さんに見られたら怒られちゃいます」
「あ、あはは……」
俺の胸に頬を摺り寄せながら甘えている彼女の口から零れた物騒な言葉に乾いた笑いを返すことしかできなかった。
多分、怒られるだけじゃすまないかもしれないな、主に俺が。
忍さんが俺の背後で血涙を流しながらも、決して俺が彼女にこれ以上変なことをしないかを血眼になって監視している様な錯覚を覚え、思わず体がぶるりと震えあがる。
「あ……ふふ。昴さんもドキドキして下さっているんですね。……すごくおっきくなっちゃってますよ」
「え!?」
何気なく呟かれた少女の一言に一気に血の気が引く。
ちょっと待て。それは本気でマズい!! ていうか、なんでそんなに嬉しそうなんだよ!?
いや、そもそもまだそんなにたってすらないはずだぞ――
「昴さんの心臓。すごいドクンドクンって動いて……あ! また早くなりましたっ」
どうやら智花は俺の胸に耳を当てて俺の心臓の鼓動を楽しんでいたようだ。
「なんだそっちの方か、てっきり――」
「ふぇ? ……そっち?」
「――!? な、なんでもないからっ。気にしないでっ!!」
あぶねー。危うく智花の前でとんでもないこと口走っちまうところだったぞ……。
絶対に言ってはいけない言葉を言わずに済んだことに心底安堵する。
「俺だって智花みたいに可愛い子を抱きしめているんだから、すごいドキドキしてるんだよ」
「ふぇぇ!? か、かわ…………はぅぅぅ」
本当に隠さないといけない言葉を隠すために、出てしまった別の本音が彼女の羞恥心を煽ってしまったようだ。
恥ずかしさのあまり無意識に体を縮こまらせようとしているが、彼女の四肢はすでに俺の体へと強く絡みついてしまっている。
そのため、より強く俺に抱き着く形になってしまっていた。
「ご、ごめん。変に恥ずかしがらせちゃったね」
「い、いえ……お、お世辞でも昴さんに、か……かわいいと言って頂けて……はぅっ……」
いかんな。せっかく智花にリラックスしてもらおうと思っていたのに、余計なことを言ってしまったせいで、また振り出しに戻ってしまったな。
智花が勇気を出して久しぶりに甘えさせて欲しい。とおねだりしてくれたんだから、俺の胸で良ければいくらでも貸すから思う存分疲れた心を癒していって欲しいのに。
「と、とりあえずさ。今日は約束通り気の済むまでずっとこうしているから……その……ゆっくりしていってね」
「はい……」
少女の手触りの良い柔らかな髪に指を絡めるように優しく頭を撫でていく。
ふと撫でている最中に、もしかしたら子ども扱いしていると思われてしまうかもしれないと思ったが、
「ふぁう……えへへ、もっとたくさん撫でて欲しいです。昴さんの手、とても大きいです。それに温かくて優しくて……………………大好きです」
心地良さを感じてくれていたようだ。可愛らしく緩んだ吐息を漏らしながら、もっとして欲しいとおねだりしてくれた。
指先に絡みつく髪の感触を堪能しながら頭頂から後頭部に掛けてを何度も優しく往復させる。
「すぅ…………はぁぁ…………んん~……はふぅぅぅ」
気持ちを落ち着かせるためか、深呼吸を始める。
何度か繰り返している内に、すっかり体が弛緩しきってしまったように俺の体にもたれかかってきた。
わざわざ俺の胸の前で深呼吸しなくてもな。変な匂いしかしないだろうに。と苦笑しながら、緩み切った体がこれ以上ずり落ちないようにと優しく抱き止める。
先ほど彼女が俺の心音を聞いていたように、俺も彼女の心音を感じてみようかと意識を向け――
「ん……」
「――!?」
彼女がタイミング良く身じろぎをしてしまい、その際に押し付けられていた少女の幽かなふくらみの感触が体の上を動くのをしっかりと感じ取ってしまった。
「……えへへ、また昴さんの、びくん。って動きましたよ」
智花さんは、リラックスしつつも俺の心理状態の監視を継続していらっしゃるご様子で。
幸いなのはどうして俺がビクビクしているかの理由に気づいていないことだ。
「……昴さん、こんなはしたないことをしてしまって……いっぱいご迷惑掛けてしまって、本当にごめんなさい」
「迷惑なんかじゃないよ。さっきも言った通り、俺がしたくてしてることなんだ。少しでも智花の疲れた心や体を癒してあげることができるのなら、それ以上に嬉しいことはないよ」
「昴さん……」
再び少女が強くしがみ付くように、両手で俺の体を強く抱きしめる。
本当の意味で智花のことを大切に想っているのなら、こういうことはするべきではないというのはわかっている。
年頃の少女の体を無関係の男が抱きしめていいはずがない。
それでも俺には無理だ。
俺の心を救ってくれた大切な恩人が、俺に寂しい心を癒して欲しいと頼ってきてくれているのを断れるわけなんかない。
もちろん弁えるべきところは理解しているし、間違ってもそこを逸脱するような行為は絶対にしない。
そんなことをしてしまえば、智花本人だけでなく、この状況を作り出すために俺や智花に一歩を踏み出す勇気をくれた彼女の大切な友人の信頼を裏切ることになるからだ。
しばらくの間ずっと抱き合っていた気もするが、せいぜい十分程度だろう。
間違っても、うっかり気が緩みすぎて眠ってしまった少女をそのままベッドに連れ込んで一緒に寝てしまうようなことはしない。
お互いの温もりを伝え合いながら幸せな時間を過ごしていると、満足できたのか彼女の方からゆっくりと俺から離れて行く。
温かく心地良さを感じていた智花の小さな体の感触が徐々に離れて行くことに名残惜しさを感じなかったと言えば嘘になるが、間違っても俺の方から彼女を求めることは絶対にできないこともわかっている。
俺と智花はたとえどんなに仲良くなろうとも、コーチと教え子なのだ。
智花が兄のように俺を慕い、ふとした拍子に心細さを感じてしまった時に彼女の心を癒し、護るためならなんだってしてみせる。
その覚悟を決めたからこそ、俺は彼女を抱くことを決意できたんだ。彼女が望むのなら、これからだってずっと何度だって――
とはいえ智花も、もう中学生になっちゃったんだから、こうやって抱きしめてあげられるのも、あとほんの数回あるかないかだろうな。
俺なんかよりも全然大人びた考え方や行動ができる彼女が、甘えん坊になっちゃうこと自体、本来ありえないことなんだ。
辛い過去の傷も、俺と会う前にはもう大分癒えてたんだし、足りない部分を俺がほんの少しだけ補わせてもらっただけで、あとは今まで通りみんなに任せておけばいい。
「ありがとうございました。いっぱい昴さんに温めて頂いたので、もう大丈夫ですっ」
「そっか。確か今日は午後からは花織さんと忍さんと、それぞれの稽古だったっけ? そっちもがんばってね」
欲を言えば午後からも彼女とバスケを楽しみたかったのだが、すでに予定があるのだから仕方がない。
バスケだけの俺と違って、バスケ以外でも多忙な彼女が俺に会いに来てくれるだけでも、すごく喜ばしいことなのだ。
それにミホ姉に言われたからというのもあるが、智花を独占し続けてしまうわけにもいかない。
大好きなバスケをするにしても、俺なんかよりももっと大切な友人たちを相手にしてもらった方がいいに決まってる……智花に相手してもらえないのは寂しいけど。
「はいっ。明日もよろしくお願いしますっ!」
「こちらこそ。楽しみに待ってるよ」
玄関で別れ際の智花の様子を確認してみたが、どうやらすっかり元気を取り戻すことができたようで何より。
この調子なら、智花を抱いてあげられるのは今日が最後になりそうだな。
そんな俺の予想は大きく外れ、結局、今日から連休最終日の三日間に掛けてたっぷりと彼女と抱き合ってしまうことになるのだった。