『すばるさぁ~ん、もっと……もっとぎゅってし欲しいですよぅ……』
俺の腕の中で少女が切なげな表情で瞳を潤ませながら、俺を見上げている。
そんな表情をされてしまっては、こちらも彼女の言うとおりにするしかない。
少女を包み込んでいた両腕にわずかに力を込め、彼女との密着度を更に高めていく。
温かく柔らかな少女の感触が一層強く伝わってくる。
――彼女とずっとこのままこうしていたい。
言葉を交わさずとも、ただこうやって大切な相手とお互いに抱き合っているだけいい。
俺はそれだけで十分だ。これ以上は望まない。
だから、この時間がもっともっと長く続いて欲しいと強く願っていた。
幸せそうに目を細めていた少女が、俺の背中に回していた両手を名残惜しそうに解くと、見上げるように俺を見つめていた。
一度解かれた両腕は今度は俺の首に絡めるように回される。
幽かに朱に染まった頬。どこか切なげな表情を浮かべている彼女の顔が少しずつ近づいてくる。
『昴、さ……ん……』
囁くように俺の名を呼びながら、小さく動く少女の瑞々しい唇に視線が釘付けになる。
『とも、か……』
少しずつゆっくりと近づいて来る少女の顔に早く来て欲しいともどかしさを感じ、自分の方からも彼女を求めるように顔を近づけて行き、そして――
――無意識下で観測していた世界は、俺の意識が現実に復帰すると同時に霧散していった。
*
「はぁ……はぁ……ちょっと待て、いくらなんでもシャレになんねーぞ……」
まるで全力疾走した直後のように心臓があり得ないぐらいメチャクチャ早く脈打っている。
直前まで俺が見ていた映像があまりにも現実離れしていて衝撃的だったのだから仕方のないことだろう。
これまでにも智花を始め、慧心学園の少女たちの誰か、あるいはその全員と夢の中で邂逅したくらいはある。
夢の中でさえ、彼女たちと会いたいと思ってしまうくらいに少女たちを大切に想っているのだ。むしろそれは誇らしいことだと思う。
だが、こんな夢を見てしまうのは絶対にダメだ。
仮に智花を抱いてしまう夢を見るのは百歩譲ってセーフとしよう。
ここ数日は求められるままに、何度も彼女の小さな体を思い切り抱きしめてしまったのだから、それだけ脳裏にも強く焼き付いてしまっていたのだろう。
気兼ねなく甘えることができる存在が、彼女にとって不運なことに俺しかいないのだから、そこは申し訳ないが我慢してもらうしかない。
それでも智花を抱きしめるのは、あくまでも彼女の寂しさを埋めるためであって、間違っても彼女が望んでいること以上のことを求めてしまってはいけない。
智花が俺にキスを求めてきたことなんて、今まで一度たりともなかった(当然、絶対に応じるわけには行かない)のに、俺の勝手な妄想で少女を汚してしまったような強い罪悪感に心を強く締め付けられる。
「智花……ごめんな」
自分が勝手に見た夢の出来事なのだから、本人には一切関係ないことなのはわかっている。それでも、謝らずにはいられなかった。
俺も智花もそんな関係を望んではいないんだ。
胸に手を当て、落ち着け。と強く念じながら、激しく鼓動を打つ心臓を押さえつけるように何度も深呼吸をする。
早いリズムで脈打っていた心臓が徐々にゆっくりとペースを落としていくのを感じとりながら、思考もクリアになっていく。
人の夢と書いて儚いとはよく言ったものだな。
よほど強く意識して胸の中で残そうとしない限り、ものの数分で夢の中の記憶や感情なんてあっさりと大部分が流れ落とされたかのように薄れていた。
いくらか冷静さを取り戻したところで、目についた時計で時間を確認してみると、三十分くらい普段の起床時間より早いだけのようだ。
二度寝をするには寝過ごしが不安になるし、そもそもあんな夢を見てしまった直後で、すぐにもう一度寝ろと言われても無理だろう。
いつも俺と同じくらいには起きてるみたいだったし、もしかしたらもう起きてる頃かな? と少女のことを思いつつ、ひっそりと胸の中で懺悔を終えた頃には動悸もすっかりとおさまっていた。
「……よし。走り込み行くか」
いつまでも後悔を引きずりながらウジウジするよりは、いつも通りに体を思い切り動かして気持ちを晴らした方が断然いいに決まってる。
智花の顔を見たら、また思い出しちゃいそうだけど。重ね重ねほんとごめんね。
もう一度だけ俺の心の中で恥ずかしそうに俯いてしまっていた少女に謝りつつ、寝巻から体操着に着替える。
階段を下りるとすでに起きていた母さんに「おはよう。走り込み行ってくる」と簡単に挨拶だけして、そのまま送り出されるように外へと駆け出すのだった。
「あ……そういえば、今日から五月だったな」
いつものコースを一回りして家に戻って来てから、ようやく気づく。
今日からはもう平日に智花の顔を見ることができないのだ。
ロードワークから戻って疲労した体を癒してくれる彼女の特製オレンジミルクを味わうこともできない。
彼女が成長した証である中等部の制服を身に纏い、大人びた姿を見ることも、汗を纏いながら少女と体をぶつけ合い、楽しいひとときを過ごすことも。
気づかぬうちにそんな寂しさを紛らわすために今朝のような夢を見てしまったのだろうか?
「……夢とはいえ、ちょっと惜しいことしちゃったかな?」
智花と会えないショックのせいか、思わずそんな一言をぽつりと零してしまった。
いや、別に智花とキスしたかったわけではない、夢の中でもギリギリで未遂だ。
たとえ夢の中であろうと智花の大切な初めてのキスを俺なんかが奪うわけにはいかない。
女の子なんだから、本当に大切な人と大切な場面の時に捧げてくれることを願うばかりだ。
……まぁ、その相手が俺以外の誰かであるというのがほぼ確実なこの状況が少しばかり心に来るものが……きっと兄や父親に似た感情なのだろう。
智花が大切な存在であることには変わりないが、その彼女の大切なものを貰うことができないことの寂しさっていう奴を、まさかこのタイミングで知ることになるとはな。
どうやら智花不在の生活に慣れるのには、まだまだ掛かりそうだ。
「はぁ……今日からは智花ちゃんもみほしちゃんも朝ごはん食べに来てくれないのよね」
俺以外にも長谷川家の朝の風景から二人の姿が消えてしまったことを寂しく感じてしまっている人物がいたようで、自分だけはなかったことをほんの少しだけ安堵した。
母さんなら当然か。飯作るのすごく楽しそうだったもんな。
おそらく今まで通り(四人分というには相変わらず多すぎる気がする)朝食を作ってしまい、その料理の豪勢さと反比例するかのように調理した本人の表情の落差が激しい。
なんか長谷川家は親子共々すっかり智花ありきの生活に染まってしまっていたんだなと実感させられるのだった。
「智花ちゃんは大丈夫だろうけど、みほしちゃんはちょっと心配ねー。ちゃんとご飯食べてくれてるかしら?」
「……ミホ姉なら大丈夫だろ」
もちろんちゃんとした食事をしているという意味ではなく、多少食生活が乱れた程度でどうかするような人間ではないという意味だ。
「そうやって油断してたら、去年入院しちゃったでしょ? やっぱり心配だわ、せめてみほしちゃんだけでも来てくれればいいのに」
「智花が来ないなら、ミホ姉が来る理由がないだろ」
智花という最上級の天使が家に来てくれる代償で悪魔もついでに来てるのに、何が悲しくて悪魔だけをこの家に呼び寄せなくちゃならんのだ。
そんなことを考えながら、黙々と大量の食物を意の中へ送り込む作業を続ける。
味に関しては文句のつけようがないのはわかりきっている……っていうか、相変わらずメチャクチャ美味い。
変に時間を掛けて味わうよりも、一気にかきこむ方が口の中で強く味も残るしたくさん食える。
俺が上手そうにガツガツ食ってる様子を嬉しそうに眺めている視線を感じたが、多分気のせいだし恥ずかしいから無視した。
「昴くん、いってらっしゃーい。気をつけてねーっ」
朝食時よりもいくらかは表情が明るくなった母さんに送り出されながら学校へ向かうが……少しばかり腹が辛いな。
やはり少々気合を入れて食いすぎてしまったのだろう。
大量に作られた朝食を余らせるのがもったいないと思ったり、少しでも放課後の地獄の部活に備えて食い溜めをしてベストな状態にしておこうと思っただけだ。
断じて、母さんがいつもより暗そうな表情をしていることが気になったわけではない。
いや、さすがにほんの少しだけは気にはしたけど。母さんにまであんな表情をされると俺まで余計に気が滅入っちまうし、何より普段は何事もそつなくこなしてる母さんがこういう時にするミスが本気で怖いからだ。
……他人の表情を気に掛けられるくらいには余裕もあるのだろうか?
まぁ、ミホ姉からの事前告知もあったし、その上で俺と智花の今後の付き合い方についての方針はまとまっているんだ。
多少不満を感じたところで、理性的な部分ではここが一番の妥協点であるということは理解しているんだし、今後の彼女の健全な成長のためにも不必要に身体的接触を求めてはいけない。
「――そんなわけで万里。俺と付き合ってくれないか?」
「悪いが無理だ」
俺の一世一代の告白があっさりと一蹴された瞬間だった。
「何故だっ!? 俺のどこに不満があったっていうんだっ!! ちょっと前のお前だったら大喜びで俺の誘いを受けてくれてたはずなのにっ!!」
「そりゃ、俺だってお前の誘いはすごく嬉しいけどよ……」
俺だって日々テクニックを磨き続けているんだから、絶対に万里に退屈な思いをさせる気はないのに。と一通り喚き終わったところで、ようやく万里がバツの悪そうな表情になっていることに気づく。
こいつほどの男が、ここまで答えずらそうに言い淀んでいる原因なんて一つしかない。
「愛莉か」
「あ、あぁ。その……まだ中学じゃ、ほとんどボールにも触らせてもらえないみたいだし、少しでも練習したいんだとよ」
「そっか。なら仕方ないな」
天秤の相手が愛莉なら、絶対に勝ち目がない。っていうか、これは引かざるを得ない。
俺だって同じ状況なら、きっとそうしてしまうかもしれない。
まして万里にとって愛莉は大切な妹なんだ。
正直、ちょっとばかし妹愛が重すぎる気がしないでないが。このシスコ――いやいやいやいや、さすがにそれは失礼だな。
長らくまともな会話すら交わすことができなかったような関係だったんだし、その分今がすごく楽しいのだろう。
「悪いな。せっかく誘ってくれたのに、無碍に断っちまって」
「いいって。気にすんなよ。……あ、良かったら俺もそっちに混ぜてもらっても――」
「――あぁんっ!! 俺の幸せなひとときをジャマしようってんのかっ!!」
「すみませんっ!! 俺は決してジャマしませんので、どうぞお好きなだけ兄妹の仲を深め合って下さいっ。ですっ!!」
直感的に身の危険を感じ、即座に自分の発言を撤回する。
くそ、やっぱりこいつシスコンじゃないか。
俺にとっても愛莉はかけがえのない大切な存在なのに。
俺だって日々どんどん成長していく愛莉を肌で感じたいのに、それを独り占めされるのがすごく悔しい。
だが妹を溺愛しているこのシスコン――万里の前で迂闊なことを言えば俺の命が危ない。ここは耐えるしかない。
とりあえずこの鬱憤も全て部活に込めてやろう。と強く心の中で誓うのだった。
「どうせなら荻山を誘ってみたらどうなんだ? 家だって近いんだろ?」
「ん? あぁ。それも思いついてはいたんだけど、正直ちょっと頼み辛いというか……」
多少は俺の気持ちに応えられなかったことに引け目を感じたのか、代替案を提示してくれたのだが、実はそれ自体は俺も思いついていたりする。
口が悪かったり、すぐ足が飛んでくるけど、なんだかんだ言いながらも普段から色々と世話を焼いてくれている幼馴染。
彼女もまた俺たちと同じくらいバスケに対して熱い情熱を持ち、今年から俺を含む親友たちが望んでいた現役復帰を果たしたのだ。
「頼んだら付き合ってくれると思うけど……あいつのことだから無理しそうだし、それで余計な負担掛けちゃうのも悪い気がしてな……」
「まぁ、女バスの方も大変らしいからな」
それだけにやはり智花が俺にとってどれだけ必要不可欠な存在となっていたのかを痛感してしまっていた。
昔のように一人で黙々とこなしていくのもいいが、二人になれば一気に選択肢が増える。
一方がしている様子をもう一方が見学してるだけでも色々と捗る。
当然男女の体の違いはあるが、それでも俺の方が彼女よりもいくらかは経験豊富なのだから、お互いの個人技を見せ合った上で軽くアドバイスをするのも悪くない。
飲み込みや応用力の高い彼女は俺のちょっとしたアドバイスからすぐに新しいひらめきで俺を驚かせてくれることだって、これまでに何度もあった。
でも、やっぱ見せ合うだけじゃなくて、二人で一緒にやるのが一番楽しい。
小学生の可能性どころか、成長途中のその小柄な体の魅力を日々その身を持って、これでもかと言わんばかりに余すことなくたっぷりと俺に教え続けてくれているのだ。
お返しに俺も自分の技術を余すことなく伝えようと尽力し、彼女の成長の手助けをさせてもらっているが、それがとても楽しい。楽しくて楽しくてたまらないのだ。
気づくと今朝抱いてしまった彼女に対しての罪悪感はすっかり消え失せ、今は少しでも早く彼女に会いたいと強く願ってしまっていた。