夢を、見ていた。
いつかどこかで、見たことのあるような、そんな場所で、自分と同じ大きさの赤い色を追って走っていた。いつも一緒にいてくれる、優しい赤。その足が止まり、ゆっくりと自分を振り返る。その瞳に見つめられると、大きな安心感に包まれていくのがわかる。これからもずっとずっと、一緒に。そう思って手を伸ばす——。
突然、足元が崩れ落ち、暗闇に放り出される。次の瞬間、地面に叩きつけられる衝撃と同時に、血の味が口いっぱいに広がる。何かが入っている。口の中に、何か固くて柔らかなものが。慌てて血の味のする何かを手の上に吐き出す。手の中にある血だらけのもの。それは白く、ただ白く、純白に輝く——。
泣いていた。その白いものを永遠に失ってしまった大切な赤い色のために。悲しかった。それを手にした瞬間の感情が。それに気づいてしまった自分自身が。
もう再びその手を取ることはできない、決して手を触れられない、手を触れてはいけない、遠く離れてしまった赤い色。ただただ泣いていた。未来永劫、この身が滅びるまで決して許されることのない、自分自身のために。
遠くの赤い色に、大きな黒い影がかぶさってゆく。その影の中心から伸びていくものに赤の中心が貫かれる。その刹那、赤が体をのけぞらせる。黒い影が貫いている部分から、その強大な力が幾度となく流れ込み、その度に赤は体を震わせながら、跳ね上がる。何度も、何度も、何度も——。
そこから遠く離れているはずの自分の中にも、同じ何かが入り込んでくる。何度も、何度も。逃げ出したくても、足がすくんで逃げられずに、怖くて泣きたくても、枯れてしまった涙を流すこともできずに、誰かに手を伸ばしたくても、もう二度と誰かの手を掴むことはできずに。
一人ぼっちで座り込み、顔を覆って、蹲っていた。
どのくらいそこにいただろう。どのくらいそのままでいたのだろう。
気づくと、明かりが差していた。
誰かが自分の手を取り、肩を優しく抱いてくれていた。優しくて暖かな何かが、胸に伝わってくる。
それが誰かを知りたくて、恐る恐る顔を上げ——。
「うわっ!」
突然の声に、びくっと体が反応する。夢だった。いつの間にか眠っていた。この夢を見るのは、久しぶりだった。——けれど。
スバルの目が開いていた。
「あ……気がついていたのですか? 気分はどうですか? 悪い夢でも見ましたか? スバルくん」
スバルの手を握ったままになっているレムの手が、少しだけ震えていた。
「ごめんなさい。レムも少し居眠りをしてしまいました。どのくらい前に目が覚めたのですか?」
「い、いや、たった今気がついたところ、だけど……」
いつものスバルの声だった。
「気分はどうですか?」
「体は動かないみたいだけど、頭痛と喉のイガイガはずいぶん良くなったみたいだ」
「よかった……」
涙ぐみながら、レムは微笑んだ。
「ずっとここにいてくれたのか?」
「はい。お薬をスバルくんに飲ませ……」
レムはそう言いかけると、言葉に詰まって、目を伏せた。頬が赤くなるのが自分でもわかる。
「あの、お、お薬を飲んでもらわないといけなくて……」
「そ、そっか。あ、さ、さんきゅ…… あ、ありがとう……い、いやあの、なんだ、その、く、薬はもう飲まなくても、い、いいのか、な?」
「いえ、今日はまだあと少しだけ……」
レムがちらりとスバルを見ると、スバルはさっと目をそらせた。
「あの……」
「あ、あのさ……」
二人の会話が重なる。心臓の鼓動が早鐘のようだ。顔だけじゃなく、体全体が熱くなっている。
——この胸の音、スバルくんに聞こえちゃっていたら、どうしましょう!
「あ、あの、スバルくん、顔が赤いですけど、お部屋が少し暑いですか? 窓を開けましょうか?」
レムは、そんな自分を誤魔化すように、スバルに話しかけた。
「いや、それは、その……」
「ちょっと空気を入れ替えますね」
名残惜しそうに繋いでいた手を離して、椅子から立ち上がったレムは、カーテンを開けて部屋の大きなすべり出し窓を開いた。涼しい風がレースのカーテンをそよがせて、火照った二人の頬を冷やしていった。夜虫の鳴き声が聞こえる。
「レム、今は夜なのか? それとも——」
「もうすぐお月様が沈みます。そろそろ明け方ですよ、スバルくん」
「そっか……」
「はい」
「あ、あのさ、レム。俺、一体どうなったんだ? どのくらい、あの、寝てたんだ?」
「す、スバルくん……覚えてないんですか?」
「んー、なにがなんだかさっぱり」
「そ、そうですか……」
——どこから話せばいいんでしょう……一体どこまでスバルくんは……。
少しだけ間をおいて、レムが話し出す。
「お屋敷で倒れたのは一週間ほど前です。それからずっとスバルくんは眠っていて——でも、命に別状がないのはわかっていたので、安心して一緒に……」
「命に別状がない?」
「は、はい……」
「え? それってどういう……?」
「あ、あの……その」
——何をどう言っても最後には辿り着いてしまう。
「とりあえず、お薬で治るというお話で……」
——ううう。困りました……。
「……ごめんなさい、スバルくん」
「え?」
「スバル君がまたレムのせいで……」
「え? なに? 何がレムのせいなんだ? レムが俺に何かしたのか??」
「い、いえ、そういうわけでは……あ、あの、その……最初は……」
——い、言えません。流石に今は言えません……も、もう少しスバルくんが元気になってから……。
「いや、あの、レム……」
そう言いかけたスバルの言葉を遮って、一つ大きく息を吸い、そして開き直ったようにこう言った。
「と、とにかく、レムが最後までスバル君のお世話をします。そうしたいんです」
「そっか。よくわからんけど……。なんか、レムを助けた的な? ま、誰も傷ついていないなら、だったらそれでいいんだが。ところで、みんなは? エミリアは?」
「はい、エミリア様なら、ロズワール様と一緒に王都へ」
「王都?」
「はい。王選に関することだとか」
「こうしちゃいらんねぇ! 早く俺も行かないと! と、言いたいところだけど、これじゃあ、足手まといどころか、文字通り手も足も出ない、よな」
「スバルくんは、この機会にじっくり休養をとる様に、とエミリア様が」
「休養ねぇ。休養というより、急病ってとこだろ、これ」
妙な韻を踏んだ冗談に、思わず顔が緩む。そして
「でも、レムはちょっとだけ、嬉しいです。エミリア様が帰ってくるまで、スバルくんを独り占めできますから」
「いや、独り占めって……」
——そう、独り占め。ごめんなさい。こんなことを言う資格がないのはレムにもわかっています。でも、今だけはそうさせてくださいね、スバルくん……。
「さあ、お薬を飲みましょう。スバルくん」
そう言いながらテーブルに手を伸ばすレム。
「れ、れ、レムさん? ま、まさかとは思いますけど、こ、この、寝ていらっしゃ、いや、ね、寝てるあいだずっと、お、ぼ、僕に、の、飲まれ、く、くすりっ、もらっ、いや、いただいて、お、お、おられたのですか?」
顔を赤くしてしどろもどろになるスバルに、
「はい、スバルくん」
ボトルに手を伸ばし、薬をグラスにそそいで、口に含む。頬が赤く染まるのを感じる。スバルを見ると、やはり顔を赤くして、困ったような嬉しいような複雑な表情をしている。
頬に手を触れて、唇に触れる。わずかに開くスバルの口の中に、液体をゆっくりと注ぎ込む。スバルの喉が動き、スバルの口が空になる。
大きなため息とともに、二人の唇が離れると、瞬く間にスバルは眠りに落ちていった。
彼の額にそっとふれ、ついで優しくその黒い髪の毛を梳きながら、レムはさっき見た夢の続きを思い出していた。
——毎日のように見ていた悪夢。
あの暗闇の中、たった一人ぼっちで、泣くこともできず、ただ蹲っているしかなかった。その幾度となく繰り返し見続けたあの夢に、変化があった。
誰かが優しく手を伸ばしてくれて。
誰かが肩を優しく抱いてくれて。
そして、誰かが一緒に歩こうと優しく言ってくれて。
途中で目が覚めてしまったけれど、あの先に、あの光の中に、誰がいるのか、もうとっくに知っている。
ナツキスバル。
幾度となく見続けたあの悪夢から、ようやく自分を救い出してくれた、自分を許すことを教えてくれた、誰かと一緒に笑って、涙を流して、そしてまた誰かに手を伸ばして、その手を掴んで、誰かを好きになっていいと教えてくれた、ただ一人の愛しい人。
突然こみ上げてきた感情を抑えることができず、レムはスバルのベッドに突っ伏すと、あの時と同じように慟哭した。