今は明け方だろうか、それとも夕暮れだろうか。時間の感覚がない。
うっすら目を開けると、再び見慣れた天井が見えた。まだ朦朧としていたが、頭の痛みはずいぶん和らいだようだ。力を入れてみる。首は動かせる。他に動かせる部分は……左腕が少し、指もなんとかうごかせそうだ。その左手は何かを掴んでいた。何か温かくて柔らかいもの。
スバルは顔を回し、自分の左側を見た。レムがいた。
ベッドの脇の椅子に腰掛けたまま、レムが眠っていた。彼女の右手がベッドに伸びて、スバルの手を握っていた。
——また手を握っていてくれたのか。
小さくて柔らかな優しい手だった。横の小さなテーブルには、水差しとグラス。薬だろうか、グリーンがかった瓶もある。そして畳んで重ねられた白いタオル。
——そっか。ずっと看病してくれて……。
スバルは目をレムの顔に戻した。
丸顔にバランス良く整った目鼻立ちをしている。長くて綺麗な睫毛が、垂れたブルーの前髪のから少しだけのぞいている。
——女の子ってこんなに睫毛が長い、のか。
ほんの少しだけ開いたピンク色の可愛くて小さな口からは、軽い寝息が聞こえる。その寝息に合わせて、胸の膨らみもわずかに上下している。美人というよりは超絶かわいいベイビーフェイス系。ここがもし元の世界だったら、トップアイドル級と言っていい。問答無用、不動のセンターポジション。
――こんな可愛い顔をして眠るんだな。
前髪で顔半分隠れてはいたが、寝顔を見るのは初めてだった。以前にもこうやって手を握っていてくれたことがあった。だが、その時には見ることのできなかった光景だった。
そうやって、しばらくレムの顔に見入っていたスバルは、自分に何があったのか、おぼろげながら思い出した。
——みんなで朝飯を食べていた時だった。だんだんと寒気がして、急に腹が痛くなって。そうだ、気づいたら下っ腹の激痛で、うずくまったままで。そのあと、どうなった? だいたい、腹痛だけで、気絶するか、普通? そもそも腹痛じゃなくって、この全身動かせない状況は、一体なんだ? そういえば、薬がどうしたとか、そんなことをレムは言っていた気がする。病気なのか。何か大変な病気なのか? それはともかく、なんとまぁ、魔力で怪我の治療ができるこの世界に、薬とはねぇ。ん? 薬……。薬?
ここで意識がはっきりした。
「うわっ!」
レムにどうやって薬を飲まされたのかを思い出して、スバルは思わず驚嘆した。
――お、おい、て、テーブルの瓶、ほとんど中身が無くなってたぞ!
「あ、気がついていたんですか? 気分はどうですか? 悪い夢でも見ましたか? スバルくん」
手に力が入ったのか、すばるの声のせいなのか、目を覚ましたレムが優しく声をかけた。
「ごめんなさい。レムも少し居眠りをしてしまいました。どのくらい前に目が覚めたのですか?」
「い、いや、たった今気がついたところ、だけど……」
もう喉の痛みはそれほどではなかった。声が普通に出る。
「気分はどうですか?」
「体は動かないみたいだけど、頭痛と喉のイガイガはずいぶん良くなったみたいだ」
「よかった」
その瞳に少しだけ涙を浮かべながら、レムは微笑んだ。
「ずっとここにいてくれたのか?」
「はい。お薬をスバルくんに飲ませ……」
レムはそう言いかけると、頬を染めて目を伏せた。そして消え入りそうな声でこう言った。
「あの、お、お薬を飲んでもらわないといけなくて」
「そ、そっか。あ、さ、さんきゅ、あ、ありがとう、い、いやあの、なんだ、その、く、薬はもう飲まなくても、い、いいのか、な?」
「いえ、今日はまだあと少しだけ」
スバルとレムは、お互いの目をそらせて、俯いた。もっとも、スバルは俯こうとしただけで、実際には俯くことができる状況ではなかったのだが。
「あの……」
「あ、あのさ……」
二人の会話がかぶさるなんて、どんだけ、あるあるパターンのラブコメだよ!
スバルは自分がどれだけドギマギしているか、ようやく気づいた。心臓の鼓動が早い。顔もなんだかカーッと熱くなってきている。
——この心音、絶対レムに聞こえてるぞ!
「あ、あの、スバルくん、顔が赤いですけど、お部屋が少し暑いですか? 窓を開けましょうか?」
スバルと同じように、自分の顔もほんのりと染めたまま、レムが尋ねた。
「いや、それは、その」
「ちょっと空気を入れ替えますね」
レムは繋いでいた手をそっと離して、椅子から立ち上がった。そのまま窓に近づくと、閉まっていたカーテンを開け、部屋の大きなすべり出し窓を開いた。
涼しい風が、レースのカーテンをそよがせて、火照った二人の頬を冷やしていく。この世界にも虫がいるのだろうか。風に乗って虫の声が聞こえていた。
「レム、今は夜なのか? それとも――」
「もうすぐお月様が沈みます。そろそろ明け方ですよ、スバルくん」
「そっか」
「はい」
「あ、あのさ、レム。俺、一体どうなったんだ? どのくらい、あの、寝てたんだ?」
「す、スバルくん、覚えてないんですか?」
「んー、なにがなんだかさっぱり」
「そ、そうですか」
妙にモジモジした仕草で、消え入るように答えるレム。
「お屋敷で倒れたのは一週間前です。それからずっとスバルくんは眠っていて――でも、命に別状がないのはわかっていたので、安心して一緒にいられました」
「命に別状がない?」
「は、はい」
「え? それってどういう?」
「あ、あの……その」
歯切れの悪いレム。
「とりあえず、お薬で治るというお話で」
——どうもよくわからない。何があったんだ? あの腹痛が原因で倒れて、それは命に別状がないし、薬で治るのに、時間はかかる、って? それって、どういうこと? よくわからん。
「ごめんなさい、スバルくん」
「え?」
「スバル君がまたレムのせいで」
「え? なに? 何がレムのせいなんだ? レムが俺に何かしたのか??」
「い、いえ、そういうわけでは。あ、あの、その、最初は……」
ごにょごにょとだんだんと小声になるレムの声は、最後にはつぶやきほどの大きさになって、闇へと消えていった。
下を向いたままのレムと、全く訳がわからないままのスバルとの間に、妙な間が訪れた。
「いや、あの、レム?」
そう言いかけたスバルの言葉を遮るように、ついと顔を上げたレムは、一つ大きく息を吸い、そして開き直ったようにこう言った。
「と、とにかく、レムが最後までスバル君のお世話をします。そうしたいんです」
「そっか。よくわからんけど。なんか、レムを助けた系? ま、誰も傷ついていないなら、だったらそれでいいんだが。ところで、みんなは? エミリアは?」
「はい、エミリア様なら、ロズワール様と一緒に王都へ」
「王都?」
「はい。王選に関することだとか」
「こうしちゃいらんねぇ! 早く俺も行かないと! と、言いたいところだけど、これじゃあ、足手まといどころか、文字通り手も足も出ない、か」
「スバルくんは、この機会にじっくり休養をとる様に、とエミリア様が」
「休養ねぇ。休養というより、急病ってとこだろ、これ」
スバルの親父ギャクに、少しだけ表情を崩しながら、
「でも、レムはちょっとだけ、嬉しいです。エミリア様が帰ってくるまで、スバルくんを独り占めできますから」
「いや、独り占めって」
あの日、村の子供達を魔獣から助けた事件からこっち、レムはストレートにスバルに好意を示してくるようになった。それはそれで素直に嬉しい。だが、あまりの直球ぶりに、その球をどう打ち返していいのか、対応に困ってしまう。そんなことを思っていると、
「さあ、お薬を飲みましょう。スバルくん」
そう言いながらテーブルに手を伸ばすレム。
「れ、れ、レムさん? ま、まさかとは思いますけど、こ、この、寝ていらっしゃ、いや、ね、寝てるあいだずっと、お、ぼ、僕に、の、飲まれ、く、くすりっ、もらっ、いや、いただいて、お、お、おられたのですか?」
顔を赤くしてしどろもどろになるスバルに、
「はい、スバルくん」
にっこりと笑ってボトルから薬をグラスに注いだレムは、頬を再びピンクに染めながら、その液体を口に含んだ。