赤の章・序章
カーテンを開いて、窓を大きく開けた。心地よい風が、火照った頬を撫でていく。高く浮かぶ月が、庭園の芝の上に、四阿の影を落としていた。
目が覚めて、どのくらいの時間が経っただろうか。強い感覚はすでに通り過ぎ、今ではもう、不思議な暖かさだけがそこに残っている。
流れる雲が月にかかって、世界がさっと闇に飲み込まれる。
《それ》が、この何日かの間に強くなるだろうとは思っていた。渇きにも似たその欲求は、強い飢えとなって、容赦なくその小さくて華奢な肉体に襲いかかった。
《それ》を抑制する自信はあった。心と体のバランスをとりながら、今までもそうしてきた。だが《それ》を自ら満たすことが出来なくなって久しかった。
自分一人では生きながらえない——。
残されたのが自分だけだったなら、そのまま朽ち果ててもよかった。だが、自ら死を選択することは、決して許されない。なぜなら——。
月が再び姿を現し、光が差し込む。
窓辺に佇んだその美しい少女は、真円にわずかに手の届かない月を見上げていた。彼女は、まるで子を宿した母のようにそっと腹部に手を当てて、静かに微笑んだ。青い光を浴びた桃色の髪の毛が、風にふわりとそよいでいた。
----------
赤の章・1
姉様、と、あの子は自分のことをそう呼ぶ。いつの頃からか、そう呼ぶのが普通のことになっていた。最後にお姉ちゃんと呼んでくれたのはいつのことだったか。ああ、あれはあの時、ウルガルムの群れを——。
「スバルくん! 今日のお仕事はもう終わりましたか?」
「スバルくん! おやつに焼き菓子がありますよ!」
「スバルくん! レムの頭を撫でてくれもかまいませんよ!」
「スバルくん! スバルくん!」
あの日以来、すっかりあの男にべったりになってしまった。今までのように自分を中心に、自分のことを一番にしようとする、あの強迫観念にも似た献身さはやや薄れ、その分ナツキスバルという目つきの悪い、冴えない男にベクトルが向いている。
自分には経験はないが、もしかしたら、あれが恋というものだろうか。それにしても、よりにもよって、何であんな男に。双子の妹ながら、その趣味の悪さに驚きを隠せない。たしかに、所々で妙にタイミングがいい場面はある。それにしても——。
「レム、レム。バルスを甘やかせるのは、そのくらいにしておいたほうがいいと、ラムは思うわ」
「ね、姉様。でも……。あ、そ、そろそろ、一休みにしませんか?」
厨房で作業をしているなか、レムが二人にそう言った。ラムはそんなレムに、
「うーん。そうね。じゃ、ラムはお茶を入れるわ」
そういうと、ちらりとスバルに視線を送る。その冷たい視線にあわてて、
「じゃ、じゃあ、俺は……俺は、何すればいい?」
と、スバルが言うと、今度はレムが、
「スバルくんは、そこに座って待っていてください!」
そう言っていそいそと、お茶菓子の準備を始める。
「だから、レム。甘やかすのは……」
そんな言葉も耳に入らないのか、楽しげにスバルの世話を焼くレム。良いか悪いかだけで判断するなら、それはいい傾向なのだとは思う。
レムは、その容姿はもちろんのこと——自分と瓜二つなのだから当然といえば当然。まあ、強いていえば、胸の大きさだけは、
そこにあの夜がやってきた。恐怖に怯え、うずくまるレムを助けようとし、その結果、自分は角を失った。その行動に後悔はない。当然ではないか。可愛い妹のために、体を張らない理由があるだろうか。角を失ったのはレムのせいではない。そんなことを一度たりとも思ったことはない。
だが、あの子は、レムは違った。全ては、姉に大きく劣る——いや、鬼族として及第点にすら届かない自分のせい。その自分を助けようとしたばっかりに、姉は大切な角を無くした。そう思っている。自己犠牲というにはあまりにも大き過ぎる献身と敬愛。その二つを持って自分に接するようになって久しい——。
「おねえさま、手が止まってるけど、どしたの?」
スバルの声が、ラムの思考を遮った。
「バルスとちがって、ラムは頭を使うことも仕事だわ。こうしてお茶を入れている間にも、考えなければならないことが山ほどあるということを、バルスも少しは理解しなさい」
「げげっ。ひとつ言ったら倍以上にして返す、その頭の回転の速さだけは認めるよ……って、レム」
微笑みながら二人を眺めているレムに向き直って、スバルが言った。
「はい? なんですか? スバルくん」
「何、ニコニコしてんの? このやりとり、そこまで微笑ましい感じじゃなかっただろ?」
「姉様もスバルくんも、可愛くて素敵です!」
「そ、そうか? その基準もよくわかんねーけど。あ、そうそう、このお茶とおやつ、エミリアたんにも持って——」
最後まで言い終える前に、レムが口を挟んだ。
「スバルくんは、ゆっくり休憩していてください。エミリア様にはレムが!」
そう言って、トレーにお茶とお菓子を乗せ、パッと部屋を出て行くレム。
「はぁ……」
スバルはため息を一つつくと、
「なあ、ラム」
ドアに目線を置いたまま、ラムに話しかけた。
「レムは、あれは大丈夫か? マヨネーズの時も思ったけど、なんか、その……」
「ま、大丈夫なんじゃない?」
「意外とあっさりですね、おねえさま」
その言葉を軽く無視して、ラムはこう続けた。
「あのレムも、きっと本当のレムだと、ラムは思うわ。それに……」
「うん? それに?」
スバルにひたと視線を定めて、
「いいえ。なんでもないわ。それにしても、なんでバルスなのかしら。理解に苦しむわ」
「い、いやいやいや。あー、レムがその、な、何でって言われても、いや、あの」
しどろもどろのスバル。そのスバルを、
「はっ」
鼻であしらうと、再びレムのことを考える。
——もしこのままバルスがいい影響だけを与えてくれれば、あの子も……。レムもいろいろ捨てられるのかもしれない。
レムの心に棘のように突き刺さっているもの。それがなんなのか、思い当たらないわけでもない。ただ、それを決して口にはしないし、してはいけないことだった。それが真実であろうとなかろうと、可愛い妹を守るのが自分の役目なのだから。この世でたった一人だけの、愛する妹なのだから。そうラムは思っていた。
そして、事件は起こった。
黒丸です。この物語も、最終章に入ります。どうぞ最後までお付き合いください。