「制圧完了。お疲れ様っす!」
正義実現委員会の活動をしていたイチカはその後処理で彼方此方を回り始める。すると拘束された生徒達が移動させられる中、目元を前髪で隠した同じ所属の後輩に話し掛けられた。その手にあるのはスマホだが、持ち主は彼女では無い。
「何っすか? これ」
「催眠アプリだって、言ってました。今回拘束した人達の殆どがこのアプリを入れていて……」
「催眠、っすか」
今にも回りだしそうな渦巻きが停止した状態の画面。それはまだ起動する前の段階だと画面には表記されているものの、そもそも催眠というものが実在するモノなのかも分からないせいでイチカだけでなく多くの者達が困惑してしまう。実際には何にも出来ないただの偽アプリと思うのが大半だが、どうやら今回の犯人たちは本気で信じている様子で、それを使って何かを企んでいる最中の逮捕だった。
事後処理が大体終わり、そのまま去ろうとしたイチカ。だが彼女は周りを一通り見渡したところで、見覚えのある人物が興味本位で覗く野次馬に混ざって現場を眺めているのに気が付いた。後輩達には先に帰る様に指示を出して、イチカはその人物へ近づく。それはキヴォトスに住む人間なら誰もが持っている筈のヘイローを持たない外から来た人物……その一人。
「お久しぶりっす、エスティ先輩」
「久しぶりだな、イチカ」
エスティは近づいてくるイチカの掛けた声に笑みを浮かべながら何処か嬉しそうに返事をする。トリニティの生徒ではないが顔の広いイチカとはそれなりに面識があり、またエスティ自身の立場から一人一人の生徒が元気に過ごしている事は喜ばしい事だった。
「今日はシャーレに行かないんっすか?」
「ちょっとしたお使いだ。あ……じゃない。先生に頼まれてな」
キヴォトスに住む者なら誰もが聞いた事のある人物、先生。様々な悩みや問題を持つ生徒達と本気で向き合い、ヘイローの無い弾丸一発で大怪我もする貧弱な身体で数々の危険を乗り越えて来た存在。その実績から今では殆どの生徒達に信頼されるその先生と、どういう因果か血縁関係のある
「何か事件でもあったのか?」
「未遂で解決っす。あ、一応相談しますね。これなんっすけど」
後輩から受け取った催眠アプリの開かれたスマホを取り出したイチカ。真偽はともかく、その様なアプリが出回っている事をエスティ越しに先生へ認知させるつもりで行ったその行為だが、イチカは意図せずしてスマホの画面をタッチしてしまう。すると画面に映っていた渦巻きが回り始め、それをイチカはエスティへ見せてしまった。
「ん~? ……ぇ……ぁぇ?」
「エスティ先輩? っ! 不味いっす!」
差し出されたスマホを覗き込んだ瞬間、様子が可笑しくなり始めたエスティ。突然呆けてしまい、そして普段から浮かべている表情を失って虚空を見つめる姿にイチカは原因がスマホにあると分かって即座にしまう。その際、真正面からは見ないで渦巻きが動いているのを確認して画面をタッチする事で止めるのも忘れずに。
「あぁ~、エスティ先輩?」
「……」
「……あのアプリ、本物っすか……?」
「……」
「えぇ~っと。んんっ! エスティ先輩。お手っす。っ!? マジっすか……っ!」
可笑しくなった原因が他に思いつかず、困惑しながらも本当に掛かっているのかを確認する為に手の平を上にしてエスティの前へ差し出したイチカ。すると躾をされた犬の様に、エスティはイチカの手の平へ自身の手の平を反対から重ねる様にして置いてしまう。催眠にも様々な種類があるのだが、そんな事は知る由もないイチカ。とにかく言われた通りにエスティが行動してしまう事を確信して頭を抱えるしかなかった。
「と、取り敢えずついて来て欲しいっす」
催眠を掛ける事が意図せずして出来てしまったものの、解除する方法が分からないイチカは取り敢えずその場から逃げる様にエスティを連れて移動する事にした。
余り人気の無い場所へと移動したイチカとエスティ。付近で正義実現委員会による制圧があった事で、不良生徒などは軒並み逃げる様にして離れていた事もあり、下手に絡まれる心配が無かった事にイチカは心底安堵する。
「まさか本物とは思わなかったっす。えっと、解除の方法は……アプリに書いてあるっすかね?」
イチカは渦巻きが回っていないのを改めて直視しない様にしながら確認してから、アプリのヘルプ画面を探す。『?』のマークで用意されたその部分に気付いてタッチすれば、催眠に関する注意事項の記された画面が現れた。
「えっと……『画面が動いているのを確認して、対象にそれを見せれば持ち主に従う催眠に掛かります。持ち主が催眠に掛かる事は無く、同時に催眠を掛けられるのは一アプリ一人までです。解除する方法はありませんが、数時間で解ける様になっています。これで相手を好き放題!』……絶対、このアプリの開発者は捕まえるべきっすね」
催眠が時間で解除される事を把握して、今のままのエスティを放置する訳にはいかないと思ったイチカはまず最初に自分の帰りが遅くなる事を仲間達にモモトークを使って知らせる。当然何かあったのかと聞かれるが、『ちょっとした事なので大丈夫っす』と有耶無耶にして。次にエスティ側についても同じ様に。
「エスティ先輩。先生に、戻るのが遅れるってモモトークで伝えてもらって良いっすか?」
「あぁ。なんて送れば良い?」
「えぇーっと、ここは下手に嘘をつかない方が良いっすね。それじゃあ、私に会って手伝いをお願いされたで良いっす。それで私から先生に妹さんを借りると送れば……取り敢えず、これで良いっすね」
自分達が各々の場所に戻らない事を伝えれば、後は時間が来るまで一緒に居る事で何とかなると思ったイチカ。やれる事も無いまま、催眠状態のエスティを前に暇を持て余す事になってしまったイチカは少しの好奇心を抱き始める。それは催眠状態で何でも答える様になったエスティなら、本音を聞けるであろうという予想から。
「エスティ先輩はなんで先生と一緒にキヴォトスへ来たっすか?」
「外に居ても余り上手くいかなかったんだ。それでこっちなら俺の願いも叶うかもって思った。だからついてきた。ちょっと強引だったけどな」
「願い。それって、例の男になるって話っすか? 先輩、本当に元男なんっすか?」
「あぁ。俺は男だった。気付いたらこの身体で生まれて、先生の妹だったんだ。だから生きて来た年数は確かに女でもあるけど、男だったのも事実だ」
「本気でそう思ってるっすね。……まだ男になりたいっすか?」
「なりたい。男だった記憶が女として過ごした記憶より短くても、俺は取り戻したい」
「? 取り戻すって、何をっすか?」
「ちんちん」
「ちん……ぅへっ!?」
なんでも全てを正直に答える状況が最終的に裏目となり、変な声を出して赤面する事になってしまったイチカ。だがエスティの願いが本物である事を改めて知り、気を取り直して他に質問を投げ掛け始める。それは自分以外にどんな生徒との交流があるか等の普通じゃ余り聞けない様な事。先生の交友関係を知りたい者は多く、そんな先生と一緒に行動する事の多かったサポートのエスティに対しても何かしらの感情を抱く生徒は多い。それは時に嫉妬であり、時に憧れでもある。
「先生は特に気になる生徒とか居る感じっすか?」
「いや。全員大事な生徒で、平等に接してると思うぞ。本人もそれを心掛けてるからな」
「先生らしいっす。……エスティ先輩はどうっすか?」
「俺も誰かを特別扱いはしない様にしてる。贔屓にならない様にってな。でも、そうだな。何人か気になったり、特別仲良くしたいって奴は居るな」
「へぇ。因みに、誰っすか?」
「アビドスならシロコやホシノ。ゲヘナならヒナ。トリニティならミカやイチカ、ハスミもだな。他だと」
「ま、待ってほしいっす。私も、入ってるっすか?」
「あぁ。だってお前、話し易いし真面だし。何より一緒に居て楽しいから」
「あ、あはは……何と言ったら良いのか。照れるっすね」
再び赤面する事になったイチカ。その後も時間を潰す為にとエスティから聞こうとする事で何度か恥ずかしい思いをしながら、催眠が解除されるまで二人は共に居続けるのだった。エスティが言う様に真面であるイチカは決して催眠を悪用する様な事はしない。
「……あ、れ? 俺、何して……イチカ?」
「イチカっすよ。何も覚えて無いっすか?」
「覚えてって……確かお前と会って。それから……?」
「色々あったっすよ。実は……」
催眠が解けて正気に戻ったエスティは、今の状況が分からず困惑してしまう。無事に元通りになった様子を見て安堵したイチカはそんな彼女に何があったのかを説明して、謝罪した。それが不可抗力であった事や、自分を守るためにずっと一緒に居てくれた事を聞いたエスティはお礼を言って……お使いで外に出ていた事を思い出す。
「やべっ。早く戻らないと。それじゃあ、またなイチカ!」
「またっす! ふぅ……。エスティ先輩、私の事が気になってるっすか。良い事聞いたっすね」
後ろを振り返りながら走り去っていくエスティへ手を振り返して見送ったイチカは、一人になってから静かに呟く。そして彼女も戻る為にその場を後にする。
後日。またイチカと出会う機会のあったエスティ。何処か普段よりその距離が近い様な気がするイチカに少し困ってしまうのは、また別の話。