世界を超えて欲望を叶える。その使命の元にやって来たこの世界で、ハクの飼い主と呼べる存在は1つの会社であった。気付けば拾われ、気に入られ、頭が良い事や意思疎通が出来る事を理解されたハク。会社の建物の中にハクの部屋が用意され、そこで生活する様になったハクは既にその会社に関係する者達の中で有名な存在となった。
ハクの部屋、と言っても猫に部屋1つを用意する等やり過ぎと言えるだろう。だがそれが会社にとってそれ以上の利益を齎すとなれば話は別である。そしてその利益とは、【アイドルの笑顔】である。
美城プロダクション。通称、346プロと呼ばれるそこは芸能事務所であった。アイドルや俳優、歌手なども出入りするその場所で過ごす者達の殆どが芸能人やその卵達ばかり。そんな場所に1ヶ所、用意されたハクの部屋には346プロでは有名となったその存在を一目見ようと誰かがやって来る。そして以降、常連になる者が後を絶たなかった。
笑顔が大事であるアイドル達にとって、ハクとの触れ合いで見せる笑みは自然なものであった。しかしそこで1つ、大きな問題が発生する。向かう先や考え方は違えど、346プロには数多くのアイドル達が出入りする。もしも、そのアイドル達が一斉にハクの部屋へ向かえば……当然ハクの対応どころか部屋に入る事すらも叶わなくなる。
そこで、346プロに所属するプロデューサー達は考えた。アイドル達からハクを奪えば、笑顔が沢山失われるだろう。だが、このままでは決して良くない。故にハクの部屋に無断で訪れるのを禁止とし、許可を貰った者のみが入室を許される。そんな制度を作る事にした。その日、プロデューサーから見て頑張った者へご褒美に近い形で与えられる権利。当然必死になる者や文句を言う者が続出し、権利の奪い合いすら起き掛けてプロデューサー達は四苦八苦に陥る中、当の本人であるハクは平和に1日を過ごしていた。
その日、ハクと触れ合う権利を得たのは鷺沢 文香と言う名の女性であった。アイドルのまだ卵として活動する彼女は本来、ハクにそこまで深い興味を持っていなかった。だが人と関わる事が、話す事が苦手でそれを克服したいと思っていた彼女からすれば、意思疎通が出来る猫とは練習相手にピッタリな存在であった。故に会うことを望み、叶った彼女はハクの部屋を訪れる。
「……失礼……します」
小さく不安げな声で入室する文香を迎えたのは静かな部屋であった。346プロの中では小さい部屋で、窓際故に外からの光が差し込む室内。見えるのは本棚や来客用の椅子ばかりで、見回しても猫の姿など何処にも無かった。不思議に思い文香は1歩前へ。するとその瞬間、足に感じた柔らかい感触に下を見る。一瞬、会おうとする猫を踏んだのではと内心で焦った文香だが、それが唯の白い綿毛である事に気付く。そしてようやく、その白に混じって丸まったまま眠る猫の姿に気づいた。
「あの……」
『……』
「あ、あのっ……!」
か細く小さな声はハクの高い聴力を持つ耳にすら届いていなかった様で、文香なりに大きく3度目の声をかけた時。ハクの耳が立つと同時にその顔が上げられる。真っ赤な瞳と目が合えば、相手が猫であるにも関わらず少し緊張する文香。しかしそれでもやはり人よりは接し易いのか、ゆっくりと近づいてその前に座り込んだ。逃げる事もなくハクは文香を見続け、やがて文香は口を開く。
「……触っても……良いですか……?」
『……』
「!……本当に言葉……解るんですね」
猫を相手に思いついたのは撫でる事だったのだろう。掛けられた言葉にハクが頷けば、一度驚いてハクを見つめる文香。話しに聞いていながらも何処かで疑っていたのだろう。許可も貰った事でゆっくりとその毛並みに文香は手を伸ばす。足元に沢山ある綿毛とは明らかに違う毛並み。文香は気付けば夢中で撫で続けており、ハクが自ら動いた事でようやく本人も我に返る。
「ぁ……嫌……でしたか……?」
一瞬残念そうに、しかしすぐに弱々しく質問する文香にハクは首を横に振る。相手は猫だが、見つめて来る真っ赤な瞳に勇気を持って目を合わせながら話していた文香は内心で感動を感じていた。そして、ハクとならば対人に備えた練習が出来ると確信する。
「あの……これから私と……お話しませんか……?」
可笑しなお願いの様にも聞こえる文香の言葉。だが、ハクはそれに頷くと文香から少し離れる。そしてその身体は光始めた。
「…………ぇ」
ここで文香は1つ事実を知らなかった。ハクは唯の猫では無いということを。その事実を知っている者はアイドルの中でも極少数。しかしプロデューサー等は知っている為、ハクは勘違いしたのだ。『文香は自分の事を知っている』と。やがて形を成していく少女の姿に文香は前髪で隠れた目を見開きながら言葉を発することも出来ずに固まってしまう。文香が知らない事を知らないハクは首を傾げ、それから数分の間部屋の中は沈黙に支配された。
文香は復活すると同時に何を話すべきなのか分からずに内心で困ってしまう。幸いハクの姿は子供の為、緊張することには変わり無くてもその程度は大きく違う。同年代や年上となれば話すことが出来ない文香も、子供相手になら少しは余裕を持てるのである。そこで、ハクを前に文香は小さく深呼吸を数回行った後にその赤い瞳と目を合わせる。
「……貴女は……ハク……さん、ですか?」
「……そう」
質問に頷きながら答えたハクの姿を見て、文香は不思議と受け入れる事が出来た。普通であれば猫が人に成るなどありえない事であるにも関わらず。それは話すことに大きく意識を集中していたが故なのかも知れない。ハクは答えた後に唯静かに文香を見つめるのみであり、それが自分の提案した『お話』を待っている事に気付いた文香は自己紹介を始める。名前や本を読むことが好きな事等、途切れ途切れながらも話すその言葉をハクは唯聞き続ける。
「……この部屋にも……本があるんですね……?」
「ん……私も好き……だから」
本を好きな者など沢山存在するが、文香はハクのその言葉に少しだけ嬉しさを感じると共に話を種を芽吹かせる。1つ芽吹いた話はやがて違う話へと枝分かれし、お互いに余り話さない故か静けさを稀に交えながらも途切れる事は無かった。そして数時間後、気付けば文香は新しい知り合いとしてハクを受け入れ、ハクもまた文香を受け入れていた。
「そろそろ時間……ですね」
「……」
「あの……また、来ても良いですか……?」
明るく差し込んでいた光は茜色に染まり、文香は帰るべき時間であると理解する。そしてそれを呟けば、ハクは窓の外を見て微かに目を細めた。それが何を意味するのかは文香には分からなかったものの、何気なく聞いた質問にハクは再び文香と視線を合わせると静かに頷いて答える。その後、文香は部屋を後にして尚胸に感じ続ける思いに小さく笑みを浮かべた。それは普段話せない故に珍しく沢山話し、そしてそれを聞いてくれたハクとの時間に対する楽しさ。また同じ様な時間が来れば良いと思いながら、文香は帰宅するのであった。
文香がハクと出会ってから数か月。最初に出会って以降、文香は緊張することも無く話の出来る居心地の良かった時間を求めてハクとの時間を望む様になっていた。出会えた回数は10にも満たず、だが文香はそれでも良いと思っていた。……そんなある日、久しぶりにハクの部屋を訪れた文香はハクの口から気になる言葉を耳にする。
「お泊り……ですか……?」
「……ん」
それはハクがハクの部屋では無く、別の誰かの家に泊まるというもの。何時も同じ部屋に寝泊りをしているが、偶には違う場所に泊まってみても良いのでは? という、とあるアイドルからの提案にどうしようか迷っているというものであった。何となく文香はその提案の中に含まれるハクとの時間が目的なのだと察する。ハク自身、毎日ずっと自分の部屋に居る訳では無い。人に寄ってはハクを連れて外に出る事もあり、誰も居なくても外にハクだけで出る時も決して少なくは無かった。だが文香はハクと共に外に出た事が無い。ハクと会える日はハクの部屋で話をし、1人の時は読書に没頭。家族の経営する古本屋で手伝いをする際も、中で本を読み続ける事の多い文香は話の中で外に出る事を聞かされても余り興味が湧いていなかった。が、泊まりとなれば話は別である。
「泊まる場所は……もう?」
「……まだ」
文香の質問に首を横に振ってから答えたハク。猫を1日だけ泊めるとしても、それが出来る者と出来ない者が存在する。マンション然り、家族にアレルギーを持つ者然り。ハクと現在の文香の様に会える時間を望みながらも泊められない者達が居るという事もあり、泊まりを許すか許さないかで現在プロデューサー達が協議中なのである。泊まりが解放される可能性を知る者はまだ少なく、故に候補者も少ない。文香はそれを聞いた時、迷わず口に出していた。
「わ、私の家に……泊まりませんか?」
文香は大学生である。既に1人暮らしを初めており、それは文香以外に家に帰れば誰も居ないという事に他ならなかった。だからこそ、大きな出来事である来客に緊張した面持ちで文香は自分の家の玄関を開ける。そして全開まで開いた後、自分が入るよりも先に後ろで待っていたハクへ視線を向けて静かに入る様に促す。ハクは頷いて文香の家へと入り、文香も入ると同時に玄関を閉める。施錠も忘れずに。
「……お邪魔……します」
「は。はい……お邪魔……されます」
決して自分以外の誰かを家に上げた事が初めてという訳では無い文香。同じアイドルの仲間達との交流の中で経験済みであるにも関わらず、ハクを迎える事に関しては異常な程に緊張していた。止まったまま見つめるハクの姿に文香は何をすれば良いか分からず、不意に自分達がまだ玄関に居る事を思いだす。家主を前に勝手に中へ入るのは失礼だと思ったのだろう。文香は小さな声で、しかしハクにも聞こえる様に「……どうぞ」と言って更に中へと招き始める。
「その……どう、ですか……?」
「?」
何となく自分の部屋がどう思われたのか気になり、質問すれば首を傾げてしまうハク。特に変わった点は無く、強いて上げれば本棚が普通の家よりも多くある事ぐらいだろう。ハクの反応に少し困りながらも何とか話をし乍ら落ち着こうと考え、ハクへ寛ぐ様に言って飲み物を用意する事にした文香。お互いに話をするが、話す頻度は少ない故に静かな室内で向かい合ったまま無言で居続けること数分。無事に落ち着く事の出来た文香が口を開く。
「……今日から、一泊二日……ですよね……?」
「ん……よろしく」
ハクがこうして文香の家へと訪れたのは、以前話に上がっていたお泊りが認められたからである。まだ試験的なものであり、誰が最初になるかで協議が行われながらも結果的に文香が選ばれた訳は運の良さと普段の行いだろう。ハク自身嫌な相手は誰も居ないが、その中で文香は安心出来る存在の1人であった。故にそれが決まった時、普段とは違う抑えきれない喜びを微かにだが表現した文香が印象に残ったのは仕方の無い事である。
「……お話……する?」
「え? ……ぁ……そう、ですね。……はい。しましょう」
話をすると言われて一瞬戸惑いながらも、何時ものハクである事に少しだけ安心しながら文香は頷く。何の話をするのか、それを考えて次に繋げる事も大きな練習の1つ。故に文香は思考を巡らせながら話を始める。基本相槌を打つだけのハクだが、稀に言葉を発することで文香は会話を出来ていると自覚する。だが文香は既にハクと出会ってから半年以上が経ち、会話に関してそこそこ力を付けていた。しかしそれでもハクを前にすると緊張して必死になってしまうのは、本当に会話が苦手だからなのか。それとも相手に問題があるのか。それは本人が気付かぬ限り、分からない事であった。
時間も夜となり、暗くなり始めた外を前に文香はハクの寝る場所を考える。1人暮らしをしている文香だが、誰かを泊める事は今まで想定したことが無かった。故に寝られる場所が自分の場所しか無く、ソファで寝る事も考え始めた時。白い髪を微かに濡らして文香が見た事の無いパジャマ姿でハクが部屋に現れる。前をボタンで留める服であり、文香はタオルを手に髪を拭きながら部屋の近づいて来るハクを見て思わずキュンとする。そして同時に特に気にした様子も無く髪を拭くハクの姿に寝場所の考えを一度放棄して、ハクへと近づいた。
「?」
「雑にしちゃ……駄目です」
近づく文香を前に首を傾げた時、文香はそう告げてハクが持っていたタオルを手に取る。そして優しくその髪を拭き始めた。普段から気にしているのか、優しく心地よさを感じるその拭き方にハクが目を細める中。髪を拭いていた文香はその頬を赤くしながらもそれを気付かれ無い様に続ける。稀に手に振れるハクの髪と、タオルを通して感じるハクの香り。魅了されるには十分の要素であり、しかし文香は首を横に強く振ってハクの髪を拭き終える。
「……これで良い、です」
「ん……ありがとう」
「! ……お、お風呂……入って来ます……!」
文香の言葉に気持ち良さから微かに目を細めたまま、振り返ってお礼を言ったハク。だがその顔と言葉に文香の顔は更に赤くなり、ハクがそれに気付くよりも早く逃げる様にその場を去る。向かうは浴室へと続く脱衣所であり、火照る顔を抑え乍ら中に入った文香の視界に畳まれて置かれるハクの服が入る。真っ白なワンピースであり、明日帰る時に持って行くつもりで畳んであるのだろう。洗濯物を任せるつもりは無いと分かり、律儀なところに笑みが零れる中、ふと先程のタオルや髪から香ったハクの香りを思いだす。今、目の前に存在するそれには間違い無く濃い濃度でその香りが滞在しているだろう。微かに現れた誘惑は一瞬にして膨れ上がり、意図も簡単に文香は乗ってしまう。
「……すぅ~……んっ……」
一瞬眩暈に近い感覚を感じ乍ら、自分が何をしているのか分からなくなる文香。中毒性に近いそれにもう1度行おうとした時、閉めた脱衣所の扉がノックされる。そしてその音で、文香は我に返った。
「……文香……平気?」
「ぁ……だ、大丈夫です!」
普段は出ない大きな声を思わず出した文香。恐らく扉の向こうで驚いているであろうハクの姿を想像し、自分がした事を思いだして再び顔を横に強く振る事で邪念を捨てる。ハクのワンピースを元に戻し、扉の向こうに居るであろうハクにもう1度今度は普段通りに平気である事を告げ、服を脱いで浴室へと入った。生まれたままの姿でシャワーからお湯を出す為に捻った時、最初に出て来た水に驚きながらもそれと同時に頭が冷え始める。
「私……どうして……」
ハクに害をなした訳では無くとも、感じるのは激しい罪悪感。自分がどうしてその様な行動を取ってしまったのかと必死に自問し、答えの無い結果に溜息を吐く。そしてふと、寝場所に関して思いだした文香はハクの寝る場所に関して1つの案を思い浮かべる。寝る場所は1つ。寝る人数は2人。暖かいシャワーに頭は再び熱くなり、悩む間もなく決めた文香は普段以上に身を清める思いで身体を洗い始めた。
お風呂から上がった時、部屋は無音でありながらも何時もとは違う暖かい空気が文香を迎える。それは人が居る事で感じる暖かさであり、テレビも付けずにソファに座って戻って来た文香を見つめるハクの存在故であった。
「……すぐ……寝る?」
「……明日の15時まで……ですよね……?」
「……そう」
「それなら……もう少しだけお話、しましょう」
「……分かった」
お互いに入浴を終えて後は寝る事だけを控えた時、ハクの質問に文香は考えながら質問する。それはプロデューサーから言われた約束であり、ハクも聞かされていた故に頷いて答えた。すると、文香は髪を拭きながらハクが座るソファの横に座って話をする事を提案。ハクは再び頷いて、2人は会話を始める。……そして30分後。
「……明日は休みですが……そろそろ布団に入りましょう……」
すっかり髪も乾き、文香は立ち上がると優しく手を差し出してハクに告げる。家の中で手を繋ぐ必要など無いが、自然に差し出された手にハクは自らの手を重ねて2人は寝る場所へ。文香が普段から寝る場所以外他に用意も何も無く、文香は普段通りに横になると同時に少しだけ端に避けてハクへ視線を向けた。
「……どうぞ」
「…………ん」
特に気にした様子も無く迎える文香の姿にハクは少しだけ長い無言の後、その中へと入り込む。お互いに向き合い、眠る気は無い様で文香は薄い笑みを浮かべるとハクとの距離を近づけた。
「……眠くなったら……寝てしまってください。……それまで……お話していますから……」
「……」
文香の言葉にハクは頷いて、その後子守歌にも似た文香の声を聞きながらその意識を落としていく。だが対照的に文香の意識はしっかりしたままであった。呼吸をすれば先程一瞬感じた香りと同じ匂いが鼻を刺激し、手を伸ばせば柔肌に振れる事が出来る。今まで共に居てもその様な思いを抱いた事も無ければ、抱く気も無かった文香。しかし今こうしてハクを前に劣情を感じてしまっている時点で、文香の心は疑い様が無かった。
話をする相手は少なく、アイドルの仲間達と話す機会はあれど参加することは限りなく少なかった。そんな時出会ったハクと会話の練習をした次の日、少しだけ上手く話しを出来た文香。自分をスカウトしてくれた相手でも、仲間であるアイドル達でも無く、その思いをハクに抱く事は果たして自然なのか? どうしてそうなったのかと疑問に思いながらも、文香の中でそれに関する答えは一言であった。
「……貴女だから……好きになったんです……」
静かに呟かれた言葉は部屋の中に響く事も無く消えて行った。
翌日。無事に346プロへと送り届けられたハクは文香と別れる。ハクを泊めて自分の気持ちを理解した文香は、ハクを求めるアイドル達の中に自分と同じ思いを抱く者が絶対に居ると確信していた。だからこそ、346プロから外に出た文香はハクの部屋がある場所に視線を向け乍ら覚悟を決める。女性同士だからと決して引く事はせず、何時か話し相手から相思相愛の関係になる為に頑張ると。ハクと出会える時間や回数は少ないが、その日から見られる鷺沢 文香の輝きは一回りも二回りも違うものになるのであった。