暁の堕姫~堕ちていく人妻~ 作:人妻大好き
羽波唯里が魔導犯罪者の手により再起不能になった。そういう噂が聞こえてきたのは、三日前のことだ。獅子王機関の出張所でたまたま流れてきた噂話だ。剣巫は数が少ない。その実力は新人であっても、長く訓練を積んだ兵士を相手に圧倒できるほどだ。才能と努力が高い次元で組み合わさって、初めて人間を凌駕する力を持つ魔族や魔術師の天敵となれるのだ。
そんな力を持つ少女は、そう現れるものではなく、誰も適任者がいない歳が続くことも珍しくない。
唯里はそんな中で誕生した最新の剣巫で、今注目の人だった。何かあれば、噂が立つのは道理だ。とはいえ、事務所の中とはいえ不確定情報をこともあろうに政府の裏組織が噂するのは如何なものか。
唯里に限って、ヘマをするとは思えない。
志緒にとって唯里はかつてのクラスメイトでありルームメイトだった。どちらかというと気が強く、時として他者と衝突してしまいがちな志緒にとって、気立てのいい大らかな唯里は周囲との潤滑油のような存在だった。唯里に助けられたことは一度や二度ではない。実力も人柄も唯里は優れているのだ。まだ新人の剣巫ではあるが、十分に職責を果たす力を備えているし、そのことに不安はないのだ。
もちろん、心配はしている。家族のいない志緒にとっては、唯里は親友であると同時に家族も同然の相手なのだ。しかし、彼女の実力に対する信頼もある。噂話程度で唯里の失態を信じるのは、彼女の実力を信じていないも同然だ。心配はしつつも、何かの間違いだと志緒は気にしなかったのだ。
結果として、志緒の判断は半分は正しかった。
唯里は任務に失敗しなかった
追っていた犯人はきちんと逮捕され、翌日には取り調べを受けている。
ただ、この犯人を逮捕した剣巫、唯里は呪毒を受けてしばらく治療が必要になったらしい。
唯里の状態については個人情報なので志緒でも確認できない。本人に連絡を取ろうとにも、スマホに電源が入っていないので繋がらず、唯里の情報はまったく入ってこなくなった。
志緒は事ここに至って激しく動揺した。
何より大切な親友の身に何が起こったのか。今、どうしているのか。それが気になって夜も眠れず、不安な時間ばかりが過ぎていく。
そんな折り、志緒に下った命令は、とある魔導犯罪の捜査だった。
「はあ――――くっ」
息苦しさをかみ殺し、志緒は濡れた倒木を蹴って跳ぶ。標高の高い山の中腹で、志緒が所属するチームはその魔導犯罪者と交戦状態に入った。呼吸の苦しさは、高山だからというわけではない。訓練を積んだ志緒ならば、この程度の富士山の頂上であっても、地上と大差なく活動できる。これは、この周囲の酸素濃度が意図的に低下させられているのだろう。ここは魔導犯罪者のテリトリーだ。そういう罠もあるだろう。それが魔導具によるものか、超応力なり魔術なりによるものかはまだ分からないが、厄介だ。
平常時であれば、十分程度は無呼吸でも問題ない。しかし、戦闘中となると話は別だ。酸素がなければ祝詞も唱えらず、身体能力の強化もままならなくなる。短期決戦で片付けられなければ、いったんは撤退するしかないが、それは絶対にできない。
(わたしが何とかしないと。唯里のためにも!)
唯里に撃ち込まれた呪毒の出所を辿ると、どうもこの魔導犯罪者から流出した薬品が基になっているらしい。
捕まえて、製造法から成分まで徹底的に調べ上げれば唯里の治療にも役立つはずだ。志緒が躍起になるには十分な理由だった。
「見つ、けた、ぞっ!」
志緒の感知網に、目的の魔導犯罪者が引っかかった。
志緒は剣巫ではない。呪術を用いた暗殺や潜入捜査を主務とする舞威媛だ。直接的な戦闘では剣巫に一歩譲るが、こうした追跡捜査は得意分野である。
敵が放つ呪詛や使い魔をチームメイトに任せて、志緒は魔導犯罪者の元に急行する。
捉えた敵の姿を見失わないように気を張りながら、「弓」に「矢」を番えた。酸欠で視界が真っ赤に染まるかのような錯覚を覚える。このまま意識を手放してしまいたいという誘惑を撥ね除けて、呪矢を射放つ、その直前、志緒が足場にしていた木が消えた。
「なっ……!」
突然の浮遊感。空中に投げ出された志緒はバランスを取って着地しようと足場を確認し、絶句する。そこにあるはずの地面がなかったからだ。代わりに現れたのは、真っ白な水を湛えた池だった。
(幻覚? いや、こっちが本物だ。じゃあ、さっきまでの木はカモフラージュか!)
瞬時に志緒は己の失策を悟った。
志緒が足場にした木々は、魔導犯罪者が作った偽物でいつでも消せる砂上の楼閣だったのだ。おそらくはこの怪しい池を作るときに切り開いた森を、そのまま存在しているかのように見せていたのだろう。
志緒は呪術を使えること以外は普通の人間だ。空は飛べない。足場がなければ、落下するしかない。
「くそっ……!」
毒づいて、そのまま水しぶきを上げて池に落ちた。
その魔導犯罪者は違法薬物の売買で生計を立てている。それが法に触れる違法薬物であったとしても、バレなければ問題ない。自分が捕まらなければ、誰が迷惑を被ろうと知ったことではないというスタンスの下に「売れる」薬物を開発してきた。
様々な人間と関わるうちに、もっとも需要があるのが性に纏わる霊薬だと分かった。想い人を手に入れるための惚れ薬からセックスのスパイスに使う精力剤まで商品は様々だが、年代を問わず、性欲を対象にした商品は金になった。
男は魔術の心得はあるし、そもそも魔族だ。ただの人間であれば簡単に返り討ちにできるが、攻魔師となると話は別だ。
薬品作りしかできない男に、攻魔師と直接相対するのは無謀だ。逃げるしかない。時間稼ぎに放った罠も使い魔も次々と屠られている状況では、追い詰められるのも時間の問題で、それでもまだ逃げに徹すれば逃げ切れるという状況だった。
そこで、一人の女攻魔師が突出して追撃してきた。まともに戦えば、万に一つも勝ち目がない。いよいよ年貢の納め時かと思ったとき、最後の罠が男を救った。
女攻魔師が池に落ちた。
男が丹精込めて生成してきた薬液の貯水プールである。薬液プールを覆い隠す、偽物の木の枝を足場にしたのが運の尽きだったのだ。
(あの薬液プールは、媚薬のプールか。こいつは運がいい。あそこに落ちたなら、簡単には出てこれない)
女攻魔師の運は尽きたが、男の幸運は続いている。
彼女が落ちたのは、媚薬の原料を精製しているプールだ。
用途によってこれを濃縮したり、薄めたりして売り出していく。若者をターゲットにした薄い媚薬でも、小一時間は向上した性欲が継続する。原液のプールに落ちれば、常人ならば快感で身動きがとれなくなり、そのまま溺死を選ぶだろう。
(快楽に狂った女攻魔師。その手の商売をしてる連中になら高値で売り飛ばせるが、命あっての物種だ。ここはもったいないが逃げさせてもらう)
男は人身売買には手を出していない。自分が作った霊薬が有効活用されているのを知っているが、他人の領分に足を突っ込めばどんな報復があるか分かったものではない。攻魔師に狙われるよりずっとリスクが大きい。
男は、池に落ちた女攻魔師を放置して、逃亡を選んだ。
その直後である。
視界がひっくり返り、十メートルばかり跳ね飛ばされたのは。
「なん……がっ」
訳が分からないまま転がって、身体中の痛みが後から襲ってきた。
這いつくばったまま顔を上げると、ずぶ濡れになった女攻魔師が金属製にも見える凶悪な弓を持って立っていた。
「薬液プールから、上がってきたのか?」
男の薬液の効果は、彼が最もよく知っている。濃縮していない原液とはいえ、女の理性を奪い快楽に溺れさせるだけの効能はあったはずだ。
全身が原液に塗れた彼女の身体は、余すことなく発情した性感帯も同然の状態のはずだ。
「お、お前、よくもこんなもので、わたしを汚してくれたな」
おどろおどろしい低い声で、女攻魔師は呟く。
その瞳は快楽ではなく憎悪に燃えている。
「ひいっ」
彼女から立ち上る霊力は男の常識を越えていた。
戦闘能力は皆無に等しい男にとって、武神具を携えた女攻魔師は天敵だ。
「お前の所為で、唯里が大変なんだぞ。どうしてくれるんだ。お前なんかがっ」
男にとってはまるで意味の分からない言葉が並ぶ。唯一、理解できるのは彼女がとんでもなく怒っているということだった。
男が冷静ならば、彼女の怒りの理由に思い当たる節もあっただろう。自分が売った薬物の犠牲者の中に彼女の知り合いがいるのだと。
だが、男にそんな余裕はなかったし、あったとしてもどうにもならなかっただろう。怒りにまかせた女攻魔師の拳が顔面を捉えて、そのままひっくり返って気絶してしまったからだ。
「はあ……はあ……はあ……これで、唯里を」
志緒は膝を突いて、呻いた。倒れ伏した男を確保し、唯里を汚した呪毒の正体に迫る道筋を見つけたのだ。
油断したわけではないが、怒りで判断を誤ったのは痛手だっただろう。唯里を傷付けた相手への怒りと舞威媛として鍛えた対毒能力のおかげで理性を保っていられるが、想像以上にこの男が作った薬液の効果は強い。
薬液プールに落ちたとき、咄嗟に液体を飲まないように口を閉じたので影響を最小限に抑えられたが、もしも飲んでいたら、今頃は悲惨な状態になっていただろう。
唯里を苦しめているものの正体に触れて、志緒は慄然とした。こんなものが唯里に使われたのだとしたら、それは本当に恐ろしいことだ。媚薬で女を狂わせる。一部の犯罪組織の常套手段だが、呪詛を生業とする志緒はそれが効果的であることも承知していた。
身体に付着した媚薬を洗い流すために呪術で簡易的なシャワーを作ったが、水が肌を流れるだけで立っていられなくなってしまった。
(水だけで、イったのか……?)
絶頂の感覚を志緒は覚えていない。それほどまでに強烈な快感で、気がつけばへたり込んでいたくらいだ。
(これは、不味いな……)
こんな状態になっているのを、誰にも知られたくはなかった。幸い、志緒は舞威媛だ。この手の症状を取り繕う知識と技術がある。一時的とはいえ、薬物によって昂進した身体の機能を意図的に制御できる。
人前では平静を維持しながら、この薬効が切れるまで家に閉じ籠もろう。翌日から志緒は休みを取って、自宅で体調の回復を待つことにした。
「はっ、はっ、はっ、はっ、ふう、うっ!」
びく、と志緒の身体が震える。
「はあっ、あっ、んあっ、ふう、ふう、はうっ、ふう、ん、ん、んんっ!」
志緒の身体の熱は、まったく引かない。それどころか、少しずつ上がっている。人前ではないので、気を張る必要はない。そう思うと気が緩んでしまい、自分のパンツの中に手を伸ばしてしまった。四六時中、全身の肌が快感に責め苛まれていたのだ。できる限り動かず、刺激のない状態で我慢を重ねていたのが、一気に決壊してしまった形になる。
「やば、い……全然、治まらない。はあ、はあ、うう……あっ、気持ちイイ……これ、すごい……ん、んん、はあ、はあ、はあっ、オナニーにすごい、こんなに、気持ちイイなんて、ん、知らなかった、はあ、はあ、はあ、はあ、あっ」
びく、びく、と志緒はイク。
一度快楽を受け入れてしまってから、ずっと自慰に耽っている。昼過ぎから初めて、今はもう夕暮れだ。
ろくにオナニーもしたことない、性欲を知らない身体が半日と経たずに欲望に塗れてしまった。
「はっ、はっ、はっ、あっ、気持ちイイ、ヤバい、好き……ん、はあ、あ、うあっ、ここも、イイ、はうっ、うっ、んあっ、あっ、んふぅ♡ はあ、はあ、はあっ♡」
(わたし、なんてことを。こんなはしたないことをして、もう止めないと。気をしっかり持って、舞威媛が媚薬に流されるなんて、あっちゃいけないんだ)
志緒の中の理性が、自慰の中止を叫ぶ。
積み重ねた対毒能力のおかげで、まだ狂っていない。しかし、身体はすっかり媚薬の虜になっている。心が侵食されて、やがて狂ってしまうのも時間の問題だろう。その未来を志緒は如実に感じ取っている。一日か二日か、もって三日といったところだろうか。それ以上は、とても耐えられない。身体に浴びただけで、ほとんど体内に摂取していないのにこの効果だ。これを原料にして作られた呪毒を体内に撃ち込まれた唯里の苦しみは如何ほどのものなのか。
「ああ、でも、こんなに気持ちイイなら苦しくはないかも、な、んあっ」
蕩けた顔で志緒は呟く。
クリトリスを抓り、じゅぼじゅぼと秘所をほじくり返し、乳首を揉み潰す。何度でもイケる。
「はう、あ、また、イクっ、ん、はあ、はあ、んん、あ、こんな格好、誰にも、見せられない、はあ、あ、ん、ふうあ、あ、はへ、はへぇ、んあ、ふへぁ♡ あ、あ、ひぐっ、あ、んあ、おおおお♡」
野太い嬌声を上げて志緒はついに白目を剥く。
倒れて海老反りをしながらイキ続けた。苦痛を通り越した快感のすさまじさ。イッてもイッても治まらない悦楽に溺れるしかない。
人間は苦痛に耐えることはできても快感に耐えるのは難しい。
だからこそ、多くの犯罪組織が強烈な媚薬を使うのだ。例え優秀な攻魔師であろうとも、投与すれば簡単に壊してしまえる。
それを思えば、志緒もかなり危なかっただろう。今、この状態でもしもあの魔導犯罪者を前にすれば、簡単に屈服していただろうから。
ざっと五時間弱、自慰に耽っていた志緒がやっと我に返ったのは、日が暮れてからである。
部屋の有様は酷い物だ。特にベッドは自分が垂れ流した分泌物で汚れに汚れていて、すぐにでもシーツの取り替えが必要なほどだった。
(不味い。本当に、これは不味い……)
興奮が収まった後、志緒を襲ったのは恐怖だった。冷や汗がどっと吹き出してくる。このままでは日常生活が営めなくなる。
我を忘れるほどの快楽を何度も味わえば、やがてはそれに取り憑かれてしまうのではないだろうか。舞威媛としての活動はおろか、普通の少女としての生活すら脅かされつつある。かといって、こんなことを誰に相談すればいいのか。
今は自慰だけで収まった。しかし、発作的に襲ってくる性欲に今後どうやって対処すればいいのか見当もつかない。
(あの気持ちイイの、もう一回くらいしてみたい……いや、そんなことを考えたらダメだ。なんてこと考えてるんだ、わたしは)
ぶんぶんと頭を振って邪念を追い払う。
少しでも気を抜くと快感がぶり返してくる。
次に秘所に触れようものなら、また延々を自慰に溺れることになるかもしれない。せっかく、今は落ち着いたのに。
心を落ち着けるために霊薬を服用した。治癒効果はないが、効き目はあると思いたい。
丸薬を服用して、リビングに戻ると、窓の外に魔力の揺らぎを感じた。悪いものではない。既知の気配である。
「あなたは」
「卒業依頼だね、斐川志緒」
ベランダにやってきた猫が人語を話した。使い魔である。遠方の主が猫を介してしゃべっているのである。
「縁堂様。どうして、ここに?」
「昨今巷を騒がせている薬物汚染問題の被疑者が逮捕されたって聞いてね。その功労者のあんたが、しばらく休みを取るっていうもんだから様子を見に来たのさ」
「そ、そうですか」
志緒は床に正座した。猫相手に謙るのは奇妙な光景ではあるが、相手は志緒が属する組織の最上位にいる人物だ。
直接の上司ではないし、師として仰いでいたわけではないものの、無礼を働いていいはずもない。獅子王機関はかなりの無茶が認められる旧態依然とした縦社会なのだ。
「ふむ、その様子だとちょいと体調不良ってとこかね」
「い、いえ、そのようなことは」
「隠さなくてもいいさ。おおよその事情は分かってる」
「え?」
「もちろん、口外はしていないよ。唯里を診たのはあたしだからね。あんたの身体のことも、想像はつくってもんさ」
「……そうですか」
あまりの気恥ずかしさに志緒は顔を真っ赤にしてうつむいた。年頃の乙女としては最悪の状況と言えるだろう。
「綾瀬を覚えているかい?」
「綾瀬? ああ、はい」
不意にかつての知り合いの名を出されて志緒は首を傾げる。
唯里の義理の兄のような男だ。唯里を通して志緒も面識がある。子どもの頃には、一緒に遊んだこともあった。
同年代の異性の中では数少ない気の置けない間柄ではあるだろう。
「あいつがどうしましたか?」
「今、唯里を綾瀬に預けている」
「…………はあ!?」
その意味が分かるや志緒は上役の前だというのに、驚愕の声を思い切り漏らしてしまった。
「綾瀬は一人暮らしをしてるはずです。そこに、唯里を預ける? どうしてですか? 間違いがあったら……」
「あの子らは兄妹も同然だろう。間違いは起こらないさ。起こるとしたらそれは間違いじゃなく、必然だろうねえ」
「他人事みたいに言わないでください。唯里はただでさえ、えと、大変なんですから!」
「だからさ」
「え?」
「あの娘に使われた呪毒は、完全に未知のものでね。獅子王機関の技術でも、すぐに治療法を編み出せるほど簡単なものじゃなかったのさ。治療法を見つけた頃には、廃人になっててもおかしくはなかった。綾瀬なら強引に対処可能だ。あれの能力はそういう意味でも役に立つ」
「夢魔の力ですか」
「ああ、そうだ」
志緒は渋い顔をした。理屈は分かるが、夢魔の力の評判は決していいものではないのだ。性を貪る魔物として古くから恐れられ、忌み嫌われた来た種族である。もちろん、その多くは迷信だ。魔族と人間の諍いの中で流布した過剰なプロパガンダである。しかし、精神、とりわけ性欲に作用する能力を持つ事実は変えようがなく、思春期の少女としては、難しい相手ではある。唯里の宿泊先が旧知の相手でなければ、その心配はさらに大きなものになっただろう。
「それじゃあ、唯里は大丈夫なんですか?」
「そうだね、呪毒の効果は綾瀬の力で押さえ込んでいるから、そういう意味では大丈夫だろう。あんたのおかげで被疑者も捕まったから、解毒薬も作れるだろうさ」
「そうですか。よかった」
解毒薬さえできてしまえば、すべて解決だ。唯里の復帰のめども立つ。そして、それは志緒も同様だ。
「で、あんただ」
「わたし、ですか」
「唯里の治療に使った薬をポストに入れておいたから、服用するように」
「薬ってそんなのあるんですか!?」
「症状を抑えることしかできないけどね。一応、薬が効いている間は日常生活は送れるはずだよ。ただし、いつ薬が切れるかは分からない。舞威媛は特に薬物に耐性があるからね」
「はい、確かに」
毒物への耐性を獲得することは、同時に身体にいい薬にも耐性を得てしまうことでもある。この業界に生きるものにとっては共通の悩みだ。
「解毒剤ができるか自然治癒するまでは、あんたも療養だ。綾瀬には一報入れておくから、夢魔の治療ってのを受けときな」
「夢魔の治療って、それはっ……!」
志緒の顔が熟れた林檎のようになる。
夢魔の治療などというのが真っ当なはずがない。
「あんたにもあんたの事情があるのは分かるが、うちの薬でもどこまで抑えられるかは未知数だ。薬が効かなくなれば、あんたの身体や心が持ちこたえられる保証はない。それは、分かっているんだろう?」
「いや、でもそんな、綾瀬となんて、唯里に怒られる」
「治療だから仕方ないだろう。あの娘だってそんな狭量じゃないさ」
「それは、そうかもしれないですけど。それに、わたしはまだ処女だし、巫女だし」
「別に巫女が処女でなければならないわけでもない。あんたくらいの年頃なら、もう経験済みの連中もいるだろう。剣巫にも舞威媛にも、男にうつつを抜かしているのがいる。まあ、これも時代なのかねえ」
嘆息する猫だったが、咎め立てするような口調ではない。
数百年を生きる怪物は、根本的に現代人とは違う価値観を備えている。そもそも縁は獅子王機関の人間ではあるが巫女出身というわけでもない。
「ふむ、まあ、どうしても嫌というのなら別の手を考えるさ。間に合うかどうかは分からないがね」
「別に嫌というわけでは……」
「ほう」
「いや、今のは、その頭ごなしに否定するのも悪いというだけで、あいつがどうこういうものではないですけど」
「ふむ、ま、どうあれ、選択肢は二つに一つ。治療を受けるか受けないかだけだよ」
そう言って、猫は志緒に背を向けた。
「ああ、そうそう。実はね、こっちから一報入れておくと言ったけど、実はもう連絡済みなんだ」
「な、なあっ、どういうっ」
「そのままの意味さ。もう時間だ。それじゃあね、ゆっくり養生するんだよ」
「あ、待って」
式神はふっと姿をくらませてしまった。猫の姿を探してベランダに出たが、もうどこにもいない。
「二つに一つって、実質一択じゃないか……」
がっくりと志緒は項垂れて、へたり込んだ。
縁の気持ちはありがたいし、話を聞く限り対症療法としては綾瀬を頼るのもアリだろう。というよりも、現状では彼以外に頼れる相手はいない。唯里もだからこそ、様々なリスクを天秤にかけても綾瀬の下に行ったのだ。
とはいえ、年上とはいえ歳の近い相手でしかも昔からの知り合いだ。幼馴染と言ってもいい。どんな顔をして治療を受けに行けばいいのか、まったく分からなかった。