※この作品はR-18です。

TS百合短編集   作:くえん

3 / 19
次までが長すぎるってね……
3万字以上ありますが、濡れ場は次回です。


TSしたせいで自殺まで考えた俺が、上司のお陰で立ち直るまで
3(前編)


 子供の頃、生まれ変わるなら男女どっちが良い? だなんて話をしたことはないだろうか。なんだかんだ言って、皆一度くらいは考えたことがあると思う。ちなみに、俺は考えたことがある。それもつい最近、かなり真剣に。

 現実的にはありえない話だが、子供の頃は割と真面目に考えた人も多いだろう。とはいえ、大半が今と同じ性別を選ぶと思う。それには友人の手前、異性を選ぶなんて気恥ずかしいといった理由もある程度含まれるが、大抵はまだ異性に興味がないのが理由じゃないかと思う。だが、大人になり色々と経験すると、一概にそうも言えなくなる。

 社会に出てみると、色んなところで起こる男女贔屓に、異性が羨ましいと考えることも多くなる。それと同時に、今の性別で良かったと思うことも多々あり、結局は半々くらいになるのではないかと思う。

 正直、善し悪しだ。女性じゃ入りにくい場所もあれば、女性だけサービスを受けられるお店があったり、女性特有のよくわからない仲違いにいじめ、男は痴漢の疑いをかけられやすいなど、考えればきりがない。総合して、最終的にはどっちのメリットをとるか、という個人の好みになると思うのだが。あの事件以来、割とよく聞く命題だ。他人の意見なんて正直どうでもよくて、結果は覚えていないが。

 じゃあ俺はどっちなのかって? 俺としてはどっちでも良いんだけど……出来るなら男、少なくともどちらかに固定してほしいとは、切実に思うね。

 

 

 

 本人に自覚はなくとも、傍から見れば、俺は仕事人間という人種に分類される方だと思う。

 何せ、残業は全然苦じゃなかったし、休みは欲しいが、必要とあれば休日出勤も何の躊躇いもなくやっていたから、間違いないだろう。嫌な上司の鼻を明かすという意図もあったが、そこまで頑張れた最大の要因は、出世欲というより単純に営業の成績が伸びていくのが楽しかったからである。仕事をなめているわけではないが、ゲーム感覚というか、時間をかければその分成果が上がるその仕組みが俺に合ったのだろう。気づけば、営業成績一位の座を手に入れるまでになっていた。

 だからこそ、唐突な配置転換は堪えた。何せ、気づかぬうちに半分生き甲斐にまでなっていた仕事を奪われたようなものだから、当然である。だが、抗議はしなかった。いや、出来なかったのだ。その異動は、俺自身も納得した上での異動だったからだ。

 俺自身の努力では、もっと言えば現代の医療でさえも手出しの出来ないかなり深刻な事情。俺は、人生で初めて運命とやらを恨んだ。どうして、何故。よりによって俺なのか、と。

 

 

 

 営業の電話が飛び交う、がやがやと騒がしい活気のあるオフィスの一角に、俺の席はある。異動になり仕事内容は変わったものの、オフィス自体は変わってない。精々、席が変わったくらいのものだ。以前よりも随分楽になった仕事をこなしていると、上席から俺宛に指示が飛んでくる。

 

「慶介君、悪いんだけど、今午後からの会議で使う資料送ったから、一時までにコピーして会議室に並べておいてくれる?」

「わかりました」

 

 声をかけてきたのは、長い髪を後ろで縛り、メガネで強調されたつり目気味の目から厳しい視線をこちらに向け。メリハリのある美しい肢体を見事に着こなしたスーツ姿で覆うその女性は、今の俺の上司の名瀬部長。年は若干20代後半にして部長職に就く、この部きっての出世頭である。

 俺に向けてくるその険しい視線からは想像しにくいが、彼女はとても良い上司だ。部下の面倒はしっかり見るし、仕事も投げっぱなしにせず最後までフォローしてくれ、何かあれば率先して動く。その上男女関係なく部の皆から慕われており、正に理想の上司と言えるだろう。

 

「それと慶介君、昨日出してもらった書類だけど。

 大きなミスはないけど、言葉の表現だったりまだ細かいミスが目立つわ。私で全部訂正して置いたけど、次からは気をつけてね」

「……はい、すみません」

 

 ……ただし、俺以外にとっては、という枕言葉がつくのだが。

 名瀬部長は、俺に対してだけ、何故か無駄に当たりが強いのだ。雑用を任せられるのはまぁ、今の俺の立場だと仕方のないことだと納得するとして。普段の仕事のチェックが、他の社員よりも明らかに厳しいのだ。いくら(俺以外には)寛容な名瀬さんだって、客先に謝りにいくレベルのミスがあれば流石に部下を叱責するが、俺に関しては全く違う。その重箱の隅をつつくようなハイレベルなチェック体制は、異動以来、俺が一度もお叱りなしでチェックを通過したことがない、と言えばよくわかるだろうか。仮にも、以前は営業部のエースを張っていたこの俺が、だ。最早揚げ足取りも良いところなのだが、睨みつけるようなその鋭い視線に結局は逆らえず、平謝りである。

 指示通り、名瀬部長からメールで送付された資料を開き、会議の人数分印刷をかける。部長直々に作成された書類は、相変わらず理路整然とした文調でわかりやすくまとめられていた。これを営業職の時見かけていれば、さぞ参考になったことだろう。今となってみれば、ただの無駄なのだが。

 

「慶介君、業務が昼休みに食い込みそうなら、その分ずらして昼休憩取ってもらって良いからね?」

「わかりました」

 

 今の時刻は11時半。部長の言葉に頷き、軽く礼を返しておく。

 嫌っている人間に対しても、この細やかな気遣い。気にせず午後からも業務を任せる人間が多い中、良くそこまで気が回るなと感心する。

 最新機種で、以前よりも随分静かになった印刷機の前で佇みながら、思考に耽る。

 何がきっかけで嫌われたのかはさっぱりわからないし、色々と溜まっているものはあれど、これでも前の強欲の塊みたいな糞部長よりは100倍マシだった。人に自分のミスを押し付けてきたり、手柄を奪ってみたり、良い案件をお気に入りの子にまわしてみたりと、あからさまに贔屓しないだけまともな方だ。何より、仕事をサボっていない。これだけで、やつより遥かにマシである。その点において、今の部署は以前よりもかなり恵まれた環境にあるといって良い。統制が取れているのか、部員もまともな奴が多いしな。

 だから、今の環境に不満を抱いているとすれば、原因は俺自身にある筈なのだ。

 気づけば時刻は12時を過ぎていた。同僚たちは仕事を程々に切り上げると、弁当を持って休憩室かオフィス街の飯屋に消え、オフィスは閑散としていた。印刷機から印刷した容姿を取り出し、一部ずつクリップで纏めた資料を会議室の各席に置き、ようやく俺の昼休みは始まる。

 

「……別に食べなくても良いか」

 

 最近、あまり食欲が無い。栄養剤はトラウマがあるから避けているが、それ以外のサプリやゼリーなどの、カロリーを簡単に摂取できるようなもので食事を済ませることが多くなった。今日はそれすらも抜くことにし、俺は喫煙所へと直行する。

 引き戸になっている喫煙所のドアをがらりと開け、タバコ特有の淀んだ空気が俺の全身を包み込む。この重苦しい雰囲気が以前の職場を思い出させ、どこか安心感すら沸いてくる。

 設置されたイスにどっかと座り込み、胸ポケットからタバコを一本取り出し口元に咥えた所で、視界の横から火が差し出された。

 察しがついた俺は有難く火を頂き、タバコはゆっくりと紫煙をくゆらせ始める。軽く吸い込み、はーっと吐き出す。

 

「サンキュ」

「よう慶介、今日も昼は抜きか」

「まぁな」

 

 隣にいたのは、営業部での同僚だった。部屋にいたことすら気づかなかった。流石にボーっとしすぎたか。

 

「相変わらず景気悪そうな顔してるな。飯食わないと持たないぞ?」

「そっちに居た時より暇してるからな。これでも元気余ってる方なのさ」

「嘘付けよ。そんな死んだ魚みたいな目しやがって、鏡見て同じ言葉言えるか?」

「言えるさ、空元気だからな」

 

 営業部の殺伐とした空気の中、この同僚とはそれなりに仲が良かったほうである。だからこそ、こうやって心配してくれているのだろうが。

 体に悪い煙を肺一杯に取り込み、地面に向かって吐き出す。目線は床に落としたままだ。俺を心配してくれてる手前、後ろめたくて直視はできない。

 

「全く……

 お前が居なくなってから仕事に張り合いが無いぜ。前はお前と競争し甲斐があったもんだが、今はただ追われるだけだからな。

 ……なぁ、戻ってこないか? 皆心配してるぞ。最近のお前には、覇気が無さ過ぎるってな」

「心配は有難いし、戻りたいのは山々だがな。部長にああ言われちゃ、どうしようもないだろ」

 

 胸に手を当て、あの糞部長の言葉を頭の中で反芻する。

 

『電話中や取引中に発作が起こってみろ、お前の正体がばれる云々の前にうちの信用問題だ。もしそうなったらどう責任を取るつもりだ? 正直言って迷惑なんだよ。お前の代わりなんぞいくらでも居る、辞めろとまでは言わん、さっさと異動してしまえ』

 

 あのハゲに今まで言われてきた文句は、営業成績や実績で黙らせてきた。だが、こればかりは俺の意思や行動でどうにかなるものではなかった。

 手を胸にやり、その内に忍ばせた紙に意識を向ける。常に抱いている、思いを吐露する。

 

「お前と競いながら、部長の鼻を明かして、ようやく築き上げてきたポジションだ。それをみすみす逃すなんて、俺だって悔しいさ。でも、どうしようもないだろ。発作なんて、どう言い訳すりゃ良かったんだよ……」

 

 この体質が、心底恨めしい。全身を巡る血液を、体を構成する細胞を、この症状を欲する人(・・・・・・・・・)と全て交換することが出来たら、どれだけ良かったことか。

 

「……すまん」

「良いんだ、別に。過ぎたことは仕方ないんだ。そう、次に切り替えていかないといけない。いい加減、吹っ切らないと……」

 

 失って初めてわかった生き甲斐を、みすみす逃す。未練が無いわけが無かった。気の持ちよう一つなのだと思っても、俺の根底にこびりつくその思いが邪魔するのだ。

 あの時、あんなものに手を伸ばさなければと、後悔してもし足りない。

 空気清浄機が全力で稼動する中、ぱさりと灰が床に落ちる音で、没入していた意識がはっと戻る。

 

「そうだな、いい加減次の彼女も見つけないといけないしな。慶介にその気があるなら、合コンくらいいくらでもセッティングしてやるぞ。相手は誰が良い? ナースか、OLか? 大学生という手もあるぞ」

「馬鹿言え、最後のは下手したら懲戒解雇になるぞ」

 

 同僚は空気を呼んで、笑い話に切り替える。この辺りの気配りがこいつの営業成績を伸ばす一因である。資料を揃えて相手を論破しがちだった俺には、とても真似できない芸当だ。とはいえ、今回に関してはその変更先がちと悪い。

 

「それともお前、まさかまだ探してんのか? 前に言ってた、お前のストライクゾーンど真ん中とかいう」

「当たり前だろ……あんな綺麗な人放っておいて誰を好きになるってんだ」

 

 思わず熱くなり顔を上げた俺に、容赦なく呆れ交じりの冷めた視線を向ける同僚。

 こいつが言っているのは、以前俺が街中で一度だけ見かけた、俺の女神の話である。

 ぼたん雪が降りしきる中、雪に混じるように真っ白な息を溶かしながら走る最中、ふと目線があった。如何にもガラの悪い若い男二人に絡まれ、強気に出られないのか助けを求めるようにこちらを見たその女性は。白い背景に映えるロングの艶やかな髪と、まるでモデルのように、しかし女性らしい可愛らしさを残したその整った容姿は、一度見たら忘れようがない程、俺の脳裏に焼き付いていた。完全に一目惚れだった。急いでいた理由さえもすっぽりと抜け落ちてしまうほどに、俺はその一瞬の視線の交差で、その美しい女性に恋慕を抱いていた。だからこそ、今でも後悔している。どうして俺は、あそこで連絡先を聞いておかなかったのかと。

 

「一年前に見てから、未だに会えてないんだろ? 仮にフリーだったとしても、そんなに美人なら、今頃彼氏でも作ってるって。さっさと諦めたらどうだ?」

 

 それ以来ずっと同じことを言い続け、未だにそれ以外の出会いを求めない俺にいい加減うんざりしているのか、同僚は窘めるような口調で俺に新たな出会いを提供しようと言い募る。だが、そうあっさりと運命を諦められるほど俺は簡単ではないのだ。

 再び心の内で起こるその熱情に身を任せ、反論しようと口を開きかけたその時、その思いにつられるようにどくん、と心臓が大きく脈動を始める。

 心の内に燻った火とはまた別の熱が、体を襲う。締め付けられるような痛みが胸に走り、その鼓動は俺の全身を侵し始める。

 

「あ、ぐ……!!」

「お、おい大丈夫か?!」

「大丈夫、いつものやつ、だから……っぐ!!」

 

 その痛みに胸元を抑え、うずくまった俺に駆け寄ろうとした同僚を、俺は手で押しとどめる。そう、言葉通り、定期的に来る発作のようなものだ。命に別状はないが、俺の生活には多大な影響を与える、あれ。まだ社内でよかった、これが出先ならまた大騒ぎになるところだ。

 

「わるい、さっきの話……」

「ああ気にするな、早く行けよ」

 

 言葉を出すのも辛い俺は、軽く手を振りって更衣室へと急いだ。

 胸を押さえながら小走りに駆ける俺と廊下ですれ違う人々は、心配そうだったりびっくりとした目だったり様々な視線を向けてくるが、大丈夫ですか、と声をかけてくる人は一人もいない。俺が痛みに喘ぐ光景など、最早社内では珍しくもない光景だからだ。しかし、これは俺が陰湿ないじめにあっているなどということでは決してない。俺は発作と称したが、命に別状はないと知れているからだ。

 男女別に別れた更衣室を通り越し、元は倉庫として使われていて、今では俺専用の更衣室となった部屋の扉を乱暴に開くと、壁に手をつき全身に走る痛みに耐える。

 

「はっ、はっ、はっ……!!」

 

 骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。心臓から送り出された新たな血液が全身を駆け巡る度、通過した部位が強烈に痛む。その痛みは、例えるなら中から火で炙られているようなもので、その苦しみは顔中から噴き出る汗の量で察することができるだろう。

 

「っぐ、っああああ!!」

 

 ひんやりとした壁についた手を握り締め、甲高い声(・・・・)を上げ耐える。急に楽になった首元に、緩まりぱさりと落ちるスーツのパンツ。

 大量の汗でぐっしょりと濡れたYシャツの胸元は、僅かに隆起していた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 長い時間そうしていただろうか。徐々に痛みは治まり、体には熱だけが残る。顔から滴る汗で小さな水たまりのようになっている足元を見ながら、静かに息を整える。

 酷使していた肺にようやく余裕が出来た頃、俺は顔を上げた。何かを引きずっているかのように、やけに重い後頭部。頼りなさそうな、白い肌の細い腕。丸みを帯びた、女性的なボディライン。全身のシルエットは、明らかに小さくなっていた。

 

「……くそっ」

 

 俺は苛立ちを吐き捨てると、足に引っかかっていたメンズ用のパンツを足で振り払い、部屋に2つあるロッカーの内、右の方に近づく。

 ロッカーを開けると、そこには何着かの女性用のスーツがハンガーにかかっていた。勿論盗んだわけでもなければ、女装趣味があるわけでもない。これは俺が用意し、今の俺に必要なものだ。

 内扉に付いている鏡に今の俺の顔が映り込む。ただ、そこに映り込む姿は、20何年来の付き合いである俺の顔ではなく。肩ほどまである黒髪を汗で湿らせ、睫毛は長く可愛らしいという表現が合いそうな端正な顔を不機嫌そうに歪める女性(・・)。

 そう、これが今の俺だ。たまに起こる発作で性別が変わった後の、女性の姿の俺。俺の人生を大きく変えた、元凶そのもの。

 

「こんな姿誰が望んだっていうんだよ……」

 

 諦めと絶望に濡れた台詞は、ぽつりと零れ誰にも聞かれず消え去った。

 

 

 

 

 

 数ある得意先から貰った、一本の栄養剤。それが全ての発端だった。

 残業中、気まぐれに飲んだ途端体は異常な熱を発し、俺は誰もいないオフィスで倒れこみ、朝出勤してきた同僚に揺り起こされ起きてみると、自分の体が女に成っていた。

 まるで三流の映画か小説のような、馬鹿げた出来事だ。実際、これが自身に降りかかった出来事でなければ、俺は今でも信じていなかっただろう。

 当たり前のごとく、会社に侵入した不審者と思われた俺の潔白は、監視カメラの映像と、俺以外にいたらしい被害者の存在がニュースで報道されたことによって証明され、政府主導で新たな身分を手に入れ無事社会復帰となった、はずだったのだが。

 俺が他の被害者と違ったところは、不定期に性別が入れ替わってしまう発作が起きてしまうことだった。

 理由は不明だ。そもそも事件の原因が詳しく特定できていないことからして、他の被害者との違いなど今の段階でわかるわけもなく。判明しているのは、DNAのテロメアの長さやその他直接的な健康被害など、寿命が縮まるなどの心配は全くないことくらい。後は、幾度となく変化してきた傾向から察するに、一度変化すれば最低三日以上おかないと体の変化は無い、ということくらいか。

 だが、この発作が厄介なのだ。初めとは違い気絶するほどではないが、傍から見ればどう見ても救急車案件である。そんな発作が万が一客先にて起こってしまえばどうなるか。メディアには伏せられている、女性化事件の被害者の一人が俺だと露見するばかりでなく、いつ倒れるとも知れない社員を働かせている会社の信用問題にもなりかねない。

 事件後職場に復帰した時、体よく俺を追い出そうとしているのだろう、ニヤついた顔で言う部長の言葉を、俺は呑まざるを得なかった。

 

 

 

 この半年ですっかりと慣れてしまった手つきは、思考を逸らしていても無意識に着替えられるほど習熟していた。パンツルックのものを選んでいるから、スーツのほうはまだ良い。問題は、女性用の下着だ。未だに抵抗感がぬぐえないそれは、いい加減覚えないと困るのは自分なのだが、脱がせ方はともかく、着け方など覚えたくはなかった。

 

「……よし」

 

 鏡を見ながら服装に変なところが無いかを確認し、頷く。逆の時刻を刻む時計の針は、既に一時過ぎを指していた。

 これも慣れた手つきで化粧を手早く終わらせ、俺はどんよりとした心境を現実に反映させたような重い空気を纏いながら、更衣室を出る。

 体に変調が起きてから、俺の生活は一変した。部長(ろくでなし)の命令で今の部署に異動になり、生活スタイルが随分と落ち着いたから、というのもあるが。生活に色がなくなった、というのが一番正しい表現だろうか。

 あれだけ精力的に励んでいた仕事に対して、微塵もやる気が出てこない。それどころか、休みの日も家の中でじっとしていることが多くなった。暇さえあれば、あの女性を探しに行く事を兼ね、旨い飯を出す店を探しに外に出かけることはしょっちゅうだったというのに、今はそれすら億劫だった。

 ――結局あの糞部長の言いなりになっているというのに、これ以上、仕事を頑張る必要があるのか。

 ――仮にあの女性を見つけたとして、こんな姿で何を言えば良いのか。向こうが俺を覚えている保証もなく、女の姿で気づくわけもないのに。

 そんな諦念が俺の中で常に渦巻き、全てのやる気を削いでいく。

 ふと立ち止まり外の景色を見れば、高いビルの立ち並ぶ街の景観を透かすガラスの上に、死んだ目をした、女の俺が映っている。

 別に不細工ではない。美人でもないだろうが、十分可愛いと思える容姿だ。だが、この女がいることで俺が失ったものの多さを考えると、受け入れられるかといえばそれは不可能な話だった。むしろ、殺意すら湧きそうだ。

 ここから身を投げれば、こいつを始末できるのか……そう、不穏な思考まで一緒に湧き出てきて、そろそろと腕が上がりかけた時。

 

「彩君、こんなところにいたのかね」

 

 ちらりと振り返ると、俺を呼び止めた肥満体の男が立っていた。そいつは、出世欲の塊です、と欲望が顔に書いていそうで、見た目通りの捻り腐った性根の持ち主である、三島部長。俺の元上司だった。

 ちなみに、俺の名前は彩慶介(あやけいすけ)。女だから別の名前を付けたわけではなく、元々この名前、呼び方なのだ。

 面倒な奴にあったなと内心舌打ちしつつ、軽く会釈し返事を返す。

 

「部長、どうかされましたか」

「いや何、少し話したい事があってね。君を探していたのだよ」

「はぁ。廊下で済む話ですか? 何なら別室にでも行きますか? 今の時間なら休憩室も空いてるでしょうが」

「そこまで時間はとらせんよ。すぐに済む話だ」

 

 もう時刻は昼休み過ぎ。他部署の人員を呼び止めているのに気にしていない辺り、やはりこいつはろくでもないなと眉を顰めるが、表面上は取り繕っておく。

 どうせいつもの嫌味だろうと、表面だけは取り繕ってこの糞上司と向き合う。が、言ってきた言葉は予想外の言葉。

 

「彩君、辞表を出したまえ」

「は……?」

 

 こいつとは、入社当初から因縁がある。因縁と言っても、新入社員にしてはそこそこ成績を上げたせいで、目をつけられただけなのだが。

 昔から、自分のミスを俺に押し付けてみたり、無理難題に近い案件を振ってみたりと、あの手この手で俺を辞めさせようとしてきたが、実力行使どころか、ここまでド直球に言ってきたことはなく、驚きの声を隠せなかった。

 

「名瀬君じゃ言い辛かろうから、代わりに私から言ってやろう。

 男になったり女になったり、常にその危険を考慮しないといけないとは、管理職からしたら非常に扱い辛い人材だよ、お前は。それに加え、最近は仕事もミスばかりらしいじゃないか。名瀬君も結構迷惑しているそうだ。

 お前なんぞいい加減クビにしてやりたいところだが……政府の手配もあるせいで、こっちからは簡単にクビを切れん。

 だが、お前自身の意思なら話は別、というわけだ」

 

 詭弁も良いところだ。

 迷惑しているのは事実だとしても、あの思慮深い名瀬部長が社内一の嫌われ者であるこいつにわざわざ漏らすか、と言われれば疑問でしかない。

 そう簡単に了承するわけもなく、半分にらみつける気概を込め言い返すが。こいつのギトギトとしたにやつく笑みは止むことはない。

 

「……そう簡単にはいそうですか、と言うと思います?」

「全くもってその通りだ。だがそれは、以前のお前なら、の話だ。

 今にも自殺しそうな陰鬱な顔をしおって、自分が心にも無いことを言ってる自覚はあるのか? そんな顔で、まだ減らず口が叩けるのが不思議だよ」

「……」

 

 否定、したいが。言葉が出てこなかった。

 悔しさはあるのに、以前のように心の内に満ちるほどではない。俺の原動力だった燃え上がるような反骨心は、今では微塵も感じられなかったのだ。

 

「かわいい顔をしおって、中身がお前じゃなければ手籠めにしても良いくらいだが……」

「セクハラで、訴えますよ」

「ははは、冗談だ。お前なんぞ、こっちから願い下げだよ。コロコロ性別が変わる上に、中身がお前とわかってて誰が抱くか、気持ち悪い。

 一応伝えたからな。退職届が受け取ってもらえるうちに、さっさと出してしまうことだ。問題児がいなくなって、名瀬君もさぞ喜ぶことだろうよ」

 

 隠しきれない悪意が滲み出ている笑みを浮かべながら、ポン、と俺の肩を叩き去っていく。

 冗談だとわかっていても、抱いてやろうかだなんて寒気がする。しかし、今はそれ以上にあいつの言葉に堪えていた。

 懲戒解雇だったり名瀬部長の件は、俺を辞めさせたいがためのあいつの虚言に違いない。だからあの言葉を真に受けることはない、そうわかっているのに、もう心が楽になりたがっていた。

 製薬会社からの賠償金に、俺の特殊な体質を解明するための定期検査による報奨金を加えれば、多少贅沢をしても、死ぬまで不自由無く生きていけるだけの額は口座の中に眠っている。働く必要など、生活の張り合いを出すため以外に理由はないのだ。だが、俺はそれさえもこの体のせいで失っている。そう考えれば、もうこの会社にいる必要も……

 胸元の内ポケットに手を入れる。あの事件以来、常に意識し、お守り代わりに携帯していた一枚の紙切れが入った封筒。表に書かれた、辞職願という文字が目に入る。

 以前なら考えもしなかった言葉だ。遠回しに辞めろと言われ続けても、むしろあの糞上司を辞めさせてやるくらいの気概だったのに、今ではその言葉を自然と受け入れてしまいそうだった。いや、今正に受け入れようとしていた。

 

 ――辞めよう。

 

 決意する。あの糞上司の思惑に乗るのは癪だが、これで名瀬部長の気も楽になると考えれば、まだマシか……

 気は晴れない。辞めてから何をするかなど全く決めていないが、少しでも前を向くための決断だった。

 名瀬部長の会議が終わり次第、すぐにでも出そう。そう決めると、重かった足取りも、多少軽くなった気がした。

 

 

 

 オフィスに戻ると、同じ部の連中から休憩中に女になっていたことを多少突っ込まれつつ、午後の業務を開始した。

 予定だと4時くらいには終わるらしいから、終わり際に時間をとってもらって出せば良い。そう考えていたのだが、何か問題でもあったのか、予想以上に時間をとっているようだった。その長引き具合は、退社時刻になれば、緊急の要件でなければ業務報告明日で良いと、実質的な帰宅命令が会議中に各部長陣からメールで回って来るほど。

 多少早く終わるかななどと考えていたが、実際は全くの逆で、結局定時になっても会議が終わることはなかった。

 今日はうるさいお目付け役が居ないせいか、どの部署も定時になるとそれぞれ三々九度に席を立つ。俺も帰ろうかと思ったが、話は早いほうが良いと思い、終わるまで待つことにした。

 同僚もみんな帰り、一人残ったオフィスで翌日の分の決済や事務処理を片付けていると、8時過ぎになって廊下ががやがやと騒がしくなり、ようやく会議が終わったのだと俺に知らせてきた。

 がちゃりと扉が開き、てっきり名瀬部長かと思い席から立って挨拶する。が、よく見ると別の部署の部長である。

 

「あ、お疲れ様です」

「誰が残ってるのかと思えば、彩君だったか。お疲れ。

 優秀な君が残業とは珍しい、どうかしたのかい?」

 

 名瀬部長に次いでまともな方だと評される優男風の男は、俺の会釈に軽く手を挙げて答える。

 

「いえ、名瀬部長に用事がありまして。ついでに溜まってる仕事を片付けようかと」

「相変わらず殊勝なことだ。君が営業に残れていたら、まだ話は変わってきたんだろうが……

 ああいや、こっちの話だ。名瀬君なら会議室の後片付けをしてくれているよ。話があるなら丁度良い、ついでに手伝ってあげてくれ」

「わかりました、ありがとうございます」

 

 ため息交じりに語る男に礼を返すと、適当に返事をして去っていく。

 俺を惜しんでくれているらしい言葉に混じる謎のため息に、内心首をひねりつつも、関係ないなら良いと受け流す。片付け中なら都合が良い、一対一で話せて邪魔も入るまい。

 編集中だったファイルを保存して閉じると、俺は席を立ち会議室へと向かった。

 

 

 

 うちの会社は基本的に、営業部以外残業することは稀だ。仕事がさほど忙しくないのもあるが、労働環境の健全化が図られる前からこの調子なので、どちらかと言えば社風に近い。

 なので、通りかかる部屋の電気は消えており、薄暗い廊下ですれ違う人も皆無だ。

 静寂に満ちた廊下に、俺の足音を響かせ歩いていく。

 歩いていくと程なく、廊下の突き当りに唯一光の灯った部屋が見つかる。昼、俺が資料を置きに訪れた部屋である。

 懐から退職願を取り出し、ノックをしようと構えたところで、ふと中から話し声がすることに気づく。

 話し声ということは、名瀬部長以外にも誰かがいるということである。

 そっとばれないように端により、会話に耳を澄ませる。普段であれば聞き取れないだろうが、全く雑音が聞こえない静まり返った廊下では、鮮明とは言えないが容易に聞き取れた。

 

『それで名瀬君、わざわざ呼び止めて何の話があるのかな? 長丁場で私も疲れているんだがね』

『誰かの進退に関わる、重要な話です。真剣にお答え頂かないと困りますので、予めお願いしておきますよ?』

 

 相手は、声も聴きたくないあの糞上司だった。名瀬部長は真剣な声色で話しかけているが、奴は意に介さず適当に発言しているような軽い口調である。

 

『名瀬君はいつも性急でいかんな。もう少し迂遠な言い回しを覚えんと、部下もついてこんぞ? そうだな、君と私の共通の話題と言えば、彩君の話でもどうだ?』

 

 露骨な誘導だ、どこまで俺を貶めるつもりなのか。止めに入りたいところだが、ここで割りいるのは少々勇気がいる。余計なことは言われたくないが、ここは大人しく聞いているしかないか。

 

『彩君ですか?』

『ああそうだ。事あるごとに上司である私を目の敵にして、問題ばかり起こして私に苦労ばかりさせる……君も覚えがあるだろう?』

『……いえ、そんなことはありませんよ。彩君は十分良くやってくれています』

『そうかい? 異動してからも相変わらず問題ばかり、君も叱ってばかりで気苦労が絶えないと、どこかで耳にしたがね。元上司の私としては、問題児を引き取って貰って清々したが、君には悪いことをしたようだ』

『……それとこの話に何の関係が?』

 

 例えそれが軽いジョークでも、人を貶めるような事を言う部下がいると真っ先に注意する名瀬部長のことである。執拗な俺への誹謗に気分を害したのか、いつも冷静な名瀬部長の声に苛立ちが混ざる。だが相対的に、奴の声は機嫌が良さそうに弾んでいた。

 

『誰かの進退とは彩君の事だろう? なんでも、誰かから上部に苦情がいったそうだね。仕事もミスばかりで業務に支障が出ているとかなんとか。いやぁ、彼には期待していたんだがね、ついに年貢の納め時かな』

『……貴方でしたか、彼の懲戒解雇を上層部に上奏したのは。おかげで昨日は大変だったんですよ、彼の勤務態度について、取り調べのようなことまでさせられて』

『ああ、それは悪いことをしたね。だが、組織としては仕方ない事だよ。協調性の欠片もないガンを取り除くために、自浄作用が発揮されただけだからね。図らずも彼のおかげで、我が社は不正と規律違反を許さない、しっかりとした組織だという事が証明されたわけだ』

 

 元上司の得意げな言葉に、俺は怒りを隠せなかった。まさか、このままでは懲戒解雇だと宣った昼のセリフが、本当だったとは。それほどまでに俺が邪魔なのか。部から追い出すだけでは事足りず、会社まで辞めさせようとするとは……

 今までなら退部させただけで満足しそうなものだが、何がやつを俺の退社に駆り立てるのか、不思議でしょうがない。

 

『ああ、そういう話の繋がりですか。なるほど、それでしたらよくわかりますよ。全く持って同意です』

 

 名瀬部長も、納得したようにため息交じりの同意の声を上げる。

 正直、そうだろうなと思った。普段優しい名瀬部長が、俺に対してだけ厳しいのだから、嫌われているのだろうと察しはついていた。だが、その言葉を直接本人から聞かされるというのは、弱った俺の心にかなり堪えた。今更大の大人が泣くほどではない。だが、立ち眩みがしてしまう程度にはショックだった。

 

『書類を作らせればミスばかり、何度言っても同じ間違いばかり繰り返し、挙句人の話を聞かない。学習能力が無いですよね、本当』

『うむうむ、人の迷惑も考えず自分勝手な行動ばかり……私も昔は苦労させられたよ』

 

 細かい指摘は毎日受けていたが、俺にそこまで失敗した覚えはない。だが、仕事に熱が入らなかったのは事実で、気づかぬうちにそんな箇所もあったのかもしれない。

 

『空気の読めない発言ばかりで部内の空気も悪くなりますし……』

『ははは、確かに。営業成績のためなら、他人を蹴落とすことなど何の躊躇いもなくやってのける。自分のことしか考えない典型だからな、彼は』

 

 この体質(女になる)のせいで、若干腫物扱い気味の扱いになっている自覚はあったが、部の奴らとはそれなりに仲良くしていたつもりなのに、名瀬部長からしてみれば違ったということか。

 

『正直、大嫌いですよ』

『ははは、名瀬君、君も正直だな。いや、まったくもって私も同感だがね? 君がそう言うとは意外だったな』

『そうですか? 別に珍しくもなんともないと思いますが。彼が好きな人なんて、少なくとも出会ったことはないですよ』

 

 嫌悪の感情を乗せ、唾棄するように吐き捨てる彼女に、機嫌が良さそうな元上司の声が重なる。

 彼女にここまで嫌われるなんて、きっと俺が非のある何かをしてしまったのだろう。だが、いくら本人が聞いていないつもりだからと言って、ここまで言われる謂れはあるのか。ぐらりと足元から崩壊していくような感覚に、思わず自力で立っていられず、後ろの壁に持たれかかってしまう。

 営業職は嫌われるのが仕事の一部でもある。だから、多少は耐性があるつもりだった。だが、まるで花粉症に発症する人間の体のように、今まで積り積もった何かが、限界を超え溢れ出す。

 真面目に頑張ってきたつもりだった。社内からも、奴からはともかく周りからはそれなりに評価されていた。それが、少し体に変調をきたしたくらいでこんなことになるのか。

 

「俺が、何したって言うんだ……」

 

 誰にも聞こえないような、呟くように零れたその言葉が、すべてだった。弱り切った涙腺が僅かに緩む。何年ぶりかに、感情の籠った液体が頬を伝う。

 抗いようのない出来事に流され、気づけばこれだ。俺に非は無い筈。そう思ってしまうが故に、余計に悔しさがこみ上げる。

 

『口を開けば人の悪口で、上の人間にゴマをする以外は自分の自慢ばかり、そりゃ嫌われますよ』

 

 名瀬部長は言い足りないと、さらに言い募る。

 俺なりに頑張ってきたつもりだったのに、たった1つ歯車が狂うだけでこれだ。

 

『すぐサボろうとしますし、仕事は他人に丸投げですし、女性社員の事は厭らしい目で見てきますし……』

『うんうん』

 

 仕事の合間の休みや女性社員への視線のやり取りなど、確かにそう取られる事はあったのかもしれないが、ここまで言わなくていいじゃないか。

 

『人の話は聞きませんし、備品はすぐちょろまかしますし、自分のミスはすぐ人のせいにしますし……』

『うんうん』

 

 思い当たる節はない。だが、彼女から見た俺はそうなのだろう。

 

『プライベートではサングラスかけたり色々おシャレに気を使ってるつもりなのかもしれませんが、正直デブでハゲじゃ似合ってませんし、その割に仕事場じゃネクタイ曲がってたりだらしないですし、親父ギャグは全く面白くありませんし……』

『うんう……うん?』

 

 まず太ってもハゲてもないし、俺も自分がかっこいいとは思ってないが、身だしなみは気を付けてるし、そもそもギャグなんて言わないが、彼女が勘違いしている面はあるのだろう。多分。恐らく。きっと。

 

『可愛い子がいたら簡単な案件や他の取り分まで回しますし、自分の地位を盾に無理やり関係迫りますし、誰とは言いませんが、会社の女の子を無理やり襲った挙句、金にものを言わせて示談にして黙らせたりしますし……』

『ちょ、ちょっと待ちたまえ名瀬君!!』

 

 ……いや、それ俺か?

 少しは非があると思って途中までは粛々と受け止めていたが、流石にそれは違うと俺が思った時、同時にあの糞上司が焦ったように声を上げた。

 元上司の言葉に名瀬部長は途中で陳情を切り上げ、心底不思議そうな声を上げる。

 

『何です?』

『いや、途中までは同意できるのだが、途中からちょっと様子がおかしくなってだね……』

『はぁ』

『一応、聞いておきたいのだが。それは、彩君のことだよな?』

『何を今更なことを言ってるんですか、三島部長』

 

 はぁ、露骨に馬鹿にしたような息を吐きだし、声色に侮蔑の感情を隠さず、名瀬部長は言い切る。

 

『最初から全部、貴方の事しか言ってませんよ。三島部長』

『はぁ?』

 

 怪訝な声を上げる元上司と同じく、俺も驚きの声を漏らしかける。てっきり、俺の文句を言い募っているのだとばかり思っていたのに……

 

『面白い冗談だな、名瀬君。君の言っている事に関して、思い当たる節など1つもないのだが……』

『三島部長こそ何を言ってるんですか。私が迂遠な言い回しが嫌いなのはお知りなんでしょう? なんで私が、今関係ない彩君の話をしないといけないんです。重要なのは貴方の事ですよ』

『私、だと?』

 

 彩君も少しは関係あるのかな、などと呟く名瀬部長に対して、気に入らない者を甚振るだけで良い強者の立場から、唐突に陥った弱者の立場に、戸惑いの声を上げる三島部長。傍聴席から裁判を観覧していたと思ったら、いきなり自身が被告人になったようなものなのだから、その困惑は当然だろう。かく言う俺もびっくりしていた。

 

『そうですよ。先日、上層部宛に彩君に関する上奏があったのは事実ですが、貴女以外の管理職に行われた面談の理由は、それが主ではありません。貴方の懲戒解雇についてヒアリングがあったのがメインです』

『私が懲戒解雇だと? ふざけるのもいい加減にしろよ、小娘が』

 

 ドア越しだというのに、廊下中に響く怒号にびくりと肩を震わせる。びくつく俺とは対照的に、名瀬部長は表情こそ伺えないものの、普段の様子を崩さず淡々と話しを進める。

 

『心当たりはないんです? 私には思い当たる節しかありませんが』

『あるわけないだろう』

『はぁそうですか。では聞き方を変えましょう。中本瑞樹さん、西島愛美さん、三木ひとみさん。この三名の名前に心当たりは?』

『……それはあるに決まっているじゃないか。私の部下だからね』

 

 僅かに入る沈黙は、暗にその質問に対し肯定したも同然だった。

 この三名は、いずれも営業部所属の女性社員である。最後の一人以外は退社しているのだが、わざわざここで名前が上がるということは、察しが付く。

 

『貴方はこの3名に、仕事の便宜を図る代わりに肉体行為を迫った。間違いありませんね?』

『間違いだらけだ。何一つあっていないな』

『ですが、三木ひとみさんからそう話が上がっていますよ? 優先的に案件を回してやるから抱かれろ、と言われたと。事実、この3名はある時期を境に急に個人業績が急上昇しています。丁度、貴方の外回りが増えた日とも重なりますね。何か申し開きはありますか?』

 

 そう言われてみれば確かに、前二人の名前は良く覚えている。前の週では下位をうろうろしていたのに、突然上位争いに食い込んできて驚いた記憶がある。それに、最後の三木ひとみは、俺のやりかけた案件をすべて引き継いだ後輩の女の子である。あとはサインするだけという案件も多数あったことから、あの分が全てひとみちゃんの功績になっているとすれば、確かに贔屓であるのは間違いない。

 

『その女どもが口裏を合わせて、私を陥れようとしている可能性もあるだろう。成績が伸びたのも彼女たちの努力の賜物であって、私は何もしていない』

『なるほど、では貴方が彼女たちと関係を持ったことはないと?』

『あるわけないな』

『では、彼女たちに口止め料を払ってはいないんですね?』

『送別会くらいはしたがな、直接金など渡していないよ』

『貴方が外回り中であるはずの時間、ホテルに入る貴方を目撃した社員がいるそうなのですが、覚えはありますか?』

『その社員の勘違いだろう。確かな証拠もないのに犯罪者扱いは止めてくれるかな、名瀬君』

 

 ほぼ黒といって良い証拠に対し、悉く詭弁で切り返す三島部長は、厚顔無恥という言葉を体現したような卑怯者である。

 百歩譲って俺や同僚に対してやったパワハラに関しては見逃してやるとしても、権力を楯に女性に関係を迫るという男の風上にも置けない行為には怒りを覚えざるを得なかった。

 

『往生際が悪いですね、三島部長。

 まぁいいでしょう。敢えてこの話に関しては流すとしましょうか。貴方が諸悪の根源ですが、旨味のある話に飛びついた彼女たちにも非はありますしね』

『ほう。話が分かるじゃないか……』

 

 だからこそ不思議だった、何故ここで追及の手を緩めるのかと。

 とりあえず窮地は去ったと思ったか、あからさまに声を明るくする三島部長。

 まさか、ここまで話しておいて見逃すとでもいうのか。

 怒りや不安から俺はそう心配したが、結局それは杞憂に終わる。別に名瀬部長は許したわけでもなんでもなかった。ただ単に、止めを刺す手段は無数にあったというだけ。

 

『話はそれだけかね? 私も用事があるのでね、早く帰らねば……』

『ああ、それはすみません。ですが、もう一点お聞きしておきたいことがありますので、もう少しだけ良いですか? 大丈夫です、すぐすみますから』

『何かね?』

『いえ、私も日々の激務ですっかり忘れていたのですが。1つ、貴方から引き継ぎ損ねた仕事があったのを最近思い出しまして。その確認だけよろしいですか?』

『それくらいなら問題ないとも。何でも言ってくれたまえ。どの件のことかな?』

『彩君宛に出ている助成金の行方をお教え願えないかと』

『――』

 

 ひゅっと声が漏れる音。意表を突かれたように、詰まった声を漏らす三島部長。

 

『性転換被害者が所属する会社に対して、政府から出た助成金があったと思うのですが、それは流石にお覚えですよね?』

『あ、ああ。それは、勿論……』

『それは良かった。なら話は早いですね。

 助成金は、特殊な環境に置かれる被害者の待遇・処遇の改善を図るために、少額ですが国から捻出された助成金です。なので、使用方法はその会社に一任されています。

 我が社では、元々彩君が所属していた営業部に、使用方法も含め全額預けられたはずです。ある程度使ったにせよ、彩君が異動になったのであればその残額を私の部で引き継がないと、と思った次第でして』

 

 俺に出されている助成金らしいが、俺自身は聞いたことがなかった。だが、三島部長は聞き覚えがあるようで、あからさまに様子がおかしくなっていた。表面上は声色はかろうじて取り繕っているようだが、先程までの余裕は嘘のように無くなっていた。

 

『いや、すっかり忘れていて申し訳ありませんでした。

 実は、彩君に至急用意してもらわなければいけないものがありまして。とはいえ、彼の体質にかかわることですし、それを個人負担させるのは忍びないということで、助成金から支払って支給しようかと思いまして。なので、元データを頂けないかと』

『そ、それは素晴らしいことだな。正に助成金の正しい使い方、といったところか。

 だが、私もまさか他人に渡すと思っていなかったから書式も整理できていなくてな……』

『それでしたら、領収書や見積書さえ出していただければ後は私のほうでまとめておきましょう。

 ……おや、どうしました三島部長。何やら顔色が悪いですが』

 

 ドアのガラス越しに映っているのは、ヒールの音と共に歩を進める小さな影と、同じ分だけ後退する影。

 

『まさか、領収書を捨てた訳ではありませんよね?

 例えば彩君の更衣室改装費と書いてあるこの項目、工事費として記入されてありますが、見積書もないのですか?

 ……あれ、そういえば、彼の更衣室は私の方で用立てたんでした。それも、空き倉庫に彼のロッカーを運んだだけ。工事業者なんて頼んでもいないのですが。

 覚えていますか、三島部長?』

『名瀬、お前まさか最初から全部知ってて……!!』

 

 一歩一歩、容疑者を壁際に追い詰めるように歩みを速めていく名瀬部長。

 

『逆に聞きたいのですが、何故知らないと思ったんです? 貴方の自白なんて誰も必要としてませんよ。これはただの勧告、証拠固めなんて段階、既に終わってるんです。貴方が権力を乱用して三木さんに関係を迫り、その交際費として会社の資金を横領していた事まで、全て調べもついています』

『ぐ……』

 

 それに対し、反論もできず後ずさるしか出来ない図体のでかい影は、じりじりと壁際へと追い込まれる。

 

『貴方は最近、彩君に退職を迫っていたそうですね。当然だ、もし彼が決算までに退職してしまえば、報告義務はあれど返金義務のない助成金は丸々宙に浮く。そうなれば自然と決算に計上し、精査されることもなくなり貴方が横領したこともばれることはなくなる……そういう算段だったんでしょう?』

 

 その歩調には、声には、俺が今まで聞いたことのないような熱が、怒りが籠っていた。

 

『入社当初から気に入りませんでした。権力を盾に女性に迫るような腐った根性が、ばれなければ良いと好き勝手に会社の資金に手を出す性根が、部下を自分の所有物か何かの様に扱う人間とは思えない性格が、大嫌いでした。

 自己中心的な貴方だからこそ、正論を言う彩君はさぞ苦手だったことでしょう。嫌がらせをしても、言葉ではなく行動や結果で反論してくる彼が、大嫌いだったんでしょう。だからこそ、精神的に不安定になっている今の彩君なら、やり返せる、他部署に追いやり、最終的には退職に追い込んで、自分は金を横領できると。つまりは与しやすいと思ったんでしょうが……そうは問屋が卸しませんよ』

『……何故だ、日頃あれだけ文句を言っている癖に、何故そこまで奴を庇う!? どうせ、お前も俺を追い落としたいだけだろうに、あいつを体の良い言い訳に使うんじゃない!!』

『……彩君は、私の部下です。それ以上でもそれ以下でもない、もう貴方の部下ではないし、まして玩具や奴隷などではありません』

 

 この会社において、営業部は花形の部署となる。だからこそ、その営業部の部長職というのは別格の意味を持っていた。こいつは、名瀬部長が自らがそこに納まるべく、自分を追い落とそうとしていると勘違いしているのだろう。だが、この女性が、そんな私利私欲の塊に見えるのだろうか。

 名瀬部長からは日頃からいびられているような態度をとられているが、今ならわかる。彼女の指摘されたことは全て理にかなっていた。ミスの指摘やケチを付けられた訳ではなく、アドバイスだった。あれらは、落ち込んでいた俺を励まそうとした、鼓舞する言葉だったのだ。いつだって部下の事を考えている彼女が、唯の好き嫌いでそんなくだらない事をするはずが無かったのだ。

 無意識の内に頬が吊り上がる。沸き起こる嬉しさに、笑みが止められない。

 遂に逆切れし始める諸悪の根源に対し、名瀬部長は声を震わせ、心境を漏らし始める。

 

『慣れない仕事にもめげず、酷いことを言ってばかりの私に文句も言わずについてきてくれて、他の部下の失敗は進んでフォローしてくれる、私には勿体ない程良く出来た、自慢の部下の一人です。

 そんな部下を傷つけられて黙っているほど、私は出来た人間じゃありません。今も、貴方をぶん殴りそうになるのを堪えるので必死なんです。これ以上、私を怒らせないで頂きたい……』

 

 その震える声には、様々な感情がこもっていた。

 名瀬部長は壁越しだというのに伝わってきそうな程、怒気を込めた台詞を放つ。

 

『貴方の顔を見ると、虫唾が走るんです。消えろ、今すぐにッ!!』

『く、くそっ……!!』

 

 見たこともない名瀬部長の剣幕に、三島部長は気圧されたように焦って走り出した。

 ドアを壊れそうな勢いで開き、廊下に飛び出した三島部長と、部屋の中の話を聞き、呆然と立ち尽くしていた俺の視線が交差する。

 

「お前は……!!」

「……退職届、受け取ってもらえると良いですね」

「こ、このぉっ……!!」

 

 辛うじて捻りだした俺の皮肉に、奴は頭に血を上らせ拳を振りかぶるが、これ以上の罪状を重ねるわけにはいかないとでも思ったのか、結局何もせず、悔し気に捨て台詞だけ残し、ドタドタとその体重を廊下に響かせ走り去っていく。

 脂汗が滲み、ぺったりとくっついた薄い毛髪と、苦虫を潰したような表情を浮かべる奴の追い詰められ具合は、久しぶりに見た爽快なものだった。

 ドタドタと豚が走る音が止むと、静寂が再び廊下に満ちる。

 

『……はぁ』

「……あっ」

 

 静かになった廊下に響く名瀬部長のため息に、ようやく俺は用事を思い出す。そうだ、盗み聞きしに来たわけじゃなく、会議室の片付けの手伝いをしに来たんだった。

 自然に浮かんでいた笑みを何とか堪えると、俺は慌てて格好を繕うと、開いたままのドアをノックし名瀬部長に声をかける。

 

「名瀬部長、片付けの手伝いに来ました」

「あれ、彩君? まだ残ってたの?」

「ええ、少しやりたいことがありまして」

「……なら、お願いしようかしら。助かるわ」

 

 俺を男女の姿で名前を呼び分ける名瀬部長は、女になっている今の俺を『彩君』と呼ぶ。さっきの話などなかったかのような、無表情でクールな名瀬部長に、俺は何処か安心した。

 プロジェクターや残った資料の片付けなど、然程時間もかからず終わると、書類を持ち部へと戻っていく。

 会議も終わったからか、とうとう最後の部屋の光も消え、会社に残るは俺達のみの様だった。

 仕事中は滅多に私語をしない名瀬部長の事だ。例え周りに誰も居ずとも、並んで歩く俺との間に会話があるわけが無かった。

 

「……彩君、今、仕事は楽しいかしら?」

「え?」

 

 と思っていたものだから、名瀬部長の言葉に驚きを隠せなかった。

 前を向いていた俺が思わず名瀬部長の方を見ると、名瀬部長は俺の方に視線を向けていた。

 

「いつも遅くまで残って、土日も気にせず出勤してる彩君を見て、貴方と私は似ていると思っていたの。簡単な仕事だと拍子抜けしちゃうし、納期の厳しい仕事の方が逆に燃えてきたり、ね。ひっそりとシンパシー感じちゃったりして、一分でも貴方より遅く会社を出るように仕事切り詰めてみたり、変な見えの張り方をしたこともあったわ。

 でもあんな事件が起きてから、めっきり貴方の姿を見ることはなくなった。貴方が営業から転属になるって言うから私が手を挙げたのだけれど、配属転換されて来た時、びっくりしたわ。あんなに熱意に満ちていた貴方が見る影もなく、常に何かにおびえるように。何かあったんじゃないかと心配で……」

 

 痛ましいものでも見るように、心配げな瞳を見せる名瀬部長。

 正直、俺は転属するまで名瀬部長とは面識が無かったのだが、向こうは業務に精を出す俺をよく見てくれていたようだった。

 

「そんな貴方を知っているからこそ、上司としてどうにかしたいと思って色々と手を尽くしたけど……貴方の力にはなれなくて申し訳なかったわ」

「いえ、そんなことないですよ。十分、良くしていただいてますし」

 

 今の部の連中は、以前の俺を知らない。仕事を前に詰め、スケジュール表一杯に予定を詰め、仕事に生きていた以前との比較が出来ないからからこそ、俺の異変には気づかなかったのだろう。俺を叱責することで激励してくれていた、名瀬部長を除いては。

 その事に気付かされたのはついさっきだが、色々と体の変調を抱える俺の事を配慮してくれていたことは、普段の生活でも明らかだった。感謝しかないのに、卑屈な言い方をする名瀬部長に否定の言葉を贈るが、彼女は納得していない様子だった。

 

「上司の仕事は、部下に気持ちよく仕事させ、何かあれば責任を負うことだと思っているわ。

 だからこそ、私にできる精一杯を提示させて貰うわ。彩君、貴方営業に戻る気はないかしら?」

「……え?」

 

 冗談などではなく、真剣な意思を宿した瞳は、嘘を言ってはいなかった。

 

「関係する彩君ならば言っても良いでしょう。明日正式に通達がありますが、三島部長が更迭されます。その理由自体は別だけれども、その調査で、貴方が営業を追われた理由が、貴方を貶める為の彼のでっち上げだったことがわかったの。それがわかった以上、貴方には営業に戻る権利があるわ」

「俺が、営業に……」

 

 思いもよらぬ提案に、心が揺れる。

 

「貴方の身体の事もあるから、以前と全く同じとはいかないでしょう。働き方も変わるだろうし、多少、仕事量をセーブして貰う必要もあるわ。けど、今のまま不満を抱いて仕事をするよりは格段に良いでしょう。

 彩君、どうする?」

 

 視線を下に落とすと、頼りなさげな白く細い手足が目に入る。

 以前に戻れたら。そう夢想することは多々あった。このおかしな体質を恨み、あの日の自分を死ぬほど恨んだ。今日など、あの男に声を掛けられていなければ、飛び降りていてもおかしくなかったほど追い詰められていた。

 この話を飲めば、完全に以前のままとはいかなくても、元の生活に戻れる。同僚や他の連中と高め合い、切磋琢磨出来るあの日々が戻ってくるのだ。しかも、そこにあの糞部長の姿はない。そんな理想の条件、是非もなく選ぶだろう。

 ――選ぶのが、昨日までの俺ならば。

 

「いえ、結構です」

「……ええ?」

 

 俺の否定の言葉に、目を見開き呆けた声を上げる名瀬部長に、思わず笑みが零れる。

 

「ど、どうして? 三島部長も居なくなったし、営業に戻れた方がやり甲斐があるって話じゃないの? そ、それなら別の会社を紹介しましょうか? 何社か予め打診して、似た業種で受け入れてくれそうな所もピックアップしてるから、そっちの方で……」

「それも、大丈夫ですよ」

 

 驚きで目を白黒させ、焦った様子でわたわたと話をしている名瀬部長。普段の姿とのあまりのギャップに、俺はくすりと笑みをこぼす。

 

「確かに以前の仕事は俺の生き甲斐だったし、正直、あんなことになって落ち込みました。死にたいと思ったこともありました。

 でも俺、今の仕事でやりたいことを見つけたんです。名瀬部長のお陰で、もう少し頑張りたいと思えたんです」

 

 俺にとって上司とは、やることなすこと一々文句をつけ追い落とそうとしてくる、敵のような存在だった。

 だが、目の前の女性は違った。不正を許せない正義感もあったのだろうが、俺を心配してくれ、わざわざ他社にまで手を回してくれるほど、俺の事を考えていてくれたのだ。

 今まで仕事に熱中していたのは、あの糞野郎の鼻を明かすだとか、仕返しの意味合いが強かった。究極、自分の為だけに仕事をしてきて、恋人だっていたことのない俺からすれば、誰かの為に働きたいと思ったのは生まれて初めてだったのだ。

 

「俺の為に、ありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします、名瀬部長」

 

 俺は改めて、名瀬部長に挨拶をし、手を差し出す。それは、なあなあで働いていた今までの自分との決別だった。

 俺の表情を見て、もう問題はないと思ったのか。名瀬部長はふっと表情を緩めると。

 

「……そう。なら、これからも頼りにさせてもらうわ。よろしくね、彩君」

 

 すっと握りこまれる俺の小さな手。半年を経て改めて交わされた配属の挨拶に、二人そろって笑みを浮かべる。

 名瀬部長が浮かべた、思わず見惚れてしまいそうな程綺麗な笑みは、何故か俺の脳裏を刺激したものの、気のせいだとして改めて記憶に刻み込まれるのであった。

 

「そういえば彩君、来週から、女の子の姿の時は制服を着てね? ちゃんと制服は支給するから」

「えあっ、す、スーツじゃダメなんですか?」

「駄目よ。いつまでも、貴方だけ特別扱いって訳にもいかないから」

「あ、あはは……」

 

 すっかりいつもの表情に戻った名瀬部長のにべもない返事に、苦笑いを浮かべるしかない俺だった。

 

 

 

 

 

 そんなわけで翌日。休みの日だったのだが、俺の姿は半年ぶりに外にあった。

 以前は休みの度に外に出かけ、美味い飯屋探し兼、あの時の女性探しに精を出していたものだが、女になるようになってからは一度も行っていなかった。食欲も無かったし、会ってどうするのかという虚無感も手伝い、ひたすら家で死んでいただけだが、悩みが解決し、晴れ渡るような心境の俺は、実に久しぶりに何かを食べたいと自発的に思った。一応買っておいた、ユニセックスな上下の服を着ると、俺は部屋を飛び出す。

 当てもなくふらふらと歩き、適当に見つけた定食屋で食べた定食は、何の変哲もない野菜炒めだったにもかかわらず、ここ最近付き合いで行った焼き肉屋よりも美味しく感じた。精神状態が違うだけでこんなにも違うんだな、と感心しながら完食し、その周辺を目的もなく歩いているのが今までのハイライトである。

 僅かに変わった街並みを眺めつつ、ご機嫌に鼻歌でも歌いながら練り歩く。昨日体が変化したことから、この週末は発作を気にせず過ごせるというのも、ご機嫌がプラスに働いている要素だった。

 

「ふーん、こんなところにケーキのバイキング出来たのか……」

 

 土曜日ということで人通りの多い道の一角に、新しく店が出来ていた。ケーキ屋らしかったが、どうやらランチタイム限定でケーキバイキングをやっているらしく、表にある順番待ち用の椅子は半ばまで埋まり始めている。軽く中を覗いてみても、種類もあってそこそこ美味しそうなケーキばかりである。

 昼を食べたばかりとは言え、デザートは別腹。俺自身甘いものは結構好きな方なので、興味がひかれるがしかし、こんな女性ばかりの空間に男一人で並ぶのもなぁ、と思い直し立ち去ろうとするが。

 

「今俺、女じゃん……」

 

 中性的な服を着ているせいで可愛らしいとは言い辛いものの、見た目はただ服のセンスが男っぽい女の子である。女になってしまった事の悪用ともとれるが、盗撮や女風呂への侵入に比べれば余程健全である。これぐらい、負った苦労に比べればやっても罰は当たらない筈。

 そう自身に言い訳をし、うきうき気分で順番待ちの椅子に座る。

 携帯を弄りながらまだかなーと暢気に待っていると、ふと視線を感じた。

 

「……うん?」

 

 きょろきょろと辺りを見回すが、それらしき影は見つからず、首をかしげる。そこで、ふっと目をやった車道を挟んだ反対側の歩道にて、人が一部を避けて歩いていることに気付いた。

 ちらちらと人ごみの隙間から見えるのは、今日は休業日なのか、シャッターの閉まった店の前で、2人の男と1人の女性がもめている姿。横顔しか見えないものの、アクセサリーをじゃらじゃらぶら下げ、浮かべている軽薄そうな笑みは、明らかに碌な男たちではない事を証明していた。ナンパでもしているのだろう、身振り手振りで女性を誘っているようだが、女性はさも迷惑そうにしている。だが気が強くないのか、どうしても二人を振り払えず、あちらこちらに視線を送り、助けを求めていた。だが、通りかかる人はみんな見て見ぬふり。所帯じみた田舎でもない限り、今の日本などそんなものだ。あの手の輩は須らく面倒くさいと道理が決まっている。あいつらより厳つい容姿をしているか、頭が回って弁論が立つ人でもなければ、助け出すのに手間と時間ばかりかかることが皆わかってる。

 俺だってそうで、絡まれているのが知り合いとかでなければ助けにはいかない。誰かが助けに行くだろう、そんな無責任な信頼を言い訳に。

 ああそういえば、あの時もこんな状況だったっけ。取引先に急いでいる最中、ガラの悪い男に絡まれて困ってるあの女性を見つけ、て――

 

 思い出に回想していた俺の思考が静止する。車線を挟み、交差する視線。長い黒髪で、ぱっちりとした目をしていて、可愛らしい洋装に負けず劣らずの容姿のその女性は。今正に考えていた、あの雪の日、俺が助け、一目ぼれした――

 俺と目が合った瞬間、女性はこちらに語り掛けてくる。脈打つ心臓の鼓動がうるさくて、何を言っているかなんてわかるはずが無かった。だが、口の動きで伝わる。あの時と全く同じ、助けての4文字を理解した途端、俺は名前を呼ぶ店員のことなど無視し、順番なんて放り投げて走り出す。動悸が激しい。男に比べたら貧弱な体に鞭を打っているせいか、憧れの女性にもう一度会えたという嬉しさか。今はどちらでもいい。兎に角、あの女性を助けないと。その一心で、俺は駆けていた。

 

「……おいお前ら、いい年して女性に迷惑かけるんじゃない」

「あん?」

 

 女性の腕をつかみ、無理やりどこかに行こうとする男たちに対し、息を切らしながら俺は睨みつける。

 女性は、安心したように表情を明るくする。突然かけられた声に男たちは俺に目を向けるが、俺の容姿を見てすぐに関心を無くす。

 

「なんだぁ、ちんちくりんが。俺らはこの大人のお姉さんに用があるんだよ、ガキは引っ込んでな」

「俺たちと遊びたいんならもっと成長してからにしな」

 

 俺が女になった姿が、童顔で子供っぽく見えがちなのは事実だし、男っぽい服を着ているせいで、ちょっと背伸びをしたがっている女の子感が出てしまっているのも事実である。だからと言って、ゲラゲラと下品な笑い声を上げられる覚えはないし、こんな脳みそ空っぽそうな糞野郎共、仮に男の姿でも絡みたい訳が無かった。

 

「その大人のお姉さんに吊りあってないんだよ、ガキ共が。この人と遊びたいんだったら、せめてその馬鹿丸出しの格好は止めるんだな」

「ガキの癖に、言わせておけば好き勝手言いやがって……舐めてんのかてめぇ!!」

 

 あからさまなため息を落とすと、一見子供にも見えそうな用意の女に馬鹿にされていると思ったのか、馬鹿二人組の頭に血が上る。見た目相応に軽そうな脳は怒りの沸点も低いのか、俺の素直な感想に対し思惑通り容易にキレてくれる。

 男の怒号に周囲の視線が集まるが、当の男達は気づいていない。だからこそ、怒りに身を任せて拳を振りかぶり、俺に向かって殴りかかろうとする。

 こんな人混みの中、中身はともかく、見た目は完全に女の子な俺に向かって殴りかかるとは、頭に血が上っているせいで思考が単純化しているのか、そもそも頭が悪いのか。はたまたその両者なのかは知らないが、少なくとも、立場を悪くするだけと思いとどまったあのハゲ豚より馬鹿なのは事実で、非常に扱いやすくて助かる。

 狙いは、身長差的に狙いやすい顔面か。今俺が男であれば、正当防衛の証明がてら一発貰ってから殴り返しても良いが、今の華奢な体では吹き飛ばされるのがオチだ。ならば……

 

「オラァ!!」

「キャアッ」

 

 チンピラ紛いから振り下ろされる拳に、周囲から悲鳴が上がる。残念ながら間に割り入るような勇敢な人は通り掛からなかったようで、腰の入っていない、腕っ節だけで力任せのパンチは、それなりの速度で俺に向かって迫り来る。

 誰もが殴られる女の子を想像した事だろう。だが、大半の予想に反して、パチン、と乾いた音が周囲の人間の耳を打った。どう聞いても、鈍く響く殴られた音ではない。それは、俺が掌でパンチを受け止めた軽い音だ。

 

「なっ」

 

 プロボクサーの様に鋭いわけでもなく、格闘家の様に正確でもないパンチなど、ずぶの素人で女になって筋力の堕ちている俺でも、恐怖で目をそらさなければ簡単に受け止められる。

 想像とは違った光景に、怒りのまま殴り掛かった馬鹿二人が目を見開き驚くところに、俺は追い打ちをかける。

 

「そのガキも殴れないような柔なパンチしか持ってない癖に、衆人環視の状態でそれを披露する度胸だけは認めなきゃな」

「ああ!?」

「な、何見てんだコラ!! 見せ物じゃねぇぞ!!」

 

 俺に言われてようやく周囲の状況に気付いたのか、威圧するように周囲に怒鳴り散らすも、自分達が原因で一気に視線が集まってしまったことでビビっているようで、そのセリフも微妙に声が震え、明らかに腰が引けているのが見てとれる。

 周囲の人間も、殆どが足を止めてこちらを注視していた。数は力、いくら喧嘩っ早いヤンキー崩れが相手だろうと、対峙しているのが自分でなければ、批判的な目くらいは相手に向けてくれる。事実、批難するその周囲の目に、馬鹿二人組はおののいている。

 ここまでくればあと一押し。ひりひりとする掌をごまかしつつ、口角を吊り上げ脅しかける。

 

「俺に殴り掛かるくらいだから、警察に捕まる腹積もりなのかと思ったが、違うのか? こんな騒動になれば、流石に誰か一人くらいは通報してくれてるだろうし……あ、お巡りさん?」

「チッ、おい逃げるぞ」

「クソ、覚えてろよクソガキ!!」

 

 人ごみの一端に視線を向けると、焦った二人は俺に悪態をつきながら慌てて駆けだす。人ごみを掻き分けて逃げ去る二人を見て、ようやく一息つく。問題は解決したと見たか、足を止めてこちらを見ていた人たちも程々に散っていき、あっという間に通行の流れは正常化した。残されたのは、俺とあの女の人だけ。

 黒曜のように深い色の瞳が俺の目を捉え、極めて近い距離で二人の視線が交錯する。吸い込まれるようなその瞳に、ドキリと胸が跳ねる。

 

「怪我はありませんか?」

「え、ええ。大丈夫です」

 

 辛うじて吐き出した言葉に、向こうも軽く一礼しながら言葉を返してくれる。肩越しに流れるその艶やかな黒髪に、それを払う仕草。二人組に絡まれていた先程とは打って変わり、柔らかな笑みを湛えるその表情は、紛れもなくあの時、俺の出会った女性で間違い。

 その動作一つ一つが、一々俺の胸を高鳴らせた。一年以上待ったその再開に、俺は改めて運命を感じた。

 

「あ、あの……!!」

 

 今しかない。二度とないだろうこのチャンスに、一年越しの気持ちを込めて声を掛けようとするも……気づき、愕然とした。

 俺の事、覚えてますか。そう声をかけても、女になった俺の事がわかるわけが無かった。そりゃそうだ、女の俺とは今初めて出会ったのだから。

 俺の血縁者と言われたところで似ているか微妙なラインだと言うのに、ましてやそれが本人だと言って信じてくれるわけが無い。

 久しぶりに出かけた事でようやく出会えたこの運命も、俺を覚えてくれていたかどうかを聞くことすら出来ず終わるようで。盛り上がっていた気持ちが、一気に沈下する。

 あと数日ずれていれば、昨日女にならなければ……そう後悔せずにはいられなかった。

 同僚が言っていたように、俺には縁が無かったのだと諦める他ない。

 伸ばしていた手が、ゆっくりと下降する。開きかけた口が閉じる。質の悪いやつらに捕まらなかっただけマシと思わねば。

 沈んだ気持ちに鞭を打ち、あたまを下げてその場を辞そうとすると。

 

「……ありがとう、彩君」

「……え!?」

 

 ドキリと心臓が脈動し、下がっていた視線が、再び上がる。その女性は、美しい顔に相応しい表情を浮かべながら、俺の名前を呼んだ。

 

「無視すれば良いんだろうけど、私、ああいう強引な人苦手で……彩君が追い払ってくれてとても助かったわ、本当にありがとう」

「いえ、それは、全然構わないんですが。

 い、今、俺の名前を……」

 

 間違いない、間違いなく俺の事を知ってくれている!! 

 その事実に驚きを隠せないが、それ以上に喜びの感情が勝り、ひとりでに吊り上がる口元を抑えきれない。昨日から続いている確変は、まだ続いていたのだ!!

 喜び勇んで尋ねた一言に、気圧された麗しの彼女はびくりと肩をはねさせる。

 

「え、ええ、知ってるわよ。彩慶介君、よね?」

「お、覚えてくれてるんですか!?」

 

 その返事で息を吹き返したようにテンションの上がった俺に向かって、彼女は心底不思議そうな顔をする。

 

「それは勿論。ひと時も貴方の事、忘れた事は無いわよ」

「ほ、本当ですか!?」

 

 その言葉に有頂天になりそうな俺は、感情がこらえきれず表出するのはもう諦めた。だが、運命を感じて絶頂を極めそうな俺は、ハタと気づく。あれ、俺、前自己紹介したっけ、と……

 取引先への移動中、電車の遅れで急いでいた最中に出会ったのが彼女だ。取引先へ連絡は済ませていたものの、印象が悪くなってはよろしくないと急いでいた俺は、美しい女性への衝撃も手伝い、後ろ髪惹かれつつも泣く泣くその場を後にした。だから、自己紹介などする間も無かったはずで、彼女が俺の名前を知れるはずもないのだが……そもそも。今の俺、女じゃん。仮に俺があの時自己紹介していたとして、今の俺が同一人物だとわかるわけが無かった。え、これぬか喜び……?

 

「あの、もしかして気づいてない……?」

「え?」

 

 勝手に上がって勝手に落とされるジェットコースターのように気分をしている俺に向かって女性が訝しげに尋ねてきた言葉に、今度は俺がきょとんとした表情を浮かべる番だった。

 え、まさかこの女性、俺の知り合いなの? それも、俺が女性化している事を知っているような親密な!?

 とっさに出た一文字の返事で、俺がわかっていないことに気付いたのだろう、女性もがっくりと肩を落とす。

 

「わかってた、わかってたわ……確かに会社じゃそっけなかったし、ひょっとしたら無視されてるのかなーとか、色々考えてたけど、まさか本当に気づいてなかったなんて……」

「あ、あの……?」

 

 どんよりとした雰囲気を背負いつつ、ぶつぶつと独り言を言っている彼女に声をかけるも、肩を落としたままがっくりと項垂れている。

 彼女ははぁ、と重い空気を吐き出すと、持っていた手提げバッグから髪留めを取り出し、美しい漆のように艶やかな黒髪を根元で縛ると、ポニーテールに髪型を変えた。

 

「彩君、見覚えはない?」

「……?」

 

 横から覗くうなじの色っぽさに、髪型を変えても美しいなぁ、なんて考えている俺に問う女性。

 謎の既視感が俺を襲うものの、それが何なのかはわからない。首をひねるが、さっぱり見当もつかなかった。

 彼女は深い深いため息をつく。次に取り出したのは、眼鏡だった。

 大抵目元を柔らかく見せる物が多いファッション用の眼鏡。にもかかわらず、彼女が取り出したのは逆に印象をきつくさせるような真逆の物。

 

「うん……?」

 

 この組み合わせ、絶対どっかで見た。そう確信はあるのに、喉元まで出かかっているのにわからないもどかしさ。その疑問は、次の瞬間に一瞬で氷解した。

 かちゃり、と眼鏡をかける。思った通り、柔らかな表情が多い彼女が一瞬にして目元の鋭い女性に早変わりした。その姿を見て、混乱で迷走していた俺の思考は雷が走ったかのように閃き、一つの解を導き出す。衝撃が走り、思わずたたらを踏んで後ろに下がってしまう。

 

「な、な、名瀬部長ぉ!?」

「久しぶりね、彩君……」

 

 疲れた表情を浮かべた名瀬部長は、衝撃に困惑を隠せない俺に向かって皮肉気な言葉を放ったのだった。

 

 

 

 

 

「……」

「……」

 

 立ち話もなんだからと、適当に喫茶店に入った俺たちだったが。1つのフロートを二人で飲んでイチャイチャしているカップルやら、ノートパソコンを開いている大学生らしき男などそれなりに賑わっている店内の一角では、とても気まずい雰囲気が流れていた。

 向かい合って座る俺と名瀬部長は、お互いに手元のコーヒーに視線を落としている。エアコンが効いている筈なのに、背中にはじっとりとした嫌な汗をかいていた。

 運命の相手とまで思った相手と再会出来た所までは上出来だった。だがまさか、一年以上探していた憧れの女性が実は同じ職場で働いていて、尚且つ上司で毎日のように顔を合わせていただなんて、一体誰が想像出来たのか。

 ちらりと視線を上げる。気まずげに沈黙を保っている名瀬部長は、髪留めと眼鏡を外し、先程までの姿に戻っていた。いや、戻っていたも何も同一人物なのだが、どうしてもイメージが一致しないのだ。常に冷静沈着で、鋭い視線と共に威圧感を周囲に放つ出来る女上司と、少し調子に乗った男も振り払えない、今時珍しいか弱さすら感じるような儚げな女性。印象が違いすぎて、俺の頭は理解を拒否していた。

 冷たい風で常に揺らめくコーヒーのさざめき。届いてから5分以上経ち、既に冷めてきたそれは、動揺仕切りの俺の心証を現しているようで、落ち着かない。

 

「……あ、あの」

「は、はいっ」

 

 兎に角何か喋らないと。その一心で口を開くが、突然の言葉にびくり、と肩を跳ねさせる名瀬部長。あ、可愛い。

 

「何で、会社だと眼鏡かけてるんです? あ、いや、かけないと見えないとかなら、無意味な質問なんですが……」

 

 普段とは印象が違いすぎて、名瀬部長だと気づかない程の変貌ぶりはおいておくとして、何でわざわざ変装するような真似をしているのか。眼鏡をはずした姿があれだけ綺麗なら、正直勿体ないと思ったのだ。助けた女性が名瀬部長だと気づいてから、ずっと抱いていた素朴な疑問。

 

「ああ、これのこと?」

 

 名瀬部長は再びカバンから眼鏡を取り出し、こくりと頷く俺。俺の質問に対し、名瀬部長はよく聞かれるのよね、と前置きを1つ。口を付けていなかった事ですっかり分離してしまったコーヒーを、くるくるとマドラーでかき混ぜる。

 

「これ、度の入ってないブルーライトカットの眼鏡なの。目が疲れないから、っていうのは表向きの理由で……

 自慢みたいに聞こえて、本当は話すのも嫌なんだけど。眼鏡かけてないと、ああやって声を掛けられることが多いのよ。強引に誘えば付いてくるでしょ、みたいな態度で無理やり。実際強引な人って苦手だから、断り切れなくて付いていく事も多くて……だから、ああやって見た目だけでも強気にすれば、多少減るかなって思って……」

「ああ……」

 

 先程を思い出したのか、眉を顰める名瀬部長に、さもありなんと俺は納得した。会社で見る名瀬部長のイメージだと、あんな輩などビンタ一発で追い返しそうなイメージしかない。だが。

 

「名瀬部長って、可愛いですもんね」

「か、かわっ……!! じょ、上司を揶揄っちゃだめよ、彩君!!」

 

 俺が素直な感想を口にするだけで、こうしてぽっと顔を赤くして戸惑う名瀬部長を見るに、会社での厳格で怖い上司という姿は取り繕っているもので、ちょっとした誉め言葉で動揺してしまうような、可愛らしい姿が彼女本来の姿なのだ。

 頬を紅潮させながら睨まれたところで、ただただ可愛さが増すだけである。これが、ギャップ萌えという奴なのか……運命の相手だと思っていた女性が上司だったと知って困惑した所で、これだ。

 

「本当にもう……」

 

 俺は至って本気なのだが、名瀬部長は冗談と思っているのか、ぷんすか怒って本気にしていない様子。名瀬部長は、火照った顔を冷やそうとカップをぐいっと一気に煽る。

 何の変哲もない動作だが、そんな日常的な仕草ですら可愛く、魅力的に感じた。

 社会人として彼女の姿勢を尊敬はしていたものの、昨日までは異性として見たことはなかったはずだ。それなのに、彼女が運命の相手だとわかった途端に胸の高鳴りは止まず、一挙一動にドキドキさせられる。それは、俺の現金さから来る物なのか。それとも、昨日彼女の優しさの一端に救われたからなのか。俺の中では、どちらとも判別がつかなかった。

 この一年、ずっと秘めてきた思いだ。後悔の無いよう、もしもう一度会えれば告白しようと決めていたはずだ。

 

「……」

 

 だが、あと一歩が踏み出せない。それは、俺が案外チキンだからなのか、それとも女になるという馬鹿げた体質ですっかり染みついた、諦観のせいか。

 性別が入れ替わるという、特異としか言いようがない体質を持った俺を部下として評価し、庇ってくれはしたものの、そいつを伴侶に選ぶかどうかは別の話だ。今の俺は、男であろうと女であろうと、どちらの姿でも子供を作れるかどうかわからない。世間には、俺のような性転換事件の被害者を気持ち悪いと言う人も多い。風評被害という意味では、未だに差別のある同性を恋人に選ぶよりリスクのある相手だ。それを名瀬部長に押し付けるのかと考えると、途端に開きかけた口が閉じてしまう。

 再び沈黙が場に満ちる。

 

「そういえば彩君、まだお礼を言ってなかったわね」

 

 だいぶん頬の赤みも引き、いつもの鋭い視線を取り戻した名瀬部長が切り出した話に、思わず姿勢を整える。

 

「礼、ですか? お礼なら、さっき言っていただいたじゃないですか。それで十分ですよ」

「いや、そっちじゃなくて。一年前、今日のように変な男に絡まれてた私を、営業先の近くでたまたま会った貴方が助けてくれた時の事よ」

 

 名瀬部長は、俺をまっすぐに見つめていた。

 

「営業先に急いでいたんでしょうけど、それでも私を見るなり颯爽と助けに来てくれて。貴方のカッコいい後ろ姿、今でも覚えてるわ。私を助けるなり走りさって言いそびれちゃったけど、本当にありがとう」

「いえ、そんな。当然の事をしたまでですよ」

「その当然の事を出来ない人が多いのよ。出来たとしても、下心丸出しの馬鹿ばかり。中々真似できることじゃないわ」

 

 嫌味しか言わない前部長時代を含め、叱咤や罵倒ばかりだった今までを考えれば、まるで確変のように褒められている昨日今日は、正直生きた心地がしない程。だが、俺はそこまで褒められた人間じゃない。ゆるゆると首を振って否定する。

 

「本当に、そんなことないですよ。俺だって下心くらいあります。綺麗な人だな、こんな人と付き合えたらな、と思うくらいには」

「ふふ、その割には、名前も聞かずに走り去っていったけどね」

「あ、あれは」

「それに、毎日顔を合わせてたのに気づかなかったわよね。もしかして、無視されてるのかしらと思ってショックだったわ。義務感から助けたけど、嫌いだから見なかったことにしてるのかな、とか色々考えちゃって、夜も眠れなかったわ。まさか、私だと気づいてなかったとは思わなかったけど……」

「本当にすみません……」

 

 ため息交じりの言葉に、がっくりと項垂れる。言い訳させてもらえるなら、いくら同じ会社で面識はあるとはいえ、あんな別人のように綺麗になられたら、気づけるわけがないと思う。

 さぞ怒っているのかと思いきや、ちらりと視線をやった名瀬部長の表情には、笑みが乗っていた。

 

「ねぇ、彩君。もう少し信じてほしいな」

「信じる、ですか?」

「そう、信じる。貴方が好きになった女性(ひと)の事」

 

 オウム返しに聞いた俺は、目を見張る。

 

「好きになった男性(ひと)がちょっと変わってたって、それが理由で嫌いになる程、私は薄情者でも嫌な女でもないわ。例えそれが、たまに女の子になっちゃうことだとしても、ね」

 

 苦笑交じりのその言葉には、慰めなどの気遣う感情は入っていない。

 

「あの日はただのきっかけ。私は、貴方の容姿に惚れたんじゃない。全力で仕事に取り組んで、皆と切磋琢磨してる貴方のイキイキした姿や、誰かが困ってたら率先して助けに行く、カッコイイ貴方に惚れたんだもの。女の子になるなんて、些細な事だわ」

「名瀬、部長……」

 

 俺の勘違いでなければ。その澄んだ瞳の奥には、俺と同じ思いが宿っているのではないか。名瀬部長は、それをわかってわざわざこんな言葉を言ってくれているのではないか。

 思いを自覚した途端、一気に顔が熱くなる。それは、惚れた相手から後押しされないと告白できない自分自身への恥ずかしさであり、思いが通じ合っていたことの歓喜でもあった。

 俺は覚悟を決めた。女性の方からここまでお膳立てしてもらって告白しないなんて、本当に男じゃなくなる。

 姿勢を正し、まっすぐ名瀬さんを見つめ返す。俺の思いが、正しく伝わるように。

 

「助けて貰ったのは、俺の方もです。こんな体になって、自棄になってた俺を立ち直らせてくれて、とても感謝してます。まさか名瀬部長が、俺が一目惚れして探していた女性だったとは思っていませんでしたが……

 あの日、名前も聞かずにその場から去ったことをずっと後悔していました。そして、もしもう一度会えたら、ずっと言おうと思ってたことがあります。聞いて、くれますか」

 

 こくりと頷く名瀬部長を見て、俺は喫茶店特有のコーヒー豆の香ばしい空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。

 読書やテレビすら見ず、女性との恋愛の経験値も少ない俺が、ドラマのように女性を感銘させる告白などできるわけがなかった。だから俺にできるのは、思いの丈を正直に打ち明ける。営業のように説得力なんていらない、俺の全てをぶつけるだけだ。

 

「俺の人生を振り返っても、思い出すのは仕事の事ばかりで、今まで誰かを好きになったことなんて一度もありませんでした。そんな俺が初めて一目惚れしたのが、貴女でした。あれ以来、ずっと好きでした。俺と、付き合ってくれませんか?」

 

 俺の言葉を聞いた彼女のまるで花が咲いたような満面の笑みで、場が一瞬で華やいだ。

 返事は聞くまでもなかった。

 俺と名瀬さんは、自然とテーブル越しに顔を近づけた。あともう少しの所で、互いの後ろから覗く周囲の好奇の視線に気づき、今はお互い女同士であり、ここが衆人環視の環境だということを思い出し、慌てて離れる。

 

「どちらの貴方も愛してるけど、出来れば、ファーストキスは男の子でお願いね?」

「善処します……」

 

 小さく微笑む彼女の頬に俺が手を添えると、名瀬さんも俺の小さな手に手を重ね、二人の体温が伝わる。どちらともなく笑みが零れ、何気ない行為が、とてつもなく嬉しくて仕方ない。

 思い描いていた女性が目の前にいて、思いが通じているのだ。そう思うだけで、後悔ばかりで大嫌いだったこの体も、名瀬さんと付き合えたきっかけだと思えば、今後はうまく付き合っていけそうだった。

 

「そうだ。名瀬さん、この後暇でしたら、デザートバイキングに行きませんか? 折角女の子なので、一度行ってみたいんです」

「ふふ、喜んでついていくわ」

 

 あの事件で閉じたと思っていた未来が、こんなにも明るい。目の前の女神には、いくら感謝してもし足りなかった。

 

「末永く、よろしくね?」

「……はいっ!!」

 

 まるでプロポーズのような言葉に、浮かれている俺は、幸せにし返すくらいの勢いで肯定するのだった。

 

 

 

 

 

 そんな経緯を経て、晴れて名瀬さんと付き合い始めた俺だったが、名瀬さんたっての希望で、付き合い始めたことは社内には隠すこととなった。別に社内恋愛禁止という条項は社則に無いが、結婚まで皆には隠しておいて、後で驚かせたいらしい。そんな子供っぽいところもまた可愛いのだが、その算段は些か甘いのではないかと思うわけだ。

 金曜に変化したため、月曜日を迎えた段階で男に戻れるわけもなく、女の姿で出社した。なるべく以前と同じように振舞うように、と聞いていたので特段意識することもなく、貰った仕事を淡々とこなしているのだが。

 

「慶介君、今送付したメールに添付されてるファイルを印刷しておいてくれる?」

「わかりました」

 

 デスク越しに名瀬さんの指示を貰う。俺は指示を受けファイルの確認に入るが、1つため息を落とした。一見、別に問題無さげな言葉だが、良く聞くといつもと違う。性転換事件の被害者である俺に対して人一倍配慮を欠かさない彼女は、俺の事を女の姿なら姓の彩、男ならば名の慶介と呼ぶのだが、今俺は女の姿なのに慶介、と呼んだ。名前の呼び間違いなど、言われなければ気づかない人も多いだろう些細なミスだ。だが、それが滅多にミスをしない名瀬部長が相手であれば話が変わってくる。しかも、会社ではクールな表情を崩すことのない名瀬部長が、俺に向かって小さくだが微笑んでいるのだ。俺としてはうれしいのだが、こればっかりは悪手だった。

 瞬間、口元の変化を目ざとく発見したオフィスの女性陣から、俺たち二人に熱い視線が注がれる。

 

「ちょっと、名瀬さん!!」

「あ、え、な、何?!」

 

 女性陣は仕事を放棄し、名瀬部長の腕をつかみどこかへ連行する。目を白黒させている名瀬さんの姿を見て、俺はもう一度諦めのため息をついた。

 ああ、ばれたな。

 仕事中は気を張っているらしいが、自然体だと結構抜けてる所の多い名瀬さんの事だ、俺に対してのリアクションで何かやらかすだろうと思っていたが、俺に対しての指示でそんなにわかりやすく反応してしまうとは……流石名瀬さん、めっちゃ可愛い。

 

「名瀬部長、何かあったのか?」

「……さあな」

 

 機敏に僅かな違いに気づいた女性陣に対し、困惑気味に呟く男連中は全く気づいていなかった。どうやら、俺が追及を受けることはないようで一安心だ。名瀬さんには、ある意味役得だとして頑張って貰うしかあるまい。

 廊下から上がる黄色い歓声に首をかしげる男共を尻目に、俺はにやつき歪む口元を手で隠し、ちょっとした優越感に浸るのだった。

 ……残念ながら口元は隠しきれておらず、今日の彩はなんだか可愛いな、等と言われていることも知らずに。

 

「彩君、貴方もちょっと来なさい!!」

「あ、はい」

 

 廊下から顔を出し俺を呼びつけるお局様に、他人事のようにニマニマと笑っていた俺は、慌てて廊下へと駆けていく。

 ……その優越感もあえなく崩壊したが、まあ良いのだ。女性陣に経緯を根掘り葉掘り聞かれ、照れまくって顔を真っ赤にしている名瀬さんを見れただけで、俺の勝ちなのだから。

 恥ずかしながらも、少しずつ噛みしめるように答えている名瀬さんを見て、俺はこの素敵な人と付き合えている幸せをかみしめるのであった。




※東さんが倒れた日に交わされた、とある二人の会話
「ありがとうございました、高橋さん。今後とも御贔屓にお願いいたします」
「こちらこそ、担当の東が急病でご迷惑をおかけして申し訳ない……迅速な対応感謝します。
 そうだ、お詫びと言っちゃなんですが、良ければこれ持っていかれませんか? グループ会社に、って配られた物なんですけど、一本くらい無くなってもばれないでしょ」
「はは、ではありがたく頂戴します。ここ最近残業が多いので助かりますよ。では失礼します、東さんによろしくお伝えください」

元凶は高橋

(もし、書くとするなら)次のうちどの蛇足が見たい?

  • 幸平と美衣
  • 慶介と恵里佳
  • アキと凪咲
  • 真尋と亜美
  • TSしちゃった連合の飲み会話
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。