※この作品はR-18です。

雪の楽園   作:ホネ

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こんばんは。
話はとっくに出来上がっているのに投稿が滑り込みでした。
今回は前回の話の続きもあって前置きはさっさと終わらせて十七話です^^
今回は微エロかも…


第十七話☆

走った。

 

何もかもから逃げるように、いい歳こいた大人が誰もいない夜道で全力の疾走を見せる。

だが、元々運動が不調法な自分なのであっという間に限界が訪れた。

肩で息をしながら手を膝に付けて、全身を使って平静を求めた。

夜風が吹き抜ける歩道で改めて俺は自分の唇に手を当て、彼女の感触を思い出す。

息が苦しい。

全速力で駆け抜けたからか?

いや、違う。

心臓が苦しくなっている。

大学の時も、会社で一緒になってからもここまで彼女があからさまなアプローチをしてきたことは無かった。勿論、好意を全面に押し出すことをあいつが怠ったことはない。だが、あくまでそれは俺達の会話のリズムを作る一環としての役割が大きかったはずなのだ。

いつだって一色は、食事に誘ってきたり、一緒に帰ろうと着いてきたり、とその程度だ。

 

だからこそ、このままの距離でいいと思っていた。

 

馬鹿か俺は。

 

雪ノ下、結衣。それよりも俺がもっと向き合っていかなければならない人物がもう一人居るではないか。

 

あのキスは警告なのだ。

自分を蔑ろにして、数年ぶりに現れた想い人にうつつを抜かすおおうつけに対しての。

 

いや、俺はそう思うことでまた彼女から、逃げようとしている。

 

そんな理由ではないことぐらい分かってる。

もっと単純で純粋なもの。

そして何よりも悪意に満ちた純情だ。

『ねぇ、先輩』

耳元で彼女の声がする。

幻聴だろうか。

違った。

彼女が真後ろに居た。自分の背後から伸びる大きな影が見える。いつの間に追いつかれていたのか。

だが、振り向くことができない。

今の俺に彼女と真正面から向き合う事が出来る覚悟も度量もない。

それを分かってか、一色は両腕を首の後ろから回して俺を抱くようにもたれかかった。

彼女の柔らかい体が背中に伝わった。緩やかに心を溶かしていくような、同時に凍りつかせるような。積み上げてきた理性と虚構の自我が中心から大きな渦を描いてかき乱されていく。

『そんなに怖がらなくても良いですよ?私が悪い子になるのは今だけですから。明日から、また私は先輩にとって都合の良い女の子に戻ります。でもね、先輩…。二人きりの時だけは、偶にはこうして深く堕ちていきたいな♡』

一色が頬から流れ落ちる緊張の雫を丁寧に舐め取った。ねっとりとした生暖かい舌がいつまでも頬に深く刻みつけられていく。

『ふふふ。先輩の汗、舐めちゃいました♡いくら好きな人のだからといって、美味しいわけではないですね。でも私のためにかいてくれた汗だから、全部舐めてあげます』

『お前、何を言って…』

『れろ…。その割にはきちんと興奮してくれているんですね。ズボンの上からでも大きくなっているのが分かりますよ?』

『…!?』

『冗談です♡』

趣味が悪すぎる。今はそんな冗談を言う状況じゃないだろ。

『そうですよね。今はそんな事言う場面じゃないです』

だから、何で俺が考えていることを…。

『じゃあそろそろ本題です☆』

今度こそ、お前は本当に何を言っているんだ。

これまでの事はすべて前座だったというのか。冗談じゃない。

一色は俺の耳を咥えると、ストローで飲み物を飲むかのように柔らかい力で耳殻を吸い上げた。

『くちゅ…ちゅ…れろ。じゅ、じゅ、しぇんぱい…』

『ぅ…う…』

じんわりとした、心地よい快感と嫌悪感が全身を駆け巡る。

一色に心の底まで掌握されたような屈服感を与えられ続けた。

自然と腰が砕けていく。その度に一色は俺の身体に四肢を絡みつけるように体の密着を強めていき、段々とお互いが一つになっていくような、感覚に陥った。

そして最後に俺が完全に膝をつく程に蹂躙された頃には一色は全身を撫で回しながら耳を弄んでいた。

一色は内腿をその柔らかな手で愛撫した。愚息には触れないよう細心の注意を払いながら男の理性と自我を略奪していく。ジェンガのように自らの砦を崩壊に導かれ上り詰めていく快感は結衣との交わりでは味わうことの出来なかった境地だった。

その後も10分ほど一色は何も言わず、ひたすら俺の耳を舐り続けた。艶めかしい粘着音が際限無く鼓膜を埋め尽くす。本題を話す前に陵辱から入る交渉術を弄したのは一色が初めてだろう。

『くちゅ・・・ちゅ、じゅ、じゅ。しぇんふぁい。あん…』

舌を動かしつつも一色は艶めかしい小さな嬌声と俺を呼ぶ声を混ぜることを忘れない。男は情事の最中に名前を呼ばれることに一種の快楽を感じてしまうことをこいつはよく知っている。

舐めている間、一色はしきりに俺と手を絡めることを求めた。俺は頑なに拳を作り、それを拒んだのだが、拒もうとするたびに一色が耳を噛み、強く吸い上げた。快感と痛みに怯んだ隙に、両手とも一色の白く透き通った手に絡め取られた。俺の手の感触を確かめるように、一色は手を開いては強く握る。握る毎に、上半身を背中に擦り付けられた。一色の小さくもなく女性の魅力としては十分すぎる大きさの果実が背中で弾けた。何も考えずにこの快楽に身を任せることができたらどれほど最高の気分になるのだろう。だが、現実はそんな悦楽に身を沈めることは許されない。つくづく、俺の知らない間にこいつは別人になってしまったのではないかと錯覚させられる。

いや、一色は何も昔から変わってはいないのかもしれない。変わったとしたら、俺の方なのか。

俺は諦めて、躰を一色に預けた。

肩の力を抜いた俺に気づいた一色は、待っていたかのように愛撫を激しくした。

 

ようやく一色から解放された頃には、脳内の辞書から“抵抗”という文字が消去されていた。

後ろで一色の荒くなった一色の吐息が聴こえる。彼女の終電の時間はとっくに過ぎているだろう。昔一色から聞いた話ではこの場所から一色の家までは距離がある。

それでも構わないといったところか。

一色は手を絡めたまま、もう一度俺の耳元にに顔を寄せた。

横目で恐る恐る彼女を見ると、一色は実に怪しげな表情を浮かべていた。

そして彼女はおもむろに俺が最も恐れていた言葉を口にする。

 

『ねぇ、先輩。雪乃さんのこと結衣さんに隠してますよね?』

 

『お前…何でそれを!?』

こんな言い方をしてしまえば、正解だと相手に教えてしまっているようなものだ。

『あれでバレないとでも思ったんですか?先輩ってば、雪乃さんのこと見すぎです。小学生の片思いじゃないんですから、あんなの私じゃなくても誰でも分かりますよ』

『…悪かったな』

『あれ?まだ、そんなこと言える余裕があるんですね。でも、必死で主導権取り戻そうとしているのは分かってるんで、気にしてないです』

『お前、そこまで分かっていて、とんだ陰険だな』

『それ、先輩が言いますか?私のことさんざん弄んでおいて』

ぐうの音も出ない。

傍から見れば俺は彼女の思いをしっかりと受け止めずに他の答えに縋ってしまった情けない男なのだろう。

『先輩にはその罪を償ってもらいます』

『…何が目的だ?』

『まぁ償うといっても、別に私先輩のことは恨んでいないんですよ。寧ろ、この状況のほうが私にとっては好都合です☆』

『どういう意味だ?』

『ただ、単純に先輩と仲良くなってイチャイチャしたところで人の関係っていうのは思った以上にすぐ、冷めるんですよ。ほら、先輩と結衣さんの関係みたいに♪』

『お前…!言って良いことと悪いことが‥…!』

『何怒っちゃってるんですか?雪乃さんに惚れちゃって、流されそうになってるくせに』

『…っ!』

こんなに楽しそうに話す一色は見たことがない。これが彼女の本性なのか?それとも、俺が彼女を変えてしまったのか。

『まぁ、別に雪乃さんと一線を超えたわけでもないですし、今のところは一瞬の気の迷いって形なので、私が今言ったことは誇張ではあるんでけどね。“今のところは”♪』

『…これから俺がそうなるとでも?』

『ならないほうがおかしいと思いますよ。雪乃さんも先輩のこと好きでしょうから』

『な…!?』

『もう好きすぎて先輩のために化粧やオシャレ、仕草まで先輩の好みに合わせようと頑張っちゃって。本当、可愛いですよね…。あれは、勝てないです』

唐突に一色は敗北宣言をする。一貫性のない彼女の言動に俺は彼女が何が目的なのか皆目見当がつかなくなってしまう。

『じゃあお前は一体何がしたいんだ‥…?』

そう言うと、一色は黙った。後ろに居るので俺の視点からでは彼女の表情は窺い知れない。

 

『先輩。結衣さんとのことはどうするつもりですか?』

ようやく口を開いた一色から出た言葉は、意外な質問だった。

『何故、そんな事を聞くんだ?』

『先輩。正直に話して下さい。もう、逃げられないように聞きますね』

逃げられないように聞くとは一体どういうことなのだろうか。だが、今の俺に出来ることは次の一色の言葉を粛々と待つことだけだ。

一色は小さく深呼吸をしてようやくその口を開いた。

 

『先輩、結衣さんより雪乃さんのことの方が好きですよね?』

 

『…っ!?』

 

『たった一日。それもお昼のちょっとの間だけですけど。分かりますよ。どんなに言葉を弄したって仕草や言動は誤魔化せません』

『だったらなんだ?』

『私の本題はここからです』

反論する隙も与えない気か。

一色はそう言うと、俺から離れてこちらに向き直るように促した。ようやく俺は立ち上がって一色と正面で顔を合わせることが出来る。

『先輩、どちらかを選ぶなんて選択は捨ててほしいんです』

『それは…。どちらも選べということか?』

現在の社会の不文律をしらない一色ではないだろう。結婚をしている身でありながら、他の女性と深い関係を持つことのリスク。それが表に出てしまえば、一瞬で社会的信用が地に落ちるのだ。そんな危険な橋を今から俺に渡れとでも言うのか?

 

しかし、一色の表情は異議を唱えるかのような主張をしていた。

『いいえ、少し違います』

『じゃあ何だって言うんだ?』

 

そう問いかけると一色はその言葉を待っていたと言うような満面の笑みを見せた。

 

『全員を選んでほしいんですよ。結衣さんや雪乃さんだけじゃなく、先輩を愛してしまった人全員です』

『は!?』

 

『………』

……………そういうことか。

 

『つまりはお前も選べと?』

『まだ、理解していないんですね、先輩は…』

 

 

一色は呆れたといった様子だ。

『先輩は選ばざるを得ないんですよ』

『何故そう言い切れる?』

『私が、結衣さんに雪乃さんのことチクったらどうするんですか?』

『…!』

『やっと分かりました?つまり、黙っていておいてあげるからそのかわり、貴方の時間を少しだけでも私に下さいっていうのが本題です。かなり遠回りな言い方しちゃいましたけどね。…まぁ、あと結衣さんに雪乃さんのことを言ったとしても先輩は断れないと思いますけど』

『そこまでして、俺と居たいのか…』

『はい。先輩を愛していますから』

一色の言葉に一切の淀みが無かった。そんなにも真っ直ぐに言われると流石にどんな男でも揺れてしまう。しかも、一色は並の美人ではない。

しかし、だとすると…

 

『雪ノ下さんが会社に来たのも、俺が雪ノ下と再会したのもお前の仕業か?』

 

そう疑わざるを得なくなってしまう。信じてはいるのだが、どうしても猜疑心に苛まれる。

 

『いいえ、それは私ではないですよ。この機を利用しようと考えたのは確かにそうですが。まぁ、信用出来ないですよね』

 

『いや、その言葉には嘘はなさそうだ』

率直な感想だった。今の一色は嘘はついていないだろう。

一色が違うと言ってくれたことに安堵の吐息を漏らしている自分がいることに気づいたのはその時だった。

何故は俺は安心しているんだ?

 

『本当、人のことを疑ってかかるくせにお人好しの優しい人ですね。……そんなところが大好きです』

『真正面から言うな…』

『えへへ』

一色は何故か憑き物が取れたような様子だった。何年も心の中に巣食っていた闇が少しだけとはいえ晴れたのだろう。勿論、全てを吐き出したとは到底、言い難いだろうが。おまけにその原因が俺ときたもんだ。心配できる立場にいようとしていることすら烏滸がましい。

 

一色は俺から少し離れると頭を下げた。

『先輩。さっきはごめんなさい。ちょっとやりすぎちゃいました』

どうしてお前が謝るんだ。謝るべきは俺の方だろ?

『やりすぎを超えて狂気だったぞ』

俺は冗談を返すので精一杯だというのに。本当にこいつには敵わない。いつまで一色に甘えるつもりなんだ俺は。

『まぁ七割位は本気でやってますから』

『チョットマッテ。ハチマン思考が追いつかない』

もうやだ。おんなのここわい。

確かに、あの時の一色は演技では表現できないほどのリアリティを持っていた。本当のところは九割五分本気なのだろうな。

『えへへ。でも、先輩もまんざらではなさそうでしたよ?』

『…ほっといてくれ』

『別に結衣さんに悪いとかそんなこと思わなくても大丈夫です。悪いのは私ですから』

『なんで、浮気した男みたいな言い方してるの…!?』

こいつ、またやる気だ。絶対。間違いない。

『前から分かっていたことではあるが、お前と付き合うとなると心底大変そうだ』

『そうですね、今から覚悟しておいて下さい』

『いや、お前。まだそうなると決まったわけじゃ』

『ふーん。まだそんな事言うんですね』

『……お前、俺が反論するたびにそれ言うつもりじゃないだろうな?』

『あ、バレました?』

『やっぱり、お前は信用ならん』

『もう、すぐ拗ねる』

先程の極度の緊張から大きく緩んだような空気になる。とはいえ、何も解決していないことに変わりはない。自分の弱さに嫌気が差す。

『ねぇ先輩、これは私の勘ですけど、陽乃さんや雪乃さんの一件はそう単純じゃないように思うんです』

一色は先程までの明るげな声色とはまるで無かったかのような口調で話を切り出した。

『どういうことだ?』

『あの会社で誰が味方なのか分かったものじゃないですよって意味です』

『……』

『その顔からして、やっぱり可能性の一つとして考えてはいたんですね』

『まぁ、な』

そうでなければ雪ノ下さんが会社にすんなりと来るはずがない。依頼の内容も雪ノ下のスペックからしても全くうちに頼る必要性も感じなかったしな。

『会社が息苦しくなるな』

『芦間さんは多分大丈夫ですよ。あの人、企むというよりは観察するタイプですから』

その通りだと思った。芦間は姦計を巡らせるような人物ではない。それどころか極端に人との関わりを嫌うタイプであるし、何よりあいつにとってメリットが何一つ無い。今日の反応を見ても雪ノ下とは全く面識がない様子であったことも根拠だ。

『とにかく、先輩は今まで以上に周りや自分の言動に細心の注意を払う必要がありますよ』

『それを味方なのかどうか分からないお前に言われてもなぁ…』

『先輩…私もいい加減怒りますよ?』

『…悪い』

『良いです。からかっただけですから♪』

一色は元の調子を取り戻していた。少しだけ夜風が強くなっている。並木の枝が擦れる音が大きく聴こえた。

『さて、そろそろ終電もヤバイので帰りますね』

そう言うと、一色はうんと一つ大きく伸びをした。いやいや、何一仕事終えましたみたいな顔してるの!?

『は?お前もう終電無いんじゃ…?』

『え?別に大丈夫ですよ♪私の家ここから近いですし』

『やはり、侮れん…』

『ふふん。本気になった女の子は嘘でも何でも使います。じゃあ、先輩駅まで一緒に行きましょ』

一色は腕を絡めてきた。離そうにも両腕でしっかりと抱いているので、駅まではこのままか。

俺は黙って歩みを進めた。一色は驚いた表情をした後、これ以上無いほどの笑顔になった。幸い周りには人は居ない。二人きりの夜道デートだな。いやいや、俺、嫁居るだろ。

『先輩とデート…。初めてだ』

『は?大学の時に何回も二人で遊びに行っただろ?』

『あれはちょっとまた形が違うじゃないですか。それに、腕を組んだのは高校の時以来です』

『そうだったか?』

『先輩が結衣さんと付き合うようになってからは、ボディタッチは自重していましたよ』

『言われてみれば確かに』

高校の時は事ある毎に一色は俺にさり気なく俺に触れていた気がする。思えば俺も一色の体温とやらを感じたのは久方ぶりか。こいつなりに俺と結衣に気を遣い続けていたのか。そんなことにも気づかない自分の鈍感さを呪った。

しばらくすると一色が立ち止まる。

『ん?どうしたんだ?』

一色は物欲しそうな目でこちらを見上げる。夜道の街頭に照らされた彼女の目は一面の星空を映すかのように少女の輝きを放っている。

『先輩。キスしたいです』

『おい、どうしたんだ急に?』

『いえ、ただ。その』

『ん?』

『先輩がもっと欲しくなっちゃいました…』

想像以上の破壊力だった。

今日の一色はかなり積極的だ。夜の街灯に照らされた彼女は色気も帯びている。こんなにも切なそうな表情を見せる一色は初めてだ。何年も一緒に居ながら見たことのない彼女の顔が幾つも見られた。先程のアプローチも分類で言えば積極的と言えるのだが、今のほうが幾分と理性に来る。

『…流石にそれはダメだろ』

『じゃあ腕は組んで良いんですね?』

『その聞き方は卑怯だ』

『そうですね。私はズルい女ですから』

『自分でそういう事言うのな…』

その後は、只黙って二人で駅まで歩き続けた。何も言わずにお互いが時々目を合わせるだけで言葉は何も交わさない。時折、一色が腕を引き寄せてキスを求めてきたが、必死に堪えた。加えて徐々に自分の前に身体を寄せ、胸元に寄り掛かるように密着させて来るので、心臓に悪すぎる。

 

駅に着いた時には心臓が限界寸前のところだった。

夜遅くとはいえ、流石に駅の周辺ともなれば人影が目立つ。残業を終えたサラリーマンや飲み会終わりの大学生たちが、駅のネオンに照らされて様々な陰影を作り出している。やや、視線を感じる。大方、一色に対する男達の邪な目線だろう。これ以上、彼女と親密なところを見せてしまえば、後々、厄介なことになりかねない。それを察したのか、一色は名残惜しそうに静かに腕を離した。駅前に立つ大きな広葉樹の前でお互い顔を見合わせる。

『じゃあここでお別れですね』

『あぁ、そうだな』

先程までの余韻を全く感じさせないほどに一色の別れはあっさりとしたものだった。と思いきや、駅の入口に入る前でこちらに振り返ると、

『今日は人生で一番良い日でした。また、デートしましょ、先輩♡』

一言だけ言い残し、そのまま流れるように改札口をくぐっていった。その足取りは軽く、跳ねるようだ。

狐につままれたまま木の下に取り残される。携帯からメッセージの受信音が鳴ったところでようやく、自我を取り戻した。

端末のロックを解除し、内容を確認すると、案の定送り主は一色だった。

 

 

 

“今日は色々とごめんなさい。明日からは、またお互い、仕事仲間ってことで。・・・・・・・でも、偶には、お願いします、ね?”

 

 

 

…………………。

夕食を取り終えてリビングの机でぼんやりと天井を眺めていた。

結局の所、一色と俺の距離は現状どのくらいのものなのだろうか。最後に送られたメッセージを見る限り、一色はこれまで通りの距離感で行こうという内容にも思えるが同時に、俺の中に深く入り込む口実を得たとも言えるだろう。

 

“先輩、結衣さんより雪乃さんのことの方が好きですよね?”

 

一色に言われた言葉が何度も蘇る。

そんなはずはない。

数え切れないくらいにそう言い聞かせてきた。

雪ノ下とは本来であれば、随分と前に切れた縁なのだ。わだかまりはあれど、未練はないはずだった。

にもかかわらず、彼女と再会してすぐに感情を昂ぶらせている自分がいる。

 

…やめよう。

今は考えたところでどうしようもない。

答えは近い内に俺自身が出すのだろう。我ながら、そういった確信が芽生えているのは不思議な話だ。

明日から、また大変だなこりゃ。

雪ノ下だけではない。今日を境に俺は一色のことも完全に一人の女性として意識してしまった。

一色、お前は本当に卑怯な女だ。

これまで通りに接しようなんてことが男に出来るわけがないだろう。

それを分かっていてあいつはそんな文章を送ってきたのだ。俺に意識させるために。急所に当たって、効果は抜群だ。

時刻は既に深夜一時になろうとしている。明日、いや今日もまた仕事なのだから早く寝て備えなければならない。

今日はまた、出向なのだから、雪ノ下の会社に行く必要がある。

そんな時だった。

俺のスマホが細かい振動を繰り返し、着信を告げた。

こんな夜遅くに、誰だろうか。マナーを弁えないにも程がある。

画面を見ると、知らない番号だ。よもやこんな時刻にセールスや不動産の勧誘な訳がない。仕事先の誰かのプライベートナンバーかもしれないので、とりあえず、通話のボタンを押下し、電話に出る。結衣が寝室で寝ているので迷惑がかからないように一番離れた、リビングの端に移動した。

「はい、比企谷です」

いきなり、名乗るのもどうかと思ったが、会社の人間からだと考えていたので自分の名前を言うことにした。

 

 

『あ…あの』

 

 

聴いたことのある声だが、会社の人間ではなさそうだ。しかも、電話の相手は極度の緊張をしている。とりあえず、威圧しすぎないように静かな声で次の相手の言葉を待つ。

「どちら様でしょうか?」

返事はしばらく時間を置いてから返ってきた。

 

『え。その、こちらの番号は比企谷様のものでお間違いないでしょうか?』

 

「え」

いや、最初にそう名乗ったではないか。随分とテンパっているなこの人。

 

 

…て、うん?この声は………。

 

 

「もしかして雪ノ下か?」

 

 

『…!あら、随分と電話先でも気さくで遠慮を知らない言葉遣いなことで、比企谷様』

「どっちがだよ…」

なんというタイミングだろうか。

電話の主はあろうことか、雪ノ下雪乃だった。

 

 

続く

 




(後書きは夜勤が落ち着いたら書きます!)
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