今回は前語りは無しで早速本編どうぞ!
雪ノ下の会社への出向を終えてから、偶に彼女が会社に赴くものの、言葉を交わすことも、顔を合わせることも一切しなくなっていた。
周りの親しい人間は険悪な状態になっているのかと心配になって俺に声をかけて気遣ってくれたのだが、俺はお茶を濁していた。当然だ。俺だって今のこの気持ちも状況も一切説明できないほどに混沌としているのだから。
特に一色は困惑の表情を隠せないでいた。共通の知人としての何かしてあげられればと思っているのだろうが、その答えが見つからないと言ったところか。本当に優しい奴だ。今はその優しさが俺たちにとって諸刃の剣であることも彼女は理解していた。
雪ノ下の会社からの依頼は予定通り、完遂した。俺たちのチームは会社の中でも1,2を争うレベルの実力者揃いだ。もうあの会社に働きに向かうことも無い。それはつまり、俺と雪ノ下の別れの合図でもある。
抜け殻のような生活故に、今日が何日で何曜日なのかすらもおぼろげだった。
応接室から雪ノ下が出てきた。これがラストだ。俺は智佐吹さんに最後の見送りをするよう、命ぜられた。強情張って行きたくないとゴネたが上司命令を建前に押し切られた。
「悪いが、今の君ではビジネスに於いて何の役にも立たない。きちんと折り合いをつけない限りは君の嫌いな書類業務を山程押し付けるよ」と智佐吹さんはその一点張りだった。
彼女はいつだって冷静で部下にとって最も必要な課題を用意する。それが今の部下にとって死ぬほどやりたくないものであったとしてもだ。
俺は首肯する他なかった。
俺は雪ノ下をエレベーターに案内した。久しぶりに顔を合わせた彼女はまるで別人のように感じられた。生気が伴っていないのだ。雪ノ下は黙って何も言わずに俺の後ろを離れずピッタリと付いて来た。失礼なのは百も承知だが、顔色と相まって最早背後霊のそれにしか思えない。しかも、いつもよりも30センチ程遠目に距離を開けている。これが今の俺と彼女の精神的な距離なのかもしれない。
「ここでいいわ、比企谷君」
エレベーターに入ろうとした時、雪ノ下が俺を呼び止めた。少なくとも、これ以上一緒に居ることはお互いにとって得策ではないという彼女なりの提案だった。少なくともというのは俺の願望だ。俺は反対の声もあげずただ彼女の言葉に従った。
「承知いたしました」
何も告げず雪ノ下から離れる。雪ノ下の顔を見ることが出来なかった。
「…ねぇ、比企谷君」
雪ノ下が口を開く。俺を呼んでいるのか?話しかけられることも無いだろうとうっかり気を抜いていた。
彼女は中々エレベーターに乗り込もうとはしなかった。既にエレベーターの前には長蛇の列が出来上がっている。俺は後ろに並んでいた社員に先に行くよう促した。彼らが機内に乗り込み扉が閉まったのを確認してから雪ノ下に向き直った。
雪ノ下の表情を一言で表現するなら”虚無”だった。虚ろな目に異常に白い肌。お世辞にも健康体と言えるような顔をしていなかった。
「ゆ、雪ノ下…。この前は、、、その」
「あの時は本当にごめんなさい」
俺が話を切り出す前に雪ノ下は先手を打つがごとく、深々と頭を下げた。それは俺が雪ノ下雪乃という女性にあって以来、初めて見たと言ってよい程の深い一礼だった。
「え、いや。お、おい。人前だぞ」
俺も俺で動転しているので訳の分からない言葉を雪ノ下に投げかけている。あの雪ノ下が俺に謝罪だと。今日は何だ?隕石でも降ってくるのか?
「お酒が入っていたとはいえ、身勝手極まりない行為だったことに変わりはないわ」
雪ノ下はしおらしげに自らの行為を詫びた。何もお前が悪いなんてことは決してないから余計にこちらもどう返したら良いものか分からない。
「…やっぱり全部覚えているのか」
「全部ではないわ。実はところどころ、記憶がないの。でも貴方にとても酷いことを言ってしまって、心が締め付けられるくらい痛かったことは朝になっても、今になってもずっと覚えていたから」
「そ、そうか」
「ええ」
雪ノ下が胸に手を当てる。何か気を利かせた一言で彼女をフォローしようにもアドリブ能力の無さが出てしまい何も言葉が浮かばなかった。
「ねぇ、比企谷君」
「…なんだ?」
雪ノ下は何かを躊躇っているようだった。それを口にすることを禁忌としているのかと言うほどにだ。
だが、彼女は意を決したのか。恐る恐る、その口を開いた。
「あの時、私は一体何を貴方に言ってしまったの?」
「…」
そうか、覚えていなかったか。
雪ノ下はその言葉を知りたがっている。
彼女が告げた言葉を俺に言わせるのは、酷なんてものじゃない。言えるわけがないだろう。
それは俺たちが積み上げてきた、無かったことにしてきたもの全てを否定してしまうのだから。
決して許されることではなかった。
閉口した。
静寂が辺りを包んだ。通路奥の扉の開かれる音が聴こえる。雪ノ下は辛抱強く待っていた。
だが、彼女が待ち望んでいた結果は訪れなかった。俺は彼女に告げないという選択をしてしまった。
「……そう。分かったわ。なら、私は二度と貴方の前に現れるべきではないのかもしれないわね」
雪ノ下から諦念が滲んでいた。彼女は俺が口を噤んだだけで全てを察してしまったのか。
雪ノ下は虚ろな目を下に向けながら肩を抱いていた。その目は何も語ってはいなかった。空虚だった。
心が離れていく。
彼女の存在がまた希薄なものになったような気がした。両の手から水が抜け落ちていくような寂寥がこみ上げてきた。
雪ノ下は俺の返事を待たずして帰ってきたエレベーターに乗り込んだ。今度は一切の躊躇が無かった。
その時自分の中で鳴りを潜めていた欲望の獣が顔を出したような感覚に襲われた。
獣が俺の心臓を掴んだ。その声は耳元で地鳴りのようにうるさく怨念のように纏わり付いた。
あの時と昨日の夜。俺は同じ過ちを二度繰り返した。二度も選択を間違えた、否、選択をすることが出来なかった。
比企谷八幡よ。お前はもう分かっているだろう?
お前が今どうするべきか。
答えなど分かりきっている。
このままで良いはずがない。
「…比企谷君?」
固く作った握り拳を見て雪ノ下が動揺している。俺はまっすぐに彼女の目を見つめた。
雪ノ下雪乃の目に宿るものをなんと形容したら適切なのだろうか。
憂虞、憤怒、虚無、渇望。そんな混沌とした感情がこの小さな瞳の中に天災の如く渦巻いていた。
その目を一身に受け止め、鉛のように重いその唇の枷を解く。
「俺は…」
「待って」
雪ノ下が機先を制するが如く言葉を遮った。それはまるでその先の言葉を聞きたくないと言うよりは聞くわけにはいかないという強い意志を感じせるものだった。
「雪ノ下…?」
「比企谷君。少しだけ時間をくれないかしら?」
「…どういうことだ?」
理解が追いつかない。雪ノ下に噛み砕いてもらうよう問いかける。同時に深く息を吐き呼吸を整えた。
「貴方が今言おうとしていること。今一度、反芻して。そして時間をおいて。そして、整理が出来てから聴きたいの。たとえそれがどんな言葉だったとしてもよ。その。今は、、、お互いに答えを急ぎすぎているのだと思うの。だから。。。」
雪ノ下は胸の前で右手で左手を抱くようにして俺を拒むような仕草を見せた。視線は俺から逸したままで可憐な少女は話を続けていた。
「…分かった。実は出張に来週から行くことになってる。それを終えて戻ってきてからでもいいか?」
雪ノ下の提案に乗ることにした。
「…ええ。あと…」
「ん?どうした?」
「さ、さっきのは忘れて欲しいとまでは言えないけれど……その。わ、私の心からの言葉ではなかったとだけ伝えておきたくて」
「お、おう。そうか」
その言葉を聴いて、俺は思わず安堵の溜息を漏らした。だが、それだけではいけないことも同時に分かっていた。先程、俺の言葉を止めたのは雪ノ下も同じ気持ちだったからだろう。いや、そう思いたい。
「あと、比企谷君。これを渡しておくわね」
雪ノ下がさっと近づいて来て差し出したのは彼女の名刺だった。そう言えばタイミングが悪く、受け取る機会が全く無かったな。俺もすっかり失念していた。間が悪いのはお互い百も承知だが、ようやく俺たちは名刺交換を行うことが出来た。いや、ホント何週間越しにやってるんだ俺ら…。
「なんだずっと根に持ってたのか?」
「そんなわけないでしょう。どこかのヒキガエル君じゃあるまいし」
それは本当に久しぶりに見る雪ノ下の笑顔だった。
「帰ってきたら連絡して。それまでは連絡を取らないようにしておきましょう」
「ああ…」
その方が良い。それは頭の中で理解しつつも、しばらく雪ノ下がいない時間を過ごすことに既に違和感を感じ始めていた。これまではそれが当たり前であったはずなのに、人間の慣れとは本当に怖いものだ。
「…どうかしたの?比企谷君」
空返事で上の空だった俺を見て雪ノ下が怪訝な顔をした。
「いや、俺たちも歳をとったなあと思っただけだ」
「当たり前でしょう。もう結婚して子供が生まれてもおかしくない年齢よ」
「あぁ、そうだな」
「…ねぇ比企谷君。私が高校の時のままであれば、さっきの場面で私は貴方の言葉も聴かずにその場を去ったと思うわ」
雪ノ下は懺悔するように言葉を紡いだ。確かにあの時の俺達であればすれ違ったまま、その状況を享受していたかもしれない。
「あぁ、俺がもし総武高の時の俺のままなら、お前に何も言い返すことが出来ずにこうして見送ることも出来なかっただろうな」
「なら、私達は少しは成長したのかしら?」
「さぁな。案外変わっていないのかもしれない」
人間そうそう根っこは変わらない。余程のことがない限りは。
「ふふ。でも、貴方の見た目は全く変わらないわね」
「うるせ、ほっとけ。そういう雪ノ下も大して変わってねーよ」
「私は見違えるほど美人になったでしょう?可愛いのは昔からだけれど」
「謙遜しないのところは流石、雪ノ下雪乃だな。そこは全く変わっていない」
「…そんなところだけ感心されるのはとても癪なのだけれど」
「でも、綺麗になったとは。。。思う」
「そ、そう…。ありがとう」
これは束の間の安寧だ。お互いがそう理解している。だが、その安らぎに一生の身を預けても良いのではないか。そう思えてしまう自分が居ることを否定できなくなっていた。
「じゃあ、また」
「おう」
俺が挨拶を返すと雪ノ下は小さく手を降ってそれに応えた。
「出張、気をつけてね」
「お、おう」
歯切れの悪い返事を両断するようにエレベーターの扉が閉まった。優しく儚げな彼女の笑顔がこびり付いて離れなかった。
大きく息を吐いた。
オフィスに大きな足取りで戻る。久方ぶりに地に足がついたような感覚だった。ようやく俺は全てに答えを出す覚悟を持たなければならない時が来たようだ。
右手に持った彼女の名刺をじっと見つめた。
名刺には彼女の名前と所属、電話番号などの情報が書かれていた。
本当なら今すぐにでも連絡を入れたいところだったが、ぐっと堪えた。
残された時間は決して長くはない。
あと、二十日ほど。
雪ノ下だけじゃない。一色に対しても、当然結衣に対しても答えを出さなければならない。
とはいえ、仕事の問題も待ってくれているわけでもないのだ。
まずはこの出張を乗り切らなければならない。
自席に着くと手元にあった出張の書類を取り出した。
日程の確認を行う。海外出張とはいえ、予定としては一つの開場で採用のイベントの運営を行うという内容のみだった。
この時の俺は出張など、大した問題でもないと考えていた。
そして、俺は思い知ることになる。
その旅路で後の人生と運命を左右する大きな再会が待ち受けることを。
第二部 完
第二部終わったあああああ(泣)
また一つ大きな区切りを迎えることが出来ました。ここまで来るのに思った以上にかかりました(;・∀・)
本当に読者の皆様のおかげです。感想や評価が何よりのモチベーションでした。ありがとうございますm(_ _)m
次回からは第三章になります。通常通り一週間後の投稿にしようと思っているのでお楽しみにしていただければ幸いです!