ようやくここまで来ました。
では三十七話です!
帰りの飛行機の移動時間は12時間もあった。半日もあの狭い空間の中で拘束されるストレスは慣れていないが故に相当なものであった。隣にいる智佐吹さんは一週間の疲れが吹き出したのか眠り姫のように到着まで一度も目を覚まさなかった。逆に彼女への警戒心とざわつくような胸の高鳴りから眠気が一向に来ず、目が冴えてしまった俺はというと映画を見続けるしかなかった。途中、やってきたCAからのサービスドリンクやおつまみも全て食した。映画を見るのに飽きた後は、航空ルートを眺めていた。約30秒毎に高度や速度のページと航路のページが切り替わる。それを飽きずに二時間は呆けて見ていた。周りからしてみれば相当な奇人に見えたことだろう。当の俺はというとアラスカ州からカムチャッカ半島へと段々と描かれる緩やかな弧を見るのを飛行機が着陸するまで延々と楽しんでいた。
着陸した時の日本は昼下がりだった。座席を立って伸びをすると、軋んでいた骨々がうめき声を上げてそれに応えた。
疲労からか、メンバーは皆憔悴しきった表情が見て取れる。かく言う自分も多分に漏れずその一人なわけで、到着ゲートを出るまでひたすら無言だった。
到着口で俺たちは解散した。皆早く家でゆっくりと休みたいからか簡単なあいさつもそこそこに自身の帰路へと足早に向かった。俺は自分が乗車するバスの時間まで時間に余裕があったので空港の売店を散策してから、外へ出た。
一週間ぶりの日本は蒸し暑かった。その前は乾燥していた場所に滞在していたためにその差は顕著だった。ターミナルの外へ出た時のサウナのような纏わりつく熱気が肌に付いて離れない。
ターミナル前のバス乗り場で千葉へと向かうバスに乗車した。人の少ない時間帯だったせいか、隣の座席に誰も座らず一人窓外の景色を満喫することが出来た。とはいえ、目に入るのは山々か高速道路の灰色の壁だけで変わり映えもあったものじゃない。ただ規則的に流れる分岐点の看板を見で追うだけの味気ない旅路だ。
移動中に結衣にメッセージを送った。
『とりあえず、日本には帰ってきたがまだやることがあるので遅くなると思う』
『おかえりー!良かった〜☆無事帰ってこられたんだね!(*^^*) ちょっと遅くなるんだね(´・ω・`) でも八幡が帰ってくるまで起きているよ!』
『分かった。ありがとう。ただ、もし帰られそうにもなかったら連絡を入れるからその時は寝てくれ。一回会社に寄って報告をしないといかん』
『分かった〜!(*´∀`*)』
毎日のように連絡を取っていたにもかかわらず久しぶりに会話をしたような気分だ。
もうすぐ停留所に着くようだ。バスが停車したのを確認してから、座席上の荷物入れから自身のバッグを下ろした。冷房に守られた空間から一瞬にして呼吸が苦しくなるような熱と湿気に囲まれた日本の大地へと放り出された。辺りはもう暗くなっているのにも関わらず、この季節の気温というものは下がるということを知らないようだ。
バスの運転手にスーツケースを下ろしてもらい、バスが発車するのを見届けてから今度はタクシーを拾った。後部座席に乗り込んで目的地を伝える。ドライバーはカーナビで目的地の住所を検索すると車両は直ぐに出発した。
携帯を確認すると留美からメッセージが来ていた。無事に日本に到着した旨を伝えると直ぐに返事が返ってきた。
『良かった。心配してたから…』
短い文章だったが、留美からの心がこもっていた。俺は留美に『サンキュ。落ち着いたらまた連絡する』とだけ送信すると端末をポケットにしまった。
内心は焦燥感でいっぱいになっていた。空港のトイレで何度も確認したのにもかかわらず自身の身だしなみが気になってしょうがない。風采が上がらない己の容姿に今更気を使ったところで微細の変化であることは百も承知だったが手を動かしていなければ心が最低限の落ち着きを取り戻すことが出来なかった。
時計は四時半を示している。まだ約束の時間までは一時間以上あった。それまでの間何をして待っていようか。
ふと携帯が着信を告げた。画面を見ると『一色いろは』と表示されている。今は正直それどころではなかったが、気分転換も兼ねて一色からの電話に応じることにした。
「おぅ、一色。どうかしたか」
『先輩、もう到着しているはずなのに連絡が一つも無いというのはどういうことでしょうか?』
え、何。この人。ストーカーか何かか?何で俺の飛行機の予定まで把握されているの?少しばかり背筋が凍りついた。背後から思いっきり液体窒素でもかけられたのかってくらいだ。あ、それだと超凍ってしまう。
「確かに俺はもう日本に到着しているが、移動があって心休まらぬ状態なのだから多少の連絡の遅延くらいは大目に見てもらいたいものだな」
『そんなこと言ってどうせ先輩は今日中に連絡もしないでしょ?』
バレテーラ。一色なら良いかと何故か思ってしまう。
「そ、それだけ気の置けない相手ってことだからな」
『もう!上手いこと言ったつもりですか?………でも、先輩が気を許してくれているって認めてくれた…』
あれ、なんで急にしおらしくなっちゃってるの。まさかこんな発言が効果てきめんだとは夢にも思っていなかったので困惑している。狡智の限りをつくした言葉というわけでもないのに。
『先輩は次の出社はいつになるんですか?』
「一応、明後日から出ることになってる。明日は休みだな」
『そうなのですね!じゃあ明後日お土産楽しみにしてます♫ あと、近い内におかえり会しましょうね!玉木さんも呼んで三人で』
「あの人飲み会みたいな食事の誘いに全く乗らないことで有名だけど果たして来るのか?」
だからこそ出張前にあの人に食事に誘われた時は度肝を抜かしたのだから。
『それがですね。これ玉木さんからの発案なんですよ』
「ゔぇ。マジですか」
『因みにですが、玉木さんがこの前断られたの今でも根に持ってるからって言ってましたよ』
「何その次断ったら容赦しないぞって脅迫じみたオマケ発言」
『というわけで予定空けといて下さい。仕事終わった後にでも行きましょ☆』
「まぁ、事情は分かった」
『まぁ後は普通にお土産話とか楽しみですし、先輩には聞かないといけないこともありますからね〜』
「………」
そういえば留美の事を追求されるんだった。どうしよう、今のうちに上手い誤魔化し方を考えておかないと大変なことになる。
『それでは先輩も今日は疲れているとは思いますので今日はこの辺で失礼しますね!』
「お前にそんな気遣いが出来るとは感涙だ」
『失礼な!私だって鬼じゃないですから!』
鬼ではないが悪魔ではあるんだよなぁとは言わないでおいた。その悪女っぷりにハマっているのは内緒にしておかなければならないからだ。
『じゃあ切りますからね〜。今日はゆっくり休んで下さい!』
「おぅ、サンキュな。早いけどおやすみ」
『はいです!』
終わるタイミングを読んでいたかのように丁度タクシーが目的地に到着した。降りた場所の目の前にあるのは閑散とした公園。そこにある遊具は砂場と滑り台しかなくあとは何もない地面が広がっているだけだ。中央にそびえ立つ時計の針は五時を示している。あまりにも早く着きすぎてしまった。公園にはまだ遊び盛りの子どもたちが鬼ごっこをしていたり、ママ友達の夫自慢や旅行自慢など、水面下の戦いが繰り広げられていた。
歩き回って時間を潰そうにもスーツケースやボストンバッグなど大きな荷物を抱えているために移動可能範囲は大いに限られていた。とはいえ、五時過ぎということもあり、子供連れの母親たちは夕食の準備もあり、子ども達を連れてその場を後にしていった。流れとは面白いもので一組が帰ると他の親子達もそれに倣っていた。おかげで気がつけば人っ子一人居なくなった閑地が出来上がった。つい五分ほど前までの喧騒が嘘のようだった。遊び場としての役目を終えた公園のベンチに一人座って息をつく。夕焼けに照らされ遊具が紅く燃えている。こうなると日暮れまであっという間だ。程なくして辺り一面が暗くなり、外周にある街灯が点いた。
夜風が強くなってきた。日差しが目にささって本が読みづらい。もうすぐ集合時刻になろうとしていた。
その時、視界の橋から誰かが歩いてくるのが見えた。
女性の靴特有の高い音が響き渡る。持っていた本に栞を挟んで鞄の中にしまった。
その影はこちらへ近づいてくる。
俺は荷物を置いて席を立った。
女性は俺の目の前で立ち止まると髪留めを解き、美麗な黒髪を靡かせた。思わず見惚れてしまった。相変わらず惚れ惚れする容姿だった。
「時間どおりかしら?」
「あぁ、五分前行動。社会人として完璧だな」
「そう、良かった」
彼女はふぅと息を吐くと姿勢を正して真っ直ぐに俺と向き合った。あれほどまでに吹き荒れていた風がバッタリと止んだ。
「久しぶり、比企谷くん」
「あぁ、わざわざすまない」
雪ノ下雪乃は仕事終わりだった。オフィススーツのまま会社から直接ここに向かってくれていた。
「もう、随分と雪ノ下に会っていない気がするな」
「そうね。貴方に会えない間、時間がとても長く感じたわね」
「意外だ、雪ノ下もそう思ってくれていたなんて」
「…分かっているくせに。貴方も黒いわ」
「意趣返しだ」
俺が雪ノ下に名刺を渡した夜に自分が可愛くなったかどうか電話でわざと言わせようとした事を掘り返してやった。
「はっきりと言うのね貴方」
「器が小さいという自覚はある」
「自覚があるなら許されるというわけではないのだけれど」
「安心しろ、別に許しを請うつもりもない」
「比企谷くんに対する印象値がどんどん下がるわね。それにしても、どうして帰国早々に私を呼び出したのかしら?」
話を戻すと、雪ノ下がここに現れたのは俺が呼び出したからだった。出国前にここで落ち合う旨のメールを送信していた。日を改めて会うのが望ましいと思ったが、どうしても早く雪ノ下に会って伝えたかった事がったので無理を言って来てもらった次第だ。とはいえはそれがまさか帰国して直ぐとは思ってもみなかったのか、雪ノ下は俺の荷物を見て流石に目を丸くしていた。
「あぁ、答えが出たからな」
「そう……」
雪ノ下は表情を曇らせた。これから何を言われるのか。恐怖や期待、憂鬱などが一挙に顔に出ていた。
「なら聞かせて」
「あぁ」
ここがポイント・オブ・ノーリターンだ。俺はこれから花園という地獄に脚を踏み入れる。一度浸かってしまえばもう戻ることは出来ない。
彼女は腕を抱きながらこちらを見上げている。俺の顔を見てなにか察したのだろうか。
それでも彼女は待っていた。
俺の言葉を聴き逃すまいと熱い視線を送っていた。
欲しかったものが手を伸ばせば直ぐそこにある。
数え切れないほどの後悔があった。
二度とあの寂寥に満ちた夜は過ごさない。そう決意した。
二人の間を刹那の風が通り抜ける。間にあった葉や枝が全てその風にさらわれていった。
彼女を長く待たせていた。
だからこそ迎えに行く。
俺は…………。
肩に入った力をスッと抜いて、真っ直ぐな目で告げた。“もし良かったら…”なんて接頭語なんて要らない。シンプルに、ただ言葉を紡ぎ出した。
「俺は雪ノ下雪乃を誰よりも愛している」
続く
次回は一週間後です!