-Interlude-
彼は罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
そうなるように仕向けたのはあたしなのに。
彼女も同じようにつらい思いをしている。
そうなるように仕向けたのはあたしなのに。
彼が色々な女性に目移りをするようになった。
そうなるように仕向けたのはあたしなのに。
彼が後輩の女の子を抱きしめてしまう日はそう遠くない。
それは……正直ちょっと想定外……だったけど仕方ないかも。
彼女が彼を必死に求める日はも、もうすぐだろう…。
そうなるように仕向けたのは…あたしだから。
大丈夫……。あたしたちは間違っている。けどこれ以上は間違わない。
-Side Hachiman-
「流石に眠いな……」
別に昨日は飲みすぎたわけでもないのに疲労感が半端じゃない。いつも以上に仕事に身が入らない。理由は考えなくても分かる…。自分がここまで昨日の一件を引きずろうとはおもいもしなかった。今朝からずっと一色の姿が朝から離れない。そんな時に限ってあいつは昼飯を誘いに来ないものだからこっちはモヤモヤがずっと取れずにいる。
「……っ」
あまりにも集中出来なくなってしまっていたので、ラウンジの自動販売機でコーヒーを買うことにした。マッカンは血糖値が急激に上がって現状が悪化する未来しか見えないので、ブラックコーヒーにした。
入り口で扉が開く音が聞こえる。俺はそれを気にもとめず椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。
あと数週間もすれば、4月になってまた新入社員たちが入ってくる季節になる。そうすればまた、忙しくなる。後進の指導にあたってこんな自分を忘れることが出来るだろうか。
留美はこの部署に配属されるのだろうか。少し前に彼女から大学卒業の連絡と弊社に本入社する旨のメッセージを貰っていた。そしてボストンで会った時以降お互い、気持ちの整理がつくまで会わないようにしようと約束していた。それなのに、自分の携帯で彼女にメッセージを送ろうとしている自分をすんでのところで止めるといった事があれから何度もあった。
分かっている。
今留美に甘えてしまったらそれこそ一番彼女のことを傷つけてしまうということ。彼女は結衣の代わりでも雪乃の代わりでもない。
改めて考えると、俺は既に雪乃と結衣の二人以外の女性にも既に手を出しているじゃないか。それなのに責任やら、甲斐性やら意地なんてものを語ろうなんて。へそが茶を沸かす以外の何物でもない。
だったら俺は一体何に対して罪悪感を感じているというのか。
罪悪感を感じることで逃げているんじゃないか?
自分が悪いと思うだけで何かが許されて変わるんじゃないかと思っているだけなんじゃないか?
今だってそうだ。
逡巡してるフリをしておいて結局一色に逃げようとしている。アメリカの時と何も変わらない。雪乃の代わりに留美に甘えて、今度は留美の代わりに一色に甘えてしまっているじゃないか。
そんなものは……俺が一番嫌っていた欺瞞では?
忌むべき物を許容し、あまつさえ求めてしまっている。とんだ道化がここにいるわけだが、今となってはもうそんな自分を変えようなんて気すら起こらないほど自分という人間は堕落していた。
だってそうだろ?
あんな甘美な時間を味わって忘れられるはずがない。
倫理、規則、体裁、義務、あらゆる道理を無視して快楽を求めた先にあんなものが待っていると知ってしまったらもう戻れない。
雪乃との時間を無かったことに出来るはずがない。
あんなにも背徳と淫蕩に満ちた幸福を我慢出来るはずがない。
何もかも忘れて姦淫に耽溺することが人類の目的であるかのようにさえ思える時間だった。
きちんと決着をつけて結論を出す。
そんな聞こえの良い模範解答の導き方がわからない。
まともに戻れるはずがない……。
自分がどれだけ麻痺してしまっているかも分からないのに。
自分がどれだけ壊れてしまったのかも分からないのに。
そんな自分を受け入れてくれる人間しか俺の周りにはいないのに。
留美と一色。
留美はいざという時に怒ってくれる、導いてくれる。
一色も……俺を誘惑しながらも最後は理性が勝って俺のことを叱咤してくれる。
それでも俺が本気で彼女たちを求めてしまえば間違いなくそれを受け入れてしまう。
俺はその答えに甘えてしまう。
そうやってなんども同じ過ちを繰り返して深みにハマっていく。傷つけて、裏切って最後は……一人になる……。そうなっても俺はまた誰かを求めるに違いない。
俺が選んでしまった選択肢はこの先どうあがいても光の見えない最低でしかないのだから。
そう思ってしまった時、また悪魔の囁きが聴こえてしまう。深淵に引きずり込む悪魔の導きが……。
もう結衣も雪乃も……俺も……二度と戻れない……。
それなら………もう……
「あ……」
女性の声だった。誰か入ってきたらしい。
その声があまりにも聞き覚えのある声だったので、思わずそちらに目をやる。
「あ……」
かく言う俺も同じような声が出てしまった。何故ならその女性がまさしく俺がずっと一言会って話したいと思っていた人物だからだ。
「せ……先輩」
「お、おぅ……。一色か」
「”一色か……”って見たらすぐ分かるでしょ?嫌味ですか?」
何故かあざとい後輩は不機嫌そうだった。俺を見るなり可憐な表情はどこへやら、あっという間にしかめっ面へと変貌してしまった。
「その……昨日は大丈夫だったか?」
「ええ。お陰様で無事”1人で”家に帰りましたよ」
やけに1人ってところを強調して言ってきた。ならやっぱり、送れば良かったのか。
「自分だけでも大丈夫って言ったのはお前じゃないか」
「そうですよ、私は優しい後輩ですから。先輩に気を使ってあげたんですよ。感謝してほしいですね」
やっぱり本当は昨日結構キてたようだ。だからといって、同情で彼女を家まで送ってしまった時、自分の理性がどうなるか想像もつかない。最悪のケースは十二分に想定内だったと思う。我ながら節操がない。
「その……俺も昨日きちんとお前のペースを考えて飲ませるべきだった。すまん」
頭を下げて謝罪した。どうしても俺はいつも肝心なところで彼女の優しさに甘えてしまう。
「え……いや、あの……そういうことが言いたかったんじゃなくてですね……」
一色は動揺していた。彼女らしくもないオーバーなリアクションで両手を前に突き出してぶんぶんと振っている。しばらくしてようやぅ落ち着きを取り戻した。
「もぅ〜。なんでそうやって甘やかすかなぁ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも一色はカフェオレを手に持って俺の隣りに座ってきた。周りには誰もおらず、自動販売機の空調の音が響いている。
「わたし、とっても寂しかったんですよ?」
身体の色々なところが密着していた。彼女の顔を窺うとこころなしか、頬が赤くなっている。
「すまない…」
「もぅ……そう思うんならちゃんと責任とって下さい…」
手をもじもじとさせて、上目遣いでこちらを見る。期待しつつもどこか諦めたような表情。
そんな彼女を見て思う。
何年もそんな苦しい思いをさせ続けてきた。押し寄せる罪悪感を素知らぬフリと冗談で何年も誤魔化してきた。自分が一番大変なときや、誰か側にいて欲しい時にずっと一緒に居てくれた彼女のことを誰よりも蔑ろにしてきた。
そんな酷い最低の男に付いてきて見守ってくれたのが一色いろはという女性だった。
高校の卒業式で告白される前よりもずっと前から。俺は真正面から彼女と向き合ったことが無い気がする。いつも斜に構えて、どこかのらりくらりとして接していた。こんなにも長い付き合いのはずなのに。
俺はもしかすると初めてこの後輩と正直にぶつかり合おうとしているのかもしれない。それが彼女にとっても俺にとっても甘美な地獄への始まりと分かっていながら、俺はこの女性と一緒に深淵の奥底深くに飛び込もうとしている。
「……っぁ……」
喉から出かかった言葉が、言葉となって伝わる前にその勢いを失いかける。虚無と欲望が黒いヘドロとなって心臓から湧き出てくる。今またこうして自分が間違おうとしていることを警告するように、際限のない罪悪感を連れて。
視界が歪む。虚ろな目で彼女をもう一度見る。
可愛らしくて、明るくて、それなのにどこか儚げで、危うさを抱えている。今も彼女は俺に真っ直ぐな眼差しで澄み切った愛を求めている。そんな希望など存在し得ない。
手を伸ばしてところで待っているのは怠惰な享楽に満ちた終着点。
俺はそれが今一番欲しい。
少しでも今のこの気持ちが楽になるのならそれを求めたい。
そしてその相手が目の前にいる女性であればいいと思う。
結衣でも雪乃でもない。
彼女なら……彼女だけはそんな俺の感情を理解してくれるんじゃないか……?
最低の欺瞞と傲慢で無理矢理、出かかった声を音にして押し出す。
「……………ぉ……お前がもし……本気なら………ちゃんと……取りたいと思ってる……」
「……え?」
一色が手に持っていたカフェオレを落としそうになっていた。自分が今しがた聞いた言葉が信じられずに、何度も反芻しているようだ。
「………もう一度言ったほうが良いか?」
「あ……え……ちょ………え……?」
状況がきちんと飲み込めていないのだろうか。なけなしの勇気だったのにな。
なら、今度こそはっきりと途切れることなく彼女に伝わるように口にする。
「一色が本気なら、俺もそれに応えようと思う」
一度言ってしまえばあとは楽だった。自分の中の壁を壊して、堕落を受け入れてしまえば良いだけだったから。なんで今まで、こんなにも悩んでいたのだろうと呆れるくらいに底辺を貫く。眼の前にいるこの女性がどうしようもなく欲しくなったから。ただそれだけの理由で。
「はぅわ!?」
なんだその奇声は……。こっちは声を出すのだけにもこんなに気が遠くなりそうなのに。
「………返事は……今じゃなくても良い……」
「……せんぱい……?」
「今言うのはとんでもなく卑怯だって分かっている……。お互いの弱みにつけこむみたいで……」
「そうですね。結衣さんも雪乃さんのことも振って”お前だけなんだ!”とか期待してたのに幻滅も良いところですよ」
「……そうだな。あまりにも虫が良すぎる。何考えてるんだろうな俺は……」
本当に俺は何を考えているんだ。自分は一色を利用しようとしているクズだった。自分の中の悪魔の甘言に流されて、大切な女性をまた傷つけた。拭えない事実が罪悪感の波を引き連れてまた押し寄せる。
「先輩」
「悪いな一色。今のは……自分が悪かった。出来ることなら忘れて欲しい」
彼女の顔を見るのが怖い。
どんな表情をしているのかも確認したくない。頬から落ちる汗が冷たい。
俺はまたその場から逃げ出すように立ち上がった。
………。
立てない。
足に力を入れようとすると、それを拒むように右手から椅子に引きずり落とされる。
彼女が俺を逃すまいと腕を掴んで体重をかけるように引いていたからだった。
何度も失敗した。
そのうちに両手で頬を挟まれてぐぃと顔を相手の方に向けさせられてしまう。
「なんでこっち見ないんですか?」
案の定、一色は怒っていた。激昂というよりは静かな怒りを沸々を心の中に強引にしまい込んでいるようでふるふると震えている。噴火寸前の火山のようだった。
「どうして、そうやって逃げるんですか?」
「……それは」
「わたしからも結衣さんからも雪乃さんからも皆逃げて、それで解決するんですか?」
「……っ」
「それは責任逃れですよ」
一色は決して声を荒らげない。本当はふざけるなと大声を上げたいに違いないのに。
「たとえ、結衣さんと雪乃さんが先輩が逃げるのを許してしまっても……私は絶対に逃しませんし許しません」
「それが俺を甘やかすことになってもか?ダメにすると分かってもか?」
「何言ってるんですか先輩。先輩はもうずっと前からダメな人間じゃないですか」
「そ、そういうことじゃないだろ」
「いっつもそうやって冗談めかして誤魔化してたんですよ?それを今更良い子ぶって反省しましたとか。不倫の謝罪会見じゃないんですから、そんなん見たって誰も信じないですよ」
後頭部に手を回されて引き寄せられる。気がつくと俺はすっぽりと彼女の胸の中に収まっていた。
離れようと思えば引きはがせる程度の弱い力だった。
俺が拒絶しようと思えば簡単に出来る程度の抱擁だった。
なのに、離れたくない。
あまつさえ自分も彼女の肩を抱くように手を添えてしまっている。
「良いじゃないですか。最低でも。ダメダメな人間でも。わたしが全部受け入れてあげます」
優しく後頭部を撫でられた。
やっぱりそうだ。一色いろはは俺の全部を受け止めてくれる。
だからこそ甘えてはいけなかった。
そしたら俺は一生、彼女に甘えていないと生きていけなくなってしまう。
一色いろはという女性の虜になって何も考えられなくなってしまう。
「先輩ならやれますよ。仕事で失敗しても、結衣さんと雪乃さんに呆れられちゃっても。それでもね、先輩って人は頑張っちゃうんですよ。そして、なんとかしちゃうんです。たとえ自分が壊れてしまうとしてもやり遂げてしまう。誰のためにもならない奉仕活動を延々と続けて、自分は生きたんだ―って満足しちゃうんですよ」
「そんなことはねーよ……結局一人で出来なくなって、迷惑かけて、誰かに拾われて。拾ったくれたやつを傷つけて。そんで……最後は一人になって……」
「ならないですよ。少なくとも一人じゃなくて……二人です。わたしが居ます。信用ならないですか?これでも10年近くも敗戦濃厚の恋に人生捧げてきたんですよ……?ちょっとくらい、信じてくれても良くないですか?」
一色が耳元に口を寄せる。彼女の甘い吐息がダイレクトに伝わって、心地よい快感が生まれてくる。
「わたしが言い訳になってあげます。わたしに甘えても良いんですよ?わたしが……わたしだけが…先輩の全部を受け入れて肯定してあげます♡」
「そんな契約……受け入れられるはずがないだろ……」
なんという甘い響きだろう。だが、それは当然悪魔の契約だ。しかもとてつもなく悪質で魅力的な誘惑。本気で奪おうと思えば奪えるのに、最後まで俺に委ねて、判断を鈍らせる。一色の常套手段。彼女が見せる意地悪で狡猾な一面。一番の魅力とも言える素顔。
そんなものを同時に見せつけられて、俺の心が揺らがないわけがない。
「……ぉ、俺‥‥は……んんんむ!」
途中で口を塞がれた。俺に考える余地を与えさせまいとする彼女の最後の一押し。
それは久しぶりに感じる彼女の唇だった。ずっと前にカフェで奪われた強引な口づけとは違う。一色の柔らかい、熱い感触が脳髄を突き抜けるように浸透していくような長くて蕩けるような甘いキス。会社のラウンジといういつ誰が来るかも分からない状況の中で繰り広げられる情事。理性がドロドロに溶かされていく感覚に酔いしれて、一色いろはのことで頭が埋め尽くされていく。
舌は侵入してこなかった。それなのに、甘酸っぱさなんてものは毛程も感じられない。濃厚で欲望の限りを貪るような熱い接吻。絡み合うように互いの腰に回される腕。体中の血液が沸騰して動悸が止まらない。
ちゅ……ちゅ……ちゅく……。
きつつきのようにくっついては離れる。弾けるようなみずみずしい唇の感触を覚え込まされる。
「………ぷは……。えへへ……」
1分近く経過してようやく解放された。眼前に広がったのは艶々とした後輩の唇と扇情的で情欲をかき立たせるような彼女の蕩けきった目だった。そのまま彼女は俺の目の前に回り込むと両足をまたぐようにして俺の股の上に座った。首に両腕を回される。香水の匂いと彼女が放つフェロモンで理性を完全に破壊させられた。生殺しのような体勢で一色はしばらく俺の間抜けな面を恍惚とした表情で楽しんでいた。
「………今のは前金です……」
整わない息遣い。紅潮した頬。首から滴り落ちる汗。ちらと見える、高校の時とは見違えたハリのある胸。全てが煩悩を刺激してやまない。
そして、顔を耳元にもう一度寄せると、白く透き通った人差し指をいやらしく俺の唇にあてがった。
「続きは……ホテルで……♡」
一色はもう片方の手で、さわさわと俺の怒張した股間を優しく撫でる。俺はもう一色いろはという女を抱くことしか考えられなくなってしまっていた。
呆けきった俺を残したまま彼女は軽い足取りで席を立つ入り口で振り返るとこちらを見ていやらしく笑いかける。
えっち……
分かりやすく口パクで俺に伝えるとその後は一度も振り返らずにラウンジを出ていった。
これ以上ない最悪の仕打ち。ここまで焦らされて、昂ぶらせておいて、生殺しで仕事をしろというのか。
その時ピコンと受信音が鳴り響く。送り主は今さっきまで一緒に居た人物からだった。
『すごく固かった………/////』
軽く撫でただけで硬さが分かるわけないだろ……。それなのに男の尊厳を褒められたような気がして浮かれてしまっていた。
それに……タメ口のせいで余計に興奮が…。
我に返ったのは、程なくして他の男性社員が入室し、怪訝な顔でこちらを見ていることに気づいてからだった。唇に付いた彼女の口紅を乱暴に拭き取ってその場から逃げるように退出した。
続く
次回の投稿も1週間後になります!
まだまだ続きますのでよろしくおねがいしますm(_ _)m