タイトルみたいな内容です。
<おめでとうございます! あなたは人生交換の対象に選ばれました!>
ある休日の昼下がり、メールソフトを確認した俺にこんな件名のメールが届いていた。
送信元のアドレスに見覚えはない。仮にあったとしてもこんなメールを送ってくる奴は思いつかない。
いたずらか、あるいはスパムか。添付ファイルはないようなので、遠慮なく本文を読み進める。
<おめでとうございます! あなたは人生交換の対象に選ばれました!>
<以下のURLにアクセスいただくと、人生交換に合意したとみなし、自動的に交換が始まります>
…確かに文末にはリンクアドレスが記載されている。しかし人生交換とはいったい何だ?
字面通りの意味をとっても、到底実現できるとは思えない。奇抜な広告か、あるいはリンク先にウイルスでも仕掛けているのか。
前者だとすればこの広告は成功なのだろう、いったい何の宣伝なのか、俺は結構気になっている。
もし後者だとしても、仕掛けられたウイルスに対してセキュリティソフトが働くだろう。結局俺は深く考えることなくURLをクリックした。
新しくウィンドウが開き、サイトが表示される。
<井上竜彦 様 合意を確認しました。>
<5秒後に交換が実行されます>
無機質な白い背景に、たったそれだけの文字が書かれていた。
いや、待て。どうして俺の本名がここに書かれているんだ。いったいどうやって――
「うおっ…!」
その瞬間、辺りが光に包まれた。あまりの眩しさに、思わず目を覆う。
いや、眩しさだけじゃない。耳元では激しいロックでもなっているかのような耳鳴りが響き、平衡感覚もジェットコースターに乗ったかのように乱れている。
何より体が痛む。風邪をひいたときの、響くような頭痛の痛みが全身から発せられているようだ。意識が遠のいていく――
――気が付いた時、目に入った光景は先程とはかけ離れたものだった。
壁紙は淡いピンク色になっている/壁は白かったはずだ。
部屋も机も整理整頓されている/もう少し散らかっていたはずだ。
「どういうこと…だ…!?」
俺は思わず声を上げた、そして気づく。自身の声から感じる強烈な違和感に。声が明らかに高い。
一体どうなっているんだ!?
声の違和感を発端に、全身の感覚に違和感を感じる。感覚が鋭い、というべきか、あるいは敏感というべきか、ともかく全身を覆う服の感覚がいつもとは違っている気がする。
よく見れば服にもどこか――
その時、机の上に置かれていたスマートフォンが振動した。液晶にはメールの着信を知らせる文章が表示されている。
俺は手早くパスコードを入力して着信を確かめる。
いや待て、何かがおかしい。そうだ、このスマートフォンだ。俺の使っていたものとは機種もカバーも違う。
なのにどうして俺はこのスマートフォンのパスコードを知っている? その疑問はメールの内容によって彼方へと追いやられた。
<人生交換が完了しました!>
人生交換、先ほど俺が開いたメールにも書いてあった。もしかしてあれは――
「本物…だったのか?」
まさか本当に俺と誰かの人生がそっくりそのまま入れ替わったとでもいうのだろうか? そうでもなければこの状況に説明がつかない。
ともかく詳しいことを知るためにメールの本文に目を通す。
<人生交換が完了しました!>
<エリザ 様のご依頼通り、『ランダムな日本人男性』との人生交換が成立しました。>
<これによりエリザ 様は過去、現在、未来に渡りエリザ 様であることが一時的に確定し、日本人男性であった記憶は人生交換が完全に確定し次第、完全に失われます。>
エリザ――その名前を見て俺はそれが自分の名前だと認識してしまった。いや、認識できてしまった。
「エリザ…ち、違う! 俺はそんな名前じゃない! 俺は日本人だし男だ!」
俺は自分に言い聞かせるように叫んだ。しかしそう言い切れるのもそこまでだった。
「俺は…俺の本当の名前は――!」
思い出せない。まるで最初から、自分の名前がエリザであったかのように、それ以外の名前などなかったかのように。
そのことに絶望しつつも、元に戻るための手掛かりを求め、本文を読み進める。
<また、確定が一時的である場合は双方の合意があれば解消することができます。そのため、文末に交換対象となった日本人男性のメールアドレスを記しておきます。>
手掛かりは思ったよりもずいぶん簡単に見つかった。つまり文末にあるアドレスに連絡し、交換対象――元の俺に交換の解消を求めればいい。
さらに文章を読み進める。
<人生交換の対象者には積極的な交換の確定を促すために『自分自身であること』に強い幸福感を抱くよう、嗜好がわずかに変更されています。これは確定が解消されない限り恒常的なものです。解消を考えられる際はご注意ください。>
…文章はここで終わり、その下にはメールアドレスが記載されていた。だがこの文章はどういうことだ?
「自分がエリザであると思うと幸福感を抱く…の…?」
言葉を発した瞬間、俺はこの文章の意図を理解してしまった。
「あっ…」
疑問形であるにもかかわらず、脳裏をよぎってしまった「自分がエリザである」という言葉に呼応するように、体の内側――特に下腹部のあたりに何か温かいものがこみあげてきて、思わず声が漏れる。
「違うっ…! 絶対に俺はエリザなんかじゃないっ…! 絶対に違うっ!」
俺は元に戻るんだ! その一心でこの幸福感を無理やり否定する。
「絶対に…違う…」
うわ言のように言葉を並べながら、俺は文末のアドレスに向けてメールを作成する。
元に戻りたいので交換の解消に合意してほしい、できれば会って直接話がしたい、と。
普段パソコンのメールばかり使っていたのだが、まるで体が覚えているかのようにすらすらと作成できた。
――いつも使ってるから――脳裏にそんな声が響いた。
「――そんなことない! 俺は携帯のメールなんて全然…!」
そこまで言いかけると今度は直接映像が浮かんでくる。普段メールを打つ自分の記憶が――
慣れない留学先で四苦八苦する自分を心配する母へ返信した記憶。日本でできた友人と時間を忘れて連絡する記憶――思い出す記憶一つ一つがかけがえのない幸福なものに思えてくる。
「違う、違う違う! 全部俺じゃない!」
そしてそれをすべて否定しなければならない自分。元に戻るためとはいえ、抱いた幸福を否定しなければならないのはつらいことだった。
こんなことを数度繰り返した果てにようやくメールの送信にこぎつけた。そのころには周囲はもう薄暗くなっていた。
もはや何をするのも憚られるようになっていた。メールを打つという行為だけであんなことになったのだ。他のことをすればどこでどうなるか分かったものではない。
だがそんな俺をあざ笑うかのように、体はどうしようもない空腹を告げていた。
こればかりは仕方がない、と冷蔵庫に入っていた、おそらく一番無難なものであろうゼリータイプのエネルギー食品を手に取る。
キャップを捻るために軽く力を入れる。しかし全く開く気配がしない。随分と力が弱いようだ。何度か開けようとして、結局手を痛めながらも開くことに成功する。
「こんなに非力なんだ…」
改めて自分の腕を見る、まるで箸より重いものを持ったことなどないような細腕。透き通る白磁のような、毛など一切生えていない肌。今はこれが自分の体だと思うと、思わずドキリとする。
容器に口をつけ、中身をすする。ゼリーを嚥下するときの喉の感覚が嫌にはっきり感じられた。
そのまま胃の中まで感覚は降りていく。ここで初めて、自分がとんでもないことをしているのではないかと感じ始めた。
自分自身の意思で食事を行い、エリザという少女を生かそうとする行為が、元の自分に戻るという行為を否定しているのではないか、と。
<ヴーッ! ヴーッ!>
「うわぁ!」
突如スマートフォンがけたたましく振動し、思わず声を上げてしまった。内容は――
「来たっ!」
先ほどのメールの返信だ。まさかこんなに早く来るとは思ってもいなかった。はやる気持ちを押さえようともせずに、手早くメールを開封する。
<エリザさんのメールを拝見しました。そちらの希望通り会って話したいと思います。>
<しかしこちらとしては人生交換の確定を望んでおり、解消は本意ではありません。よって解消に当たってはいくつかの条件を提示させていただきます。>
<条件の達成を確認でき次第、会う場所を伝えたいと思います。>
どうやら向こうはあまり乗り気ではないらしい。それもそうか、半分巻き込まれたようなこちらとは違い、向こうは交換を望んだのだから。
さて、気になるのはその条件だ。画面をスクロールするとその内容が表示された。
<1:きちんとお風呂に入ること。証拠の画像も送ってくること。>
――何を考えているんだ。確かに年頃の女子が風呂に入らないのはどうかと思うが。
しかし、まずはこれをこなさないと始まらない。俺は風呂に入る決心をした。
脱衣所までやってくると、入れ替わってついに見ることのなかった鏡がそこにあった。
「これが…今の俺…?」
これまで断片的にみてしまった記憶からもうすうす感づいていたが、エリザという少女は留学生のようであった。
出身はヨーロッパのあたりだろうか。日本人では染めない限り見られない腰ほどまであるブロンドの髪と整った顔の印象を際立たせる碧眼。
そしてラフなTシャツの胸元を際立たせる双峰。ここまでのサイズはなかなかお目にかかれないだろう。
脳裏をちらつく記憶がこの胸のせいで常に好奇の目線にさらされていたことを告げるがすべて無視する。まともに取り合っても何にもならないことはわかっている。
シャツを脱ぎ、ズボンを下す。鏡には女性用の下着に身を包んだ少女だけが映っていた。
かつての自分であれば決して目にするはずのなかったその光景に思わず息を呑む。その少女の肉体が今や自分の制御下にあることにも。
ゆっくりと下着越しに股間のあたりを触る。いつも触っていたはずの凹凸は感じられず、代わりにいつもこの体が感じている、なだらかな丘を撫でる感覚が返ってきた。
「やっぱり…今は女の子なんだ…」
ただそれを確かめ、一瞬ためらった後一気に下着を脱ぐ。体が覚えているとでもいうのか、脱ぐこと自体は特に苦労しなかった。
お風呂に入り、シャワーを頭から浴びる。いつものことのはずなのに、体の感覚が違うからか、皮膚を伝う雫の一滴さえ過敏に反応してしまう。
全身の毛は処理されているのかはたまた元から生えていないのか、お湯お浴びて体をさするだけですべすべとした感触がする。
そして手を当てると吸い付いてくるような大きな胸。
…これ以上体をまさぐっているとなんだか変な気分になってきそうだ。頭を切り替え髪をシャンプーする。
「髪、長いな…」
何しろ男にはありえない長さだ。女でもここまで伸ばしている人はそうそういまい。
丁寧にシャンプーをしていくととんでもなく時間がかかる。それでも根気良く洗い続けていたのだが――
「あっ――」
どうしよう、急に尿意を催してきた。トイレは風呂の隣にあるから、一度脱衣所の外まで出なくてはならない。
だが髪を洗っている途中の中途半端な状態で出ることは憚られる。それにこうして考えている間にもどんどん尿意は強くなっていく。
――そういえば女性の膀胱は男より小さくて、尿道も性器の文短いんだっけ?
「ああっ…ああっ――!」
男の時と同じように我慢しようとしたがうまくいかず、ついにその場で漏らしてしまった。
股間の割れ目から琥珀色の液体が流れ出る。男の時よりも勢いはなく、まさしく漏れ出ているというべき感じだ。
「はぁ――漏らし、ちゃった…」
漏らすのなんていつぶりだろうか。確か、小学校低学年の時――いや、いつだったか思い出すべきではないだろう。
とにかく幸いにも風呂場だったので、自分の周りをシャワーで丁寧に洗い流し、股の間――女性器も同じように洗う。
「んっ…」
思ったより刺激が強く、声が漏れる。我慢して数秒当てて汚れを落とす。
続いてタオルにボディソープをつけて体を擦る。いつもより感覚が鋭い分、鏡で見るよりも自分の体がどうなっているかはっきり感じさせられる。
スラリと伸びた足に肉付きの良い臀部、キュッとくびれた腰に日本人の感覚では巨乳、いやそれよりもさらに一回り大きい胸。
腕はしなやかに細く、全身には無駄な毛は一切生えていない。
全身を伝う泡の感覚とやや曇った鏡に映し出された極上の女体は俺に劣情を催させるのには十分だった。
「…少しだけなら…」
そう自分に言い訳して、椅子に座り、昔雑誌か何かで見たように股の間に右手を伸ばす。そしてゆっくりと弄り回す。
シャワーを当てた時と同じ感覚が下腹部から立ち上る。だがそれだけだ。劣情は収まらず、下腹部が熱をもって疼きだす。
「もっと…」
先ほどの言い訳も忘れ、俺を砂漠で水を求めるように快楽にしがみついた。右手はさらに勢いを増し、左手は勃起した乳首を慰めるようにこね回す。
「あっ、いいっ!」
口から洩れる声も次第に大きくなる。そして体の奥底から徐々に何かが込みあがってくる。
このままでは駄目だとは思った。しかし手は止まらない。そしてそこで最悪な出来事が起こった。
「あっ――!?」
快楽の最中で椅子ごと後ろに倒れたのだ。そして倒れこんだその衝撃で、爪で乳首と陰核を潰すように挟んでしまった。
「――――!」
徐々に高まっていた快楽は急激にその勢いを増し、神経を焼き切るかのごとく脳髄めがけて一直線に駆け上がる。
それをそのまま、転んで頭を打った痛みとともに伝えられ、声にならない声を上げてしまった。
しばらくは倒れこんだまま、快楽の余韻か頭を打った後のだるさかに身を任せていたが、さすがに肌寒さを覚え体をシャワーで軽く流した後湯船に浸かる。
先ほどのことで頭が冷えたのかそれとも頭を打ったせいか、はたまた現実逃避でもするように「おっぱいって水に浮くんだ…」などと口走ったきり沈黙する。
そして数分間、湯船で体を温め、脱衣所に戻る。濡れた髪が嫌に重く感じられた。
そういえば証拠の画像を送れなどと言っていたので、鏡越しに今の自分の姿を撮影する。
そのまま精査することなくメールに添付し送信。返信が来るまでは適当な寝間着でも探しておくとしよう。
だがそう考え、体をタオルで拭き、脱衣所を出るころには返信のメールは届いていた。
<一つ目の条件は達成です。続いての条件ですが、>
<2:外出用の服装を決めてください。服装の条件ですが――>
そのあとには目を疑うような文章が続いていた。――自分の体をアピールできるような服装。これを満たしているかはこちらで写真を見て判断します。
なんだこの条件は。意味はかろうじて理解できるが意図は全く持って理解できない。
「やるしかない、か」
だがしかし、これも元に戻るため。多少のことは割り切らねばなるまい。
自室の衣装ケースを確認する。予想よりもかなり多い衣服が丁寧に収納されており、そのどれからも女性特有の芳香が漂っていた。
服の種類も多様であり、街中でよく見かけるものから若干目を疑うものまで、服屋にでもなるつもりか。
とりあえず適当なものはないかと片っ端から探してみる。何着か出した後、引っかかるものがある服を見つけた。
「これは――」
取り出したのは若干和風のテイストが取り入れられたワンピース。確か、そう、日本に留学して初めてできた友達と――
「違う! …けど、結構デザインいいな…」
記憶を否定しつつも服そのものは悪くない。ひとまずこれで試してみるか。
ワンピースを着るのは初めてだったが、着るのには手馴れているような感覚だった。体が勝手に動く、というべきか。
姿見を見る。先ほど脱衣所で見たのとは打って変わって、和洋が絶妙に組み合わさった、清楚さを振りまく女性がそこに立っていた。
しばらくその姿から目が離せなかった。しばらく呆けていたが、ふと我に返り、カメラに姿身を映す。
そして送信、自分で言うのもなんだが、かなりいけていると思う。ここまでの美人はそうそうお目にかかれまい。
すぐに返信が返ってくる。本文を見る。
<駄目です。条件の意図が汲み取れていません>
一瞬頭が真っ白になった。何故?
いや、それは文中の通りだ。だがしかし、そこが問題だ。
意図とは何だ? ――ここに来て初めて、ある事実にぶち当たる。
――相手は今男だ。そして、本来の俺の意識が相手の意図を汲み取った。
「体って――」
いつの時代も男の考えることは単純だ。要は露出度とかそういうのを向こうは求めているのだ。
デザインがいいなどという理由で服を選んだ自分を恥じるとともに、自分がそういった女性的な目線をとったことを恐れた。着々と何かが変わりつつあるのかもしれない、と。
そしてだからこそ、男性の目線を自分がまだ持っていると主張するために、もう一度衣装ケースに向き合う。
だがしかし、今度は何も引っかかるものがない。どれも無難なところに落ち着きすぎている。
――よく考えろ、何かあるはず――
本来の自分自身の記憶を引きずり出す。ああ、そうだ。あれがあるじゃないか――
<二つ目の条件は達成です。続いて最後の条件を出します。>
「やった…!」
思惑通り、この服装は相手のお眼鏡にかなったらしい。しかしまさかここまでのものがあるとは思わなかった。
そして最後の条件が提示された。内容はずいぶんとシンプルだった。
<3:待ち合わせのため、あなたの名前と身体的特徴について述べたビデオを送ってください。内容は個人が特定できるレベルのものにしてください>
故に、それはどうしようもなく強大な壁となった。
息を呑む。否応がなしに認めざるを得なかった。この条件を満たすこと、それが示すのはただ一つ。
「――自分が何者か、認めろってことか!?」
そうだ、自分が何者か述べ、自分がどんな体をしているか語り、それが間違いなく「俺」という人間を特定するものであると騙れというのだ。
「っ~~――!」
歯噛みする。元の自分に戻るために、一時とはいえ「元の自分」とは偽りだと示さねばならないジレンマ。
「――いや、落ち着け…一瞬だけでいいんだ」
そう何度も自分に言い聞かせ、鈍る思考で決意を固める。
何度か深呼吸してスマートフォンのビデオを起動する。カメラを自分に向ける。
「わ、私、は――」
脳が、理性が、それを言ってはいけないと制止をかける。だが、だからこそ言わねばならない。
「――エリザ。エリザベート=アルバーン、で、す」
その瞬間、頭の中で何かがはじけた。何かがめちゃくちゃに壊れ、同時にこれ以上ないほど奇麗に組み立てられた。
知りもしなかったはずの本名が、口をついて現れた。そしてそれを自分のものだと認めた。ただこれで十分だったのだ。
脳が、体が、意思が、思考が、すべてが快楽に包まれる。ただ自分自身がエリザベートであるということだけで!
「ハンガリー、とアメリカのハーフで、日本には留学しに、来てます」
もうどこまでが自分の意図でどこからがそうでないかなど判るはずもなかった。
後はもう、時間の問題に思えた。だがしかし、最後、そういっても差し支えないほど僅かな、すべてが無に返ってなお自分を主張する、残り滓のような意識の楔がそれだけは許さなかった。
「――お願いします。元に、元通りに、戻してください」
最後に、これだけ言った。言えた。言ってしまった。すべての感想が脳裏によぎる中、録画は終了した。
メールをなんとか作成し、送信すると、そのまま息絶えるように意識を手放した。
翌朝、私は休日ということもあってか、いつもより遅い時間に目を覚ました。
――どことなく違和感がある。
どうして自分はベットで寝ていないのか、どうしてこんな服を着ているのか――
そんなことを考えながらいつも通りスマートフォンをチェックする。新着のメールがあるので確認する。
<最後の条件を達成しました。以下の日時にこの場所でお待ちしています>
ここですべてを思い出す。昨日自分が何をしたのかを――!
愕然とした。昨日、あれほどまでの衝撃を自分は忘却し、あろうことか、この一瞬を紛うことなきエリザとして振舞ったのだ。
そしてその感情は再び繰り返される。指定の日時は今日。そして場所は幸いなことにここからそう離れていないものの、約束の時間に間に合うかは五分五分といったところだ。
急いで顔を洗い、歯を磨き、慣れた手つきで化粧をする。もはやどこまでがいつも自分がやっていることで、どこからがエリザの習慣なのかはもうどうでもよかった。
時間が刻一刻と迫る中、駆け足で指定の場所に向かう。近所のビル街の中でも随分と寂れたところがその場所だった。
息が上がる。体が重い。明らかに普段抱かないその感覚を、どうにかやり込める。その場所についたのは時間ギリギリのことだった。
「ここ、かなぁ?」
指定の場所はたどり着いてみれば、古ぼけた廃ビルであった。何度か場所を確認し、ここで間違いがないことを確かめ、中に入る。
「――やぁ、待ってたよ」
中には一人の男がいた。知っていなければならないはずなのに、見覚えのない男が。
聞くべきことは山ほどあったし、聞きたいことも数えきれないほどあった。だが、口をついて出たのはそのどちらでもなかった。
「あなたが、元の私なんですか」
本来なら、聞くまでもなく確証を持っていなければならないことだ。だが今、この男を目の前にしても、それが何者かわからないままだった。
「なるほど、難しいね」
男はそういい一拍置いて再び口を開く。
「何をもって「元」というのか、そこが問題だ。俺はもう自分自身が俺であると断言できる。故に俺は元から俺でありそれだけが事実だ。だがしかし、君はそうではない。君は自分がもとは別の人物であり、今の姿は別人のものだと考えている。正直言って傍から見ると精神異常者かパラノイアにしか見えない」
「――違う。私は異常者でも偏執病でもない」
「じゃあ誰がそれを保証できる?」
「それ、は――私自身。そして、あなた」
スマートフォンを操作し、昨日のやり取りのはじめ――一通目のメールの本文を表示する。
「あなたは私と人生交換を行った。けれどまだそれは確定していない。少なくとも私は同意してないもの。あなた自身も、確定を望んでるってことはまだ事は終ってないんでしょう?」
「なるほど、その通りだ。認めよう。まだ君には元に――俺の体に戻るチャンスはある」
「なら、早く戻してよ!」
正直言ってこちらも割と限界だった。自分自身が本来は目の前の男で、それを動かしているのは今の自分の体も本来の持ち主であると意識し続けないと、自分自身が否定している自分そのものであると認めてしまいそうになる。
現に、もう自分の口調を鑑みる余裕もない。傍から見れば精神病というのもあながち間違いでもない。誰が体を擦り替えたなどという妄言を信じようか。
「嫌だね。元は俺がやりだしたことだ。覆すつもりはない」
男は悪びれもせずそう言ってのけた。
「っふざけるな!」
感情のまま男を掴みにかかる。だがいとも容易く躱され、勢いそのまま、壁に押さえつけられる。
「どうした? それで抵抗してるつもりか?」
全力で振り払おうとするが、男の手は万力か何かのように全く緩まない。
「一つ聞かせてもらおう。君は何者だ? 君が俺だというのならわかるだろう?」
「何者かって? 私はお前で――」
ここから先の言葉が紡げない。呪詛のように脳内で唱えている、空中分解寸前の一言だけが零れる。
「では、君の言う所の俺とは何だ?」
「それ、は。ええっと――」
「答えられないのか? では、俺の名前は?」
私の選べた回答は二つ、沈黙と目を伏せること。
「判らないのか? まぁ、教える義理もないがな」
男は嗤う。私は目の前の男を唯睨むだけだ。
「次は…そうだな。俺の性別は?」
「それは男――」「ではお前は?」
「それも、男だ…」
二つ目の解答は、力尽きた羽虫のように勢いを失っていく。目の前の男は嗤いを絶やさず、私のほうに手を伸ばす。
「ほう、これで男と宣うか」
男は私が羽織っていたパーカーを力づくで脱がす。それにより、私は服と呼ぶのは憚られる布を男にさらしてしまうこととなった。
「マイクロビキニ、とかいうのか? こんなものを男が着るとでも?」
「う、うるさい! もとはといえばお前が着てこいと――」
「俺は自分の体が映えるのを着てこいといったまでだ。ここまでしろとは別に言ってないが? にしても、この体でよく自分が男だといえたものだ」
男は私の胸を鷲掴みにする。昨日自分で触ったのとは全く違う、筋張った手だ。
「や、やめ――」
私の制止は股にあてがわれた逆の手によって途切れた。繊細などという言葉とは程遠い、乱暴な手つきに、一瞬息が乱れる。
「どこからどう見ても女の体ではないか。ここまでされればさすがに認めるか? まあいい、次だ」
男は動きこそ緩めたものの、手を離すことはなかった。脳に伝わる刺激が思考を阻む。
「俺は何人だ?」
「に、日本人?」
疑問形であるが、何とか答える、今度は先程までとは違い、沈黙は生じなかった。
「では重ねてもう一つ。『―――――』」
男が何かを言った。しかし聞き取れない。
「な、なんて?」
「もう一度言ってやろう。『――――――――――?』」
先ほどより、格段にゆっくり、何か言っている。ただの音の連なりに聞こえるそれを、回らない脳内で咀嚼する。そして理解する。自分自身がどうなってしまったのかを。
「『日本語で何を話したかわかりますか?』、ですって――」
「ああ、ずっと気づいてなかったのか? 最初から今の今まで――それこそ最初のメールの時から使っていたのは英語だけだ。もはや君は日本語すら簡単には聞き取れない。話すなどもってのほかだ」
反論はできなかった。そんなことはない、と日本語で返そうとして、それができない自分に気づいたからだ。
「さて、最後にもう一度聞いてやろう。――君は何者だ?」
「わ、私は――」
もう私には何も残っていなかった。語るべき自分は完膚なきまでに否定され、残ったのはただ目の前の男に弄ばれる、浅ましくよがる豊満な外人女だけだった。
「――では教えてやろう。いや、教えるでは語弊があるな。もう一度噛み締めるが良い――!」
男は手を止め自分のスマートフォンである映像を再生する。――それは私がここに来て初めて見た、見覚えのあるものだった。
<わ、私、は――>
そこに移っているのが自分自身だと気づくのに、そう時間はいらなかった。
「あ、や、やめ」
その先に待つ結末も。
<――エリザ。エリザベート=アルバーン、で、す>
途端に何も聞こえなくなる。いや、何か別の音にかき消されている。ああ、なんだ。絶叫だ――自分の。
自分の口から、喉から、その声帯から、映像の女と同じ音が出ている。息が詰まる。頭が真っ白になり視界は真っ黒になる。
そして最後、繰り返される映像の女と、男と、私とが、同じ意味の言葉を紡いだ。
<わ、私、は、エリザ。エリザベート=アルバーン、で、す>
「君はエリザベートだ」
「私は――エリ、ザ」
ああ、そうだったんだ。そう認めた瞬間、真っ白の頭の中にいろんな記憶が浮かんでは、その一つ一つがとんでもなく掛け替えのないものに思え、得も言われぬ幸福感に包まれる。
エリザが生まれた時。エリザとして小学校に通い始めた時。ハイスクールでできた友達のこと。留学先での出来事――歯止めをかけるものは何もなく、これまで17年の人生が、走馬灯のように流れていく。
そして頭の片隅にあった楔は外れ、呪詛は解け、決意ははるか彼方へ押しやられる。
自分が、自分だけが、生まれた時から今の今まで、唯一エリザである、と頭の中で木霊する。そしてその事実が、暴力的なまでの快楽となって全身を駆け巡る。
「私はエリザベート――」
うわ言のように何度もそう繰り返す。快楽で体は痙攣し、股間からは尿か愛液かの混ざり合った液体が流れだす。
「私はエリザベート――」「私はエリザベート――」
男はすでに立ち去って、ビルにはエリザが一人取り残されていた。
しばらくの間、ほとんど無意識にエリザはエリザとして、自分の記憶と寸分たがわぬ自慰をしていたが、やがて日が傾いて来たことに気づき、エリザの下宿先へと変えることにした。
脱がされたパーカーを拾い、それに染み付いたエリザの匂いに若干恍惚とした後、自分自身がエリザであることを誇示するためか、パーカーを着るのをやめ、ほとんど生まれたままの姿でエリザはエリザとして外に飛び出した。
エリザの目で世界を見て、エリザの耳で音を拾い、エリザの花で香りを認知し、エリザの舌で食を味わい、エリザの肌で万物を感じ、そしてエリザとして生と死を全うするのが、たった今この人間の定められた人生となった。
ただ、エリザはそれを幸福だとエリザの脳で考え、エリザの心臓は今後死ぬまでそんなエリザを生かすのだろう。(了)