気が付いたときには、また辺りは暗闇に包まれていた。
今より前のこと、よく思い出せない。
つまり、たぶんおかしくなっていた。思い出せないときのわたしは大体、そうだ。
「…………」
今、私はほんとうに起きているのか、まだ微睡んでいるのか、その問いかけがまた繰り返される。──と、思ったのだけれど。
暗い中でも分かる。耳と肌から伝わる。
なにかおおきな生き物が傍で息をしている、その気配が。
ヒトくらいなら、すぐに殺せてしまえそうな存在がすぐそばにいる。
だというのに、わたしはそれを、ただそこに在るものとしかおもっていない。
死ぬのが怖くないのか? 自分で自分に問いかける。でも、答えは出なかった。
死への想いがとても希薄だ。ひょっとしたらそれも欠けてしまったのかも。
だから、わたしは私を連れて来たらしいこの竜の好きなようにされよう。
痛かったり辛かったりしたら、自ら命を閉ざそう。
どうせ、死ぬのがちょっと遅くなっただけだから。
もし死んだら、誰かが迎えてくれたりするのかな。
でも、そんなヒト、誰も思いつかなかった。
……いつもよりは、頭がしっかりとしているような。
辺りに光がないから、耳を澄ました。
……昨日聞こえていた、どこからか響く音は聞こえない。ただ、竜のくぐもった息遣いの音だけが聞こえてくる。
その呼吸の音を聞き続ける。目を閉ざして、また眠くなるまでそうしていようと思った。
……………………
…………もしも、この呼吸の音がなくなったら、この竜がどこかに行ったら。
本当の静寂というものを、知ることができるのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、やがて気配の質が変わった。
ゆっくりと長い呼気が少しだけ速く、力強いものへと変わる。
しばらくして、その気配の主──竜はのそりと動き出した。包まれている感覚がなくなって、周りの熱から解き放たれて、わたしは目を開く。
目はすっかり暗闇に慣れてしまったようだった。
暗闇に溶け込んでぼやけつつも、その輪郭はなんとなく見える。
何よりも、その闇の中で爛々と輝く琥珀色の眼光。それがわたしに注がれている。
やっぱりその体躯は、どうしてわたしが死んでいないのか分からないくらいに大きくて。
そして、わたしの方を向いて歩み寄ったその竜は、わたしの身体を舌でべろりと舐めた。
「あっ……ん」
──変な声だ。とわたしは思う。
ひと舐めでお腹をすっかり濡らせるくらいにおおきな舌でねぶられているのに、出てくるのが喘ぎ声だなんて。
どうなのだろう。今のわたしが何も着ていなくて、感触が直接伝わってくるからというものあるけど、普通なら怖くて声なんかだせないんじゃないか。
まあ、そういう風に教えられたわたしだから。
おまえは身体を弄られれば嬌声をあげるモノだと言われ続けてきたから。
濡れる。濡れる。暗闇の中に僅かに混じる光を反射して肢体が艶めく。その艶は、果たしてその竜の唾液によるものだけなのか。
「あっ……ふ。ん、んぁ……ぁ……」
ひととしての尊厳なんてとっくに捨て去って、快感なんて忘れてしまった私はただ喘ぎ声をあげ続けた。
…………この生き物、きれい好き、なのかもしれない。
びゅうっと、凍える風を吹き付けられれば、身体に纏わりついた唾液が剥がれ落ちて、わたしのお世話は終わる。
わたしはそれを、ぼうっと見つめて、ようやく少しだけ思い出した。昨日……昨日? のこと。それで、いろいろと察してしまって、わたしはそれを受け入れた。
竜はその様子を見届けて、わたしから背を向けてまた歩き出した。柔らかく包まれているけど、迫力を感じる足音。のし、のしという音が暗闇の中で響く。
ややあって、その竜の腕のようにも見える翼が塞がれた出口をまた崩そうとしていて。
なにがあったのか、わたしは立ち上がろうとした。
手に力をいれて、身体を起こそうとしたところで、その不思議に気づく。どうしてわたしは今、立ち上がろうと?
それくらいの意志が、わたしに残っていたことに驚く。
別に、立ち上がりたくないわけじゃない。何かしようとしていることを拒否する気持ちすら持ち合わせていないだけで。
立ち上がれるか──手で身体をおこして、足に力を入れて、壁に縋って支えとして。膝を立て、片足を突いて、よろよろと──二本足で、立つ。
なんだ。立てるんだ。わたし。
それがどうしたと言われればどうしたもないけど、立つことができるなんて思ってもいなくて。立ったのなんて、いつぶりだろう?
何はどうあれ、自分の足で立ったわたしは、歩き方を忘れてしまった老人のように、壁伝いに、一歩一歩、歩き出す。
向かう先は、今まさに出口を開けた竜の元。外から差し込んだ光で闇を取り除いた竜の身体は記憶と同じように純白で、少しだけ眩しかった。
竜は立ち上がったわたしに気付いてる。わたしに顔を向けて、わたしが歩いているのを見つめている。
それを止めるつもりはないようだった。それが少し不思議だった。
記憶のわたしは、あの場所から何度も逃げ出そうとして、その度に捕まえられて罰を受けていたのに…………逃げ、出そうと?
わたしはここから、逃げ出そうとしてるんだろうか?
また自分に問いかける。そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。変なの、と自分に対して言うくらいしかできない。
ただ、黙々と歩き続ける。
長い時間をかけて、出口の傍まで近づいてきたところで、竜は外へと飛び出した。
息遣いや気配と言ったものが遠ざかっていくのを感じる。どうやらほんとうにわたしを止めるつもりはないみたいだ。ただ、見ていただけという感じで。
外を見たら、その理由が分かるのかもしれない。断崖絶壁でした、とか。それなら、死のう、と思ったときに飛び降りるだけでいいから助かる、かも。
なんなら今、飛び降りてもいいくらいで。本当に、どちらでもいい。
もしかしたらわたしは、そのどちらでもいい境界線に立ちたくて、歩んでいるのかもしれないと。
そう思いながら、少し高い位置にある出口を四つん這いになってなんとか登り切ったわたしは、外の景色を、見た。
銀嶺が果てしなく続いていた。
どこまでも、どこまでも。白で覆われた山々が続いている。
何も身に纏っていない私の身体に、冷気が刃のように刺さってゆく。
この白は、全て雪、なのだろう。
下を見れば、なだらかな傾斜の先に、雪を被った木々が森を作っていて。その先は、険しく反り立った氷の柱がいくつも連なっている。
また、遠くを見渡した。
白、白。空は灰色。銀色にも、蒼色にも見える。
まるでそれは、時間そのものが凍り付いた、異世界のようで。
そして、この先に人なんて住んでいないだろうことも、なんとなく察してしまった。
「…………え?」
自然とそんな声が口から零れ出た。
それはいったいどうしてか。少し考えて、分かった。
わたしは今、涙を零している。
美しい、と思った。でも、それだけで涙は出ないはず。
寒さが痛い、と思った。でも、そんな痛みなんて鈍くて仕方ないくらいで。
じゃあ、なんで。
そのとき、空の彼方を何かが飛んでいるのが見えた。
白い点。あれは……さっき出て行った、あの白い竜、なのだろう。
それは、この全てが凍てついた景色の中で、ひとつだけ躍動していて。
その、自由に空を駆ける姿は。
また涙が零れる。
わたしは掠れた声で呟いた。
「あぁ……わたし、もう、戻れない」
ヒトの住む場所には。そこはあまりにも遠くて、隔絶されていて。
助けなんて間違っても来ないような。ヒトからは見向きもされていない極寒の地に、たったひとり。
それが、そんな孤独が。
わたしには、救いだったんだ。