遠く、轟く音がした。
大雨が降っている只中に立っているときのように、ざあざあと音が混じる。
「──は生贄にするには穢れ過ぎて──」と、誰かが吐き捨てるように言った。
「しかし────逃げ出すことも──だろう」という声が耳に届いた。
「村──避難し────広場に残して──」別の声がまた聞こえた。
「──最後だから────楽しませ──人形──」誰かが、笑った。
そして、わたしはいつものように犯された。
その日、とても久しぶりに見た空は曇っていて、でも雲の切れ目から見える星はきれいに見えた。
ざあざあと音がする。雨はいつの間にか雹に変わっていた。
轟きの音は、すぐそこまで来ていた。
目を開く。開いたのだと思う。
それを確かめるために、指を目に当てて、瞼の動きを探った。
夢を見ていた、気がする。なんとなく。
記憶はある。何を見ていたかは思い出せる。ただ、なんというか。たぶんその夢は続いている。
わたしはずっと、夢を見ている。
音も、味も、触感も。何もかもが曖昧で、遠い。
夢の中で見る夢は、もしかしたらそちらの方が実感があるくらいで。
それは、ここでしか見ることのできないものなんだろうな、と。
ここにきて、何日が経ったか。そんなことは分からなかったし、知ろうとも思わなかった。
ただ、眠りのようなものから目を開けた感覚だけは何となく覚えていて、それなりに数を重ねた、と思う。
それだけの時間ここにいれば、眠っているときと起きているときでほとんど差はないくらいのわたしでも、少しだけ分かってくることがある。
まず、ここはあの白い竜の巣らしきものだということ。
わたしが起きている限りでは、ここにあの竜以外の生き物が入ってきたことはない。
竜はここにやってきて眠る。ときどき血塗れの冷たい肉を持ってきて、わたしに与える。外の天気が悪いときは、ここでじっとしている。それか、わたしを弄る。
弄る、というのは言葉通りの意味で、大きな腕のような翼でわたしを軽く押しつぶしてみたり、軽く口に咥えたりする。
わたしはされるがままにしている。もちろん怪我はする。押し倒されたときに擦り傷を負ったこともあるし、鋭い爪がわたしのお腹を切り裂いて、血が噴き出たこともある。
竜はそれを見るとその怪我したところを舐める。
竜の唾液は怪我を早く治す力があるのか、その傷口は大抵すぐに塞がる。そして、次にやるときは手加減が加えられている。
そんな様子を見ていると、わたしは都合のいいおもちゃとして連れ去られたんじゃないかと思う。暇潰しの道具、のような。
それは、わたしにはぴったりな役割のような気がした。
わたしが置かれているこの場所は、山のてっぺん近くにある洞窟のようだった。
外はとても寒くて、相変わらず何も着ていない今のままで出ればすぐに凍え死んでしまうだろう。
ふしぎなことに、その外の寒さはここには来ない。だから、わたしは凍え死ぬことなく生きている。
不思議なことに、洞窟の壁が温まっているような感じだった。昔絵本で読んだ、火を噴く山の落ち着いた姿なのかもしれない。
そして、この竜はまた、きれい好きでもあった。
私の排泄物は、凍らせて洞窟の隅に追いやっていた。それを見てから、自分の力で立てることがわかったわたしは、そこで排泄はするようにした。
毛皮の毛繕いをする姿をときどき見たし、わたしはよく全身を舐められた。
それで火照って熱くなった体を、吐息で一気に覚まされるのが日常のようになりつつあった。
竜がいない間、わたしが何をしているかと言えば、ただただぼうっと宙を見上げている、それだけだった。
こういうのには、慣れていた。眠っているときも起きているときも変わらないというのは、そういうことだ。
何も生み出さず、考えず、思うことすら捨ててそこに在る。
昔、それを見た誰かから「ヒトとして終わっている」と言葉を投げられて、だからきっとそうなのだろう。
ぼふ、と音がして。起きたときにはいなかった竜が、出口を塞いでいた雪をかき分けて戻ってきた。
ただ、その姿はそれまでと変わって見えた。
真っ赤な血が地面に零れる。白い身体のところどころが赤色に染まっている。
竜は、怪我をしていた。
竜は出口をまた雪で塞いでからのしのしと歩くと、洞窟の真ん中で丸くなった。
そして、左腕と後ろ足についた傷を舐める。
あれで傷が早くよくなることは、わたしも身をもって知っている。
でも、尻尾の付け根の方の傷には届いていないようだった。
そこからはまだ少しだけ血が流れ出している。
その血の匂いに、わたしは惹かれた。
「……ケダモノだ、わたし」
ぽつりと呟く。きっと、血の滴る生肉ばかり食べていたから。
もちろん、お腹は壊している。ヒトの身体が受け付けるものじゃないんだろう。
でも、そんなお腹の調子をそっちのけて、血の匂いはケダモノのわたしを酔わせた。
地面に座り込んでいた体を起こして、立つ。そして歩く。
支えがなくても、歩けるくらいにはなっていた。
尻尾の傷の近くまで辿りついた私は、そこでぺたりと座り込む。
そして、その傷口から滴る赤い血を、口を近づけて舐め取った。
途端に、ごうっと白い竜が息を吐いて、わたしの方を見た。
目が爛々と輝いている。
そしてわたしは、その竜の咆哮を初めて聞いた。
怒っている。けっこう痛かったのかもしれない。
私はそんなことを思いながら、その竜の視線を正面からぼんやりと受け止めた。
なんで、怖いって思わないのか不思議だったけど、なんとなく分かってきたような。
怖いのが、死にたくないからなら。
死ぬことにも生きることにも執着しない、ただそこに在るだけのわたしは。
起きていても夢のように感じるわたしは、ある意味、怖いもの知らずなのかもしれない。
怖いという感覚を、知ろうとしていないんだ。
「ごめんね。痛かった?」
わたしは、へら、と笑って声をかけた。唇から零れ落ちた竜の血が、口元を伝ってぽたりと地面に落ちた。
もしかしたらここで死ぬかもしれない。大けがをするかもしれない。それでも死ぬことに変わりはないから、どちらでもいい。
たぶんわたしは、あなたに救われたから。
わたしが生きている間に、こんなに遠い場所まで来れるなんて、思ってもなかったから。
痛みには慣れて、快感は鈍って、つらいとも思えない、ただただ終わっていたわたしをあなたはひろってくれたから。
そして、こんな歪な日々は、どうあろうと長く続くはずもないから。
わたしはあなたの、好きなようにされよう。
その場で互いに向き合って、長い時間が過ぎる。
逆立っていた竜の毛は次第に収まっていって、しばらくすると竜は唸り声をあげて顔を逸らした。
そして、今度はわたしを囲うようにその身体を丸める。
あの傷口に近づけないようにした、のかもしれない。左腕と後ろ足の傷から流れ出ていた血はもう収まっていた。
少しだけ名残惜しいけれど、もう身動きは取れない。
その場で地面に座り込んで、竜の翼に身を預ける。
竜の息遣いを、間近で聴く。体温を肌で感じる。
わたしはまた、目を閉じた。
ことばで通じ合うなんてできない。痛みも、怒りも、気を遣うことなんてできない。
昔、だれかが言っていた。人と竜は決して相容れることはない、と。
たしかに、そのとおりなんだろうな。と思った。
生きている世界が、あまりにも違うから。
そんな人からいまのわたしを見たら、びっくりするかもしれない。
でも、それはひどく当たり前のことで。
ヒトとしてあるべきなにかを失うこと。
それは、奇跡とは程遠い、ただの諦めだけれど。
今のわたしと竜のように、なにかのかたちを、残すのかもしれない。