ただ生きるだけの日々が続いていた。
あの日を終えても、わたしと竜との間に変わったことは起こらなかった。
また目を覚まして、お腹の中にはまだ淡い熱が残っていて。余韻に浸るようにお腹をさすった。
種族が違うから、子どもが宿ることはない。竜がそれを知っているかは、分からない。
じゃあそれは。竜が吐き出してくれた精液に、意味はなかったのか。
その問いに答えることは、わたしにはできない。
でも、わたしは。
わたしはそこに、意味を感じていた。
いつから考えなくなったかも分からない、誰かのために何かをしたい、竜に気持ちよくなってもらいたい、という気持ちが確かにそこにはあって。
竜の方があれで満足してくれたかは分からないけれど、でも、その欲求に少しでも応えられたなら。
どこまでも透明で実体のない水の中に、色付きの墨の雫が零れたかのような。
だから、わたしはこの余韻がとても愛おしかった。
ただ生きるだけの日々が続いていた。
どしゃ、とわたしの目の前に投げられる肉の塊。裸の身体に、唾液と混じった冷たい血が飛び散る。
手を血塗れにしながらそれを千切り、口へと運んで咀嚼する。
ここに来てから、いつものように行われていたそのやり取り。
ふと、いつもとは違う部分に目が届いた。
血で汚れているけど、厚くて大きな毛皮がくっついている。
わたしが肉をあらかた食べてから、その毛皮を捨てに行こうとする竜。わたしは、その毛皮を掴んだ。
竜が、わたしの目を見る。
「それ、使いたい」
言葉は決して伝わらないけど。
口から音を出して何かを伝えることは、どの生き物も同じだと思った。
無言のやり取りがしばらく続いて、竜はその毛皮を手放した。
竜の考えだと、遊び道具だとか、そんな考えで渡したのかもしれない。
「ありがと」
ここは温かいけれど、裸のままでいると、お腹の調子が悪くなる。
これだけで服にするのは難しいけど、毛布のように。それに包まることはできそうだったから。
そんなことを考えてるわたしを、きっとそれまでのわたしは信じないだろうな、なんて。
可笑しくなって、また笑ってしまった。
ただ生きるだけの日々が続いていた。
身体が汚れたら、竜は舌でわたしの全身を舐めてきれいにする。
「んっ、んぅぅ……はぁ、あ……」
初めてこれをされた頃より、気持ちよさを感じるようになっていて。
慣れというか、安心感というか。心地よささえ、覚えるようになってしまった。
竜の方はまじめにやってるので、少し申し訳なく思ったりもした。
そして、竜は何日かに一度、わたしの身体を求めるようになった。
外から帰ってきてすぐに、わたしの身体を押し倒してきたら、それが合図だった。
わたしはそれを全く拒まなかった。むしろ、歓迎すらしていた。
それは、とても歪んでいるとは思うけど。竜にできるお返しが、それくらいしか思いつかなかったから。
竜をできるだけ気持ちよくさせてあげたいという想いは、何度身体を重ねても、褪せることはなかった。
そんな、ただ生きるだけの日々は。
少しだけ色づき始めた日々は。
ゆっくりと、終わっていく。
「……ぁ」
気付いたのは、あるときのこと。
立ち上がったわたしは、ぐら、と立ちくらみを起こしてその場にうずくまった。
それよりも前から具合の悪さは続いていて、それが日々ひどくなっている感覚はあった。そして、それがかたちとなって表れた。
風邪は昔も何度か罹ったことはあるけど、それとはどこか違う、着々と悪くなっていくような感覚。
少し取り戻せたかのように感じた体力が、また失われていく。
横になって眠る時間が増えていく。
竜もそのことは分かっているようで、でもどうしたらいいか分からなくて、戸惑っているようだった。
とにかく、わたしに肉を与えようとしてくる。でも、そんなにたくさんは食べられない。
そして、それを食べるだけでは、きっとこれは治らない。
偶然できた擦り傷の治りが遅くなって、よく膿むようになった。
口の中、歯の付け根や舌が勝手に切れて、血の味がするようになった。
ゆっくりと、しかし着実に、終わっていく。
夢の終わりが迫ってくる。
こうなることは分かっていた。だって、人と竜は相容れない。
竜の暮らし、生き方の中に人が放り込まれたら、たぶん人は生きていけないことは、何となく分かっていたから。
村にいた頃、地面の下の、わたしが置かれていた小部屋で小さく目を出した双葉。
わたしが精一杯育てようとしても、日の光を浴びることができなくて、萎びて枯れてしまった。
今のわたしは、それと同じだ。
幼いころの記憶が蘇る。
そう、たしかヒトは、肉ばかり食べていても、パンばかり食べていても、生きることはできない。
貧しい人々にも、奴隷にも、少しでも野菜の入ったスープを。熟れてなくても、果物を。
そうしてやらないと、病気になってしまう。
竜たちからしてみれば、とてもか弱い存在で。だから、分かり合うことはできなくて。
そして、人が生きる場所から、ずっとずっと離れたここに、そんなものはありはしないから。
ああ、終わるんだな、って。
わたしは、受け入れることを選んだ。
そうして、ただ生きるだけの日々は。
終わる。
目を開いた。
闇の中で、自分の身体を包んでいた毛皮が地面に擦れる音が響いた。
「こほっ……ごほっ」
血混じりの咳をする。ただそれだけで、胸の内側が焼け付くように痛い。
次、目を開けるときには、起き上がることもできないような、そんな予感がした。
竜のぬくもりはない。たぶん、わたしが起きる前に、外に出て行ってしまった。
わたしに肉をたくさん食べさせるために。
それではだめなんだ、ということを伝えることなんてできなくて、すれ違い続ける。
それは、わたしがこうやって弱りながら死んでいくのは、とても悲しいことだから。
立ち上がった。体がふらつく、眩暈がひどい。
それでもなんとか足を前へと進める。
雪で塞がれた洞窟の出口の、少し光が差し込んでいる部分に手をかけた。
冷たさが直に伝わってくる。わたしはその雪を掬い取り、掻き出していく。
ぼろぼろになった手の皮はすぐに切れて、雪に血の色が混じった。でも、その手は止めない。
ややあって、ぼこ、と目の前を塞いでいた雪が崩れた。
ひゅうっと冷たい風が舞い降りてきて、反射的に身を震わせる。それでも、わたしはその先へと進んで、外へ出た。
ここに来て二度目に見た外の景色は、全く変わっていなかった。
以前よりも天気は悪くて、雪が降って風も吹いている。でも、それ以外は何も変わらない。
時すらも凍ったかのような、そう思わせる場所だった。
以前は、ここに立って景色を見るだけで終わったけれど。
今度は、この先へと。
ざく、ざくと雪が沈み込む音がする。
足はすぐに真っ赤になり、感覚がなくなった。
体中同じようなもので、なぜならそれは、わたしが何も着ていないからだ。本当に、ヒトとして持つべきなにかが抜け落ちてしまっている。
でも、それでもいいんだ。
だって、わたしは死ぬために歩いているのだから。
洞窟の中で、わたしがどうすることもできずに死んでいくのは。
竜とすれ違いを続けた先に死んでいくのは。
わたしは、とても耐えられないと思ったから。
「はぁ、はぁ……」
寒さに凍えて、具合の悪さにうなされながら踏み出す一歩はとても小さくて。
長い時間歩いたと思ったのに、振り返ってみればまだ山の斜面を下り始めた、というくらいで。
ああ、本当に。生身のヒトは弱い。
あの竜は、この寒さの中で風を切って空を駆けているというのに、わたしというヒトは、少し歩いたくらいでこれなのだから。
「あ、はは」
その途方もない差に、笑いが出てくる。ふらついて、雪を被った木の幹へと手をついた。
ここから先は、木々が生い茂っている。こんなところでも生き抜いていけるのは、本当にすごいことだと思う。
わたしはそんな森の中へと入っていって、少し歩いて、適当に見繕った木の幹に寄りかかった。
遠くに歩き続けてもいいけれど。洞窟の出口が見えるくらいの、中途半端なくらいで眠って死ぬのがちょうどいいような気がして。
寒い。それはごく当たり前のことなのに。
体の芯から凍てつくような冷たさよりも、痛い。この胸を締め付けるような苦しみは。
寂しさ、なのかもしれない。
その寂しさは、本当にかけがえのないもので。
あの竜が、わたしに与えてくれたもの。
例え興味本位、身体を求めあう関係だったとしても、それに意味を見出したのは、他でもないわたしだった。
初めて外の景色を見たときの、救われた、という想いはとても強く胸に刻まれていた。
わたしが、自ら望んで誰かのために何かをしたいと思えたのは、残された記憶の中では、かの竜にだけだった。
だからこそ、わたしは。
わたしをここに連れてきてくれて、ありがとうって。
心から、そう思っているから。
生き続けることでしか、竜と触れ合い続けることでしか返すことのできない感謝の気持ちを、こんなかたちで終わらせてしまうことが。
人と竜は相容れないということが。
とても、とても寂しくて。
────だから。
こつ、と足に触れた石のようなそれを、手に取って。
それを見た、わたしは。
「──りん、ご?」
霜ついて、でも色褪せない赤色をしたそれが。
あの果実だなんて、信じられなくて。
恐る恐る、その赤い果実を口に当てる。
それはきん、と歯が軋むほどに冷たくて、でも、しゃくっと齧ることができた。
途端に、口の中に広がったのは、冷たさと、甘さ。
体中がその感触を求めていて、わたしは夢中でそれを齧る。
私の身体から零れ落ちていた何かが、満たされていくのを感じる。
いつの間にかわたしは、その果実を芯まで食べきってしまっていて。ふと、頭の上を見上げた。
そこには。わたしの手が、何とか届くくらいの場所に。
雪を被って、氷柱を生やしながら実っている。
おぼろげな記憶。図巻で見た、不思議な植物。北国の特産品。
その名前は確か──氷樹リンゴ。
それが、とても両手には持てないくらい。
あちらの木にも、こちらの木にも。
ここは、氷樹リンゴの実る木の森。
それは、まるで。わたしに。
もうちょっとここで生きてもいいよ、と言ってくれているような気がした。
「あ、ああぁぁあ…………」
ぽろぽろと零れる涙は、留まることを知らなかった。
手に届くいくつかの果実を貰って、来た道を戻る。考えもしてなかった方へと足を踏み出す。
もう少しでもここに長くいたら、動けなくなって死ぬだろう。
そして、それにはまだ早い、と身体の方から声が聞こえる。
これを食べればまたいつものように戻れる、と言っている。
自分から死のうと思ったのに、生き足掻くというのは見苦しいことかもしれないけれど。
それでも、いい。その方が、いい。
竜に救ってもらった命。この森に助けてもらった命。
それを、大切なものと思えるようになったから。
洞窟に戻ったら、帰ってきた竜に、このリンゴをひとつ贈ってみよう。
竜は、リンゴを知っているんだろうか。それを食べるんだろうか。その味が分かるんだろうか。
全然分からないけれど、もしかしたら興味すら持ってもらえないかもしれないけれど。それでも、いい。
この、氷漬けのリンゴを貴方に。
わたしは、歩いていく。
もうちょっとだけ生きるために。竜へのお返しを続けるために。
歩いていく──
これにてお終いです
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