ようこそ強姦魔のいる教室へ 作:生太郎
坂柳有栖が杖をついて歩いていた。
どこに行こうとしているのか、俺はまだ教えて貰っていない。
「すいません。歩くのが遅くて」
「それは構わないが、助けは必要か?」
「いいえ。お気持ちだけ受け取っておきます」
坂柳が柔らかく微笑む。
見た目だけは天使だった。中身は……想像もしたくない。
「……む」
「どうしました?」
「あの変な髪型のオッサン、坂柳の知り合いか?」
物陰に隠れている男子を発見。
背後にも気配を感じた。単独で接触したわけではないようだ。
「何のことでしょう?」
坂柳の笑みが凍り付いていた。白を切るつもりのようだ。
追及するのも面倒だったので、俺は隠れている男子を放置することにした。
やがて目的地に到着する。
そこは月明りに照らされた温室だった。
中に入ると一面に花畑が広がる。その一角にテーブルと椅子が並べられていた。
テーブルにはチェスボードが置かれている。思わせ振りだな。
この場にいるのは俺と坂柳だけだ。
背後の気配も温室の出入り口で止まってしまった。
坂柳は俺に襲われても問題ないと判断しているのだろう。
おそらくはボイスレコーダーを隠し持っている。一つはわかりやすく胸ポケットに、もう一つはわかりにくい場所に隠すのがセオリーだ。
さらにこの温室は園芸部が管理している。
以前に綾小路が園芸部から爆薬の材料を調達したことにより、周囲には大量の監視カメラが設置されていた。
「いい場所だな」
「ありがとうございます。園芸部の友人にお伝えしておきましょう」
坂柳が淡く微笑む。
園芸部の友人か。
坂柳にはちゃんとした友人がいるのだろうか。エア友達なら笑えるのだが。
「こんな夜更けにお呼び立てして申し訳ありませんでした」
「まさかあの坂柳有栖に呼び出されるとは思ってもみなかったよ」
「田中君とは以前からお話したいと思っていたんです。どうぞおかけになって下さい」
坂柳が席を勧めてくる。
前回の特別試験で派手に動き回ったせいで目を付けられたのだろう。
坂柳が特別試験に参加しなかった間にCクラスとDクラスが追い上げてきた。
葛城を失脚させるためとは言え、Aクラスは大きすぎるダメージを受けてしまっている。
その元凶と見られているのが俺と龍園だ。
呼び出しを無視すればどうなるものかわかったものではない。
「真夜中の逢瀬だ。浮いた話なら喜んで聞いてやるつもりだが?」
「ふふっ、面白いご冗談ですね」
と言ったものの、これが愛の告白だったとしても素直に受け取れないだろう。
どうしても裏を読んでしまう。
俺を陥れるための罠だと言われた方が納得できそうだ。
「田中君はひどい人です」
「いきなりだな。俺は坂柳に嫌われるようなことをしたか?」
「ええ。田中君に身に覚えはないのでしょうが」
坂柳は余裕たっぷりに笑っていたが、怖気を催すほど冷たい空気をまとっていた。
「一之瀬さんは私が潰す予定だったんです。私の楽しみを横から奪い取ってしまうなんて、田中君は本当にひどい人ですね」
「勝手な言い草だな。知るかよ、そんなこと」
「そう言わずに聞いて下さい。一之瀬さんの泣き顔を見るのが、この退屈な学校での数少ない目標だったんです。なのに田中君が先に一之瀬さんを泣かせてしまうなんて、私はすごくがっかりしています。愚痴の一つぐらい聞いてくれてもいいでしょう?」
「別に今からでも泣かせられるだろ」
帆波のBクラスは特別試験でポイントを稼げなかっただけだ。
泣かせたいなら勝手に泣かせればいい。
たしかに俺が先に泣かせてしまったが、そんなことを言われてもどうしようもない。
「やっぱり田中君はひどい人です。一之瀬さんの恋人なのに」
「恋人だからといって過度に干渉していては成長を阻害する。時には突き放すことも必要だ」
俺と坂柳は言葉をぶつけ合いながらも、どこか身が入っていなかった。
坂柳にとってはただの雑談なのだろう。
帆波を潰したかったというのは本心なのだろうが執着するほどのことではない。
坂柳が目を細めた。雰囲気が変わる。来るぞ遊馬。
「私は田中君のことを障害物であると考えています」
坂柳の言葉の刃がぶっ刺さる。
障害物か。言ってくれる。
「言葉を変えましょうか。あなたが邪魔です」
坂柳の瞳は凍土のように凍て付いていた。
俺は言葉に詰まった。
一瞬だが坂柳に気圧されかけた。
「それは……光栄に思ってもいいのか?」
「もちろんです」
坂柳がニコリと笑う。
「少なくとも田中君には路傍の石以上の価値があると言うことですから」
辛辣な言葉だが坂柳有栖にとって大半の生徒とは雑多な塵芥に過ぎない。
真に価値があるのは一握りの優れた人間のみ。
敵にもなれず味方にもなれない凡百は彼女にとって価値はないと言うことだ。
「ただの宣戦布告ってわけでもなさそうだな」
「そうですね」
俺は当たり障りのない探りを入れる。
こんな夜中に坂柳が俺を呼び出したのはなぜか。
坂柳は不敵に微笑んだ。
「田中君。私と勝負しませんか?」
「勝負?」
「はい。勝者は敗者に一つだけ好きな命令ができる。その条件で、いかがでしょうか?」
好きな命令か。無茶苦茶な条件だった。
これなら相手を退学させることもできる。
現実的ではないが『死ね』と命令することも可能だ。
「私の命令はもう決まっています。田中君が二年生になるまでクラスを主導する立場から身を引くこと。個人の成績に関しては問いませんが、クラスの戦略には関わらないで下さい」
坂柳はホワイトルームで綾小路を目撃し、勝手にライバル視している。
Dクラスを率いている俺のせいで綾小路の出る幕がない。
坂柳にはそれが不満なのだろう。
俺が消えれば綾小路と勝負できるようになる。それが坂柳の狙いだった。
俺の条件が緩いのは、俺を勝負のテーブルに乗せるためだろう。
「まるで、もう勝ったみたいな言い方だな」
「そうでしょうか。まだ勝負の内容も決まっていませんよ?」
表情を見れば一目瞭然だ。
お前など敵ではないと、坂柳の可愛らしい顔が雄弁に語っている。
「正直言って勝負を受けるメリットを感じない」
俺は肩をすくめた。
今の俺がクラスの運営から離れれば、俺のクラスは一瞬で没落する。
成長途中の鈴音では坂柳や龍園の相手にもならないだろう。男女の結束力が原作以下の状態では万に一つの勝機もない。綾小路がやる気を出してくれるのかも未知数だ。
それでは茶柱先生の期待を裏切ることになり、俺は後ろ盾の一つを失うことになる。
リスクが大きすぎて坂柳がぶら下げてきたニンジンに食い付く気にはなれなかった。
「私に恋人になって欲しいという命令でも構いません。私がお気に召さないならAクラスの女子を田中君の奴隷として差し出すこともできます。こんなチャンス、後にも先にもありませんよ?」
俺が乗り気でないのを見て、坂柳がさらにエサを見せびらかした。
Aクラスの女子というのは神室のことだろうか。
坂柳に弱味を握られて従っている奴の中から一人と言うことだろう。
「俺が女に不足していると思っているのか?」
「いいえ」
坂柳が首を横に振った。
「田中君の周りに魅力的な女の子が揃っているのは存じ上げています。それでもあえて言わせて貰います。私は自分の容姿に一定の自信を持っています。田中君が価値を見出す程度には」
「否定はしないが、それでもリスクが大きすぎる」
坂柳は小さく嘆息した。
「ならばこれからは田中君の周りにいる彼女たちを狙い撃ちにさせて頂きましょうか」
「……そう来たか」
それは俺に対する恫喝だった。
坂柳の矛先が俺に向けられたところで屈するつもりはない。
だが、他の女子はどうだろうか。
鈴音や桔梗、それに波瑠加。彼女たちは俺ほど強くない。
Aクラスが総力をあげて潰しにかかったら、おそらくは耐えられない。
俺は腕を組む。
坂柳がどうしても勝負したいというなら受けるしかない。
そもそも拒否権など最初からなかったわけだ。
それは理解していたが、俺は粘ってみることにした。
坂柳は己の勝利に絶対の自信を持っている。
俺に負ければ退学するという条件でも断らないだろう。
ならば、これならどうか。
「俺が勝ったらお前の初めてを貰う。それなら勝負を受けてやってもいい」
断れ。
俺は祈りながら坂柳を睨み付ける。
坂柳の瞳を過ぎったのは愉悦と失望。矛盾した感情だった。
……駄目だったか。
「もちろん。その条件で構いません」
「なら書面に残してくれ。お前との口約束を信用するつもりはない」
「田中君は私を信用してくれないのですか?」
坂柳が可愛らしく上目遣いをしてくる。
何も知らない奴ならコロっと騙されそうだった。
「誰がするかよ。さっさと書け」
「用心深いですね。仕方ありません」
俺は乱暴に言い放つ。
坂柳はサラサラと手帳に万年筆を走らせた。
正式な書面ではないがサインもある。証拠としては充分だろう。
もっとも『坂柳有栖が田中礼司に敗北した場合、坂柳有栖は田中礼司に初めてを捧げる』と書いてある書類なんてどこにも提出できないのだが。
「田中君も書いて下さいね」
坂柳は抜かりなく俺にも条件文を書かせてきた。
用心深いのはそっちも同じだろうと思ったが、言ったところで時間の無駄だ。
「勝負の方法はチェスでよろしいでしょうか?」
「いいぞ」
答えた瞬間、坂柳の顔に喜色が浮かんだ。
勝利を確信したのだろう。
ポーカーフェイスを使う必要もないと言うことか。舐められたものだ。
勝負の準備は最初から整っていた。
テーブルには最初からチェスボードが置かれていた。
おそらくチェスは坂柳の得意分野だ。
下手なプロよりも強いと考えた方がいい。こんな勝負を受けるのは愚か者だけだ。
坂柳? 強いよね(負けフラグ)
だが、この場合はあえて相手の土俵で勝利することに意味がある。
心を折るぐらいしておかないと、何時まで経っても諦めずに仕掛けてくるだろうからな。
「チェスのルールはご存じですか?」
「多少は」
チェスはチート能力を確認する時に軽くネットで試している。
一度も負けずにレートが上がり続けて止まらなかったのでそこで対戦をやめた。
「どちらが先手を持ちますか?」
「どっちでも構わない」
「なら私が先手でもよろしいのですね?」
「ああ」
その瞬間、坂柳がこちらを見下す笑みを浮かべた。
「無知とは恐ろしいものです。そう思いませんか?」
「何が言いたい?」
「チェスとは先手有利のゲームです。プロ同士の対局でも後手は引き分けを目標に設定するほど。それなのに田中くんは後手を選んだ。あなたの勝利はこの時をもってなくなりました」
「そうか。残念だな」
それは知っている。
チェスは先手有利の結論が出ている。プロの対局は四割が引き分けだ。
坂柳が白い駒を指した後、俺は黒い駒を手に取った。
「駒の持ち方だけでもわかることがあります。素人の持ち方ですね」
持ち方なんてあるのか。知らねぇよ。
まぁいい。さっさと終わらせるか。そう思っていると――。
なぜかジジイが俺の背後に現れ、なぜか扇子で盤上を指し示した。
『タナカス! 5eポーンでレイプじゃ!』
平安時代の亡霊のように俺の背後から指示を送るジジイがいた。
俺は息を呑んだ。
これは、神の一手!?
私の胸に失望が満ちていく。
「俺が勝ったらお前の初めてを貰う。それでいいなら勝負を受けてやってもいい」
予想はしていたが、やはり俗物。
彼のような存在がいるせいで綾小路君が本気を出せない。それでは何時まで経っても綾小路君と対決することができない。いっそ退学させたいほど邪魔だったが、そこまで条件を厳しくすると勝負に乗ってこない可能性が高くなる。
勝負を受けさせるために身体を出汁にしたのは私の方だが、おそらく綾小路君なら私の身体を求めなかっただろう。今後のリスクを考えて私を退学させようとするはずだ。
私を抱いて、その後どうするつもりなのか。
何度殺されても足りないほどの憎悪を抱かれることが理解できないのか。
どれほど有能であっても欲望を制御することもできないなら、それは三流だ。
私は田中礼司の評価を一つ落とした。
現時点では龍園翔の二つ上。つまり私の敵ではないと言うこと。
それでも学生レベルなら破格の能力を持っている。油断はできないだろう。
「勝負の方法はチェスでよろしいでしょうか?」
「いいぞ」
まさか本当に受けるとは思わなかった。
私は意外に思うと同時に、田中君の評価をまた一つ下げる。
ただの見せ札のつもりだった。
チェスは私の得意分野だとこれみよがしに見せ付けたのだ。
これは勝負に乗って来なかったことで、勝負から逃げたのだと責めて精神的な優位を得るための小道具でしかなかったのだが。
田中君は私の思う以上に愚かなのかもしれない。
先手の私が白を持ち、後手の田中君が黒を持った。
持ち時間は互いに二時間。時間切れで負けとする。夜明け前には終わる計算だ。
田中君はたどたどしい手付きで駒を動かした。
最低限、駒の動きは知っているようだが、素人同然の手付きだった。
先手の私が『e4』にポーンを指すと、後手の田中君は『e5』にポーンをぶつけてきた。
もっとも基本的なオープンゲームである。
白の二手目は『f4』ポーン。
攻撃的なオープニングであるキングス・ギャンビットだ。
田中君は『f4』にポーンを進めて、白のポーンを討ち取った。
「キングス・ギャンビット・アクセプテッドですね」
「なんだそれ。日本語か?」
「英語に決まっているでしょう」
田中君は私の顔を一度も見ずに、盤面だけを凝視している。
ポーカーフェイス。表情を隠すつもりか。意味のない抵抗だ。
ポーンを失って私の駒損になっているが、陣形の差があるため形勢は互角。
田中君はある程度は定跡を知っているようだった。
しかし、それだけでしかない。
教科書通りのやり方が通用するのは序盤だけだ。
中盤に入ると布陣が終わり、互いの駒がぶつかり始めた。
「田中君はチェスの駒の価値をご存じですか?」
「さぁ。何かの本で読んだ気がするが、あまり意識してないな」
「そうですか。折角なので教えてあげましょう。駒の価値はポーンが一点。ナイトとビショップが三点。ルークが五点。クイーンが九点です。これは人によって意見が分かれることもあるので絶対ではありませんが」
そう言いながら、私はナイトをルークにぶつけた。
田中君はポーンでナイトを倒す。
白はナイトを、黒はルークを失った。
「ふふっ。これで二点差ですね」
「そうみたいだな」
田中君は俯いていたが、表情が崩れているようには見えなかった。
「田中君のそれはポーカーフェイスですか? それとも形勢を判断する実力すら持ち合わせていないのでしょうか?」
「さて、どうかな」
田中君はチェスボードから顔を上げない。
これがチェス以外の勝負なら、まだ有効な作戦だったかもしれない。
だが私は盤上を見るだけで田中君の精神が追い込まれていくのが手に取るようにわかった。
「私を相手にゲームを成立させることができたことは評価に値します」
「まだ中盤なのに、もう勝ったつもりか」
「ええ。勝ちましたので」
田中君が決定的な一手を指してしまった。
ビショップを一マス動かしただけだが、そのビショップはクイーンの防御役。
田中君は“ただ”でクイーンを落としてしまう。あまりにも迂闊なミスだ。
ゲームは田中君のミスのせいで中盤から終盤に入っていた。
もはや黒に逆転の筋は存在しない。
プロなら相手のミスを祈って、引き分けを狙って粘りに行く局面だ。
「マイナス九点。終わりですね」
「勝手に終わらせるな」
「田中君。これ以上の悪足掻きは惨めになるだけです。投了して下さい」
「何度も言わせるな。チェックメイトまで勝負は終わらない」
時間の無駄だった。
私は若干の苛立ちを覚えながら駒を動かす。
「私のミスを待っているのですか? ならばそれは無駄な抵抗です。私は最後まで間違えません。この勝負はもう終わっていますから」
頭の中では決着が付いていた。もう二十手もかからずに黒が詰む。
「坂柳有栖」
ここで初めて田中君がチェスボードから顔を上げた。
静かな湖面のような落ち着いた目をしていた。
敗北を受け入れているようにも見えるが、そうではない。彼はまだ諦めていない。
「……え?」
心臓が跳ねる。
まさかと、私はチェスボードを凝視した。
田中君がルークをつかむ。
それはまたしても動かしてはいけない駒だった。
ひどい悪手だ。素人でもそんな手は指さない。だから先の展開は考えなかった。
「お前は完璧を追い求めるあまり勝利を取りこぼす」
「……それは、まさか」
ミスはない。なかったはずだ。
私の構想は完璧だった。田中君はただ翻弄されているだけだった。
悪手ばかりが目に付いて初心者が指しているようにしか見えなかった。
「まさか、そんなことが!?」
違う。違う。違うっ!
なぜ気付かなかった。なぜ見落とした。
田中君がクイーンを捨てたことで、か細い糸のような勝利の道筋が完成している。
わざと悪手を指すプロはいる。
それは歴史に名前を残す一握りの天才だけに許された一手だ。
「こんな一手が……この世に存在するなんて……」
大胆な駒捨てが形勢をひっくり返す一手と化している。
それはまさしく、神の一手だった。
「お前もそんな顔をするんだな」
「……っ! まだ終わりではありません!」
それは先ほどとは真逆のやり取りだった。
田中君は冷静に駒を動かしている。
彼は間違えない。私はそれを確信しながら、一縷の望みをかけて最後まで粘る。
「……はぁ……はぁ……」
息が苦しい。胸が痛い。頭が焼けそうだ。
考える。
考えて、考えて、考え続ける。
必ず活路はあるはずだ。形勢はまだこちらが有利。
喉元まで迫った刃を払いのければ逆転の目はある。
「田中君。あなたはどこで、これほどの実力を手になさったのですか?」
「ネットかな」
ふざけた答えだった。
田中君の駒を扱う手付きは素人同然。
しかし、彼の構想は私の上を行っていた。
田中君がネットと言ったのは間違いではないだろう。
今では当たり前のようにプロがネットで指している。ネット対戦でレートを上げていけばプロとも対局することができる。
田中君は現実世界の駒に一度も触れることはなく、仮想空間の中だけでプロ並の実力を手にしたことになる。
そんな馬鹿げた存在が実在するなんて。
身体は汗でびっしょりと濡れていた。夏場なのに身体の震えが止まらない。
「うっ……くっ……これなら、どうですか!」
「それは通せないな。受けておくか」
私の会心の一手を、田中君はノータイムで咎めた。
命を削りながら三十分考えてひねり出した一手が一瞬で崩壊する。
「……そんな」
「坂柳。息が上がっているぞ。大丈夫か?」
「心配は、ご無用です」
息が上がって今にも倒れそうだ。
だが、まだ倒れられない。まだ終われない。
こんな勝負になるとは思ってもみなかった。
田中君はいい意味で私の期待を裏切ってくれた。
おそらく田中君の実力は綾小路君と同レベルかそれ以上。
こんな化け物が同じ学校、同じ学年にいたなんて、嬉しくて笑いが止まらない。
けれど勝負はまだ終わっていない。私は最後まで諦めるつもりはなかった。
持ち時間をフルに使って考える。
頭の中のチェスボードを使って、高速で何百、何千通りもの可能性を検証する。
田中君は私のように雑談もせず、投了を勧めて来ることもない。
静かに時間だけが過ぎていく。
「坂柳。水分補給をした方がいい。時計を止めても構わない」
「黙って下さい。気が散ります」
「そうか」
田中君は私を心配する目をする。
もう勝ったつもりか。この坂柳有栖を侮らないで欲しい。
……見えた!
対局時計が残り五分を刻んだ時、やっと私は顔を上げた。
「クイーンを捨てたか。だが、取れば死ぬか」
田中君は間違えない。
だから私はそれを信頼した上で策を講じた。
田中君が冷静に黒のルークを動かし、白のクイーンに対する壁にする。
「このルークを取れば、私の負けですね」
私はさらにクイーンを前進させた。
そこには田中君の駒が効いている。傍から見れば自殺にしか見えない一手。
「これも取れば、俺が負けるか」
互いに悪手を指す異常な状況だった。
悪手であっても咎められないなら有効な一手だ。
田中君の戦法を真似させて貰ったのである。
「六手詰みです」
「いや、九手詰みだ」
田中君が駒を動かす。それは私には見えていなかった手だった。
あと一歩、届かなかった。
「……私の負け、ですね」
負けた。
私は敗北感に打ちのめされる。こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。
胸が苦しい。
そう思っていたら、急にふわりと楽になった。身体の感覚が消えていた。
「……あ」
私の身体が前のめりに倒れていく。
チェスボードの上から駒が転がり落ちていった。
芸術的な盤面を崩してしまうのが残念に思えた。
しかし今や指先一つすら自分の意志では動かせなくなっている。
どうやら無理を重ねすぎたようだ。
「おい、坂柳!?」
田中君が今まで見たことがない焦った顔をして、倒れ込む私を抱き止めている。
「申し訳ありません……約束は後日ということで……」
「そんなことはどうでもいい! クソッ! 心臓が止まってやがる!」
田中君の言葉に、やっと理解する。
どうやら心臓が止まっていたようだ。
死んでしまうかもしれない。それは少し残念だった。
せっかく全力を出して戦える相手が見つかったというのに、もう二度と戦えない。
次はどんな勝負をしようか。
そんな期待で胸を躍らせることもできないなら、まだ死にたくないと私は思った。
「クソッ! 死ぬな! 生きろ! 坂柳!」
消えゆく意識の中、私の唇に温かい感触がしたような気がした。