1日の授業を終え波哉香は美樹と供に帰路に就く。物凄い違和感に覆われながらも波哉香は校門から商店街にまで続く針葉樹に囲まれたアスファルトの地面を踏みしめていた。
現在は3学期。
楽しみにしていたクリスマスや正月はとっくに過ぎている。その思い出も波哉香自身には思い出せないのだ。そんな疑問も美樹に投げかけたかったがこれ以上言うと頭が本当におかしくなったと思われそうなので言いだせないでいた。
そして違和感と供に切なさが心の奥から沸いてくる。
「......なんか寂しい」
思わず波哉香は口に出してしまった。そして自然に涙が出てくるのだ。
「ど、どうしたの!?波哉香!」
当然、美樹はそんな波哉香を見て驚く。小さいころから波哉香を知っている美樹は今日の波哉香の変わりように驚いてばかりだ。
「ごめんね......本当になんでだかわからないの。寂しくて切なくて......うう」
美樹はそっと波哉香の肩を抱く。
「あ、あのね。私は......ずっと波哉香の傍にいるから。だから......寂しいなんて言わないで」
「......うん、ありがとう美樹。ごめんね」
2人はしばらくその場で抱き合っていた。すると天から白い粉雪がポツポツと落ちてきた。今日、この日は都心での大雪となるのであった。
◇
「......何かがおかしい」
北条製薬の社長である波香は自分のデスクの椅子に座りポツリとつぶやく。自分の右膝にできている青いアザを見ながら。このアザはいつできたのか全く身に覚えがないのである。そのアザとは我那部野と旅行に行こうとする波哉香を止めようとして波哉香と戦った時にできたものなのだ。
「何がですか?社長?」
営業部長の谷香織は今期の売上計画の打ち合わせに上の空な波香の態度を不審に思う。
「かおりんはさ、自分の記憶がある時期、すっぽり抜けているなんてことない?」
「私が今まで生きてきた時間の中ではそんなことはなかったと思いますが」
「そお。......私にはあるのよ。昔に1度。そして最近。何かを忘れているような感じがね」
「それはエルピィータ(北条製薬のがんの新薬のこと)の副作用みたいなものですか?」
「あ!そうね!そうなのかもしれない」
「でも、社長は薬を使ってませんよね?」
「そうね。使ってないわ」
「っていうか社長」
「ん?」
「なんで自分が何かを忘れているってことに気が付いたんですか?」
「うん、今朝ね、自分の娘が『何かあった?』って聞いてきたのよ。突然」
「はい」
「で、私は特に何もないからないって言ったんだけどね。でも、私の心の......頭の中になんかざわざわとしたものがあってね。あとこれ見て?ここにアザがあるけどいつできたのか全く身に覚えがないのよ」
「.....そうなんですか」
「......昔もこういう感覚があったのだけれど、その時もまだ自分の娘がすごく小さい時で私が背中におんぶして連れまわしていた頃ね」
「はい。その時も娘さんに何か変化があったのですか?」
「うん。突然ある時期、私の背中でバタバタと暴れてね。普段はすごく静かな子だったの。だからその時は私に何かを伝えようとしていたんだなって理解したけど結局それが何かはわからなかったわ」
「はー、そうなんですね」
「でもしばらくしたら諦めたみたいでまたおとなしくなっちゃったわね」
「ほー」
「......本当になんなのかしら」
「それって重大な事なんですかね?」
「......わからない。......ほんと、大したことじゃなければいいんだけどね」
「......」
プルルルルッ
波香のデスクの電話機が甲高い音を鳴らす。香織は波香の代わりにすばやくその電話を取った。
「はい、社長室です。......はい、今、確認します」
受話器に手を当て香織は波香に視線を戻す。
「社長、神崎グループの神崎喜一郎様とそのお嬢様がお見えに参りましたがいかがなされますか?」
「え!?......お通ししてください」
その受付からの連絡により波香は香織との打ち合わせを一旦中断し応接室へと香織と供に向かう。
応接室に入ると旧知の2人が波香を待ちかねていた。
「喜一郎様、それにメグ......恵美様、ようこそお越しくださいました」
深々と波香は2人に頭を下げる。
「いや、はっは。娘と供に久しぶりにあなたの顔を見たくなりましてな!」
「......北条家当主、北条波香様、こんにちは」
神崎恵美はどこかよそよそしく波香の顔を見ずに挨拶する。
「こんにちは。さ、どうぞおかけください」
波香に従い2人はソファに腰を下ろす。
「.....さて、波香さんどうですか?調子の方は?」
「おかげさまでなんとかやっております」
「ははは、いやご謙遜を。エルピィータ......でしたかな?新しい薬の発注が絶好調のようではないですか?」
「まあ、あの製品は社運を賭けてましたから。厚労省の認可も降りて正式に各方面の病院などから受注をいただいております」
「それは何より。......それで今日お伺いしたのは他でもない。我が神崎グループでもがんの新薬の開発に成功いたしましてな」
「神崎さんのところでですか?」
「はい。うちのグループの中で『ゴッドメディソン』という会社がありまして、まあ、北条さんとこの製薬会社と同じような事をしている企業です」
「はあ」
「そこの会社の社長に恵美を据えることになりました」
「そうですか」
「ええ。それで例のがんの新薬......うちでは『ゴッドポーション』と呼んでるんですがね、北条さんのところの特許とかを侵害していないかどうか、また、場合によってはうちの薬を認めてもらえないか、確認をしに来た次第です」
「なるほどそういうことですか」
「はい」
「でも、御心配には及びません。認可を取るのに精一杯でその辺のところは準備段階で申請すらしておりませんので」
「おおお!そうですか!それは良かった!ならうちも心置きなくこれで勝負できますな!な!?恵美!?」
「はい」
恵美は覇気なく父の言ったことに対してただ応えるだけだ。
「恵美様?何か元気がないようですが?それと顔色も悪いように見受けられます」
波香はかつて自分を師匠と呼んでくれた神崎恵美を心配する。
「そうですか?でも、そんなことはありません......確かに最近は忙しいですけれどなんとかやっていますので......」
「......喜一郎様、余計なお世話かもしれませんが恵美様は少しオーバーワーク気味なのではありませんか?」
「はっはっは。いやいや恵美はいずれ私の後を継ぎ神崎グループの総帥となる存在なのです。このくらいのことでは......な?恵美?」
「はい、お父様。私は大丈夫です」
「恵美様......もし困ったことがあったらいつでも相談に乗りますので私のところにいらしてくださいね」
「え?......どうして今更そんなこと言うんですか?」
波香は気遣いから優しい言葉を恵美にかけたつもりだったが逆にそれは恵美の怒りを買ってしまったようだ。恵美はキッとした眼差しで波香を睨みつける。
「え!?」
「......師匠が......北条さんがいなくなった後、神崎電子は潰れました」
「え?そうなの?」
「知らなかったんですか?」
「......知らなかった。ごめんなさい。......でもどうして?」
「それは......北条さんがいればこその神崎電子だったからです」
それから恵美は波香が神崎電子が会社を畳むに至った経緯を説明した。波香が去った後、取引先からの受注が激減したことや一里塚や品川などの社員が辞職していったことを。
「......そうだったのね」
波香が下を向くと喜一郎はさらに説明する。
「恵美は頑張ってくれたけれども以前も赤字経営を繰り返していた会社なのでね。グループ内で協議した結果、畳むことにしたのですよ」
「......なんか申し訳ないです」
「いや、はっはっは。波香さんが気にすることではないですよ。それよりもこれからです。これから!うちの薬『ゴッドポーション』は波香さんのところには負けませんよ!?」
「いえ、うちも負けるわけには参りませんわ」
「ハハハ、では正々堂々と勝負しましょう!」
スッと喜一郎は右手を差し出す。波香もそれに応え喜一郎の手をぎゅっと握るのであった。
◇
神崎親子は北条のお屋敷を出て駅へと向かって歩く。本来なら運転手が運転するリムジンで移動することが多かったが喜一郎は今年度からは運転手を使わず恵美と供に電車やバスを使っていた。
「すまんな、恵美。今年度からグループ内で運転手を雇わない方針が出たのでね」
「経費削減......ですか。私は全然構いません。歩くことも健康に大切ですから」
「......いいか恵美。決してあの女に負けるのではないぞ?」
「お父様、どうしてそんなに北条波香さんを恐れているんですか?」
「いずれ取って変わられるからだ。油断していたらあの女にしてやられる。私の勘がそう警告しているのだ。路頭に迷うハメになるぞ」
「......大袈裟だと思いますが。......その警戒心の為に北条さんの親しい人たちを不当な理由で解雇してしまって......のちに真相を知ったら北条さんは怒りますよ?私としては恨みを買った方がよっぽど怖いです」
「どうせあの会社は潰すつもりだったからいいのだ。中途半端に経営を続けて後でどうにかなるよりは.......潰してしまったほうが良いと私は判断したんだよ」
「......」
◇
翌日、いつものように隼を隼と同じ登校班のリーダーに預け、コンビニの前の木の下で美樹と待ち合わせた波哉香は自分の学校に着く。そこでは永遠のライバル風紀委員長の今川伊吹が波哉香の前に立ちはだかっていた。
「ちょっと北条さん!スカート短いんじゃなくて?」
長い定規を片手に波哉香に近づき波哉香のスカートを計測する伊吹。そんな伊吹を見て波哉香はふと思いつくのだ。
「ね、ねえ!今川さん!私、今川さんと何か勝負してたよねっ!?」
「してますわよ?」
「それって!?」
「定期試験の勝負ですわよね?今度こそ私は貴方に勝って見せますわ!」
「で?」
「で?ってなんですの?」
「試験の勝負ってそれだけ?」
「他に何がありますの?」
「......ううん、いい。なんでもない」
今川に何かを期待した自分が恥ずかしくなり波哉香は玄関へととぼとぼと歩き出した。
「は?ちょ、ちょっと北条さん!スカートの丈!もうちょっと長くしてくださいね!」
伊吹は自分の注意も上の空の波哉香に他の生徒がびっくりするくらいの大声で叫ぶのであった。
波哉香と美樹が教室に入ろうとするとちょうどその出口付近に上杉麗子が波哉香達を待っていたようで波哉香と目が合う。
「上杉先輩?おはようございます」
「うむ。おはよう!どうだ?北条?剣道部に入る気になったか?
「あはは、先輩もしつこいですよね」
「まあ、諦めはあまり良いほうではないな」
「こないだ無理強いは出来ないとか言ってませんでしたか?」
「確かに言ったが諦めたとは言ってないぞ?」
「まあ、そうですが」
「そうだ北条」
「なんですか?」
「このIDに覚えはないか?」
波哉香は上杉にスマフォを見せられIDよりもそのラインの吹き出しの文字に目が行ってしまった。そこには『親の許可がおりましたので今度そちらへお伺いします。宜しくお願いします。直江』と書いてあるのだ。
「なんですか?彼氏ですか?ノロケですか?」
「いやいや違う違う。全く身に覚えがないのだ。本当に」
「私だって知りませんよ。そんなID」
「そうか。......気味が悪いな。削除しておこう」
そうして上杉麗子は自分よりも年下の優秀な頭脳を持つ彼氏の存在になるかもしれなかった直江徹のIDを削除してしまう。
「.....これでよし!」
「......いつ自分の個人情報が洩れるかわかりませんね。私も注意しなくちゃ。そう言えば先輩」
「なんだ?」
「最近変わったことありました?」
「ん?別にないが?ま、強いて言うなら今の見知らぬIDからのメッセージだな」
「はあ、そうですか」
なんの手掛かりもないまま波哉香の一日はまた終わっていく。
◇
夕飯前に波哉香は弟の隼の勉強を見てあげることにした。だが弟の隼は勉強そっちのけで波哉香の胸元を見てソワソワしている。
「どうしたの?ハヤブサ?」
「ん?んーーーーー......」
心なしか隼の顔は赤くなっていて何かモジモジしている。そんな弟の様子を見るのは初めてなので思わず波哉香は吹き出してしまった。
「プハっ!ほんとどうしたのよ?」
「......いつ揉ませてくれるのかな?と思って」
「は?何を?」
「おっぱい」
「はい?誰のよ?」
「お姉ちゃんの」
「はああああ?」
「......」
「何言ってんの?」
「こないだ1分揉ませてくれるってゆったじゃん!」
「はあ?私が言ったの?」
「言ったよ!「旅行に行かせてくれるなら1分揉ませてあげる」って!!」
「旅行?私が?誰と?」
「彼氏とだって!」
「え~~~~!?私に彼氏がいた!?ハヤブサハヤブサ、ちょっとそこのところ詳しく!」
「え?お姉ちゃん覚えてないの?」
「覚えてないない!」
「......アルツハイマーになるのはまだ早いんじゃないかなあ?」
「あ?なってないから!ちょっと私の彼氏について話しなさい!なんでもいいから!」
「え~~~どうしようかな」
隼は波哉香の胸元を見ながらためらっている。
「ちょ、どこ見てんのよ、このエロガキ!」
服の上からではあるが波哉香は自分の胸を隠すような仕草をする。自分の実の弟を罵ったのも初めてのことだ。
「じゃあ、おっぱいを揉ませてくれたら教えてあげるよ。今度は2分ね」
「はあああ?何、言ってんの?そんなの無理に決まってるでしょ!」
「じゃあ、教えない。さてと、勉強しなくちゃ」
隼は切り替えが早く自分の教科書を開きだした。
「あ、ちょっ.......むむむむぅ」
「えっと、x=y-zかあ」
隼は数学の勉強でもしているようだった。
「はあ、わかったわよ。2分ね。そのかわりちゃんと嘘偽りなく本当のこと話してよ?」
「え?いいの?」
「いいよ。......はい」
波哉香は両腕を上にあげた。すかさず背後に回る隼。
「え?後ろから?」
「えへへへ、なんかドキドキするね」
もにゅ!
「んっ!」
実の弟に胸を揉まれる。初めは気持ち悪い事のように思えたがなんとも言えない背徳感が波哉香を襲う。そしてその行為自体が何かを思いださせようとしていた。
「はあはあ......お姉ちゃん」
「んっ!んあ!あん!」
波哉香にとってそれは気持ち良くてそれでいて切なくてどこか懐かしい感じがした。
___弟の隼は2分という約束された時間を守らず姉がやめてと言うまでひたすら姉の胸を揉みしだくのであった。
(続く)