一
春も過ぎ去り、もうそろそろ夏を迎えようかという頃。
水田には青々とした苗が風になびき、新たな芽吹きを感じさせている。順調そうな生育具合に、持ち主たる村の人々の表情も自然と明るくなっていた。
そんな太陽に照らされる中、二人の男が水田とは区切られた位置にある畑で野良仕事をしている。なにか作物の種まきをするためなのか、うね立ての最中といったところであった。
「兄ちゃん、そろそろ一服しようや」
ふーっと息を吐き、髭面の農夫が鍬を振るう手を止め、近くで作業をしていた青年に声をかける。
青年は軽くうなずくと、首にかけている手ぬぐいで額の汗をぬぐった。ぱんぱんと手で叩いて衣服についた土埃を払っていると、彼に近づいていく人影がひとつあった。
「どうぞ、
腰のさきまで届く銀髪を持った少女が、水の入った筒を一刀と呼ばれた青年に手渡す。少女はいかにも快活そうな格好をしていて、その肌には幾筋の傷跡もうかがえる。
その容貌からして寡黙で取っ付きにくそうな印象を受けるが、柔らかく微笑んだ姿を見れば誰もがその評価の間違いに気づくことだろう。
一刀は人懐っこい笑みで筒を受け取ると、栓を抜いて口をつける。
午前のうちの仕事とはいえ、暑さもはっきりとしてきている時期なので喉もよく乾く。うまそうに何度も喉を鳴らすと、彼は筒の中の水を飲み干していった。
「ありがとう
人心地ついた一刀は、笑いかけながら少女に筒を返す。少女は、凪と呼ばれていた。
整備された街道をやってくるにしても、人気の少ない場所であれば怪しい空気が漂うものである。なかには野盗まがいの無宿人や、旅人を狙った不届き者すらいる場合も考えられよう。
幸いなことに凪には体術の心得があるが、一刀が心配するのも当然であった。
「ふふっ、気にかけてくれるんですね。でも平気ですよ、このところは特におかしなこともありませんから」
「あ、当たり前だろう? 凪が強いことは俺もよく知ってるけど、なにかあってからだとさ……」
一刀と親しげに会話を交わす度に、飾りでまとめた凪の長い髪が揺れる。それはまるで相手をしてもらって喜んでいる子犬のしっぽのようでもあり、無意識のうちに内面が表れているともいえよう。
彼女は別の村から商いのためにこの村までやってきているのだが、実際こうして一刀と交流することも主な目的となってきている。一年ほど前に青年と凪は知り合ったのだが、いまでは武芸の修練もともに行う仲となっていた。
「それはそうと、お昼まだだよね? 俺たちも丁度これからだし、一緒に食べよう」
先程の返礼とばかりに、一刀は凪を昼食に誘うことにする。
「えへへ……。そういっていただけるかと思い、まだなにも食べていません」
「兄ちゃん、こりゃあうまいこと乗っかられちまったな」
ぺろりと舌をだす凪を見て、農夫は「がははっ」と大きく口を開けて笑う。そこから三人して雑談しながらしばらく歩いていると、木造の住居が並ぶ村の中心部に到着する。
この集落には二百人ほどが暮らしており、土地の豊かさからそれなりに富んだ生活を送れていた。
丁度どの家も昼時とあって、にわかに活気づいている。飯を炊いているのか、炊煙もいくつかあがっていた。
「お兄ちゃんおかえりー!」
外で遊んでいた村の子供達が一刀の顔を見るや、さっと数人集まってくる。なかでも元気一杯といった感じの男の子が、追いかけっこをしようとせがんできた。
「おっと……。みんなもお腹空いてるだろうし、おっちゃんおばちゃんがウチで待ってるんじゃないか?」
一刀はそういって子どもたちを家に帰そうとしたが、ちびっ子たちはまだまだ遊び足りないようである。
気づけば反対側からは少女の幼い手が一刀の服の裾を遠慮気味に引き、無言の圧力をかけていた。
結局、どうにかして相手をしてほしそうな子どもたちに根負けして、一刀は少し困ったような表情を浮かべつつも輪に入っていく。
「じゃあ、ほんとにちょっとだけだよ?」
やったー、と喜ぶ小さな笑顔に、一刀の口元は思わずほころぶ。その様子を、凪は感心したように見つめていた。
「随分と人気者なんですね、あの方は。みんなとっても楽しそうで」
「あいつの周りには、自然と人が集まってくるんだ。よくわからねえけど、それも才能ってやつかね。……というわけで嬢ちゃん!」
農夫が凪の背中をぽん、と押す。一刀を息子のように思う農夫にとって、二人のいまの関係はなんともむず痒い。バランスを崩した彼女は、そのまま遊びの輪の中へ入り込むかたちとなった。
「わっ、お姉ちゃんも遊んでくれるの?」
凪に向けられる、いくつものきらきらとした眼差し。仕方ないといった仕草をとりながら、少女は後ろを振り返って農夫に軽く一礼する。その中から二人が解放されるまでそれなりの時間がかかったことは、いうまでもない。
農夫と一刀は同じ場所に住まいしていた。一刀自身は居候のようなものだと思ってはいるが、いまとなっては家族同然の付き合いとなっている。二人で生活を始めた頃はよそよそしさもあったが、いまでは農夫のことを「おやっさん」と呼んで慕っているくらいであった。
妻に先立たれて子もなかった農夫であったが、近頃は同居人の世話をすることが生きがいになってきている。
「これはここでいいですか? あっ、そっちもかしてください」
一刀らに凪も混じって、手際よく支度を整え卓に飯碗を並べていく。雑穀混じりの飯と汁物、それに小鉢に入った香の物。
平時の昼餉ということもあって簡素そのものな食卓であったが、席につくとそれぞれうまそうに箸をすすめていった。
農作業をしていた二人は特に腹が減っているのか、水も飲まずにとにかく飯を掻き込んでいる。
「んぐ……、ごほっ、ごほっ……!」
「むっ!? ぐぐっ……」
同じようにむせる男どもに、少し呆れ顔をした凪が水の入った椀を差し出した。急いでそれを飲み干すと、誰からとなく笑いがこぼれる。
「まったく、お二人とも子供のようですね。こんな様子をあの子たちに見られたら、きっと大笑いされるんじゃないでしょうか」
わざとそしるような視線を向ける凪。しかし知らぬ顔を決め込んだ一刀はひとつ咳払いをし、馴染み深いものが入っている小鉢に箸を伸ばした。
「――うんうん、この大根いい感じに漬かってるね。よかったら、凪もひとつどうぞ」
「それって、一刀さんの国のもので漬物……でしたよね?」
ぱりっ、と一口大に切られたそれを咀嚼しながら、一刀は首を縦に振った。
凪は漬物をひときれ箸で持ち上げると、それを興味深そうに見つめている。米ぬかからくる独特な香りに初めて口にしたときには戸惑ったが、すっかり馴染んでしまっている。
「これ、味も食べたことのない感じですけど、結構評判がいいんですよ。日持ちをするのもありがたいことですからね」
「そりゃあよかった。兄ちゃんとあーだこーだ言いながら工夫した甲斐があるってもんだ」
近隣での好評を聞き、嬉しそうに農夫は破顔した。塩の加減や漬け込む期間など、上手くいかなかった頃を一刀は思い出す。
失敗を繰り返しながら故郷の味にたどり着いたわけであるが、その時の感動と郷愁はひとしおのものであった。現在では村の新たな特産品となり、売出しにかかっている最中でもある。
「自分じゃ大したことねえと思ってるかもしれないけどよ、兄ちゃんは俺たちにとって充分ありがてえ天からの
バシバシと農夫に肩を叩かれると、照れくさそうに一刀は手を横に振った。
「よしてよ、おやっさん。拾ってもらった恩くらい返さないと、バチが当たるって」
農夫は一刀のことを、「天からの御遣いさん」と表現した。
天というのは彼らの現在暮らしている地とは別の世界であり、一刀にとっての故郷である。ある日彼は突然に現れ、この大陸の住人となったのだ。
正直なところ、一刀自身は表立って「天の御遣い」と呼ばれることをあまり好んではいない。ただの人にとっては大仰すぎるし、第一そのような自覚もなかった。
壁を作られたくないという思いで凪にも当初そのことは黙っていたのであるが、彼女の大切なものを預かる際に決心して打ち明けている。
(あれ、一刀さんの……)
話を聞きながらふと、凪は部屋の一角に目をやった。そこには黒塗りの鞘に収められた一本の刀が壁に立てかけられている。
事情を知らないものにはわからないことであるが、それは一刀が共にこの世界にやってきた相棒ともいえる存在だった。とはいえこちらに来てからは「あの時」のような輝きを見せることもなく、初めは一刀も困り果てたものである。
少女はそれを一度抜いて見せてもらったことがあるが、その刀身の芸術的な美しさには目を見張るものがあった。精巧に鍛え上げられた地金は至高の域にまで達しており、余人を圧倒する迫力さえ纏う。
いわゆる業物と称されるほどの一品であるが、所持する一刀にすらその由来は不明であった。
(
親友である技術屋の少女が面白そうなものを見つけたときの反応がすぐに思い浮かび、凪はついつい吹き出しそうになる。そんな友人たちのこともどこかで一刀に紹介したいと考えているのだが、なかなかその機会を作れずにいた。
だいいち一刀とのことを変にからかわれて関係がギクシャクしてしまう恐れもあるし、女性としての魅力も友人たちに劣っていると凪は謙遜してしまっている。
「そいつも、もう使う機会が来なければいいんだけど……」
凪の視線の先に気がついたのか、一刀は率直な思いを口にした。
どんなに美しい形をしていても、最終的にそれは戦うための道具でしかない。そして、それを振るう痛みを一刀は知っていた。
全てが変わり、全てが始まった日。斬ったことを後悔しているわけではないが、当時感じていた恐怖が日を追うごとに薄れていっている自覚がある。
そのことが、彼の心の奥底に引っかかりを生んでいるのであった。
(みんな、元気にしているかな。
脳裏に焼き付いた少女たちの姿が、目を閉じると鮮明に浮かんでは消えていく。誰しもが強烈な印象を残していっており、わずかに過ごした時間はいたく濃密であったように思える。
関羽、張飛、そして……。思い出を振り返る一刀のなかで、当時の記憶が次々と蘇っていくのであった。