一
「――ではでは、いってらっしゃいませ。風がとんとんしてあげられないので、稟ちゃんはくれぐれも無茶をしないでくださいね?」
「無茶などと……。風の方こそ、わたしや一刀さまがいないからといって、居眠りばかりしてはいけませんよ」
「香風もすぐ寝ちゃうから、周倉に頑張って見張ってもらわないといけないね!」
わかってますよー、と程昱は釘を刺す郭嘉に対して素知らぬ顔で返す。あの戦いの後にそれぞれ真名を預けあっており、年頃の近い張飛と徐晃は意外と気が合うようで楽しそうにじゃれ合っていた。
そのやり取りの横では、楽進がうつむき気味で申し訳なさそうにしている。
「すみません、隊長。自分の勝手だというのに、わざわざ出向いていただくなんて」
そう楽進が謝罪するのには訳があった。この数日で今後の行動についていくつか議論を行ったのであるが、その中で楽進は、一度消息を伝えるためにも兗州へ戻りたい旨を一刀に伝えている。
本来であれば自分一人で帰村するつもりであった楽進だったが、諸々の目的もあって一刀を含めた数人で行こうという話に発展していた。
その目的というのは、以前計画していた陳留視察、そして曹操の人となりを知るための行脚である。一刀の他には郭嘉、そして護衛も兼ねて関羽と張飛が同行することになっていた。
「俺たちにも用があるんだから、そんなの気にしなくていいって。それに凪の友達にも、一度会ってみたいって思ってたし。……にしても、凪に隊長って呼ばれるのは、なんだか違和感があるね」
「そ、そうでしょうか? 一刀さんが隊長なのは事実なのですし、おかしな呼び方ではないとは思うのですが……」
「うーん。なんというか……、ちょっと遠くなったような感じ?」
親しくなってからはずっと名前で呼ばれていただけに、一刀は隊長という呼び名には一抹の寂しさを覚える。
だが決してそうではないと諭すように、楽進はそっと肩を寄せた。
「どういう立場になろうとも、わたしがあなたをお慕いする気持ちに変わりはありません。隊長……、一刀さんだって、それは同じですよね?」
「それは勿論。俺だって凪のこと、大好きだよ」
そう言いながら彼が伸ばした手を、楽進はしっかりと握る。
――本当に、俺なんかには勿体無いようないい子だ。一刀はそんな思いを抱かずにはいられなかったが、楽進は忠犬じみた表情にハテナを浮かべている。
「あー! お兄ちゃんと凪、手を繋いでるのだ!」
「なっ……!? ご主人様っ、率先して風紀を乱すような行いは慎んでくださいとあれほど……」
その様子を目敏く見つけた鈴々が声を上げると、関羽の機嫌はみるみる内に悪くなっていく。程昱とのまぐわいに出くわしたのが昨日の今日のことであるから、それも仕方のないことであった。
「愛紗……、あんまり怒るとやきもちやいてるみたいだよ……?」
何気なくぼそっとこぼした徐晃の一言が、関羽の心に突き刺さる。原因のひとつであるはずの程昱などは、ころころと変化する彼女の顔色をにやりとしながら観察していた。
その関羽はというと何かを振り払うように左右に大きく
「わ、わたしはあくまでも臣として、ご主人様には襟を正してほしいのであってだな……! 決して、凪に妬いているなどと……」
「まったく、愛紗嬢ちゃんも素直じゃないねえ。ここはひとつ風の嬢ちゃんみたいにあんあん鳴かせてやりゃあ、すっきり解決するんじゃねえのかい?」
「こら宝譿。こんな公の場で、はしたないことを言うんじゃありません」
ぽこっ、と程昱が頭上の宝譿を叩く。
たまたま出くわしてしまった一刀と彼女による濃密な情事を思い出し、関羽は赤面して黙り込んでしまっている。別に、関羽も男性としての北郷一刀にまったく興味がないという訳ではない。しかし彼女は程昱のように飄々と懐に入り込む器用さは持ち合わせていないし、楽進のように真っ直ぐ正面から触れ合えるほど親密な間柄でもないのだ。
そして、程昱の発言で火がついてしまったのは、関羽一人ではなかった。
「あ、あんあん……。一刀さまと、風が……。あ、ああ……」
明らかに様子がおかしい郭嘉を見て、その場の全員がまずいことになると直感する。一刀が何ごとか発しようとした時にはもう手遅れであり、快晴の空に一筋の血飛沫が打ち上げられた。
「ぶはっ!?」
大仰な仕草とともに地に臥した郭嘉は、うわ言をもらしながらひくひくと頬の筋肉を痙攣させている。そのあまりに恍惚とした表情に一刀はどう声をかけるべきかわからず、呆然としている関羽と顔を見合わせるのであった――。
「――さてさて、お兄さんたちも行ってしまったことですし、こちらはこちらの仕事を始めましょうか」
「……シャンも、なにか手伝ったほうがいい?」
まだ少し青い顔をした郭嘉をなんとか馬に乗せると、一刀ら一行は兗州へと旅立って行った。こうなると数日は、親友や生真面目な美髪公をからかう楽しみもなくなってしまう。
我が太陽と奉じ、主君とした男と肌を合わせることもできないのも、やはり寂しくもある。されど――。
「そうですねー。風はちょこっと書き物をしていますので、香風ちゃんには周倉ちゃんと一緒にみなさんの調練をお願いしたいかと」
そう言うと、天幕の中で床几に腰掛ける程昱は、紙を数枚取り出して机の上に置いた。普通の用事であれば竹簡で済ませるのであるが、こと今回に関しては礼を尽くすためにも紙を選んでいる。
「……うん、わかった。周倉にも、そう伝えてくるね」
とことこと外へ向かう徐晃の背中を見送り、程昱は筆を握った。
天の御遣いが賊を討伐したという噂が広まりつつあるのか、ここ何日かで自分も仲間に加わりたいという者がぽつぽつと現れて来ている。怪しげな人間を迂闊に取り込まないようにするのも大事ではあるが、将来を見据えて部隊を率いることの出来そうな人材を選別しておくことも重要であった。
その役目を主に担っていた関羽が現在陣地を空けているので、自ずと留守居の徐晃や周倉にそれが回ってくる。保有する兵が増えれば増えるほど優秀な指揮官が必要とはなってくるものの、それを確保できるかどうかは軍の長たる一刀にもかかってくる部分があった。
「それではまずは、袁本初どのからでしょうか」
大義名分はこちらにあるとはいえ、袁紹の領地内で軍を興し賊を討ったのは消すことの出来ない事実なのである。なので何をおいても、彼の人には弁明をしておく必要があった。
程昱は目をつむり、袁紹へ送るための文面を空で考えている。どういったものならば袁家と無用な諍いが起きないのか、そこが最重要であった。
(袁本初どのならば、都で幾度かお見かけしましたね。彼女の振る舞いといえば、尊大にしてわが道を往くといった感じでしょうか。あちらの自尊心をしっかりと満たしてあげられるよう、徹底的にへりくだっておきましょう。名家の令嬢というだけあってひねくれた人物ではない印象でしたし、あの高笑いを上げながら喜んでもらえるのではないでしょうか)
方針を決めた程昱は、さらさらと筆を走らせる。
――今回の北郷一刀による挙兵は、ひとえに袁家の領国を荒らす不当なる賊を討ち果たすためである。現在も当地に留まり陣を構えていることも、全ては冀州の平穏を守りあなた様に不要な心配をおかけしないようにするため。
捕縛した輩も全てそちらの仕置にお任せしようとは思いますが、行いを悔やんで反省している者もいるので器量の大きなあなた様であれば多少の温情を覗かせるものだと存じております。受け渡しの際に少しの恩でも賜れば、望外の喜びなことです――。
そういった内容の手紙を一気に書き上げると、彼女は二本の指で眉間を揉んだ。不要なほどに下手に出るというのは、かえって疲労感を生み出してしまったようである。
(袁家は当主さえ納得させてしまえば、臣下は異論を唱えることなどできません。ご主君さまには不興を買う内容であるかもしれませんが、あのお方ならば笑って許してくださるのでしょうね)
一刀の人懐っこい笑顔をふと脳裏に描いて、程昱はくすりと笑う。
才のある人間に実務を任せ、よほどのことでなければその考えを採用したいというのが一刀の理念であった。外から見ればでくのぼうのような大将だと映るのかもしれないが、臣下の者からすればそれは大きく違ってくる。
(お兄さんの非凡なその器、風たちでまだまだ広げてみせましょう。それこそ、この漢土全てを覆ってしまえるほどに)
時代の流れは、英雄の登場を待ち望んでいる。戦乱の世となることは決して良いことではないが、一度起こってしまったのならばそれを治めることのできる人物が必然的に求められるものだ。
その地位まで一刀を押し上げたいというのが程昱の夢でもあり、大いなる野心でもあった。
「そういえば、星ちゃんに送った文がそろそろ届いている頃合いでしょうか。あの星ちゃんのことですから、公孫賛さんにお仕えしていてもふらふらと出歩いてお酒を飲んでいることでしょうねえ」
気兼ねのない友として、あの槍の冴えを知るものとして、趙子龍がいまこの軍にいないことが程昱にとっては残念でならない。
――いつか再び、共に歩む日が来ることはあるのであろうか。そんな思いを巡らせながら、彼女はもう一度筆を手に取るのであった。
――幽州北平郡に置かれた公孫賛の本拠。仕事を終えた趙雲は自室に明かりを灯し、好みの肴で一杯やろうという算段を立てていた。
だが不意に、部屋の扉の外から声がしてくる。楽しみの邪魔をされたようでもあり、興を削がれた趙雲はのろのろと立ち上がると来訪者を出迎えるのであった。
「……なんだ。急ぎの用でなければ、またにしてもらいたいが」
「申し訳ありません。趙将軍、文が届いておりますのでご確認ください。なにやら、将軍の友人と申す者からだそうで」
雰囲気を察して恐縮してしまったのか、文を届けに来た兵士は身体を小さくして畏まっている。用件を聞いた趙雲は、それが私用であったため態度を改めて労うように兵士の肩をぽんぽんと叩く。
「うむ、ご苦労。下がってよいぞ」
兵士を帰した趙雲は、椅子に座って文を卓上に置き、なにはともあれ杯に酒をなみなみと注ぐ。それを一息にくっと飲み干すと、彼女は明かりの方に向けて先程の文を開いていった。
「差出人は程仲徳、か。風たちの顔も久しぶりに見たいものではあるが、さて……」
液体で潤った杯をちびちびと呷りながら、趙雲は文を読み進めていく。最後に程昱から近況を知らせる文書が届いたのは彼女らが洛陽を立つ前であるから、その時から事態は大きく変化を遂げている。
「そうか、あのお人は自ら立つことを選ばれたか。くっくっ……」
この世界のことをなにも知らず、趙雲自身も槍を突きつけたことのある青年。それが今や彼女の友人たちだけに留まらず、関羽や張飛をも巻き込んでひとつの勢力になろうとしている。
そのことを、趙雲は可笑しく思わずにはいられなかった。
「やはり、北郷殿は面白い御仁だ。伯珪殿も悪くはないが、これはいささか早計であったのかもしれぬな」
そう言う趙雲であったが、別段公孫賛のことを
ただ何分、歴史に大きな爪痕を残せるような器量を持っていないことは、趙雲にとって物足りなさを感じる原因のひとつでもあった。
「この幽州も、近頃きな臭くなってきているように思える。このあたりで、違う手を打っておくのもありといえるか」
公孫賛は、このところ激しくなってきた
「期待させてもらいますぞ、天の御遣い殿」
文を元の場所に置き、その手を箸に持ち替えると趙雲は上機嫌で好物のメンマをかじる。
――人生とは、面白きことがあってこそ映えるもの。趙雲の手釈は段々と間隔が短くなっていき、夜の深けるまでそれは続くのであった。