いまとなっては慣れてしまったことだが、やはり元いた世界に比べれば不便だと感じることは多い。夜間ともなれば火を灯さなくてはならないし、その火をつけるのだって手間がいる。
たまに凪と急に話したくなり、もどかしい思いをしたこともあった。
一刀は、その姓を北郷という。かつて薩摩に君臨していた、名門島津氏を始まりとする武門の家だ。
そのためか、北郷の家では、いまに至っても男子は剣術を修めるのが慣例となっている。それは、一刀も例外ではなかった。
なぜ、こうまでして実戦を意識した兵法を学ぶ必要があるのか。それを質問しなかったのは、どうせ家の伝統がどうとかで、濁されてしまうのがわかっていたからである。
この地に辿り着いたのは、多分偶然なのだろう。自分のような男を誰かがわざわざ呼んだとすれば、それは相当物好きな奴による仕業だな、と思ったこともある。
しかし、切欠についてはおおよそ見当がついている。夏季休暇の折に訪れていた、鹿児島の実家。古くからの武家であるその土地には、時代劇などでよく見かけられる蔵も存在していた。
いつもの修練を終えてから、一刀は蔵の整理を祖父から頼まれたのである。そこで出会ったのが、ひと振りの刀だった。
無造作に置いてあるものを抜いたからといって、怒られることはないだろう。ひどく湧いた興味に釣られ刀を抜いたことが、この奇異なる世界への扉を開いたのだと一刀は確信しているのだ。
ある意味では忌々しい、かの業物。そうだとしても、武器としての出来栄えは抜群なのである。あの時も、二度、三度、と振ってみたものだ。
刀を戻して作業に戻ろうとしたときには、もう手遅れだった。光を放つ刀身。それに飲み込まれるようにして、北郷一刀は異世界へと旅立ったのである。
天がざわめく。数瞬の間、それまで光を放っていた太陽が雲にかき消された。
雲を切り裂くようにして出現したのは、一筋の流星。それは凶兆か、あるいは吉兆の星なのだろうか。
鼻先を、温めの風がくすぐっている。
広々とした大地。高々とそびえる地肌の見えた山。北郷一刀が次に目覚めたのは、そんな場所だった。
自分は、夢でも見ているというのか。目蓋を擦る。しかし、何度試してみても眼前の景色が変化することはなかった。
「俺、いつの間に着替えたんだろう」
着慣れた学生服だ。化学繊維で形成された白を基調とした上着が、再びのぞいた陽光を反射している。
「あの刀は、蔵で抜いたものか」
黒塗りの鞘が目に付いた。痛みでクラクラとしている頭を抑えながら、一刀はその場から動こうとした。
「なんだ? この地面、ふにってしていて柔らかいぞ」
冷静になって考えてみれば、それがおかしいことくらいすぐに理解できるはずである。
しかし、いまはとにかく脳内が混乱の只中にあったのだ。
ゆっくりと、視線を下に向けてみる。すると、すぐに柔らかさの正体が判明した。
「女の子、だよな? ……俺、もしかしてヤバイことでもしてしまったのか?」
さすがに、見知らぬ地で性犯罪者として捕まるのはよろしくない。全く身に覚えがないとはいえ、幼気な少女を押し倒してしまっているのは事実である。
こんなことになるのであれば、まだ気を失っていたかった。一刀は、そう嘆かずにはいられなかった。
「それにしても、めちゃくちゃ可愛い子だな……。っと、そんなこと言ってる場合じゃないって」
若紫色をした髪が、短く肩口で切り揃えられている。なにかのキャラクターでも模したようや髪留めが、なんとも微笑ましい。
もしかすると、この子は自分の妹よりも年下なのだろうか。小さな身体。触れていた手のひらには、まだ僅かに温もりが残っていた。
「おーい、平気か?」
一刀は声を掛け、少女を起こそうと試みた。
こうして見ているだけでも、なんて際どい衣装を身に着けているのだろう、と思ってしまう。
上などはほとんど下着同然であり、圧倒的に多い肌色の面積が目のやりどころを困らせている。それに、スカートの丈がやたらと短いせいで、時折中が見えてしまっているのである。
「ははっ。どこかで、コスプレイベントでもしてるっていうのか? こんな、どこも荒野の中で」
口から洩れたのは、乾いた笑いだった。
辺りの景色と見比べるほどに、強烈な違和感に脳内が苛まれていく。一体、自分はどこに来てしまったというのか。いまは、眠る少女に手掛かりを求めるしかなかった。
「こんなとこで人と会えるなんて、ラッキーなのかもしれない」
砂を蹴るような足音。一刀の視線の先には、三人の男たちがいた。
近寄ってくる。ひとりは中肉中背。あとのふたりは、巨漢と小柄という両極端な組み合わせだった。
よく見れば、三人ともに腰に剣を備えている。やはり、なにかの撮影でもしているのだろうか、と一刀は思った。
「おうおう兄ちゃん、こんなところでこんな時間からお盛んだねえ。最近の若いモンなら、当たり前ってか?」
どうやら、中肉中背の男が三人の中ではリーダー格らしい。なんとなく男の笑みに嫌なものを感じたが、一刀はここぞとばかりに立ち上がった。
なんであれ、情報があまりにも不足しているのが現状なのである。多少怪し気な相手だろうと、選り好みしている余裕はないのである。
「違うんです。俺はこの子のことなんて、何一つ知らないんですから。それよりも、聞きたいことがあるんです。ここは一体、どの辺りなんですか? 目が覚めたらいきなり知らない場所にいて、本当に困っているんです」
自分は、嘘をついていないはずである。それにいくら性欲盛んな年頃といっても、見ず知らずの少女に手を出すような外道になどなるものか。
質問を投げ掛けたが、男はひどく怪訝そうな目をしている。一刀の中では、また一段と違和感が膨らんでいった。
「あん? どこって、ここは冀州だろうが。お前、そんなことも知らねえのか」
なにを当たり前のことを、といった様子で男は返答した。仲間のふたりは、薄ら笑いを浮かべている。
「きしゅう? それって、和歌山の辺りってことですか?」
尋ねてくる相手に対して、いまさら紀州というのもおかしな話ではある。それでも、一刀は自分の知っている言葉が出てきたことに、多少の安堵感を覚えていた。
対照的にリーダー格の男は、一刀の言葉を聞いて呆れたような表情になっている。
「チビ、デク。こいつは当たりかもしれねえぞ。大方、どこかの貴族の坊っちゃんが、ふらふらと出歩いて迷子にでもなったんだろうな。こんなきらきらした服を着てるんだ、結構な金を持ってるかもしれねえ」
貴族というのは、あの貴族のことなのか。
確かに、言われてみればそうなのかもしれない。特別珍しい素材を使っているわけではないが、やたらと目立ちやすい制服ではある。
地元に帰省したときには、武家のなんたるかをよく説かれたものだ。それに封建制度が崩壊してから長くなるが、北郷の家名を慕う声はまだ少しは残っている。祖父や先祖たちの頑張りがあってのことであろうが、それは一刀にとっても誇らしいことだった。
凄みをきかせる男に対して、一刀は困惑を浮かべるばかりであった。
「あんたたち、なにが目的だ」
睨みつける。明らかに、三人から出ている雰囲気が変わっていた。
リーダー格の男が、チビとデクと呼ばれていたふたりに顎で指示を出した。取り囲まれる。そう思ったときには、もう身体が動いていた。
地面に転がったままの刀。拾い上げ、鯉口を切る。
「間違いなく、真剣だな。でも、やるしかないんだ」
刀を、鞘から解き放った。
やはり、美しい。然るべきところにあれば、幾らでも鑑賞していられるほどの出来である。
「服と金目のもんだけいただいちまえば、その坊主はやっちまって構わねえ。女は金になるから、殺すんじゃねえぞ」
リーダー格の男が、さらに物騒なことを言っている。このままでは、自分どころか見ず知らずの少女までもが危険に晒されてしまう。
いまから行うのは正当防衛だ、と自らに言い聞かせた。緊張によって、喉が乾いてしまっている。
「いいだろう。そんなに味わいたければ、示現流の刃を思う存分味わわせてやる」
咄嗟に、口からハッタリじみた言葉が出た。
それでも、言ったことで気持ちに僅かだが余裕が生まれたような気がしていた。
闘え。そう叫んでいるのは、本能か細胞か。不思議と、冷や汗が引いていった。
守るための戦であれば、全力を賭してもいい、と祖父や祖母からは教えられていた。もとより、示現流は実戦を潜り抜けるための兵法である。
実際、人間に対して振るうことになろうなどとは考えたこともなかったが、ここではそれだけが頼りである。
「何流だか知らねえが、所詮はお遊びみてえなもんだろ? デク、この身の程知らずをちょいと揉んでやりな」
デクと呼ばれた巨漢が、一刀に向けて一歩踏み出した。
体格から繰り出される一撃は強力だろうが、動き自体は鈍そうである。自分も少し間合いを詰めつつ、一刀は得物を下段に構えていた。
闘志を滾らせていても、振り抜くときには無心であれ。懐に飛び込み、一気に斬り上げる。すると、なにかを切断したような感触が手の中に生まれた。
「い、痛いんだな……!? アニキ、こいつ腕を……っ」
吹き飛んだのは、剣を握ったままのデクの腕。断面からは、夥しい量の血が流れ出ている。
この様子では、もう戦闘を続けることなどできないはずである。
上手く行った、というべきなのだろうか。ひとを傷つけたというのに、意外と冷静でいられている自分がいる。だが、いまはそれでいい。もし後悔するとしても、それはこの場を乗り切ってからすればいい話しだ。
「デクめ、ドジ踏みやがって……。おい、なにしてやがる。こんなガキひとり、さっさと仕留めねえか!」
リーダー格の男が、苛ついた表情を見せながら叫んだ。
どうやら、闘いは配下に任せるつもりらしい。
「こいつらを叩っ斬る。それしか、考えるなよ」
独りごちながら、一刀は次なる相手に目を向けた。
顔の右側にまで、柄の部分を持ってくる。蜻蛉。示現流独特の、刀を天に向かって突き立てるような構えである。
同時に一刀は息を深く吸い込んで、斬り込む機会をうかがった。
「ちっ、舐めやがって。デク、お前の仇は俺が取ってやるよ」
威勢よく、チビが剣を中段に構えた。
示現流は、とにかく攻めることを信条とする兵法でもある。相手がたとえ守りに入ろうとも、それごと叩き割ればいい。ある意味、至極単純な考えである。
「ちぃぇあああぁあああああ!」
一刀が、猿叫を上げる。この特異な叫び方も、示現流の特徴である。
さすがに、チビもこれには驚いたようだった。
「なっ、ひいっ……」
大上段から振り下ろした刀身が、チビを左の肩口からばっさりと斬り裂いた。示現流は、ニノ太刀いらずの必殺の兵法。まさしく、それを体現するかのような一撃であった。
ぶった斬られたチビは武器を取り落とし、どっと前方へ倒れ込んだ。血溜まりができている。
赤黒い血を纏った刀は、活き活きとしているようにも見えた。これが、武器としての本来の役目なのだ。そう考えれば、納得もいく。
「ぐっ……、くそっ! こいつ、調子に乗るんじゃねえぞ」
リーダー格の男が、口角から泡を飛ばして斬りかかってきた。何合か打ち合いが続く。いざ闘ってみてわかったが、大した腕を持っているようではなかった。
「さっきの威勢はどうした!」
鍔迫り合い。怒りに歪んだ男の目が、血走っている。それも、そのはずである。楽に儲かる相手だと思ってやったことが、悉く裏目となってしまっているのだ。リーダー格の男は、このままでは終われない、と考えていることだろう。
「うおっ⁉」
ここだ、と一刀は心のなかで叫んでいた。
互いの武器が離れる瞬間を狙い、呼吸をする暇もなく攻撃を繰り出していった。
金属がぶつかるような音。見れば、リーダー格の男の剣は弾き飛ばされていた。
「な、なんだってんだ」
リーダー格の男が、痺れる右腕を擦りながら一刀のことを睨んだ。腕を斬られたデクは出血がひどいのか、ずっと座り込んだままだ。
「ここまでにしよう。俺だって、これ以上無闇にひとを殺したくなんてないんだ。どこかへ行くから、あんたたちも好きにすればいい」
交渉を持ちかけるとすれば、いましかないと思った。相手の数はひとり減り、ひとりは重傷を負っている。それにリーダー格の男だって、戦意が挫けているはずである。
実際のところ、これ以上戦うには体力的にも、精神的にも辛いものがあった。この興奮状態が、いつまで保ってくれるかすらわからないのである。
しかし、その提案はこの場には不似合いなくらい明るい笑い声によってかき消されてしまう。なにやら、リーダー格の男にはまだ打つ手が残されているようだった。
「はっはっはっ。やっぱり貴族の坊っちゃんは、考えが甘いねえ。おい、てめえら出てこい!」
リーダー格の男が、周りの岩場に声をかけた。
かなり、嫌な予感がする。危険な雰囲気を察してか、一刀の背には冷や汗が再びじわりと滲み始めていた。