午前の仕事も一段落がつき、公孫賛は休憩のため城の中庭を訪れていた。
そこにはすでに先客がおり、その青年は公孫賛の姿が見えると小さく手を振り出迎えたのである。
「よっ、北郷。なにしてるんだ?」
集中した様子で椅子に腰掛けている一刀は、机の上に布を敷いて得物を整備しているようであった。
公孫賛にとってその作業は珍しく、どれどれといった表情で一刀の手元を覗き込んでいる。
「へえ、なかなか器用なもんだな。なるほど、それがそうなって刀身を固定してるのか」
「ああ、これは
一刀から日本刀の構造を説明されて、公孫賛はふむふむとしきりに頷いている。
やはり彼女も武人なのであろう。これまで目に触れたことのない武器のことが気になるようで、ついには侍女の運んできた茶をすすりながら居座り始めたのだった。
「その刀は、もともと北郷が使っていたものなのか?」
「いいや、そうじゃないんだ。じいちゃんかばあちゃんか、はたまたもっと前のご先祖様のものなのか。ただ、こいつをあの時たまたま手にしていなければ、こうして白蓮と話していることもなかったんだと思う」
久方ぶりに思い出すあの日の光景。刀身を布で拭き上げながら、一刀は蔵であった出来事を懐かしく思っていた。
なんの因果があるのかは不明であるが、不思議な力を秘めている刀であることは確かであろう。
「家に代々伝わるなんとやら……、ってやつか? そう考えると、人生わからないものだよなあ」
やけに年寄りじみた言葉を吐き、公孫賛はひとくち茶をすすった。一刀が幽州へ来てからここまで、劉備との再会や賊軍との決戦など話題には事欠かない。
華々しいこととは自分は無縁であると嘆いていただけに、ついに風向きが変わってきたのだろうかと少女は遠い目で蒼空を見つめているのである。
そんな公孫賛に苦笑しつつも、一刀は刀身の
柄のなかに入る茎の部分には、よく製作者がわかるように銘が刻まれているものなのである。
「そこ、削れてよく見えなくなってるんだな。もともとなにが書いてあったんだろう」
「普通なら、ここに誰々って彫刻が入っているものなんだよ。でもこいつは、それがわからないようになっている。……このレベルの業物なら、誰か有名な鍛冶師の作品でもおかしくないっていうのに」
優れた鑑定眼を持った人間であれば、造りや刃紋の施し方からその正体を推測することもできよう。しかし、一刀にはそれほどまでの見識は備わっておらず、この刀の出自についてこれっぽっちの見当もつかないという状態なのであった。
指でそっと削れてしまった箇所に触れてみても、都合よくなにかがわかるわけではない。それでも想像を働かせ、いつしかその思いの一端でも汲み取ることができればいいと一刀はざらついた感触を確かめているのである。
「……やっぱり天の御遣いともなれば、こういう謎のひとつも持ってるんだなあ。……はあ」
「なんだよ、ため息なんかついてしまって」
公孫賛の抱えるコンプレックスのことを、一刀はまだ知らずにいた。友達のような感覚で付き合ってくれている少女のことを気にかけ、一刀は作業の手を止めて憂いの浮かんだ顔をじっと見つめたのである。
「うっ……、そんなに見られたら恥ずかしいだろ!? ほんとに、なんでもないから!」
「そうか? ならいいけど。白蓮が困っているのなら、俺はいつでも力になるよ」
「ば、ばか……! そんなこと、簡単に言うなって!」
一刀にそうさらりと言ってのけられ、公孫賛は赤面したまま空を見上げた。だめだ、だめだ、といくら自分を律しようとしていても、青年のおおらかな性分についつい心を惹かれてしまう。
このところ趙雲も近しい関係になっているのではないかという噂も聞こえてきているし、そのことが無性に公孫賛に焦燥感を与えているのである。
(ちょっとずつ、ちょっとずつなら……)
やはりあらぬ方向を向きながら、公孫賛はひとつの提案をしようとしていた。
いきなり距離をつめるほどの勇気はないが、友人関係を深めるくらいならば内外に問題はないだろう。そんな言い訳を心の中で唱えつつ、少女は天の御遣いを街へ誘おうとしているのだ。
「え、えーっとな。あの……、その…………!」
――よかったら、午後から一緒にぶらぶらしてみないか。
少女はただ、そう発したかっただけなのである。しかし、言い淀んだ一瞬の間がまずかった。
「ご主人さまー!? どちらにいらっしゃるのですかー!?」
わずか数秒の差のことで、一刀の視線は公孫賛の後方へと移ってしまう。少女があっ、と思ったときにはすべてがもう遅かったのだ。
「あれ、愛紗か。おーい、こっちだよ」
一刀の声に、彼のことを呼んだ声の主の肩がぴくりと震えた。その少女はひらりと丈の短いスカートを翻し、小走りに二人のもとへ近づいてくる。
「ご主人様、こちらにいらしたんですね。と……、これは白蓮殿もご一緒でしたか」
眼前に現れた光沢の映える美しい黒髪は、まるで公孫賛には闇夜の到来を告げる帳のごとく感じられたであろう。がっくりと机に突っ伏した公孫賛は、おのれの運の無さを小声で悲嘆するばかりであった。
「どうかした? 俺のことを探していたみたいだけど」
「はい。あの……、なんというか……」
公孫賛の姿を見ながら、一刀のそばに立った関羽はなんとなくバツが悪そうな面持ちを浮かべる。落胆真っ盛りである少女にそのことを悟られる心配はないとはいえ、一刀はなにか身内だけでの相談事があるのかと目を細めた。
「よし、ちゃちゃっとこれを片付けてしまうから、どこかで待っていてもらえるかな」
「あ、はい。それならば、香風の部屋まで来ていただけると助かるのですが」
関羽から返ってきた答えに「なんで香風の部屋?」と聞き返しそうになるのを抑え、一刀はそれを了承した。そうして礼儀正しく腰を折って駆け足で帰る関羽を見送ると、一刀は急ぎばらしていた刀の組み立てにかかったのである。
「それじゃ白蓮、またな」
「おーう、いってこーい!」
刀を鞘にしまって立ち上がる一刀を、公孫賛は半ばヤケになった気分で送り出した。
――つぎはもっと、有無を言わせないくらいの強引さで迫ってやろう。うん、それしかない。
少女の胸中にはそのような考えすら渦巻いているのだが、つくづく自身の恵まれなさにまたひとつ長いため息を吐いたのであった。
「……えーっと、愛紗はっと」
中庭からダッシュをしたことであがった息を軽く整え、一刀は建物内で目的の人影を探している。やがて先程約束した徐晃の部屋近くまで来た一刀は、そこに関羽の姿を見つけたのであった。
「おっ、いたいた。ごめん、待たせたね」
「いえ。こちらこそ急に呼び立ててしまい、申し訳ありません」
一刀が「それで?」とこの場に集まった理由を問うと、関羽は右手で片目を覆いながら話し始める。
「……ご主人様は、香風の悪癖のことをご存知だったのでしょうか」
「香風の悪癖? うーん、ちょっと思い当たらないな」
いままでのことを思い返してみても、特段徐晃にこれといっておかしな点があったとは一刀には思えなかった。
強いてあげれば空を飛んでみたいという熱意からくる無茶があるくらいで、それは純粋で微笑ましいものである。
「そうでしたか……。わたしも偶然あ奴が出てくるところに居合わせて気づいただけでしたから、無理もないのかもしれません。どうぞ、こちらへいらしてください」
言葉重く徐晃の部屋の扉を開け、関羽は一刀を中へと招き入れた。いまだ要領を得ない一刀は怪訝そうに首を傾げていたのであるが、足を踏み入れた瞬間に表情がさっと変わる。
「な、なんじゃこりゃあ……」
その視界に出現したのは、物でごった返した荒れ放題の室内であった。関羽が目を覆いたくなるのも納得の、まさしく純然たる
「これまで誰も気が付かなったのが恐ろしいくらいです。しかし香風め、よくもこうまで借り物の部屋をだらしなく使えたものだ……」
「それで、愛紗はこの惨状をどうにかしようと?」
「ええ、その通りです。このままでは白蓮殿に申し訳ないどころか、我らが軍の沽券にも関わりましょう。そのようなこと、決して捨て置けません」
賊と対峙している時と同様に義憤を滾らせ、関羽は手振りも大きく言い放つ。
「凪にも声をかけてありますから、もうすぐ来てくれるものと思います。その前に二人で始めてしまいましょう」
楽進を援軍に呼んであるというのは、いかにも関羽らしい人選である。
一刀は両肩をぐるっと回して気合を入れると、強敵に立ち向かう気分でぐっと拳を握った。部屋の主に了解を取っていないとはいえ、主としてこれは放っておける問題ではない。
どの道掃除をしている間に徐晃も帰ってくるであろうし、そのときに事情は説明すればいいと考えた。
「そうだね。一仕事になりそうだけど、頑張っちゃおうか!」
こうして二人がまず取り掛かったのが、衣服からなにから放置されたままの床の掃除である。
掛け値なしに足の踏み場もない床。そこに散らばったものを拾い上げて地道に歩ける範囲を拡大していく。
中には食べかけの残飯なども転がっているため、油断して足を置くことも危険な状況であった。
「――隊長、愛紗さん、遅くなりました」
楽進が部屋に到着したのは、二人が部屋の一角を空け終わった頃である。
さらに、そこに来たのは彼女ひとりではなかった。
「……ええっと、おはよう、お兄ちゃん?」
部屋に来る途中の楽進に捕まったのであろう。徐晃はなんとも挙動不審であり、視線もふらふらと泳いでしまっている。
「ちょうどよかった。少し勝手にやってしまったけど、香風も一緒に掃除しよう」
「あう……。シャンは、このままのほうが使いやすいのに……。ねっ、だめ……?」
まだ汚部屋に未練があるのか、徐晃は食い下がるようにつぶらな瞳で一刀と関羽のことを見た。
少女の愛らしさに関羽はくらっときてしまいそうになったのだが、頭を振ってそんな雑念を払いきったのである。
「はっ……、いかんいかん!? 香風、わたしが見つけたからには、徹底的にやってもらうぞ」
「むー……、めんどくさい……」
関羽に叱られて嫌々作業に入ろうとする徐晃は、まるでぐずりかけの子供ようであった。そんな徐晃に、一刀は飴をつるしてやることを決める。
「頑張って掃除できたら、今度ふたりで遊びに行こう。どうだろう、香風?」
遊び、という言葉を聞いて、ここまで曇りっぱなしであった徐晃の顔に少し元気の花が咲いた。
「まったく、隊長はそうやってすぐに甘やかしてしまうのですから……」
「こんなことでご主人様と二人きりになれるのであれば、いっそわたしもなにか起こしてしまおうか……」
困った人だと言うように楽進は眉間を揉み、関羽はなにやら不穏なことを口にしている。
二人からしてみれば甘やかしているようにとられるかもしれないが、普段の労に報いるためにもそのくらいのことはしてやってもいいだろう。そう判断した一刀は、徐晃に目線を合わせるとにっこりと微笑んだのである。
「……いいの? それなら、シャンもがんばってお掃除するね。えへへ……、お兄ちゃんと遊びにいくの、楽しみ」
「うん、その意気だ。愛紗と凪にも今度埋め合わせはするから、ね?」
この女たらしの天の御遣いにとっては、この程度の気遣いなどもはや造作も無いことであった。
「はあ、仕方がありませんね……。だいたいご主人様を巻き込んだのはわたしですし、褒美などなくても無論手を抜くつもりなどありませんでしたが……」
「愛紗さん。隊長がくれると言うのですから、もらっておかないと損なだけですよ。そうですよね、隊長」
「そうそう。ほら香風、まずは籠に洗濯してない服を入れていくから、手伝ってもらえるか?」
一刀が籠を片手にうながすと、今度は徐晃もしっかりとした返事でそれを了承したのである。
四人がかりで再開した掃除作業は活気もあり、わいわいと進んでいく。
「……よいしょ、……よいしょ。あっ、愛紗……、そのへんに昨日の晩ごはんがまだ置いてあるから……、気をつけて」
「なにっ!? 香風、それを先に言わないか……」
どうやら徐晃の忠告はわずかに遅かったようであり、関羽はしかめっ面で肩を震わせながら足元を見つめている。米粒を踏んでしまったのか、べっちゃりとした嫌な感触が少女の靴底には残っていた。
「これほど埃っぽいと、氣を使って一度に吹き飛ばしてしまいたくなってしまいますね。隊長、だめ……でしょうか?」
「いいわけないだろう!? ほら凪、気分転換にちょっと布団でも干してきてよ!」
大いにまずいことをぽつりと漏らす楽進を、一刀は慌てて制止する。冗談に聞こえるようでも半分くらいは本気そうなのが、この少女の恐ろしいところであった。
そんな悲喜こもごもの入り混じった賑やかな時間はあっという間に過ぎていき、夕方前にはゴミ出しもおおかた片付いたのである。
大掃除の原因を作った張本人である徐晃は三人にぺこりと頭を下げると、しおらしく礼をいった。
「みんな、ありがとう……。がんばって……、汚さないように使うから」
「うむ、その心意気だ。わたしも時々見に来るから、気をつけるのだぞ?」
すっきりとした部屋を見回して、関羽は満足そうに首肯している。長い黒髪の先についた埃が、少女の奮闘を物語っているようであった。
「あの……隊長、今晩はわたしが真桜と沙和に料理を作ってやる予定だったのですが、よければお越しになりませんか? その方が、きっと二人も喜ぶと思いますから」
「おっ、いいね。凪の手料理も最近食べていないし、そうさせてもらおう」
よく考えれば、昼前から作業に没頭していたために相当に腹が減っている。そんな事情もあってか楽進得意の麻婆の味を思い浮かべただけでも、一刀は腹の虫が悲鳴をあげているように思えた。
「わかりました。愛紗さんと香風はどうします?」
「お邪魔してもよいのか? 食べるだけでは悪いし、それならばわたしも腕を振るってみせよう」
そう言ってやる気をみせる関羽だったが、一刀は胃に汗をかくような衝撃に襲われる。このところ改善のみられる劉備はともかく、関羽の腕前はあれから成長しているのかまったく不明であった。
「シャンも、凪の料理食べたい。……愛紗のは、……お兄ちゃんにあげるね」
その点、徐晃は正直なのである。
避けがたい貧乏くじを前にして、一刀はいよいよ覚悟を決めるときかと腹をくくった。
「わたしが招待しているんですから、どうぞお気になさらず。愛紗さんも、ゆっくりしてもらって大丈夫ですから」
「む……、そうか? ならば、わたしも甘えさせてもらうとしよう」
案外あっさりと鉾を引いた関羽に三人が安心するなか、本人だけは頭上にはてなマークを浮かべている。
知らぬが仏ということわざがあるが、まさにそんなところであろう。
「決まりだ。それじゃ、あと少し残ったゴミを出してしまおうか」
一刀の号令に、三人の少女たちが元気よく頷いた。
すっかりきれいになった室内に、最初乗り気ではなかった徐晃も晴れやかな気持ちになっているようである。
それは一刀も同様であり、四人の連携で得た達成感に心をたっぷりと満たされていたのであった。