「――だめだよ、詠ちゃん」
賈駆のことを真名で呼んでたしなめたことから、目の前のかわいらしい少女があの董卓なのだろうと一刀は察知した。赤紫の瞳には吸い込まれてしまいそうな魅力があり、佇まいにも堂々としたものがある。
「知り合ったばかりのひとをそんな風に侮辱するなんて、よくないことだよ? 申し訳ありません……、御遣いさま。こちらの勝手でお越しいただいたのに、気分を害してしまうようなことになって……」
眼前の董卓は、一言で表せば可憐な人であった。軽装な着衣の所々からうかがえる白磁のような肌が、儚げな印象を余計に強く誘う。
しかし優しげな人柄の奥には一本芯が通っているようで、ただの深窓の令嬢でないことは確かだと思わせるなにかがあったのだ。
「俺は平気だから、変に気を使ってくれなくてもいいよ。それよりあなたが董仲穎殿、でいいのかな? 北郷一刀だ、よろしく」
「はい……、わたしが董卓です。此の度は呼び出すような形になってしまい、申し訳ありませんでした。それで……ええっと、これはどうすればいいんでしょうか?」
あまりに想像していた人物と違ったことで面食らってしまった部分もあるが、一刀は董卓に対して右手を差し出した。それはただ挨拶の一環として握手をしようとしただけなのであるが、そんな習慣を知らない董卓はじっと出された手を見つめている。
そういえばそうか、と状況を理解した一刀がなにをしたいのか説明すると、少女は小さく笑みを浮かべてそっと手のひらを預けたのだった。
「ちょ……、月ぇ!?」
すっかり黙り込んでしまっていた賈駆ではあったが、敬愛する主君が気軽に男と手を握りあっていることにショックを受けたのであろう。しかしかすれた声は弱々しく、眼鏡越しに一刀を睨む瞳はいまいち迫力に欠けている。
やはり董卓に一旦勢いを遮られた影響は大きかったらしく、まるで母親にごねている駄々っ子のように一刀には見えていた。
「御遣いさまの手、とても大きくて温かくて……。お優しい方だというのが、ここからでも伝わってくるようです」
「なんだか照れるな……。仲穎殿、俺から言い出したことだけど……そろそろ」
一刀が握る力を弱めたのにあわせて、董卓もゆっくりと結んだ手を緩めていく。ほのかに笑みをたたえる少女は暴君といった類のものとは真逆の存在であり、ある意味大いに天の御遣いの心中を惑わせているのだ。
「ふふっ、わかりました。では、行軍中でたいしたものはありませんが、なかに食事を用意してありますのでどうぞお入りください。でも、そのまえに……」
それまでのにこやかなものとは打って変わり、董卓は厳しい目つきを配下でも幼馴染でもある少女へと向ける。
わざわざ言葉に出されずとも、賈駆は董卓がなにを求めているのかくらい理解していた。
あれだけ罵倒されたというのに、北郷一刀という男は怒りをあらわにするどころかただ悲しげな視線を送ってくるだけなのである。そのことが却って恐ろしくて賈駆は唇を噛み締めていたのだが、案外頑固気質な主君には逆らうすべもない。
「突っかかって悪かったわね、その……ボク」
「俺のことはどう言われようと構わないんだ。ただそうだな……、もし仲穎殿が侮辱されたとすれば、文和殿は我慢ならないだろ?」
一刀の問に対して、「そんなのあたりまえでしょ!?」と賈駆は威勢よく答えた。それと同時にあっ、と声をもらして表情を曇らせたのは、この少女がただ横柄で自分勝手な人間でないことを証明しているともいえよう。
胸中を滾々と語る一刀の姿勢に多少感じるところがあったのか、賈駆は関羽たちに向かって深々と頭をさげた。
完全に信用しきったというわけではないが、少なくとも自分たちに危害を加えるような人間ではないだろう。そう思考を切り替えた賈駆は、董卓にも会談の邪魔をしてしまったことを謝罪したのである。
「わかってくれたのなら、それでいいんだ。それにしても、身近にこれだけ愛してくれてる人がいるなんて、仲穎殿は幸せ者だな」
「ちょ……愛って……!? 急になに言い出すのよ、あんた!?」
一刀の言に顔を茹で上がった蛸のようにして、賈駆はひどく動揺しながら口角を飛ばしていた。ぷるぷると震える両腕はいまにも一刀の胸ぐらを掴んでしまいそうになっているが、さきのどうしようもないくらいの喧嘩腰を考えれば微笑ましい程度のものである。
その様子を眺めている程昱がしたり顔で「あー、なるほど」としきりに頷いているものだから、賈駆の羞耻心はさらに逆撫でされていったのだ。
「ふふっ。まだ会ったばかりだというのに御遣いさま……、北郷さまは詠ちゃんの扱いがお上手ですね。風鈴さんも、そう思いませんか?」
「そうかもしれないわね。一刀くんたら、あんまり女の子を泣かせてはだめよ?」
茶目っ気たっぷりにウィンクを送ってくる盧植にドキリとさせられながら、一刀とはなんとか賈駆を落ち着かせようとしている。
やいのやいのと騒いでいるうちに険悪だったムードはすっかり消え去って、関羽と郭嘉もまた始まってしまったといった感じに主君のことを遠巻きに傍観していたのだった。
ようやく天幕に入り腰を落ち着けた一同は、董卓と一刀を主座に置いて改めて姓名の交換を行っていた。配下たちは地面に直接ござのようなものを敷いて座っているのだが、上座だけは特別に一段高くしつらえてある。
まるで時代劇で見る殿様のような扱いだなという感想を一刀は持っているのだが、事実そのことに相違はない。
賈駆は天の御遣いに関する下世話なことだけでなく、その陣容についても調査をしていたようである。そのため北郷軍の主力を務める関羽については名を知っていたし、その挙動に目を光らせてどういった将なのか観察しているのだった。
転じて董卓側の将が挨拶をする番となり、盧植に続いて賈駆は立ち上がって言上を述べていく。
「ボクからは、このくらいにしておくわ。つぎは華雄ね。ほら、さっさと挨拶しなさいよ」
名乗りを終えた賈駆は、自身の左手に座している華雄のことを見る。時折頭にまで筋肉がつまっているのではないかと疑いたくなる瞬間こそあるものの、彼女の董卓への忠節は賈駆も疑うところがない。
この華雄こそ、まごうことなき董卓軍における武の柱石であるといえよう。
「華雄だ。董卓さまのもとで将軍を務めさせていただいている」
ぶっきらぼうにそう一言いい放つと、華雄はまたすぐに口を閉ざしてしまった。
「あんたねえ……。もうちょっとくらい、なにか言うことあるでしょうが」
こればかりはどうしようもない部分だといえなくもないが、賈駆はずり落ちそうになった眼鏡をなんとか支えながら嘆息する。
関羽などは武人らしい振る舞いだと感心してはいるものの、これでは事が前に進まない。
そのとき、董卓の困ったような表情に気がついたのか、華雄は再び重い口を開いていった。
「馴れ合いはあまり好まん質なだけだ。賈駆のように、お前たちになにか思うところがあるわけではない」
「なるほど。考えばかりが先行してしまう人間より、よほどわかりやすい御仁のようですね」
意趣返しのつもりであるのか、郭嘉はチクリと言葉で賈駆のことを刺す。
天の御遣いの参軍として、また一刀を愛するひとりとしても、少しくらい言い返しておかなければやはり気が収まらないようである。隙きを突いた郭嘉からの反撃に顔をしかめる賈駆ではあったが、ここで面と向かって舌戦を繰り広げるわけにもいかない。
それを含めての郭嘉の言動ではあったものの、冷や冷やした空気を感じて上座のすぐ下に座る盧植は苦笑するばかりであった。
「稟、そのくらいにしておけ」
「はっ……。わたしとしては特に他意があったわけではないのですが、そう聞こえたのであれば申し訳ありません。文和殿も、これよりなにとぞよろしくお願いいたします」
さも何事もなかったかのように、けろりとした表情で郭嘉は賈駆に向かって軽く礼をする。
食えない女だと賈駆は胸の内で呟いたが、そんなことはおくびにも出さず表では平静を装う。
「ふん、まあいいわ。郭奉孝、しっかりその名は覚えておいてあげる」
参謀ふたりの一応の和解が済んだところで、董卓が隣の一刀へ話しかけた。かたわらの膳には何種類か料理が置かれており、そのうちの肉料理を董卓は指さしている。
「このお肉、今朝華雄がとってきてくれたものなんです。北郷さまは、鹿狩りなどをされたことはありますか?」
「へえ、華雄殿が。俺は狩りっていうのはまだしたことがないなあ。剣ならともかく、弓のほうはいまいちでさ」
わずかに誇らしそうな華雄に見えるように箸で持ち上げてから、一刀は一口大の素焼きを頬張った。鹿肉は新鮮なだけあって噛みごたえがあり、シンプルに塩で味付けされているため咀嚼するほどにじんわりと旨味が広がっていくのである。
「どうでしょう北郷さま。わたしたちはここに数日留まって賊に関する情報を集めるつもりなのですが、どこかでご一緒されませんか?」
「仲穎殿と鹿狩りか……。なるほど、面白そうだ」
鹿狩り以上に董卓への興味が勝っているのは当然として、一刀はその誘いに即答した。
この世界の董卓は悪逆非道を行えるような人物には見えないし、つながりを深めておくのはありだろうと一刀は考えている。そのためには互いに知らないことばかりでもあるから、向こうからその機会を作り出してくれるのはありがたいことであった。
「いいよね、詠ちゃん?」
「はあ、どうせダメっていっても聞かないんでしょう? 行くのは結構なことだけど、護衛くらいは連れて行きなさいよね」
強気な賈駆も、笑顔の主君によるお願いにはどうにも弱いらしい。ころころと表情が変わる少女のことを一刀は楽しげに観察していたのだが、鋭い眼光で一瞥されると何食わぬ顔で他に目線を移すのであった。
「あらあら詠ちゃん、そんなに一刀くんのことが気になるのかしら。いいわね、青春って感じがして」
盧植は賈駆の反応がおかしくて、つい冗談混じりにからかってしまう。しかし、だからといってそれだけではない。
朝廷から左遷にあって董卓軍に組み込まれたようなものではあるが、彼女はいまの立場を気に入っていた。当初はそのまま宮仕えを辞めて元の私塾の先生に立ち返ろうとしていたのだが、いまは翻意してよかったとさえ思う。
董卓も賈駆も根が素直であり、国の将来のことを憂いてもいる。
腐敗した朝廷が軌道を正すためにはそういった人材が必要だと感じているし、さらには天の御遣いという未知なる可能性を持った存在ともこうして知己を得たのだ。
これはなにかの切欠になるかもしれないし、そのためには年長者である己が両者を取り持つべきだろう。そのような考えを、盧植は持ち始めている。
「そんなわけないでしょ!? なんでボクが、こんなやつのこと気にしなくちゃいけないのよ!」
「んんー、まあ……いやよいやよも好きのうちともいいますからねえ。文和ちゃんも、ご主君さまについて無関心というわけではないようですし」
まくしたてた賈駆は一度大きく深呼吸すると、思慮の探りにくい程昱の平たい双眸を見つめた。なぜ会食をしているだけでこのように疲労を味わわなくてはならないのかと自問自答したくなっているが、賈駆は諦めまじりに言葉を投げかける。
「だいたい、あんたはそれでいいの? もし仮に、ほんとに仮にだからね!? ボクがこいつのことを好きになったとして、それでなんとも思わないってわけ?」
一刀の顔をびしっと指差しながら、賈駆はもっとも疑問に感じている部分を程昱に問うた。
「ほかのみなさんがどう思っているかは知りませんが、風はご主君さまが見初められた方ならばいっこうにかまいませんよ? だいいちそのくらいの器量を持たずして、世を照らす日輪にはなれないでしょうから」
「なによそれ、意味わかんないわ……」
程昱が日輪というかたちで一刀のことを表現すると、董卓はぴくりと眉を反応させる。
まさに己が真名として使っている「月」という字とは正反対な存在であり、面白いこともあるものだと周囲に気づかれないようにくすりと笑いをこぼす。
「嬢ちゃんまだまだ青いねえ。荒波に揉まれて苦しくなったときには、おれっちのことでも思い出して気を強くもつんだぜい……」
「こら宝譿。揉まれるだなんて、こんな場所ではしたないことを言うんじゃありません」
ぺしっと頭上の宝譿にツッコミをいれる程昱の様子を、賈駆は呆気にとられた表情で見ているしかなかった。
「面白い方なんですね、仲徳さんは。北郷さまの陣では、いつもこのようなことを?」
「仲穎殿が優しいひとで助かっているよ……。まったく、風らしいというかなんというか……」
一刀がそう言うのも当然で、宝譿との漫才を見て楽しそうに笑っているのは董卓だけなのである。華雄は相変わらず沈黙したままだし、賈駆と盧植はなにが起きたのかいまいちわかっていないようであった。
程昱本人は涼しい顔をしているが、郭嘉と関羽は同僚のマイペース過ぎる振る舞いに力なく首を横に振っている。
「おやおや、これでは風の独壇場になってしまいかねませんねえ。ここは稟ちゃん、ひさしぶりに強烈なやつを打ち上げてみてはいかがでしょうか?」
「するわけないでしょう!?」
鼻血を吹いてみせろという無茶な要求を即座に却下され、程昱はとてつもなく残念そうに目を伏せた。一刀によるショック療法のおかげで決壊する頻度が減ってきているだけに、もとに戻ってたまるかといった決意が郭嘉のなかに存在しているのだ。
そんなふたりによる軽妙なやり取りに、今度ばかりは盧植も笑いをこらえきれなくなったようである。
「うふふっ。ほら詠ちゃん、せっかくなんだから、もっとみなさんとお話しをしましょう?」
笑顔の盧植に抗えずに、賈駆は北郷軍の女性陣のところへずいっと身体を押しやられた。最近では董卓くらいしか同年代の人間と関わる機会がなかったから、これは少女にとって貴重な機会であるともいえる。
自身に尽くしてくれることは嬉しいが、董卓もそのあたりについては気がかりだった。だから二重の意味で、天の御遣いと今日このように面識をもててよかったと感じている。
「北郷さま、どうぞこれからもよろしくお願いしますね」
「ん……、どうかしたの?」
純真な瞳で見つめ返してくる一刀に対し「いいえ、なんでも」と答えつつ、董卓は正面に向き直した。
そしてなんだかんだといいながら輪の中で自然と軽口を叩く親友のことを、少女は目もとをほころばせながら見守っていたのである。