薄暗い森の終着点までたどり着いた三人の少女らは、光を求めてひたすらに足を動かしていた。
鬱蒼とした木々の間から抜け出れば、昼間の太陽に少々目がくらんでしまう。それでも外套をかぶりなおすと、三人はうなずきあって北へと向かっていく。
どれだけ疲れていようと、どれだけ呼吸が苦しかろうと、ここで息つくことなど許されないのである。
「急いで……、姉さんたち。いまはとにかくどこでもいいから、安全な場所をみつけないと。もたもたしていたら、追っ手においつかれてしまいかねないわ」
ふたりの姉を鼓舞するかたわら、末妹である少女はズレた眼鏡の位置を整えていた。
彼女らには逃げ込めるような伝手がないだけに、精神的にも辛い状態ではある。
しかし普段ならばすぐに音を上げてしまうであろう長姉も次姉も、自分たちに後先がないことをはっきりと自覚しているのであろう。だから厳しい道のりにも文句を言わず、粛々と歩を進めているのであった。
「ちぃたち、どうなっちゃうのかな……。もし保護してくれるところが見つかっても、あんな奴らに協力してたってことがバレちゃったら……」
「だめだよちーちゃん、ここでそんな暗いことを考えてもしょーがないじゃない。心機一転してがんばろうって、逃げるまえに約束したよね?」
「そうよ、ちぃ姉さん。わたしたちの素性なんて官軍は知らないはずだから、知らない土地にいってやり直すの。そのためにも、こんなところで死ぬわけにはいかないでしょ?」
ふたりから励まされて多少勇気づけられたのか、次姉は口を一文字にして首を縦に振る。
夢を叶えるためには、なによりもいまを生き抜くことが必要とされていた。
「うん……、ごめんね。ちぃだって、このまま終わりたくなんてない。三人ですっごく有名になって、自分たちの力でたくさんのお客さんを集められるようになりたいんだもん」
「その意気よ、姉さん。さっき汲んでおいた水も少し残っているから、これを飲んでがんばって……ねっ?」
妹のそんな心遣いがじんと沁みたのか、次姉は水の入った竹筒を傾けながら鼻にツンとくるものを感じている。
「あっ……!? ね、ねえ、あれって……!?」
長姉が慌てた様子で街道の南を指さしたのは、ちょうどそんなときであった。
それにつられて他のふたりが視線をやってみると、そこにはおぼろげながら黄色い布を頭に巻いた男たちの姿がぽつりぽつりと見えている。
「まずいわね……。すぐに走りましょう。隠れられる場所を見つけて、あいつらをやり過ごさないと」
「うう……、怖いよお。どこかに助けてくれるような優しい人、転がっていないかなあ」
三人はどういうわけか、黄巾の者に追われているようであった。
弱音を口にする長姉の顔は青ざめており、走ることでふるふると揺れる乳房もどことなく元気がない。いつもならば明るいことが取り柄な少女なのであるが、こんな状況にあってはから元気も発揮することができないようである。
「はあっ、はあっ……! もう、いやあ……っ!」
体力のすり減った女性の駆け足の速さなどはしれており、選り優られた追っ手との距離はどんどん縮まっていく。追っ手たちのほうも前方でこそこそと逃げるように走る三人のことを不審に感じたのか、邪悪な牙を研いで獲物へと接近していったのである。
「思ってたよりすんなりといってよかったな。詠が一緒に来てくれていて、助かったよ」
「ふんっ、そんなの当然でしょ。黄巾のやつらが起こしている乱は、結局のところ災害みたいなものよ。さっさとおさまってほしいと思っているのは街の人間だって同じ、だからすんなりと応じてくれるの」
物資の買い付けが順調にいったことで、賈駆は上機嫌そうであった。商人らの態度がある程度好意的だったのは、もとより冀州において天の御遣いの伝聞が広まっていたことも関係していたのであろう。
彼らも商売人であると同時に、この地に暮らす民衆なのである。だから地域の安寧を願うのは自然なことであるし、武器商人でもなければ争い事は歓迎するべきことではない。
ふたりがその点をきっちりと突いて交渉を持ちかけたので、特に難航する場面もなくこうして帰路につけているのである。
「帰ったら、受け取りのための人員も選んでおかないと。荷駄を扱う部隊は重要だけど、あんまり多くを割くこともできないからなあ」
「糧食が滞りなく行き渡るかどうかで戦は左右されるものよ。そのあたりのことは、郭奉孝や程仲徳とよく相談することね」
半日ともに仕事をこなしたことで、賈駆の態度も随分と軟化しつつあった。董卓の目論見があたったというべきであろうが、賈駆本人はまだまだ壁を崩してはいないつもりのようである。
「ん……。なあ詠、あれって……」
「はあ? いきなりなによ……」
馬上から街道の先に目を凝らしつつ、一刀は少女に声をかけた。
賈駆が同じようにして確認してみれば、そこにはあるのは逃げるようにこちらへ向かってきている外套を着た三人の姿。彼女も西涼出身ということもあり、中原の者よりかは遠目が効く。
これはただ事ではないというのがわかったところで、このまま首を突っ込むのが正解かどうか数瞬迷いが生じてしまう。あくまで一刀は主君の同盟者であり、もし怪我でもされてみれば同行者として非難されることは確実である。
それは董卓にとっても不利な材料となるであろうし、誰とも知らない者を助けるために大きなリスクを背負うべきではない。そんな現実的な思考が、賈駆の義心を鈍らせてしまっていた。
「いくぞ、詠。あのひとたち、なんだか様子が変だ。なにかから逃げているような、そんな感じがする」
「……っ! ええ、あんたの言う通りよ。早くいって、ともかく事情を聞いてみないと」
一瞬のこととはいえ、くだらない考えを持ってしまったことが情けない。賈駆はそう思いながら、ふと隣を見る。
天の御遣いというだけあってか、真横で馬を走らせている男は損得勘定などなしに誰かを助けようとしているのである。
北郷一刀が元来そういう人間であるから、董卓ともいち早く通じ合えてしまったのだろうか。そんなことが賈駆の頭をよぎったが、視線を前方に戻して馬を駆けさせていく。
「おい、あんたたち!」
「ふえっ!? ご、ごめんなさい、わたしたちいま……すっごく急いでるところだから!」
接触まで数メートルといったところで、馬上から一刀は呼びかけた。応えた長姉はいきなりのことに驚いて顔を上げたが、足だけは止めようとしない。
なにせ、件の追っ手がもうすぐそこにまで迫っているのだ。だからこんな場所で、のんきに雑談している余裕など三人には少しもなかったのである。
「待って。ここからちょっと離れているけど、ボクたちの軍が陣を張っているの。もし必要だったら、あなたたちを保護することだってできるわ」
賈駆の説明を聞いた三人は、ようやくそこで立ち止まった。
彼女らからしてみれば、まさに地獄に仏といったところであろう。そして一筋の蜘蛛の糸を手繰り寄せるかのように、長姉は胸の前で両手を結ぶ。
「ほ、ほんとにっ!? どうしよ、れんほーちゃん!?」
年齢順ではもっとも下に当たるが、末妹は姉ふたりから舵取り役として信頼されているらしい。そんな彼女も降って湧いた一縷の望みに、暗く沈みがちだった瞳を輝かせている。
「うん……、いまはつべこべ考えている場合じゃないのかも。ちぃ姉さんも、それでいい?」
「ちぃは助けてもらえるならなんでもいいよ! ねえ、あなたたちあいつらが見える!?」
気力の戻ってきた次姉は一刀の左腕をとると、自分たちが来た方角を指さした。そこにはいくつかの黄色い人影があり、明確に彼らに向けて進軍してきていたのである。
「わかった、俺がなんとかしてみせよう。だから……怖がらないで」
次姉の冷え切った手を何度か擦ると、一刀は下馬して微笑みかけた。
男は天の御遣いらしくそう言い切ったが、賈駆からしてみれば不安で仕方がない。噂話に聞いてはいても、実際の腕前を見たわけではないからそう思うのも無理はないであろう。
「ちょっと、そんなこと言って平気なの? まさか、ボクの武力に期待しているんじゃないでしょうね!?」
「詠に戦ってもらおうなんて考えてもいないさ。それに約束しただろ、帰るまでしっかり守るって。こういうときくらい、いい格好させてもらうよ」
それが冗談混じりの言葉だとわかっていても、賈駆の心はぐらぐらと揺れかけていた。
どれだけ悪態をつこうとも、北郷一刀という男は真っ直ぐな視線を返してくるのである。そのたびに、賈駆の閉ざしているつもりの門戸は、じわりと隙間を拡げられているといってもいい。
「あっ……ちょっと!?」
賈駆に三人のことを任せ、一刀は走り来る黄巾兵に向けて歩きだした。
一度振り返ったあとには、先ほど見せていたような柔らかな笑みがあらわれることはない。代わりに、非情に満ちた表情が、能面のごとくぴたりと張り付いていた。
「――なんだおめえ? ガキはおとなしく横にどいていやがれ!」
間合いに入るまでに、先頭を走る黄巾の男が一刀に怒声を飛ばす。その声を無視して、ひい、ふう、みい、と一刀は相手の人数を指折り数えていった。
「全部で五つか。死んでもらうぞ」
刀に手をかけた時点で、容赦をする気などさらさらない。敵を全て叩き斬るという気概だけを持って、一刀は道の中央に立ちはだかった。
「なっ……、こいつ!?」
「構わねえ、やっちまえ!」
黄巾兵のほうも、邪魔をしてくる人間は力ずくで排除するつもりである。双方顔がはっきりと認識できる距離にまできて、まず動いたのは一刀のほうであった。
五人の敵は、バラけつつもおおよそ縦に並んでやって来ている。一刀は素早く得物を抜き放つと、横一文字に右から来るひとりの腹部を斬り裂いた。
「ぐ……っ、ああっ……!?」
黄巾兵に油断があったとはいえ、目にも留まらぬ早業である。その後も横に振った刀を返す動きで、続けざまにふたり斬り殺していった。
「うわっ……、ぐうっ……!」
血飛沫が舞い、痛みに苦悶するうめき声が次々とあがっていく。そして四人目を鋭い刺突によって貫くと、斬撃を繰り出しているときに比べわずかではあるが時間が生じた。
刀を身体から引き抜くと、臓器を突き破ったせいかどろりとした血液が溢れ出る。そのような深紅に染まった刃を構え直し、一刀は左から振り下ろされる剣と鍔迫り合った。
「俺の仲間をぶっ殺しておいて、タダで済むと思うんじゃねえぞ……! あいつらもおめえの連れの女も、捕らえて
斬り結んでいる男は多少剣の腕に自身があるのか、下品な言葉を発しながら両手に力を込めている。
本来追ってきた三人に関しては、上の人間から傷つけることなく連れ帰るよう命じられていた。しかし仲間を斬り殺された怒りは思考を濁らせ、獰猛な本能を呼び覚ますばかりなのである。
膠着状態にあって、一刀は相手を制する一手のことだけを考えていた。どれだけ神経を逆なでされるようなことを言われようが、ここで斬り倒してしまえば手の出しようもなかろう。
それを念頭に置いて戦えば、おのずと心中は冷え切っていくというものである。
「うおっ……!? この野郎……ッ」
手の内を知られていない相手ということもあり、一刀は隙きをついて左足で思い切り男の足元を蹴り払った。思ってもみない攻撃に男は転倒させられてしまい、唇を強く噛んでいる。
足癖の悪い兵法といえば
一刀は直接仕合ったことはないにせよ、知識としてタイ捨流のことを知っていた。それに楽進との組手をするなかで、近接戦闘において体術を絡めることは有効だと感じていたのであろう。そうして地道に積み上げた成果が、ここで実に役立っている。
「ああっ……、ぐぐ……う……」
相手を地面に倒してからも間髪をいれず、一刀は迷いなく切先を突き立てた。男は数秒うめいていたものの、やがてそれもぴたりと止んでいく。
地中にまで達していた刀を抜けば、先端からぽたぽたと真新しい血が滴り落ちている。絶命した男から頭部を覆っていた布を奪い取ると、一刀はそれを使い刀身の根本からぐいっと汚れを拭い去ったのであった。
「ねえ、平気なの? えっと……、北郷……」
「ああ、問題ない。それよりも、ようやく詠に名前で呼んでもらえたことのほうが嬉しいかな」
物騒なものを鞘に仕舞い込み、一刀は駆け寄ってきた賈駆の顔を見て笑ってみせた。
恐ろしくもあり、頼もしくもある。そんな複雑な感情を胸に抱きながら、少女は天の御遣いの名を初めて呼んだのであろう。
「あの……、ほんとうに助かりました」
「あなたすっごく強いんだね! ひとりで向かっていったときには、大丈夫かなあって心配しちゃったけど」
「ちぃたちもうへとへとなのに、あいつらったらしつこいんだから……。これでとりあえず、一安心なのかな?」
女三人集まれば姦しいとは、よくいったものである。ぎりぎりの緊張から解放された三姉妹は、恩人を囲んでああだこうだと話し始めた。
このままだと収集がつかなくなると思い、賈駆は両手を広げて会話を制止させていく。追っ手がいま倒した男たちだけだとは限らない。なので一刻も早く、安全な陣所に帰る必要があった。
「あなたたちの話は、戻ってからゆっくり聞かせてもらうわ。ひとまずここを離れるの、いいわね?」
賈駆の提言に従い、彼らはすぐに帰陣の途についていく。
幸いなことに、そこからの帰り道は誰にも襲撃されることはなかった。大勢の兵がガヤガヤと晩飯の支度をしている陣中に入ると、一刀は安堵のため息をもらす。
「おっ……大将、いま帰られたんですかい」
「うん、思っていたより色々とありはしたけどね」
一刀と親しげに話している兵であるが、彼も幽州で黄巾軍に参加していた頃があった。最初は降兵ということもあってか馴染めない者も多いが、総大将たる一刀が気さくに話しかけてくるだけにそのうちに溶け込めてしまう。
厳格な将が関羽と楽進くらいなこともあり、基本的には緩やかな上下関係で北郷軍はつながっていた。
「あっ」
そのとき気まぐれな強風が、姉妹のひとりの顔を隠していた外套を吹き飛ばす。青みがかったサイドテールが色鮮やかであり、活発そうな目鼻立ちが印象的であった。
いくら泥や埃が付着していようと、その輝きを覆い尽くせるものでもない。そしてその容貌に、元黄巾の兵は思い当たる節があるようであった。
「ん、あんた……? いや……そんなわけねえか」
兵がなにか言おうとする前に、少女は慌てて外套をかぶりなおしてしまう。どう考えても不審そのものな行動であったが、一刀は会話を終わらせると姉妹を連れて天幕へと戻っていく。
どんな事情があろうとも、彼女らが危機に瀕していたことには変わりはない。恐怖に怯えていた様子に偽りがなと感じていたからこそ、ああして刃を振るったのだ。
「桃香、ちょっといいか。ほら、みんなもこっちに来て」
「なになに、ご主人様? あれ、その子たちって?」
かわいらしい顔が汚れたままでは不憫であろう。そう思った一刀は劉備を呼び、姉妹の身なりを整えてやるよう頼んだ。
劉備は「はいっ!」と威勢よく返事をすると、三人を伴って水を使える場所まで移動していく。
「いいの、北郷? あの子たち、どうやら結構な訳ありなようだけど」
「かなり疲れているみたいだし、一晩くらいゆっくり休ませてあげるのが人情ってやつだろう? それに、特に危険そうな雰囲気もないしね」
一刀がそう言うのであれば、賈駆にはそれ以上の異論はない。それにどうあっても黄巾軍とは戦うことになるのだから、誰を保護しようと情勢が変化するわけではないのである。
「今日のこと、月にも伝えておいてくれるか。上手くいけば、なにか情報を得られるかもしれない」
「ええ、そうさせてもらうわ。それじゃあボクは、もうあっちに戻るから。……せいぜい、甘い顔をして寝首をかかれないようにすることね」
悪態づいた賈駆はぷらぷらと手を振りながら、自陣のほうへと歩いていく。
そんな反応が嬉しくてつい小さくにやけてしまうのだが、一刀はなにも言わずに少女の背中を見送った。
予想外なことで彼女との距離が縮まったことが、この日なによりの収穫ともいえよう。とはいえそんなことを面と向かっていえるはずもなく、天の御遣いは愛刀の手入れをしながら劉備たちのことを待ったのである。